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まいけるのおうち

なんとか続けてます。

以前から薄々と感じてはいたのですが、ここはちゃんと記事にしておくべきかなと思いますので書いてみます。

そもそもの話なんですが、「オフ会」って何だと思います?

ネット上の掲示板やブログやSNSやオンラインゲームやチャットルームなどを利用してると自然と仲間が出来ますよね。ネット上だけの付き合いもいいけど、一度みんなで会ってお話しませんか?って流れになるわけです。ネット上はオンライン。それに対し、実際に会うのはネットではないのでオフライン。オフラインのミーティングなので「オフ会」、となるわけです。

大げさなことでも力の入った催事でもなく、会いたい人同士が集まる、それだけの話です。そこに大層な理想だとか理念だと言ったはものはありません。(政治的なオフ会ならあるかもしれませんが)

なので、オフ会に参加することで自己啓発的なものが得られるだろうとか、そこに行けば素敵な知り合いがいっぱい増えて、すごくいいことづくめなんだろうなあとか思ってると100%裏切られます。あくまでブログ上での付き合いの延長線上にあるものですから。


一時期はオフ会マニアを自称し、この10年、JW系の様々なオフ会に参加してきましたので、いろんなオフ会をこれまで見てきました。少人数から50人以上の大規模なもの、深刻にJW問題についてや参加者の社会復帰の難しさを語るオフから、エホバのエの字も出て来ないほどで終わった後に「あれ?そういやJW系のオフ会だったんだよなあ」と思えるほど笑いっぱなしのオフ会、参加者の結婚祝いを兼ねたオフ会もあれば、葬儀後の悲しくてしんみりとしたオフ会もありました。

そこに目的があるとしたら「会いたい人がいるから」それだけのような気がします。


元JW系のオフ会は当たり前ですが、参加者のほとんどが元JWという共通点を持ってるだけなので、自分とまったく同じ立場や経歴や考えの人はまずいないと思った方がいいです。そうなるための要素が多すぎますから。
・JWを辞めるに至った経緯。
・現在の家族関係。
・バプを受けたかどうか。
・自然消滅or排斥or断絶という違い(立場的には現役だけど辞めるためにどうして良いか思案中の人もいました)
・離れてからの年数。
・JW時代にやってたいわゆる特権(長老・しもべ・開拓者といったやつね)
・現在の職業。
・学歴や職歴
・1世or2世3世?
・神権家族か片親が信者か?
・JWという宗教に対するスタンス

ざっと思いつくだけでもこんなにあるんです。多種多様な人たちが集まりますから、実際に会ってみて話してみると「へぇーこんな人だったんだ」と分かることもありますし「なんだか嫌な人だなあ」と思うこともあると思います。

ネット上だと文字しか見えませんので、大抵の場合はその人物がカッコよく見えるんです。だって、自分の良い部分しか書いてない場合が多いですし、自分の嫌な面は隠しますし、そのことに自分では気づいてない場合すらあります。逆に、えっ?と思えるほど自虐的なことや品のないことを言ってる人ほど、実際に会ってみると常識人だったりします。僕に関して言えば、だいたいの人が会った後にこう言ってくれます「実際に会ってる時はあまりしゃべらないタイプなんですね。ネットだとあんなに明るくて多弁な印象なのに」と(^^;;;

何がいいたいんだって? 「ネット上だけではその人の本当の姿は分からない」ということ、です。

以前、こんな記事も書いてますので、併せてお読みください。
「注意喚起情報」


話は元に戻るんですが。

そんなわけで、オフ会なんてものは大層なものではございません。ただの飲み会だったりすることも多々あります。真剣にJW問題について討論したいというオフ会だったら会議室を借りてやったりするみたいですけど、そういうのは年に1回あるかないかのことだと思います。

なので、オフ会について真面目な話し合いの場になってるんだとかそういうことはあまりないですし、今後の元JW界はどうあるべきか、なんて話はまず出て来ないと思っていただいて結構です。集まった人たちで力を結集して何かを今後やっていこう!なんてのも無いですね。自分のことを聞いてほしいとか同じような経験をしたから共感できるとか、そういったことの方が多いと思います。


