『街とその不確かな壁』読了 文学と僕 | Linのブログ

さて、ずいぶん久々な更新なわけですが、掲題の通り、村上春樹さん著の『街とその不確かな壁』を読了したので、その感想とそもそも村上春樹作品との歴史(?)みたいなものを書いてみようと思う。ひょっとしたら、これから書くことは過去にかいたことの繰り返しになる部分もあるかもしれないけど、調べるのも面倒だし、とりあえず書いてみようと思う。つれづれなるままに・・・。

 

さて、村上春樹作品と出会ったのは、というかそもそも僕が熱心に本を読むようになったきっかけはというと、高校時代にまでさかのぼる。わが母校は京都の北、当時烏丸北大路にほど近い、現在の立命館小学校が建っている場所にあった立命館高校だ。現在は小学校や幼稚園も加わったが、当時立命館は中学から大学まで(ほぼ)エスカレータ式に進学できる私立学校で、その校風は自由闊達(今でも校風が受け継がれているかわからないが・・・)。校則はほぼなく、中学こそ制服はあるものの、高校からは私服で、僕らの時代はジャパメタ全盛という時代で、かくいう僕も長髪で部活サッカーと音楽(バンド)に明け暮れている、普通の高校生だった。

 

僕はこの立命館に、結果的に大学合わせて7年通うことになったわけだけど、特に高校3年生の時は、インターハイ3回戦(?)くらいで6月くらいに早々に敗退したおかげで、外部の大学を受けるために勉強はしていたけど、部活がおわるとかなり時間に余裕がある時期だった。

 

当時立命館高校の3年のカリキュラムには、もう名称は忘れてしまったけど、選択授業という、興味のあるテーマから自分の好きなジャンルの授業を選択して履修するという授業が週1回あり、音楽をやっていた関係で、当然のごとく音楽授業に志願したわけだけど、あっけなく定員という名の壁に跳ね返される。

なにしろ当時ジャパメタ全盛。学校中がメタルに沸き立つ感じの雰囲気でしかも軽音みたいな音楽クラブもなかったおかげで、楽器を演奏するという機会は、気心の知れた同学年の友達とバンドを組むしかないという状況だった。僕は高校から立命館に通い始めたけど(僕らの間ではそういう高校からの進学組を外部生、略して外部といった)、学内でバンドで組んでいる人間は99%が内部進学組(中学からエスカレーター式に高校に上がってきた生徒)で、高校から通いだした外部生で学内でバンドを組んでいたのは当時僕くらいだけだったとおもう。なぜ自分だけがそういう感じになったのかは、もうすっかり忘れてしまったが・・・。

そういうわけで、選択授業における音楽の授業の人気はトップクラス。まあ、同学年が多分200人くらいいたとおもうが、倍率がどれほどのものかはわからなかったけど、定員オーバーということで第二の希望分野に回される。で、なぜかこの第二の希望分野が、文学という授業だった。

 

今にしてみれば、よくぞ音楽の抽選に漏れてくれた!よくぞ第二希望で当時まったくかかわりもない文学という分野をえらんだ!とほめたたえる感じだけど、まさにこの選択が僕を本の虫にしたともいえる・・・。

 

で、その選択授業なんだけど、当時の新進気鋭の作家たちを高校生に紹介する大義名分のもと進めていたみたいだが、今にして思えば担当の先生が自分の趣味の作家を授業という名目のもとに披露していたに過ぎない気がする(笑。

この先生こそが、立命館小学校の校長を二度までも務めた、後藤文男先生。

 

 

現立命館大学院准教授です。

 

 

なんせ、毎週1冊テーマ本を紹介され、次週までに読了してきて各自の感想をきき、それを評論、また本や作家の解説をするというスタイル(だったとおもう)。

 

その時に紹介された作家は、記憶に残る限りでいうと、『限りなく透明に近いブルー』で当時芥川賞を受賞した村上龍、ぼくらシリーズのミステリものからハードボイルドもの、さらにはグインサーガシリーズや魔界水滸伝シリーズなど、ヒロイックファンタジーやSF伝奇小説、評論とあらゆる分野で筆をふるった作家活動のみならず、音楽でキーボードを弾き、さらにはテレビにでてはクイズ番組にまで登場していた中島梓こと栗本薫(2009年ガンにのため永眠)、そして、こちらも江戸時代を舞台にしたミステリから現代社会舞台のミステリや伝奇小説、SF小説、ヒロイックファンタジーと多方面で筆を振るう宮部みゆき、現在こそ歴史小説一辺倒になっているものの、当時はハードボイルド小説を中心に筆を振るっていた北方謙三。

 

そして、このなかに村上春樹がいたというわけだ。

最初は『風の歌を聞け』、そして『1973年のピンボール』、最後は『羊をめぐる冒険』。いわゆる羊三部作を立て続けに読まされ、村上春樹、というよりは、小説のとりこになった。

 

