母のこと 9 | あやちーゆるだらdiary

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自分の身の周りのこと、楽しんだこと、日々のぐちなどゆるくダラだらとかきつづってます。2011.11.17開始

12/7病状説明を受けた母は

血液内科へ転科し12/11から抗がん剤の治療を開始することになった。

 

12/8 電話とCメールで

「Fちゃんに会いたい」「電話がつながらないから連絡を取ってくれ」「最後のお願いだから」と連絡があった。

 

Fちゃんとは亡くなった妹の子のことだった。

私も数十年連絡をとっておらず、会ってもいなかった。

母も同様で数十年会っていないようだった。

 

なんでFちゃんに会いたいというのだろう

これが正直な私の気持ちだった。

 

母と父は

私たち姉妹と父の連れ子の姉と兄は私が20歳、妹16歳、姉27歳、兄23歳と大きくなってからの再婚だった。

その当時、姉は嫁に行って、兄は結婚直前で、私は寮生活を送っていた。

私は寮生活を送った後はそのまま家を出て、嫁に行ってしまったため、実家暮らしをしたことがないまま、今に至っていた。

そのため、接点もあまりなく

姉や姉家族のこと、兄夫婦のことなどは母を介して連絡をもらっていました。

連絡先を知る必要がなかったとも言えます。

 

母の入院を機に

姉と兄の連絡先を知ったのでした。

挨拶や会話はするけれど、家族として一緒にでかけるとか

全くしていない家族だったのです。

 

妹とは

妹が15歳の時に精神的に病んでからは

母が妹につきっきりになり

その様子を見るのが嫌で、高校をでて寮生活を始めてしまい、

距離をおくようになりました。

 

妹もその方がよかったみたいで

母を独り占めできたのです。

 

妹の母への依存は精神的な病が重度になっていくほど

強くなり

母と連絡がないと私のところへ

「母と連絡がとれないけれど、母がどこに行ったか知らない?」なんて電話が度々かかってくるほど。

 

妹と距離を置いたまま

お互いに仲がよくなることはなく。

仲良くなるように、悩んでいたものの

その溝をうめることはできなかったのでした。

 

妹の精神的な病は治ることなく、年々重度化していき

そして、妹は自ら命を絶ちました。

 

妹が母にとって特別だったように
妹の子のFちゃんも特別ように
私や私の子供にはそう見えました。
 
Fちゃんもおあばちゃんっ子で
母のそばを離れず
私の娘がちかよろうものならば
とても嫌がって、近寄らせないようにしていました。
何度、私の娘の口から
「Fちゃんがばあちゃんのところに行くと怒ると
泣きながら、抱き着いてきたことでしょう。
今でもFちゃんはおばあちゃんにとって
特別だからというほどに・・・・・・・。
 
何度も母に孫を平等に接してほしいと願っても
「Fちゃんはお母さんがいないから(妹がいないから)、仕方がないよ」と取り合ってくれませんでした。
 
私も私の娘もFちゃんにいい感情をもっていることなどなかったのです。
それは時が経ってもかわることがなく・・・。
 
そんな中での冒頭の母の願いでした。
 
なんで私が・・・
どうしてFちゃんと連絡を・・・。
母にとっての特別はやっぱり特別なんだ
どんなに頑張っても特別な存在に負けてしまうだ
そんな思いがグルグルと渦を巻く。
できれば関わりをもちたくなかったのが正直な気持ちでした。
 
 
私は母に対して「手のかからないいい子ちゃん」でした。
妹と逆に向くことで母の気を引きたかったのです。
長年続いた母に対しての「いい子ちゃん」は変われることなく、
「いい子ちゃん」だったのでしょう。
自分の気持ちに蓋をして
Fちゃんになんとか連絡をとれるようにし
12/17に面会できる手はずを整えたのでした。
 
12/17
Fちゃんと母に面会にいく。
だけど、母は血液内科に転科してしまったため面会ができませんでした。
血液内科は免疫が低下している患者が大勢いるため
原則的に面会禁止で、個室に入っている人とか病状説明などの特別な時しか面会できなかったのでした。
 
Fちゃんと面会できなったため
Fちゃんの姿を母の携帯で写真を撮り、
携帯電話越しに電話。
それしか、できませんでした。
 
それでも母は「ありがとう・・」と感謝の言葉を残してくれました。
 
家族の在り方ってなんだろう・・
と考えた一件でした。
 
母の命の火があとわずかだと知っていたら
もっとY家の中で
私と家族のパイプ役をしていた母の気持ちが理解できたかもしれません。
 
母の病状は刻刻と悪化の道を進んでいたのでした。

今回はちょっと独りよがりで、分かりにくい記事てすみません。
全部を書き切るには難しかったです。