集まりたい人たちが集まりたい場所で会って話をするのがオフ会なのだ、と前述しましたように、一本化された元JWのオフ会というのがあるわけではないです。あくまで、それぞれで集まってやるだけのことなんです。過去には同じ日付で別々の人が東京と大阪と言った具合に元JWのオフ会があったこともありましたし、3か所の時もあった気がします。都合のよい日を選んだら、たまたま重なっただけなのですが、どこに行くかは参加者の自由なわけです。それぞれのオフ会の幹事さん同士が連絡を取り合って、などということもなかったです。

前回記事の事柄にリンクしてしまうのですが、極端な話、東京で2か所別々の人が同じ日の同じ時間にオフ会を開催なんてことも僕としてはアリだと思います。基本に戻りますが「会いたい人が会いたい時に会う」それだけのことですから。仮に、僕が主宰したオフがあって、別の人が故意か悪意かは分かりませんけど、同じ日にぶつけてきたとしても、です。僕よりも別の人のオフ会の方が楽しそうだなと思う人はそっちへ行くでしょうし、僕に会いたいと思う人は僕の主宰するオフ会に来るでしょう。参加予定者が全員別の人のところへ流れたら、それは僕の魅力が足りなかったんだと素直に思います。別に勝ち負けでオフ会やるわけじゃないですから。連絡を取り合って一本化しましょとか、片方が日時をずらすべきなんて論外です。やりたいようにやればいいんですよ。

和を乱すとか、みんな元JWなんだから一緒に仲良く、とかそういう発想から離れてほしいです。元JWという共通点があるだけなんです。元JWだから一致しているべき、という考えもあるのかもしれませんけど、僕としてはそれは絶対に無いですね。ここは重要なので完全否定しておきます。

今回、他の方のブログのコメント欄を見てて、上記のように思う方が意外なほどに多いのだと心底ビックリしました。僕のJWを離れてからの年数の長さやオフ会参加の回数が多いゆえに見えてしまうことなのかもしれませんが・・・。


オフ会幹事についても書いておきましょう。

いろんなケースがありますが、主催者(呼びかけ人?)が幹事をすることもあれば、人数が多いので主催者・幹事は別ということもあると思います。大規模オフでは会計係・誘導係までいることもありました。幹事さんの役目は一般社会の幹事さんと同じで、場所のセッティングや参加者への連絡、当日の会計の取りまとめ、などを行う人のことです。主催者も幹事も経験済みですが、主催者だから偉いとか幹事だから偉いとか、そういうことは一切ありません。その役割を果たしてるだけですし、オフ会をやるために必要だから存在するだけなんです。殊更に持ち上げる必要はないです。

一定人数を超えると主催者と幹事の両方をこなすのは難しくなります。人数が増えるとどうしても当日のドタキャンが入ったり、逆に開始直前にどうしても参加したいという人が増えたりと人数の増減に対応しなきゃならないですし、集合場所に集合時間どうりにこれなかったりする人が出てくると、迎えに出たりと、なにかと忙しいわけです。自分が楽しみでオフ会を呼びかけたのに、終わってみたら自分はあまり参加出来てなかった、楽しめなかったでは悲し過ぎますよ。そんなわけで、主催者と幹事のダブルチームだと物事がスムーズに行きますし、みんなが楽しめるオフ会になることが多いです。なので、オフ終了後には主催者と幹事さんには「お疲れ様」と声をかけてあげてくださいね。


参加する時にどういうメールを出すと良いかとか注意事項とかはこちらの記事 が参考になるかと思います。



長々と書きました。

多少分かりづらい面もあったかもしれません。分かんないことがあったらコメントくださいませ(^-^)
東京あたりは桜が咲いてるそうですが、こちらはまだまだあと2週間くらいはかかりそうです、今日なんて雪交じりの寒~~~い天気でしたよ。道路の気温表示は0℃とか書いてあるし、まだまだ春は遠いなあという感じがしてますが、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか?


