インタラクリ -1861ページ目

砂の女、再見。

たまたま、23時ころから、チャンネルNECOで、
勅使河原宏の「砂の女」をやっていたので、つい見始めて、
案の定、最後まで見てしまった。

いくつか、思ったこと。

前に、見た時は、予備校に通ってたころで、
やはり、NHKか教育かで、TVで見た。(たしか、祝日の夜に)

そのころ、映画を見たら、必ずノートを付けていたのだが、
そのせいか、本編に存在しないカットを、ずっと記憶していた。
だから、「あれ?カットがたりない」とか、思ってしまった。

話の終幕は、すっかり忘れていたのだが、
もっこで吊られて去りゆく、岸田今日子の
「いやだよお。いやだよお。。」は、音感ごと、よく覚えていた。

そのカットのアングルが、記憶とやや違っていたのは、単に、
ノートにメモ描きしたサムネールがいいかげんだったからだろう。

当時、見た印象で「女の恐ろしさ、、」のような、感想を
しったげに、ノートに書いていた記憶があるのだが、

見直して感じたのは、むしろ、「砂の女」側の
「かわいらしさ」、運命への「従順さ」だった。
当時、アイドルだった岸田今日子も、素晴らしい。

「恐ろしい」のは、「女」ではなく、
映画のストーリー上は「土着」と「部落」である。

そして、だらしなく「砂化」してゆくのは、むしろ男の方。
文字通り「人生、ぐだぐだ」に、なって行く。

それが「砂」=労働や、「女」=家族のせいなのか、
「男」自身の、そもそも「だめだめ」な属性ゆえ、なのか。。。

冒頭では、世の中に必要とされていなかった「男」が、
ラストでは、なりゆきの果てに、
ついに、自分が必要とされる場を、見つける。。なるほど、。

「生きるために、砂かきしてるのか。
 砂かきするために、生きてるのか。」、、まったく、その通り。。

この辺は、予備校生のころは、抱かなかった感想であり、
理解しきれなかった筋であり、身につまされなかった部分である。


大胆なマクロ撮影や、つぶしのきついコントラストなど、
モノクロームの映像は、素晴らしい。
(いわゆる「濡れ場」と呼ばれるシーンの、
 クロースなトリミングでの、見せない「エロさ」は、絶品。)

武満徹のミニマムな音楽も、映画全体に怖いくらいの「緊張感」を
与え続ける。もちろん、物語り設定も、秀逸だと思う。


ところで、しかし、、

最近、こういう、アートシネマって、めっきり作られなくなった
よなぁ、、と、ふと、気づく。

こういうのを見ながら、暗闇で、2時間くらい、
ものを考える時間って、けっこう、いいものなんですけどねぇ。。

CD=「良問」を出す人。

昨日のつづき。


というか、その学校へ行ったり来たりしてる前後の
徹夜続きの、打ち合わせの中で、友人F君から、聞いた、とある一言が、
寝ぼけた私の頭の中で、この学校での経験と混ざりあい、あることに、気づいた。


いわく「このフレームを作ったら、プランナーが、いくらでもコンテが
書けると、いうのだよ。・・ふふふ。」(語尾は、やや勝手に創作)



良い問いを出せば、若い者は、考えやすくなる。
もっと、考えようという気になる。
もっと、様々な答えが、あるんじゃないか、と追求する。
ああも、できる。こうも、できる。。と思いを巡らせる。


これが、「良問」の効果だ。


CDは、制作スタッフに。
プロデューサーは、現場スタッフに。
営業は、制作に。
得意先は、代理店に。
社長は、社員に。
映画監督は、俳優に。。。問いを、出す。


常に「答え」を出す側以上に、
「問い」を出す側の、「課題設定能力」が問われている。


良い問いが出せれば、より追求された答えが、返ってくる。
良い問いがあれば、よい答えは、いくらでも出して行ける。
ビジネスでも、美術教育でも、この方が、絶対いいだろう。



