「名作」と呼ばれる作品を大幅リライトするのは、とても勇気のいる作業だと思います。
普通は中々できません、人は成功体験をなぞるものです。
オーバースマイルを過去に観てる身としては、本当に久保田さんという人は、恐ろしいほど客観的に自分の作品を観てるんだなと思いました。
新しい要素や、設定も加えながらも、かなり大胆にカットをしています。接続詞を少し変えたり、状況を変えたり、恐らく評判の良かったであろうシーンすらも排除して、物語の深度を大幅に深めています。
だから今回のオーバースマイルはとてもシンプルにしてディープです。
我が子の肉と骨をグラインダーで削るような苦しい作業だったと思いますが、僕は確実に面白くなっていると思います。
完璧なものとは、足すものでなく削るものが無くなったものを指す的な言葉があったような気がしなくもないのですが、まさにそれです。
その作家としての苦悩と矜恃と心意気、役者が応えんでどうする!!とメラメラしております。
より深く、いろんな可能性やら関係性やら日常性やらを考えてプランニングし、馴染ませて、そんでもってそいつを全部捨てて、新鮮に物語を体験せにゃいかんです。
稽古は馴染ませる為にやるものですから、何百回繰り返しても良いのです(僕の場合です)
台詞は何万回言っても大丈夫です。
台詞は言うというより磨くという感覚に近いと思います。
もう覚えたし、そろそろ飽きたなぁって思ってからがスタートラインです。
なぜかというと、人間は喋る前に「〇〇と言うぞ」とあまり考えません。
そういうのを考える時はだいたい、渡り廊下で告白したり、おっかない上司に遅刻を謝罪したりするときです。
普段は漠然とした意思(感情)があって、それに応じた呼吸や表情や身体速度の変化(動き)があって、言葉があるだけです。
心→体→言の順です。
それから、人間は会話の中で予測、発見、驚きを繰り返しております。リアルタイムにそれらを繰り返しながら会話をしています。
おかげで、日常生活での会話は基本的にとてもテンポよく行われます。
これが、お芝居となると頭の中でいろんな事を考えます。
次はこのセリフ、この位置まで歩いて、、こういう言い方がいいかな?など。
これら全て雑念です!!煩悩!!ファック!!
要りません!消え去れ!って感じです。
お芝居は、これら全ての事柄を無意識下で行うのが理想です。とっても難しいですが、理想はこれです。
(ここまでのブログを9月4日に書いたのですが、5日?か6日の稽古で、久保田さんが日常会話について、似たようなことを言及してて、このシンクロすごいなって思いました、刃牙最凶死刑囚編くらいのシンクロニシティですね)
つまり、何が言いたいかというと、自分でも何言ってんだかわかりませんが、何千回も言った台詞は、役の意思が無意識に反映されるレベルまで己の身体に染み込むということです。
あ、ここで大切なのは「言い方」を決めて練習してはならないということです。
相手の出方で話し方が変わるのは日常、当たり前に起きることなので、日常を再現するような台詞、状況であるならば、あくまでも役や台詞が持っている意図、意味、なんかそういう感じのやつをイメージしながらやります。
じゃないと機械みたいな台詞になってしまいます。
努力家で真面目な役者が陥る罠です。
(薔薇という台詞があるとして、真っ赤な薔薇をイメージして100回繰り返すのと、何もイメージせずに100回繰り返した場合だと、前者のほうが出来上がった台詞が肉感的になります)
ここまでで、台詞を反復することはなんとなぁく意味があるのかな?という気持ちになりますよね、なりましたね、なったとしましょう。
次は「発言する」ということがどいういうことであるかという話になります。
「台詞は言うものでなく、言わされるもの」という格言?もあります。
上のほうに書いた、予測、発見、驚きみたいなものが、台詞を言わせてくれるのです。
例えば
「昨日食べたリンゴが美味しくて食べすぎてしまった、まるで天使とダンスをしているような気分だったよ」
という台詞の次の自分の台詞が
「そのリンゴはきっと、恋をした天使のほっぺたが地上に降ってきたものなんだよ」
だったとします。
例文に愕然としないで読み進めてください、僕も自覚してます、愕然としてます、例文がうんこ。