僕の方はとにかく仕事が忙しくて1年で忙しさがピークな時期ですので、今日も午前中は仕事をして昼からは家族サービスをし、帰宅してから洗濯物を干して食器を洗って一息ついてるところでございます。忙しくもありますが、でも、こういう充実した時間にふと家族の有難みですとか喜びを感じることが出来てるのは良いことなのだろうなあと思ってます。

JWの活動を完全停止して14年、ネットを始めてJW系を覗くようになってほぼ10年が経ちます。辞めた直後やネットを始めたころにはこんな生活が待ってるなんて思いもしませんでしたねぇ。こんなんだったら早く辞めれば良かったと心から思います。

ちょうど10年前に今の嫁さんとネット上で出会って、そして今があるわけですが、嫁さんと時々話すんです。10年前と今じゃネット環境も元JWの世界もだいぶ変わったよねぇ、って。

以前も書いたことがありますが、10年前はネット上にいる元JWもすごく少なくて、自分から情報を発信するにはHPを作ったり、HPに付随して掲示板を着けることで他の人と交流するのが主流でしたが、今は簡単に誰でもブログを開設できますから、一人ひとりがHPを持ってるようなものですし、ネット人口もケータイも含めかなり増えましたから、そういう意味ではすごく環境がよくなったなあと思います。

家族がいまだに現役で、情報収集のツールとしてJW系のところはだいたい見ているわけです(逆に言うと家族からJW現役が一人も居なくなった時には見なくなると思います、爆)。 
この10年間ずっとJW関係のところを見てますが、元JWの人ってだいたいこういう経過を辿る人が多い気がします。すごく大まかなんですが。

0)JW系に触れていろんな事実を知るようになって驚きと仲間がいることを嬉しく思う
   ↓
1)ブログ or HPを作る(作らない人もいるけど)。他の人のところにも発言をいっぱいする。
   ↓
2)オフ会に参加する(もしくは自分が主催したりする)
   ↓
3)徐々にJW問題が自分の中で整理されJWのことを考える時間が少なくなる
   ↓
4)私生活が充実してくるので、JW系から徐々に離れていく
   ↓
5)JW系をほとんど見なくなる
   ↓
6)数年後、JW現役の家族と何かがあったりしたためや、懐かしい思いでまたちょっと覗くようになる
   ↓
7)私生活の充実でJW系を見なくなる


僕みたいなのは例外で、だいたいこういう経過をたどる人が多いです。むしろそういう方が健全で当たり前なのだと思います。0~4の段階の時間は早い人だと半年無かったりします。長い人でも2年くらいでしょうか? オフ会があるよと呼びかけると懐かしくて来てくれますが、オフが終わればネットで発言することもないし、また充実した生活に戻るわけです。

JW問題の大部分は家族問題だったり、自分の生き方の模索だったりしますので、それらが解決すれば当然ですが、JW関係に関わる必要はないわけですよ。過去を振り返る作業は必要なことですが、それにいつまでも固執する必要なんてありませんし、解決したら現実の問題と向き合う事が必要になりますし、その方が楽しい時間なわけです。仕事だったり、恋だったり、趣味だったり、それらに向き合った方が絶対に良いわけです。

過去に、自分の経験したことをいかして、現在JW問題で悩んでいる人やこれからの悩むであろう人のために役立ちたいと行動を始めようとした人がたくさんいました。が、それらの理想を語る人に限って理想で終わってることが多かったです。唯一、それを今も継続してやっているのは僕がJW系のネットを始める以前からやっている「陽のあたる場所」の掲示板を開設しているohyaさんくらいなものでしょうか。彼はJW2世問題に一番長く関わってきた人と言っても良いでしょうし、実際、身銭を切ってJW2世のためにホットラインを開設したりしてます。とても僕には真似出来ません。その彼からお会いした時にこういう言葉を聞いたことがあります。「元JWのために役立ちたいと思う気持ちがあるのなら、右手ではなく左手でやれ!」と。要は自分の持てる能力や時間の全てを費やすのではなく、まずは自分のこと、そして自分の家庭のことをやって、その上で余裕があるならそういう活動をすべきだ、じゃなきゃ意味が無い。ということなのだと思います。(今もHPに掲示板をつけて、そこを管理してる人達も偉いなあと思います。)