先にも書いた通り、僕の通っていた高校はエスカレータ式(といっても入学試験はある)で大学へ上れるので、外部の大学に進学しようとしてたとはいえ、いざとなればそのまま立命館大学に進めるという安心感があって、部活が終わってからは勉強に身を入れているとはいえ、比較的精神的ゆとりがあった。加えて部活が終わったので、アルバイトもちょこちょこ始めていたので、金銭的にも潤い始めていたので、それこそ、村上春樹はおろか、紹介された村上龍(愛と幻想のファシズムがお気に入り)や、宮部みゆき、北方謙三(Bloody Dollシリーズもいいがロボ三部作もお気に入り)、そして栗本薫にいたっては、魔界水滸伝やグインサーガに手をだしてしまい、以降栗本薫が鬼籍にはいるまで、年に2~3冊刊行されるグインサーガシリーズを手に取るのが楽しみになった。

 

そして件の村上春樹作品に至っては、大学2年の時にダンスダンスダンスが刊行され、発売日当日に入手したり、『ノルウェイの森』、そして『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『カンガルー日和』(100%の女の子がこれまで読んだ短編の中でも一番好き)・・・。

 

独特の文体や、人間の一番デリケートでシンパシィーを感じやすい、思春期の喪失感やナイーブな愛情を扱ったプロットと、伝奇的あるいはSFチックなストーリーと純文学的な書ききらない結末等の構成にすっかりはまり、多筆でないことも理由と相まって、繰り返し読んだものだった。

 

また、村上作品の中で紹介される古典ロックに関しても、作品の時代背景を少しでも感じるために聞こうという気を起こさせ、結果的にハードロック一辺倒だった高校時代の音楽観からロックンロール・ポップスへの音楽観への広がりを促してくれたのも僕の中では村下作品の偉大なる功績の一つだ。

 

ダンスダンスダンス以降の作品に、10代後半から20代前半の時に感じた圧倒的シンパシィーを感じることはなくなり、それこそ頻繁に読み返すことはなくなったが、つまりは村上春樹の作品は僕の小説・文学・古典ロックへの入り口を切り開いてくれた作家であり、愛読書、愛読作家の一つであることには変わりない。

 

さて、表題の件の『街とその不確かな壁』。第一部を読んでいるうちにすごく懐かしい気持ちにさせられたのは、おそらくその物語のプロットである、『壁に囲まれた街』の設定が、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のそれとほぼ同じであるためだろう。『門番』や『けもの』、『壁』や『主人公の世話をする軍人』や唯一の脱出口である『南のたまり』、『図書館』、『夢読み』や街へ入るための条件である『影との別れ』etc...数え上げたらきりがない。作者自身は『街とその不確かな壁』は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の続編ではないと言い切っており、それは主人公の設定が全く異なるものであるが所以だし、『壁に囲まれた街』を舞台とした別の物語を書いたという意識がそう言わせているのだと思うが、見方を変えれば、『壁に囲まれた街』の歴代の『夢読み』たちの物語ともいえる。『夢読み』が何人かの人物によって務められてきたことは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』でも『街とその不確かな壁』でもそれとうかがい知れる場面がでてくる。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では主人公が初めて夢を読むとき、うまく読めない旨の相談を司書の女の子にすると、はじめは誰でもそうだ、等の発言しているし、そもそも影がしねば『夢読み』はその役目を終えるとしている。『街とその不確かな壁』でも司書の女の子が、一人の夢読みには一人の司書がつく、司書は二人の夢読みの世話はしない等の発言をしている。また実際に主人公からイエローサブマリンパーカーの少年に『夢読み』の役割を譲り渡すというストーリーも、その交代が当然のこととして受け入れられることを証明している。

 

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では役目を終えた影が最終的に『南のたまり』から脱出することになり、主人公は街に残るが、『街とその不確かな壁』でも同様なことが起こる。そして『南のたまり』から脱出した影は、現実世界に戻ったとき、主人公の代わりに現実世界での主人公の人生を引き継いで生きていくことが記されている。ということは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で脱出した影は、シャッフリングで意識喪失した主人公の残りの人生を引き継いで生きたのだろうと想像できる。街に残った主人公は、影がしなかったせいで森へ追われ、『夢読み』の役割に役割ははく奪される。だとすれば街はいずれ新たな『夢読み』を迎え入れるのだろう。いずれにせよ、『夢読み』が複数の人物によって務められてきた歴史から、『夢読み』の交代は通常のことであるというプロットが成り立つので、『壁に囲まれた街』で歴代の『夢読み』たちの物語、つまりは続編と考えれば楽しくなってくるのではないだろうか。

 

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で役目を終えた影が『南のたまり』から脱出したあと、その影がそのあとどうなっただろう、主人公がどうなっただろうは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』での読了後の関心事項であった。それが『街とその不確かな壁』で『南のたまり』から脱出した影は、現実世界に戻ったとき、主人公の代わりに現実世界での主人公の人生を引き継いで生きていくというプロットが明かされたことでほっとした気持ちになった。

 

物語自体は、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『ダンスダンスダンス』等のストーリーで読ませるタイプの作品ではなく、どちらかといえば文体や情景や心の描画でシンパシィーを得る『ノルウェイの森』タイプのもので、プロットを楽しむ的な読み方になってしまったのだけど、こういった読み方ができるのも村上作品が独特なものである理由の一つでもあるし、ならでは、なんだろうと思う。