ディレクターの仕事とは、
スタッフに対し、いかにモチベーションが上がる「良問」をだすか?ということ。
(教師、またしかり

禅問答のような「なぞの問い」や、無言の読み合いではなく、、、



CDとは、「良い答え」を選ぶ人のことではなく、
「良い問い」を発することができる人、のことなのであると、


教わった気がした。。

「課題」は、出す側こそが、問われている。

先週だったか、先々週だったか、忘れましたが、、、
ものすごい忙しい最中、とある学校へ、学生作品を見に行かねば
ならない業務があり、完徹の脳みそで、東京近郊のその学校へ行きました。

その時、気付いたことを、書かせてもらいます。(コンプラには、十分配慮して)

何名かの学生さんに、ポートフォリオを、見せてもらったのですが、
その中で、課題らしき「公共広告」の新聞広告を、熱く語る、学生さんが、
何名も、つづきました。

その、何人目か、忘れましたが、
地球が抱える問題を、熱く、糾弾しつづけるデザイン科学生が、いたので、
やはり、これは、指摘してあげた方が、いいだろうな、、、と思い、
「オジさんから、余計な一言、いいですか?」として、言わせてもらいました。

「あなたは、ビジュアル・デザインのプロになりたいのか、
環境問題を解決するプロになりたいのか、ごっちゃにしてませんか?」と。

私自身、認めたくない「若さゆえのあやまち」でもありますが、
「重い課題」を、マジメに考える内に、
その「問題」そのものに、取り込まれてしまい、
ビジュアル・アイデアが、まったくトバない、、、という例。

この「頭を分けなければ、やっていけない」という、デザインや広告の「原罪」は、
深堀りすると、とんでもなくデカい問題を、ほじくり返すことになって、
差し障りが、ありすぎるから、ここでは、掘りません。

ただ、一言だけ言わせてもらうなら、、、、これは、「課題が悪い」でしょう。

もっと、冷静な知識人や、表現の熟練工になら、ともかく、
自分の将来の問題と、地球の将来の問題を、ごっちゃにして、
つい過激な行動にでてしまうような世代には、出さない方がいい、「課題」です。

何年か前に、母校に、同じような業務で行った際も、
「小麦ビール醸造のプロになりたいのか、
広告デザインのプロになりたいのか、ごっちゃにしてませんか?」と、
言いたくなるケースに、多数遭遇しました。

これも、同じく「表現の核になるアイデアを詰める」よりも、
「商品の成り立ちの解説」と「形式だけの媒体展開の説明」に、
時間をかけさせ過ぎた「課題」が、悪かったのだと、思います。

「愚問」なら、解かない方が、いい、のです。

才能が引き出されない「課題」なら、無視していいのではないでしょうか。
(広告界で言う、「オリエン無視」のように、)
その「課題」の、解くべき所と、無視すべき所とを、見極めた上で、
「表現」をトバせるなら、いいのですが、そんな学生さんは、ほぼ、いないですし。

常々、思うのは、生徒の個別の「特異性」を伸ばさずに、
なんのデザイン教育であるか?、と。

「キャラ立ち」するキッカケだけ、与えられれば、いい。
各自の「キャラの違い」を見せあえる場を、与えることさえ出来れば、
それがベストな「デザイン教育」だ、と、本気で、思います。
(かなり、理想論なのは、承知のうえで。)

36時間以上、寝てないがゆえに、学生さんに、半分寝ながら、
キツイことを、言ってしまいましたが、その意を汲み取ってもらえたか、どうか。。。

あけまして、断片化。

あけましておめでとうございます。
と、2月10日に書いております。
(すいません。)


ついに、2007年。


1月は、1エントリーもUPしない内に、
過ぎ去って行きました。


いや、しかし、、、


こんなに、心おだやかな、休日出勤は、
久しぶりです。


土日に出ている時ですら、
追いまくられるような心もちで、


12月、1月と、本当に、ずっと
ケイレンするように、仕事してました。
いや、仕事しながらケイレンしてました。
いや、ケイレンのような仕事をしてました。
いや、右手の中指がメール打ちすぎで痙攣してました。。。