僕が細々ながらもこうやって自分のブログを残して、たまに記事を書いているのは僕の左手がそれくらいの余力しかないからです(苦笑) 

基本的に元JWの人って優しいんですよ。だから、自分のような苦しみを味わうことなく解決できるのなら、いろんな人の役に立ちたいと言う気持ちの人がとても多いです。でも、それはohyaさんが言うように左手でやるべきことであって、全力を尽くすと自分自身が疲れ切ってしまって自分が描いた理想とは程遠い結果に終わることになります。僕としては、皆さんにブログで自分の経験を語ってもらったり、気持ちを語ってもらうことがあればそれで十分なんじゃないかなと思います。多くの人がJWの問題点を自分の言葉で、自分の経験で語れば、それだけ多くの人の目に触れることになりますし、そこで自分の気持ちの整理ができたら、そこから先は自分の生活の充実のために全力を注ぐのがベストなんじゃないでしょうか。元JWにとってJWとは基本的に過去の問題のはずですから。


たまーに、思い出したように僕のブログを探してもらってコメントやメールで「今はこんな仕事(趣味)をがんばってやってます」「結婚して子供が生まれました」「大学に入りなおして去年就職しました」などなどと近況報告してもらうことがあるのが長くブログをやってる自分としては一番うれしいです。みんな頑張ってるんだなあと僕も本当の意味で「励まされます」から(^-^)
もう何年も触れることもないです。多分これから先もそうでしょう。

これまでも何度となくブログ記事にしてきましたが、僕は聖書はただの本であって、その記述を基に信仰を持つなんてことは自分自身にはあり得ないことだと思ってます。(他の人がどう思うかは知りませんし、信仰を持つ人がいてもそれを批判することはありません。)

ここから聖書のことをボロクソに書きますんで、そういうのを目にしたくない人は回れ右!でお願いします。














聖書にそんなに良いことが書いてあるとどうしても思えないんですよ。

まず、最初の人間とされてるアダムさん。この人は完全な人間。完全ってことは完璧な人間ですよ。それなのに、サタンが誘惑したらイチコロ。正直、弱過ぎです。完全な人間が神に忠実であることが出来なかったのですから、物語としてはそこで終わりですよ。だって、完全な人間がダメだったのに不完全な人間が神に信仰を持ち続けるなんて出来るわけがないです。

出エジプト以降のイスラエルの民なんて目の前で何度も奇跡を見てるんですよ。なのに、ちょっと腹が減ったり指導者が目の前からいなかったりしただけで、これまで救ってくれた神のことなんて忘れて別の異教の神のもとへ走ってしまう。この恩知らずが!と吐き捨てたくなります。

ソロモン王なんて人もいましたね。すべての権力、恐ろしいほどの富を持ち、綺麗な奥さん数百人。そんな状況なのに「すべては虚しい」とか言ってんじゃねーよ、ってツッコミたくなるのは僕だけじゃないはず。お前、一回貧乏人の暮らしをやってみてから言えよ、って言いたくなります。神にそれだけ良い待遇を与えられてたのに挙句の果ては、異教の神のもとへ走ると言うこれまた恩知らず! (ちなみにこの人が書いたエロ詩はソロモンの歌という題名で聖書の1冊に入ってます。どんだけエロ好きやねんw 聖書から1冊なくしていいと言われたら、これを選ぶキリスト教徒は多いはずw)


