インタラクリ -1863ページ目

ユーザーが、いる。

インタラ広告のいいところは、広告の受け手である、

ユーザーさんが、そこに「いる」のを、実感できること。


今日、打ち合わせをしていて、なるほどと思ったのは、

逆に、SNSなどで、ユーザーさんの反応がいいのは、

広告メッセージであれ、なんであれ、その発信元に、たしかに

人がいるのを、実感できるとき、だそうだ。


まあ、たしかに、そうかもしれない。

それは、よくわかる、


そこに、人がいるか、どうかは、

送られてくる「文章」にはっきり出る。


それは内容以上に、

「ことば使い」や「ちょっとしたムダぐち」に

はっきりと、出る。

架空キャラに、恋をする。

今、「マス」とは?

先日、会社界隈を歩きながら、ふと思ったこと。


・・・今、「マス」とは、誰だ?


↓その時、思いついた答え。


・mixi をやっている人。

・i-pod を持っている人。

・地下鉄や電車で、携帯でメール打ってる人。


すべて、良く出来たインフラが共通しているだけで、

そのインフラ上で、個々人が、個別なことをやっている。


それが、今の「マス」。


ものすごく、良く出来たインフラを提供できた企業だけが、

「マス」を獲得できる。

ゲドより。昭和天皇より。

もう1週間たってしまったが、、、最近の新聞で一番驚いたのが、

先週の木曜の朝の日経の1面だった。


「昭和天皇が不快感」、、デカデカと、1面いっぱいに。

朝、玄関で新聞を手にとり、一体何ごとか?と、珍しく全部読んでしまった。


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まあ、要するに、A級戦犯合祀に関する、昭和天皇の述懐のA級史料が

見つかった、ということなんですが、、しかし、この扱いのデカさは一体?


日経新聞は、どういう判断で、これを1面トップにドカーンと載せたんだろう

とか、思いながら、会社に向かう道すがら、地下鉄の駅で広告を見た。


「ゲドより。」、、デカデカと、画面いっぱいに。


まあ、要するに、読売新聞が出しているジブリの「ゲド戦記」の広告である。

で、ちょろちょろボディコピーが入っている。

なんか、災いの時代に、広い世界にでて、よく生きろ、的なことが

書いてあったような気がするが、ちゃんと読まなかった。

で、最後に1行、カッコつきで、こう書いてあった。


(読売新聞は、おおむね、ゲドの意見に賛成です。)


この「おおむね」、とつける辺りに、、レイアウトでデカキャッチの「。」を半分で

断ち切ってるのと合わせて、80年代なニオイがした。(・・それは別にいいのだが、)


それを見た時、「ゲドって誰?」と思う以上に、

「読売新聞って誰?」と思ってしまった。


法人である読売新聞が、一個人であるゲドに賛同できるような

統一した1個の意見など持てるものなのか?


そこで、疑問は、朝見た日経の1面に還るのだ。

日経は、なぜこれをこんなにデカデカと載せたか?それは誰の意見なのか?


・・・・

ゲドより。

昭和天皇より。

読売より。

日経より。


どれが、一番リアル?
どの「より」が、一番、信じられる?


なんでか知らないけど、、まだ見ても、読んでもいないんですけど、
「ゲドより。」
が、一番、リアルな気がしてしまうんです。なんで、でしょう?


今時は、ホントに、名前がヘンチクリンでも、架空の存在からででも、
そこに「人格」さえ強く感じられれば、その「人」からの発信は、
強い共感を持って受け取ってもらえるんですよね。


「そんな人は、いないから・・」って、思われないんですよ。


何がしか、そこに、信じられる人格がある(気がする)、
ということに、皆、非常に嗅覚が効くようになっている気がします。
netが普及して、お互い、字だけの関係が増えるにしたがって、
ますます、その感覚が磨かれていると思います。
(または単に思い込みが強くなってきているのか)


だから、安直に「法人」からの発言をすると、
非常にシラケられてしまう。「法人」って誰だよ?って。


広告メディアでの発信も、ますます「人」から「人」へ、になっていくのでは?