続けます。
その場合、前の台詞のどの部分が台詞を言わせてくれるのでしょうか。
もちろん正解はありませんが、不正解はたぶんあります。
個人的には、全部聞いた後に言わされるのは不正解です。
昨日食べたリンゴ←頭にリンゴが浮かびます(発見)
美味しくて食べすぎた←美味しさを想像します(発見)
まるで天使とダンス←そんなに美味いの?と思ったりします(驚き)
をしているような気分だった←この部分は「しているような」まで聞けば「気分だった」は何となく予測できます(予測)
というようにリアルタイムで情報が高速処理されます。
全部聞いた後にリンゴを想像し始めるような事は、脳内では、基本的に起こりません。
少なくとも「そのリンゴ」は「昨日食べたリンゴ」と「天使とダンス」に言わされているのではないだろうか。
昨日食べたリンゴに興味を持たされ、天使とダンスに思考させられ、気分だった←の最中に、ある程度の喋るイメージを持ち、「そのリンゴ」に至ると。
こういった脳内の作業は言葉にするとめちゃくちゃ複雑ですね。
この複雑な作業を無意識下で行う、人間ってすげぇっていつも思います。
こんなスーパーコンピューターみたいな事を無意識下で再現することに挑む、「役者」というものがどれだけ難易度の高いものかということです。
きっと一生かかってもリアルさにおいては、日常会話には勝てません。
「台詞を言う」という事"だけ"でこれだけの複雑さです。
にも関わらず、お芝居にはこれ以外の要素がてんこもりです。
解釈、キャラクター性、状況、記憶、設定、仮定、推測、立ち位置、身体性、お客さん、向き、音響、照明、ちょっと考えただけでもこの有り様です。
これらにプラスしてもっとも厄介な壁「感情」というものが立ち塞がります。
感情というものが喜怒哀楽だけならば、お芝居はどれほど楽でしょうか。
感情は無限です。
まじで無限です。
なぜなら人生において全く同じ感情になることは絶対にありえないからです。
一瞬たりとも全く同じ感情というものはありません。
絶対です。
似たような感情が発生することはありますが、全く同じ感情が生まれることは絶対にありません。
あったとしたら、記憶喪失の人が全く同じ経験をした場合です。しかし、時間という概念上に生きる人間には、全く同じ経験という事象もまた起こりえません。
すごく簡単に言うと、同じ人にされた同じ行為に怒ったとしても、2回目には「またやりおった!」という記憶がプラスされてますから、更に怒ったり、諦めたりなんらかの変化があるということです。
感情は煙のように曖昧で、鉄のように硬く、四次元ポケット並の蓄積力を持っています。
人間が記憶する生き物である以上、感情には無限のバリエーションがあるわけですね。
青いもの←でイメージするものが、現在の状況や、読んだ時間、記憶、果ては交友関係その他で大きく変わるように、感情も無限に発生します。
更に!
更にです!!
この感情!!自分だけでも無限のバリエーションがあるのに、、
人によって違うのです。
もうなんか怖くなってきましたね。
役者とは無限に存在するいくつかの色の中から、その役や作品に合う(と個人、及び演出家が推測する)ものを使用して、絵を描く仕事なのです。
ここまで書いてきてアレですが、このブログなんなんでしょうね、僕もわかりません。
続けます。
感情の話はもはや意味不明なので終わらせます、強制終了です。
まぁとにかくアレですよ、なんやかんやでお客さんが喜んでくれりゃあいい訳です。
お客さんに喜んで貰うためにお芝居やってる訳ですから、役者が作る仮定で何を考えようが、観てもらって何かを持って帰るなり、その瞬間だけ楽しんだりしてくれればOKです。
ただ、なぜこんなブログを書いたのかというと、自分でもよくわかりませんが、今回のオーバースマイルは、頭がショートするくらい考えて稽古に臨む価値のある作品だということです。
僕はこの作品、大好きです。
初めて観る方、何度もオーバースマイルを観ている方、多くの方が楽しめる作品だと思います。
たくさんの人に観てほしい、たくさんのひとが楽しめる作品です。
こういう脚本、作品に関われて、とっても幸せです。
明日は最後の稽古!
頑張ります!!