基本的に出エジプトからイスラエル建国までの辺りって、土地を奪うための人殺しの話ばっかリですよね。女も子供も異教徒だからという理由で皆殺しですよ。やられた方はたまったもんじゃないです。ユダヤ目線では神の勝利!なのでしょうけど、奪略された側からすれば侵略の歴史なわけで。神の命令となれば何をやっても許されるってのは傲慢な考えだと思います。(現代でも、欧米人の異文化に対する傲慢とも思える態度はこのあたりから来てるのでしょうね)

他にも女にだらしない男どもの話とか、醜い権力争いの話だとか、旧約聖書はとにかくダメダメな話のオンパレードです。このあたりの話を実写化したらR15指定は間違いないですよ。子供の教育には絶対に不適です。見るものに気をつけましょうと言いますが、まずは聖書から見直した方がいいです。


では、新約聖書は良い本かと言われると、これまた微妙なわけで。あくまで個人的な考えですけど、「まぁ、読み物として許されるのは4福音書だけだよねー」ですw

イエスという人物の伝記としての4福音書という位置づけなら、まあいいんじゃないですか?旧約みたいに殺しだとか女にだらしないだとか不道徳な話はほとんどない訳ですし。

パウロが書いたと言われるいろんな手紙が聖書には含まれるわけですが、はっきり言って、JWのおかしな教えってパウロが書いた部分にほぼ集中してますよね? パウロの書いた部分をなくすとJWの教義が成り立たないと言っても過言ではないと思います。啓示の書(ヨハネの黙示録)なんてどう見てもヨハネの空想の産物としか思えません。

4福音書ならいいんじゃね?と書きましたが、僕が指摘するまでもなく、4つの並行記述にはけっこうな矛盾点が多いですよね。イエスの死後、何十年も経ってからそれぞれの筆者が書いたと言われてますから、それも無理はないと思います。人間の記憶って時が経てば経つほど曖昧になるし、都合の悪いことは忘れ、良いことだけを覚えてるものですから。 カリスマ性があって死んだ人って、年々その存在が美化されていくものですが、イエスの場合はそれが極端だったのでしょうね。

福音書にはイエスの言葉がいろいろ書いてありますが、正直言って分かりにくいと思いません? 無学な弟子たちと分かってるのに禅問答のような言葉をよくもまあ次から次へと(笑) その辺りが彼のカリスマ性を引きたててたのかもしれませんけど、現代にいたるまで意味不明な部分も多いし、とかく例え話が多すぎて分かりづらい。その分かりづらさは、例え話を根拠に教義を作れたりするくらい分かりづらいです。完全な人間の言葉にしては、配慮が足りないというか・・・。頭の良い人ほど、無学な人に分かりやすく教えてくれるものですよねぇ。

福音書と言えば12使徒! ペテロさんなんて最悪ですよね。目の前で何度もイエスの奇跡を見てるのに、自分が捕まりそうになったら「私はイエスの弟子なんかじゃない、別人だ!」と2度も否定してちゃうんですから(予言の成就のためにうんぬんの話はおいといて)。目の前でイエスの言動を見た人すらダメだったのですから、2000年も経っちゃってる現代の人がイエスの歩みに忠実でありたいなんて難しいというか無理があるんじゃないの?と客観的に思います。


聖書が世界中の人に与えてきた影響は歴史として認めてますし、理解できますが、どこをどう読んでもこれを読んで神に信仰を持て!なんてのは僕には無理です。無理なもんは無理です。聖書に信仰をもつくらいなら、日本書紀とか古事記とか読んで神道の道に行く方が日本人としては性に合ってるかも。


長々と書きましたが、僕にとって聖書はただの本です。そして子供には読ませたくない本です。それ以外の意味を持たせることに困難を覚えますので、死ぬまできっと無宗教だろうなあと思います。
なんだか良く分かんないけど元JWの中にも、「エホバの証人はキリスト教で紛れもなくクリスチャン」だとJWばりの考えの人がいらっしゃるようで。