まあ、そんな感じで、、


いろんなことが、重なり、
断片的なブログすら、上げる余裕なく、
毎日、やってきたワケなのですが、


最近、立て続けに、意外なところから、
「ブログ、読んでます」
「最近、更新してませんねー」と、言われ、


あー、いかん。。遺憾、であると。


こんなに手軽で、リアルタイムに、
自分の現況や、現業や、現「気づき」やらを、
1円のお金もかけずに、自由に、情報発信できる
メディアを持ちながら、


しかも、日に、1500から2500PVも、
読者の皆様から見ていただきながら、


これを、あだや、おろそかに、しては
いかんのではないか?と。


書きたいネタや、共有しておくべき発見を、
手帳のコヤシにしていては、いかんのではないか?と。


相変わらず深い「ミゾ」を、少しでも埋めるべく、
初心にかえって、がんばるべきではないか?と。


適当なネタでもいいから、マメにエントリーした方が
アクセスがオチなくて、いいのではないか?と。


まあ、そんな感じで、、


建国記念日を前に、決意を新たにする次第であります。
ひきつづき、今後とも、よろしくお願いいたします。

冗談と本気。

雑誌「販促会議 」の本日発売の号
(表紙は偶然、ますますくん)に、
依頼原稿を書きました。


masumasu


「秘)これがプロの企画書だ!」という、
この誌のレギュラーコーナーに、5ページ。


これ、本当は、
現業で提案した「本物の企画書」を
一部改訂して、公開して欲しい、
という、ページだそうなんですが、


・・・さすがに、ソレはできず、


と言って、例月のように、
「架空の商品」の「架空のプレゼン」を、
この誌上でやるのも、、なんか、ノラないなぁ・・

と、思いまして、


「企画書の企画書」「プレゼンのプレゼン」を
やっても、いいでしょうか?と、編集部に提案して、みました。


すると、編集氏より
「それを業務としている会社が、事業を拡張するためのプレゼン」という
設定でなら、OKです、とのこと。




・・・というわけで、脱稿したのが、企画書作成代行会社、
「株式会社 企画書道」の「当社が考える企画書とは?」
という、企画書と、そのプレゼントーク原稿です。



かなーり、インチキくさい
(株)企画書道の、企画部員に、なりきって、
ふかす、ふかす、いかがわしい、トーク。


いわく、「武士に武士道。企画書に企画書道。」
「言葉に言霊(ことだま)。企画書に企画魂(きかくだま)。」
・・・などなど。


この、誌面では〈説明〉というところに、メチャメチャ小さい
ポイント数で、コチョコチョ載っておりますが、自称・必見です。


この「ふかしトーク」と、
うまいんだか、うまくないんだか、わからない企画書ボード、計9枚。


スーパー阿呆らしい体裁の中に、
ここ何年かの間、自分や、自分周辺の、
うまいプレゼンや、うまくないプレゼンを、観察する中で、
学び、思い、肝に銘じてきた、
「理想のプレゼン」「理想の企画書」について、
かなり、本気の「思うところ」を吐き出しています。


冗談の中でしか、本当のことが言えない?
なんか80年代的な感じですが。



実は、この企画書の、最後のページの、末尾に、
「*当社は、架空の存在なので、発注したい方は、ご自分でがんばってください。」
という、注意書きを一文、小さく、入れていたのですが、
それは、みもふたもないからNGということで削除になりました。


こういう「メタ」な「台無し」感を好むのも、
「80年代的性格」なのかもしれません、ね。


今年1年・・・じゃなくて、6月から半年間(まだ半年かぁ)
皆様、ご愛読ありがとうございました。


では、よいお年を!!

工事現場のメリークリスマス

先日、深夜。
編集室から会社に帰る時に見つけた、オブジェです。


明日には、撤去されるでしょうから、
ぎりぎり今日、上げときます。



kouji01
kouji02


ちょっと写真の露出が甘くて
画像が荒くて、わかりにくいですが、


道路の拡幅工事のようなものをしていて、
ボーリングの建機が、突っ立ってるのですが、
そこに、なぜか、クリスマス・イルミネーションが

チャカポカと、光っています。


なんでだろう?
殺風景じゃないように、配慮されたのでしょうか?


