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魔が差した、で終わっても仕方ない──
はじめて翔の部屋に行ったのは、自分でも珍しいくらい捨て鉢な気分の夜だった。
その日は久しぶりの外食で、その頃雅紀にはどうしようもなく頭を悩ませている問題があった。
いわゆる付きまとい…それも、同性からの。
相手は顔見知り、というか、教育実習で訪れた学校の指導教員だったため、言い寄られた当初厳しく突っぱねることができなかった雅紀も悪い。
男にストーカーされているなんて誰にも相談できなかったし、恥ずかしかった。
はやく飽きてほしいと念じるばかりだったのだが願いも虚しく、
日を追う事に男はエスカレートした。
つけ回されるくらい我慢できると思ったが、行く先々で現れられては気味が悪い。
バイト先や自宅周辺であからさまに接触を図ってこられるのも恐ろしく、
(なんで…? 特別なことなんかしてないのに)
理由もないのに重い感情を向けられることが理解できず、苦しかった。
実家にも帰らず、バイトも休みがちになり、気づけば春休み中はほとんど家にこもっていた。
年度明け。
オリエンテーションを欠席した雅紀を不審に思い訪ねてきてくれた友人に問い詰められて、思い切って何もかも打ち明けたところ、
「馬鹿ですか? 貴方って人はホント昔から…」
ぶつぶつ言いながらも法学部の知人を紹介してくれるというので促されるまま三人で会った。
それが、雅紀と翔との出会いだった。
第一印象はベンチャー企業のブレーンみたいな底知れない鋭利さがあったけど、
飲んで話してみると気さくで、遠巻きに見るよりイケメンで笑いかけられるとドキドキした。
彼の伝手で法的措置をとってもらうことになり雅紀の悩みも早速解決。
一件落着するはずだったのだが…
「雅紀って、なんかちょろそうだから不安だな。
まだプラン練っただけで実働ゼロなんだから油断するなよ? 送ってこうか?」
「そうなのよ。もっと言ってやってよ翔さん」
「へーきだよ! もう、ふたりして…
バイト先寄ってシフトのこともお願いしてこなきゃだし、ひとりで帰れるから心配しないで。休み過ぎて金欠なんだよね」
意外とズバズバ物を言うし口も悪い。
外見とのギャップに驚かされっぱなしだったが、話しやすくて雅紀は翔に好感をもった。
問題解決の糸口を見つけて気の抜けた夜。
しばらくぶりにアルコールを口にして、浮かれてほろ酔いになった帰り道。
翔の言う通りだった。油断した…
繁華街で待ち伏せされて路地裏に引っ張りこまれるなんてことがまさか自分に起きるとは。
「や、やめ…けいさつに言いますよ…」
「おい、てめぇなにしてんだよ。離れろ!」
おっかなびっくり抵抗しても全く聞き届けてもらえない。
唖然として馬乗りになって喚いている男を見上げていると、颯爽と駆けつけた翔が目を見開き、男の首根っこを掴んで雅紀からぐいと引っペがした。
(う、うわぁ…ドラマみたいだ…)
雅紀を気にして追いかけてきてくれたらしい。
額には汗が浮かび、腰を抜かした雅紀を抱えてくれた腕は細いのにしっかり筋肉質で、縋りついたら春の海みたいな甘くていい匂いがして、
「はぁあ……ズルいよあれは。あんなことされたら絶対好きになっちゃうじゃん」
明るい店内にモップをかけながら、思い出を反芻して溜め息をついた。
降り止まない雨のせいで、訪れるお客さんの足はみんな揃ってびしょぬれだ。
拭いても拭いても床は滑るし悪天候で今夜の相棒は足止めをくらいワンオペになるし、踏んだり蹴ったりで深夜帯なのに忙しい。
店の外に立てかけていた笹も飛ばされかけていたので早々に回収した。
避難したイートインスペースの片隅で疎らに飾られたお願い事がカサカサ揺れて主張する。
(あれかも。心理学でやった吊り橋効果の)
口角泡を飛ばす男と蒼白な雅紀の顔から状況を悟った翔は機転をきかせたのだろう。
あの夜、あろうことか翔は男を見据え、雅紀をぎゅっと抱き締めて、
「こいつ、俺のなんで。怯えてるから追っかけ回すのやめてもらえます?」
──まさかの、恋人のフリ。
震える雅紀の肩を抱きよせて頬にちゅっとキスまで落とす。パフォーマンスが手馴れていて、なによりそこに衝撃を受けたのを覚えている。
その日は自宅に帰らない方が安全だということになり、念の為しばらく(非常事態で混乱していたがよく考えたら初対面なのにものすごく親切だ)翔のアパートに置いてもらうことになって幾数日。
狭いベッドで身を寄せ合う内になんとなく…
どういう流れだったのかは忘れたが、あれよあれよと体の関係までもってしまった。
「…こっちのほうが誰にも相談できないよ」
はぁ、とついた溜め息が明るいBGMと絶妙にそぐわず余計に落ち込んで項垂れた。
翔がどうかは知らないが、雅紀の中で、吊り橋効果の薄れる様子は未だない。
つづく