一般的なキリスト教の人が信じてるキリストが神で三位一体の教えを否定するんだからクリスチャンじゃないだろ?って書いたら某2ちゃんねるで某ピネハス氏などから異様なまでに絡まれてしまいました(笑)
(そもそもピネハス氏は元JWなのかも怪しいけど、一応自称JW関係者だと言ってらっしゃるようなので、そのくくりにしておきますが)


JWが宗教としての分類上、キリスト教であることには異論は有りません。というより、プロテスタント長老派の流れを汲み、再臨派の影響を強く受けて派生した宗教組織であることはJW組織自身が認めており、それは元JWならば誰もが知る事実でしょう。

僕が前回の記事で言いたかったのは

「JW信者であるゆえに出来ないこと(JW以外のキリスト教では禁止されてない)なのに、クリスチャンだから出来ないと言うのはおかしいんじゃないの?」


ということです。他のキリスト教のことは異常なまでにこきおろすくせに、都合がよい時だけ「クリスチャンなので」とさもキリスト教全般のことのように言うのはおかしいし、誤魔化さずに堂々と「エホバの証人なので出来ない」とはっきり言えばいいじゃないですか?と。(JWは自分たちが真の宗教で本物のクリスチャンって考えてることは承知してます。その上での指摘です。)



僕の個人的な考えなんですが(と何度も前置きしますけども、笑)

日本は仏教国でもあり神道の国でもあるので、キリスト教に馴染みがある人が非常に少ないですよね。キリスト教についての基本知識すらない人が多いです。カトリックもプロテスタントも、そしてJWやモルモンのような諸派も区別がつかない人が多いわけです。そういう人にとって「クリスチャンだから出来ない」と聞けば、キリスト教全般がダメなの?って思っちゃうわけですよ。むしろ、それを狙ってるのかもしれないですね。

(余談ですが、現役時代に「キリスト教の人はコーヒー飲まないんだよね?」って言われたことがあるんですが、それを言った人にとって唯一関わりがあったのがモルモンの人だったらしくてそういう思い込みをしちゃってたらしいです。)

こういう指摘ってやっちゃダメなんですかね? ちょっとでもJW以外のキリスト教の味方っぽいことを言ったら「まいけるはキリスト教関係者だ! 教会となにか関係があるのだろう。長年元JWの世界に居るとキリスト教関係者の影響を強く受けるのだ!」とか言われたんですが(笑)   これってJW時代の白黒思考となんら変わりないですよ。

単にJWに不都合なことを指摘しただけで、それ以上の意味はないです。僕のブログをずっと見てる人なら僕が無神論者であることは何度も見ているはずですし、どの宗教とも関わりが無いことは分かるはずです。

JW批判を批判するくらいなら、もっとやるべきことがあるはずじゃないですかね? 



一番分かんないのは、JWを辞めた人には「元JW」というくくりがあるだけなのだから、いろんな考えがあってよいはずなのに、それを認めることすら出来ず、自分の考えと違う→だから批判する という思考です。議論があることは良いことです。が、お互いの考え方を説明し、お互いの考えの違いが分かったら、もうそれでイイじゃないですか? 詩人の金子みすゞさんじゃないけど「みんなちがってみんないい」んです。元JWなのだからJWについての考え方は同じであるべき、なんてのは一番気持ち悪いです。JW時代を彷彿させるから。「俺の考えの方が正しい。なぜそれを認めないんだ」とばかりに執拗に言われても、ね(苦笑)

JWという宗教団体がこれからも存続してほしいと思ってる人とは、そもそものスタンスが違うので、意見が合うわけが無いんですよ。当たり前だよね。もちろんJW批判には是々非々な議論が必要だとは思いますが、僕はJWという宗教がなくなればいいと思ってますし、なくなるのが無理ならカルト色の強い教義や組織の決まりはなくなっていけばいいと思ってますから。



JWという宗教団体に対しては、元JWの数だけいろんな違いがあって良いんじゃないですか? 僕はその一つとして「JWは一般的な人が認識しているクリスチャンとは違うので、JWゆえに出来ないことはクリスチャンだから出来ないと言うのはおかしい」と思ってるし、考えは変わらないです。