すごく意外だったので、驚きましたが、
同時に、少し、あたたかいような、
ありがたいような気がしました。


メリークリスマス、Mr.工事中。

メビウス、かく語りき。

大友氏のマンガを再読する流れで、
パソコンに取り込んでいた、古いキリヌキ(デザインの現場)で
メビウスのインタビューを読んだ。

大事なところを、OCRで引用。



京都や奈良で。パリでも、世界中どこでもそういうもの(*1)を強く感じるところがあるのです。
人類がもっと若く素朴だったころ、そういう地が示す理性では割り切れないことで世の中を計っていました。
シャーマンは当てずっぼうに場所を決めていたのではなく、そこにエネルギーがあるのを体で感じたのです。

科学発見の道は結局のところ昔の魔術と同じところに向かっています。言い方が違うだけです。


私は漫画家であるということですでに自動的に日本に結びついています。


日本の漫画家にある夢の自由な発露や心の襞の描写は、西洋にはまだないように思います。
フランスやヨーロッパでは発見しつつありますが、アメリカにははとんどない。
アメリカンコミックスといえばアクションと暴力。感情といえば怒り。まったくステレオタイプです。
ヨーロッパでは、私自身もちょっとそうですが、構築されたストーリー性とグラフィックの巧みさに重きを置く。
日本の夢と苦悩の描写はBD界(*2)ではとても斬新だと思います。


*1=メビウスがヴェニスで感じたという感覚、、土地の魔力、のようなもの。
*2=バンドデシネ、フランスでいう漫画


メビウス(ジャン・ジロー)といえば、80年代初頭の当時、
大友克洋や宮崎駿のマンガ表現に、多大な影響を与えた人。
この雑誌のキリヌキに載っているカットも、今見ても新鮮である。


mebius.jpg


ちゃんと読んだことがなかったので、
これを機会に、ちょっと掘り直してみようかなと、思った。

ファイアーボール、再読。

最近、体の疲れが、ものすごくて、
休みの日に、本当に、何もできない。

ただ、ただ、ぼけーっとして、
80年代の曲を聴いたり、
80年代のマンガを読み直したりしている。

(恥ずかしいが、歳とった感、アリアリ。)


前回、本棚の奥底から10年以上の歳月を経て、発掘されて
初めて読んだ「SOS大東京探検隊」につづき、
同じ頃、同じ版形で、出版された、もう1冊の短編集である
「彼女の想いで」を、ひっぱり出した。

今日、ぼんやりと読み返しながら、その中に、
当時、ようやく単行本に採録されて多くのファンが喜んだ、
名作「ファイアー・ボール」を再読した。

前に、読んだ時は、なぜか、あまりわかっていなかったのだが、
よく言われるように、「ファイアー・ボール」は「アキラ」の
直接のモトであることが、はっきり、わかった。

(というか、前に読んだ時、なぜ気づかなかったのだろう)

だいたい、兄である主人公の名前が大沢「明」だし、
反体制ゲリラの弟が警察に連行される時の番号が「42」だし。

あとがきの、大友氏自身へのインタビューによる、
作品解説を読むまでもなく「ファイアー・ボール」は未完成の作である。
本人の言によると、「ラストはあと20ページ欲しかった」とのこと。

出稿した作では、4ページくらいで、地球規模のカタルシスまで行くのだが、
本人も言うように、弟の合流も含めて、お話がわかるようには
まったく、なっていない。。。

未完成ゆえ、80年代初頭に出た、大友氏の単行本には、
まったく採録されず、長らく、その名は聞けど、作品は読めなかった、本作。
(今なら、すぐネットに流れたと思うけど)

当時のユリイカだったか、宝島だったかに、
兄が手術台から起きあがる1コマだけ、紹介されていて、
早く読みたいものだ、、、と憧れていた記憶がよみがえる。

それは、さておき、大友氏のインタビューを読むと、
(最新のブルータスのものも、この単行本に載っているものも)