netが普及して、ますます「個人発」がダイレクトに「個人着」に届くから。


オンラインならではの近しさで、ますます「人」は敏感に「人」を感じる。
広告発信者も、そこらへんのデリケートさが問われるようになると思います。

ウチとソト。 mixi と ブログ。

mixi での、キャンペーンを始めてから、mixi について時々考えるようになった。

キャンペーン開始と期を同じくして、自分の記述のベースをブログに

統合させてみた、というのも関係しているが。


mixi と ブログで、一番大きく感じる違いは、コメント書きコミの距離感

だと思う。mixi の書きコミは、基本的に知ってる人同士。

オフラインでの友人同士、であるケースが多い。だから、

言葉の略し方や、符号の使い方なども、友人から友人へ、メールを打つ

時の、言葉つかいに極めて近い。


対するに、ブログの書きコミは、一応、公の場というか、道路上くらいの

おおやけ感で、書かれている。友人や、オフラインの知り合い同士で

書いてるケースもあるから、一概に言えないのだが、おおよそ、そう。


mixi のプラットフォームは、技術的にも、気遣い的にも、

非常に良く出来ていて、皆がハマるのもよくわかる。


二重、三重に、「ウチ」というべき集合が、用意されている。

(まあ、コミュニティって、文字通り言ってますが。)

マイミクさん、αミクサーとでもいうべき人気の人の周りなど

いろんな温かく、甘い、「ウチ」がある。


対するに、ブログの方は、多層的にバラバラの「ソト」が集合していて、、、

なんというか、たとえると、、、


ブログは、外洋に一人、小舟を浮かべていて、

一見、水平線の果てまで、誰もいない海なのだが、

時々、ぽかっ、ぽかっと、水面下から同じような小舟が、

水面に現れて、一声かけては、またモグって消える。そんな感じ。


対するに、mixi は、防波堤で囲まれた「海水浴場」で、

海水の温度も、やや人肌にぬるみ、水に入っても冷たくない。

その「海水浴場」に、うにょうにょ人が集まっていて、

砂浜のいたるところに、いろんなひとんちのレジャーシートが

しかれている。そんな感じ。


mixi が、たぶん、日本において当分、無敵だろうなあ、と思うのは、

概念だけ同じ「SNS」、たとえばアメリカ資本のSNSなどが

上陸してきたとしても、この、mixi のような感覚、加入してる人同士の

この甘い近しさを、理解できないんじゃないかなあ、と思うからだ。


だから、今、mixi に場をお借りして、「広告キャンペーン」を

やっているが、とても、デリケートにオペレーションしているつもりである。


「ウチ」に、ヨソモノがいたら、皆イヤだろうし、しらけるだろうし、

心を開いてくれないだろうし、

「ウチ」に、商売の人が、づかづか上がってきたら、たぶん、皆

ウチの奥に隠れて、出てきてくれない、だろう。


mixi 本体の舵取りでも、広告をどこまで入れて、どこから入れないか、

というのは、重要な分水嶺ではないだろうか。


余談だが、先日、mixi とグリーの違いを考えた時、思ったこと。

mixi というのは、音感も、ルックスも非常によくできていて、

おっぱいの「M」ではじまる、やわらかい名前で、

あたたかいオレンジ色で包まれている。


対する、「グリー」は、申し訳ないが、「岩」っぽいというか、

ゴツゴツした硬い物、冷たい無機物を、想起させる音感だと思う。

ざっくり、理系っぽいつうか。。。すいません。


mixi は、「気遣い」という、運営者の意識・無意識が、

自然と、高度に、精錬させた、場なんじゃないだろうか。

netにあっても、そういうものって大事だと思う。

要するに、人が来てくれるか、来てくれないか、だから。

たった1ページなのに、オチを見せない。

歩くCGM。

mixi Wコミュ・キャンペーン

「余談」「雑感」ジャンルの開設に関しまして

あらためまして、sudaです。


今まで、mixiと併走するカタチで、記述し、

ブログは「原稿」、mixiは「日記」みたいな区分で

書きわけておりましたが、

思うところあって、いっしょくたにしてみることにします。


(思うところ=2つ書く時間がない、気張ってチャンとした原稿だけを

上げようとすると、エントリーがマメにできない、

もうちょっと軽く書いたものもあっていいのでは?と思った、など、です)


その際、本来のこのブログの設立趣旨である

「マス広告とインタラ広告の、よりよい関係のため」の論説・記述と、

はっきり区分けるために、

「余談」「雑感」というジャンルを、開設します。


「余談」は、インタラクリ以外での関心事。

「雑感」は、無関心事ですが、であったことや情報への感想。

という、分類です。


とはいえ、同じ脳の反応なので、

この「余談」や「雑感」から、次のテーマが育ってくることも、

大いにあるかと、思います。


忙中の閑を見つけて、マメにエントリーしますので、

今後とも、よろしくお願いいたします。

自分ごと化して、操縦するCM