最後に。
2ちゃんで反応するんだったらスレッドは適切なものを選んでください。最低限のマナーですよ(笑)
(コピペ禁止とか直リンNGとか言ってもどうせやるんだろうし。)

言いたいことは言いつくしたので、この記事に関し2ちゃんに反応することはありません、あらかじめご了承ください(笑)
コメント欄を使ってくださればレスしますので、そこんとこよろしくです。
未だにJW信者さん及び擁護派の方が輸血拒否の正当性について書いてらっしゃるようですので、そういう書き込みを見たらこの記事をコピペして貼ってあげていただきたく、ちょっくら書いてみます。

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1) 輸血をしなくても代替療法がある!

答え:代替療法とは具体的に何を指すのですか?それは輸血が必要な事態に100%対応出来るものですか? その方法はデメリットは全くないのですか?


2) 医療関係者は輸血しなきゃならない状況になっても輸血の危険性を知ってるから輸血しないと聞いた。

答え:輸血による感染症や副作用があることを言っているだけで、医療関係者が輸血を拒否し他の方法を取るとは聞いたことがありません。もし、患者には危険な手法しか提示せず、自分たちは安全な方法を用いるのであれば、それは完全にインフォームドコンセント違反になってしまいますが?


3) JW信者は輸血を拒否しているので守られている。

答え:血液分画製剤を使用したりその使用を推奨している事実があるので、そうとは言えません。グロブリン製剤やアルブミン製剤は献血によって集められた血液から作り出されているのです。しかも1単位の製剤のために多いものであれば数万人の献血者を必要とします。人間由来の血液なのに、感染症の危険性を避けることは不可能です。



フィブリノゲン製剤によるC型感染の感染症の話題は記憶に新しいところですが、JW出版物では止血に有効なものとして「フィブリン糊」を使うことが推奨されていました。手術の際の止血剤としてはごく一般的な製剤ですから、JW信者で手術を経験なさってる方のうち一定数の人は感染しているものと思われます。


4) 輸血によって病気になったり死んだりしている人がいるのは輸血が悪い証拠だ。

答え:輸血によって助かっている命の方が数万倍は多いと思いますが? 輸血後に副作用に悩まされることもあると思いますが、それは生きてるからであって、輸血をせずに死んでしまっては元も子もありません。


5) 輸血した方が簡単にすむので医者は輸血しているのだ!

答え:現在、日本では輸血の在庫が慢性的に足りない状況です。「血液が足りません、献血にご協力を!」というアナウンスを年中耳にします。そういう状況下で輸血した方が簡単だからという理由で輸血の準備をする医者は1人もいないと言って良いでしょう。医者ほど輸血の危険性を認識している人種はいません。その医者が「輸血がなければ手術出来ない、万が一に備えて輸血の準備もしておきたい」というのはそこまで状況が追い詰められているということです。輸血に代わる方法で済むのであれば、最初からその方法でやるわけですから。


6) セルセーバーを使えば無輸血でも手術に対応出来るはずだ。

答え:回収式自己血輸血にはデメリットもあります。


a、どんな手術にも対応できるわけではない。ガンなどの場合は不適とされています。
b、血液が薄まるので手術中の心拍が上がることにより、体力の少ない老人子供には不適。
c、回収した血液が全て返血されるのは手術後何時間も経ってから。手術中にすぐに返血出来るわけではない。
  (ヘモグロビン値は手術中ずっと低いままです。血液が薄まってるのだから当然なのですが)


7) 無輸血手術の方が術後の予後も良いと聞いた。

答え:血液中の数値として血中に含まれるたんぱく質の数値(TP)というのもあるのですが、無輸血手術で血が薄まってしまうとTP値も低いままですので、縫合不全を起こしやすいというのは言うまでもない話です。傷口が癒着しやすくなってしまうというのは明らかにデメリットであると言えます。