氏の特徴として、完成した作品の内、失敗したところ、
出来切らなかったところ、に、ばかり、気が行くらしい。
完璧主義の天才肌な人には、ありがちなことだ。

と、すると、もし仮に、
「ファイアー・ボール」が、あと20ページあって、
大友氏にとって、納得いくところまで、描き切っていたら、
ひょっとしたら「アキラ」は、描いていなかったかもしれない。

「アキラ」が描かれていなかったら、その後の、日本マンガ史、
日本アニメ史は勿論、その後の大友史も、大きく変わっていただろう。

「アキラ」がなければ、西洋世界に「ジャパニメーション」が
浸透する第1突破口も開けず、たぶん「攻殻機動隊」も作られず、
「マトリックス」も生まれていなかった、かもしれぬ。

勿論、今日の「クール・ジャパン」ブームも、
今のような規模とタイミングでは、来てなかったかもしれない。

と、思うと、「ファイアー・ボール」のお尻が、
20ページ足りなくて、本当に良かったなあ、、、と思うのである。

ブルータスと、大東京探検隊。

先週、出たブルータスの最新号


毎度おなじみ、世界が注目するクール・ジャパン特集。
(このテのものは、見つけると、必ず買ってしまう。。)


明け方のコンビニで、大友克洋のイラストの表紙を見た時、
一瞬、本人の作か、イミテーションか、わからなかった。
(さびしい。。)


新作の映画「蟲師 」のプロモーション用の別冊が挟み込んであり、
なんと、その別冊に、大友先生の「久しぶり」のマンガが
掲載されているのだが、、、申し訳ないが、さびしい仕上がりだった。



なぜか、その、ちょうど同じ日に、我が家の本棚の奥の奥から、
買ったきり全然読んでなかった、大友氏のマンガ本が、発掘された。

それが、この「SOS大東京探検隊 」である。
この週末に、これを読んで、大々後悔した。


SOS大東京探検隊/大友 克洋
¥1,223
Amazon.co.jp


なぜ、もっと早く読まなかったのか、、と。
この表題作と「RUN」は、出来れば発表年(1979年と80年)に
読みたかった。。。 


(「RUN」は、石井聰亙 の16ミリ映画「シャッフル」は知ってたのに、
 なぜか原作は、未見だった、)


メチャクチャ面白い。
メチャクチャ新鮮。


これほどのモノを、25年以上前に描いてしまったら、
もう、どうでもいい「受注マンガ」など、本気では描けないだろう。


「中途半端な出来になるくらいなら、徹底的に駄作にしなくては。」と、
天才系の人は、よく言うのだが、
ブルータスに載っているのは、まさに、そういう作品。



「SOS大東京探検隊」は、舞台を(80年代でなく)現在に移して、
最新の技術でアニメ映画 になっているそうだが、
これも、ぜひ見たいものである。


制作は「FREEDOM」と同じ、サンライズ・エモーションスタジオ。
大友氏が「スチームボーイ」の時に作ったスタジオである。

浮かんでは、消えるもの、を、共有する。

浮かんでは、消えるもの、を、共有する。


浮かんでは、消えるもの。
それを共有する、ための仕組み。
ネット、ブログ、SNS。


コメント。エントリー。日記。ネタ。。。
頭が、ブログに慣れてくると、これらは、
個人で溜めておいても、しょうがないもの、である、
かのように、思えてきてしまう。


今、思ったことを、
今、公開して、
今、共有する。


溜めるのは、システムが、
しっかり溜めてくれていて、
いつでも、どこからでも、アクセス可能だから、
生身の人間は、思考の保存は気にしなくていい、。



古来からの、本来の、文字の役目は、
思考を、書きとめておいて、
それを、時の流れに耐えて、保存可能なものにする。
。。ということだったと、思う。


ネットとブログの登場で、
文字の役目は、まったく、逆のもの、になった。


共時性と、共有性。



書籍も、映像も、
すべてが、ますます、
そういうモノに、なって行く、


(もう、なってる、)

と、思います。