そもそも輸血を必要とする人は無輸血手術が可能な人と比べ状態が悪いわけですから、比較対象として適当ではありません。





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思い出したらその都度、追加していきますわ(笑)
特定の人を指して書くわけじゃないです、そして何かがあったからというわけでもありません。あくまで僕の中での持論というかスタンスみたいなものです。

ネット上やリアルでも現役信者さんと付き合いがあるわけですが、心許せるほど親しくなれないのはなんでかな?って話です。僕の方はご存知の方は分かると思いますけど、けっこう誰とでもみんな仲良くってタイプなんですよ。JW関係に限らず社会生活でもそうなのですが。

親しくなるためにはある程度は自分の心の内を話す必要が出てくるというかそれが当然だと思うのですが、離れた元信者に理解を示してくれる現役信者さんであってもどうしても越えられない壁と言うか一線がありますよね。

それが彼らの信仰なのだから仕方ないと言えばそれまでなんですけども、こちら側が譲歩しなければ友人として付き合えないというのは寂しいものがあります。

無理もないんです。彼らは「早くハルマゲドンが来て自分たちが救われればいいのに!」と思ってるんです。それが目の前にいて親しく話をしている友人の死を意味するにも関わらず、です。「こいつら早く死なないかな。」と心の奥底では思ってるわけです。もちろん彼らは考えにも及ばないのかもしれません。

そういう一線がある以上、ある程度は付き合えてもそれ以上は無理ってことなんですよね。


現役さんと話をしてると「信仰」って何だろう?ってほんと思いますね。僕らがJWの嫌な面だとか組織が人間的に運営されていることを指摘するとすぐに「いや、大事なのは神との個人的な関係なのだから」と耳にタコが出来るほど聞かされてるんですけども、本当に信仰があるんだったら批判的な意見を聞かされても全く動じることは無いと思うんですよ。それなのに、そういう話になりそうになると必ず「それ以上は聞きたくない」と言われたり、聞いてても心の中でシャットアウトしてるのか表情が能面みたいになっちゃうんですよね。人間としての対話が出来なくなることは信仰と呼ぶのなら、それはちょっと違うんじゃないの?と無神論の自分ですら思ってしまいます。


あと、これは愚痴というか僕の勝手な言い分なんですが。

JWであるがゆえに出来ない事がある場合に「クリスチャンとしてそれは出来ない」とか言うのは止めてほしいんですよね。エホバの証人=一般的な意味でのクリスチャン、ではありませんから。一般的な意味でのクリスチャンはキリストを神とし三位一体を信じる人のことですから、そういう要素が全くない以上は自分たちのことはエホバの証人(JW)と一貫して言ってもらいたいです。キリスト教会の肩を持つわけじゃないけど、JW以外の教会の人からしてみれば迷惑な話だと思いますよ。勝手に言葉の定義を変えられちゃってるわけですから。


信教の自由だとか思想の自由だとかはもちろんJW信者にもあると思います。だけど、それを声高に叫ぶのであれば自分たちの信仰を持たない人たちの信教や思想の自由を尊重しなきゃならんのじゃないですかね? 自分は尊重してもらいたい、でも相手のことは知らん、では通りませんです。JWを辞めた人に対しても同じように考えていただきたいです。あなた方がJWでいる自由があるのと同様に、僕らにも辞める自由があるわけです。それは対等な関係であって、「離れた人だからあの人は~~」と一瞬でも考えることがあれば、それは相手を尊重出来てないということになります。繰り返しになりますが、自分たちの立場を尊重してほしいのであれば、辞めた人達の立場も尊重すべきです。


別にとりたてて変わったことを言ってるつもりはないんです。ごくごく当たり前のことを書いてるだけです。もし、この記事を見て憤慨してしまったり「分かってないなこいつ」とか思ってしまった現役信者さんがいらっしゃるとしたら、その時点であなたの信仰も信条も外部の人間からは尊重されないものと思った方がいいです。


JW信者の信仰にケチつけてるわけじゃないですからね、そこは間違えないでくださいね(^^)