32 真理の嘘を確信するー『良心の危機』を読む⑪  | エホバの証人(JW)について考えるブログ

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弁護士。元JW2世。1980年代後半13歳バプテスマ・90年代前半高校生で正規開拓者,18歳奉仕の僕・その後外国語会衆・一時的べテル奉仕・2000年代前半大学進学・自然消滅・JWと決別、その後弁護士という人生です。過去の経験を書き綴り皆さんとJWについて考えていきたいです。

前回の続きをもう少しだけ書きたいと思います。

 

繰り返しになりますが、『良心の危機』を読むことにより、「エホバの証人の教理の根幹が虚偽である」という事実を知ることで、私のエホバの証人教理への信仰は全てがオールリセットされました。

 

私は、「エホバの証人の教理が絶対に正しい」・「そしてその教理は古代史の証拠や現代科学のデータによって裏付けられている」と教えられ、そう信じていたのでこの教えを信じ、人生のすべてをこの教えに捧げていたわけで、

そうである以上、エホバの証人の教理が虚偽であり、しかも古代史の証拠や現代科学のデータはエホバの証人教理を一切裏付けていないと知ったからには、この教えを信じる理由が全てなくなりました。

 

これは少なくとも自分にとっては論理的に考えて明白な結論でした。

 

もちろん、「教理の正しさ」以外にも、兄弟姉妹との人間関係や、エホバの証人としての活動に身をささげていた時に得ていた満足感などもまた、エホバの証人活動を続ける動機になっていたのですが、これらほかの要素もすべて、つまるところは「教理の正しさ」を出発点としており、教理が虚偽なのであればそれに付随するこれら別の要素もまた間違った方法での満足感を与えるものであり、むしろ誤ったものであると結論付けざるを得ませんでした。

(また実際に、「教理が間違っているとわかりながらエホバの証人組織にとどまってほかの兄弟姉妹を励まし、その人たちとの交友やその人たちからの称賛を求めること」・「教理が間違っているとわかりながらほかの人に宣べ伝え、教える活動に参加すること」は、あまりにも偽善的で、エホバの証人の罪に加担する側になることであり、到底できないと少なくとも私個人は思いました。)

 

中の人たち、そして中の人たちとの交友がどんなに魅力的であったとしても、ニセの教理に立脚した人間関係なのであれば、どんなに痛手があってもそこを出ないといけないと思いました。

また、そうしたものは、一人の人間として自分らしく一般社会で生き抜いてゆけば、また別の新しいもの、今度は「ホンモノ」を自分で手にできるであろうし、本来人間はそのようにして生きていかなければいけないと、私はその時に思いました。

 

私がエホバの証人をやめた当時、「エホバの証人組織が間違いだというのであれば、私たちはどこの組織へ行けばよいのか」という趣旨の質問がネットでよく見られましたが、エホバの証人の教理が虚偽である以上は、「どこかの正しい組織に属さなければならない」という発想自体も「そもそもエホバの証人が植え付けたもの」であって、そうした考えもオールリセットされるべきではないかと、当時の私は判断しました。

 

「エホバの証人は間違いだとしても、聖書自体は否定すべきではないのでは」という意見もネットでよく目にしました。聖書についての考えは様々で、そうした様々な考えを否定する気持ちは全くありません。すべての考えは、人に害を及ぼさない限りで尊重されるべきです。

ただ少なくとも当時の私は、エホバの証人の教理が虚偽である以上は、「聖書が絶対の導きである」という発想自体も「エホバの証人が植え付けたもの」、そして「エホバの証人がほかの人の人生をコントロールするために使っていた単なる道具」であって、「聖書が絶対的に正しい」という考えもオールリセットされるべきではないかと判断しました。そして、今もその考えは変わりません。

 

こうした点で、「北広島会衆事件」に巻き込まれた人の手記を読み返すと、本当に心が痛みました。

https://www.stopover.org/lib/Kanazawa/index.html#jikenbo

この方たちは、「エホバの証人組織は完全におかしい」と体感し、確信しながらも、しばらくの間は「エホバの証人から教えられた、その『教え』の発想」の中でその事実を理解し、それに対処しようとしたために、非常に混乱した心理状況に長い間置かれ続けていたことがまざまざと伝わってきました。

 

自分はエホバの証人教理そのものが根幹から間違っているのだと理解しましたが、それと同時に、その教えから植えこまれた発想や考え方も一から連鎖的に覆されてゆくはずであると判断し、まさにゼロからオールリセットすることが人生のやり直しの上で重要なのではないかと思いましたし、そうした意味で、そのように判断する決定的な契機を与えてくれた『良心の危機』に出会えたことは幸運であったし、本当に感謝するべきであると思いました。

 

もちろん、排斥や断絶などの強硬手段をとらずに、信者である家族や友人と一定のコンタクトをとるパイプを残すことも1つの賢明な方法であるとも思います。

排斥や断絶といった「手続」そのものがエホバの証人組織の生み出したものですし、こうした強硬手段をあえて自らとることにより家族やかつての友人・知人と連絡が取れなくなることは、エホバの証人が「排斥・断絶」というシステムをわざわざ作りだして発展させてきたその彼らの目論見に自分自身が乗ってしまうことにもなりかねないと考えるからです。

(当然のことながら、一方的に排斥されてしまった人や、十分な情報を得られない状態で断絶した人について何かを言っているわけではありません。エホバの証人教理が虚偽だと気づき、この組織との関係をどうすべきかを考え、自分で選択肢を持てる場合についての一意見ですし、さらに言えば、そうした状況にあってなお排斥や断絶を選択する人がいるとして、その選択は別に誰からも非難されるいわれは全くないと思います。情報を得た上で、そして自分で考えた上で決定をするのが望ましいと思う、という単なる個人的意見です。)

こうした理由から、私は自然消滅という手段を選択しました。

 

いろんなことを書きましたが、結論として、私は『良心の危機』を読むことで最終的かつ決定的に、エホバの証人教理と決別することができました。これは、ちょうど大学2年生の終わりごろであったと思います。

 

追記:

私がこのブログを書いている目的は、「自分自身が実際に見聞きし、経験したことを再現すること」、そして、「その時その時に自分が感じたこと、考えたことを再現すること」です。ですので、今回のブログにも、自分が当時感じ、考えたことをそのまま書きました。

あまりに当然の話かもしれませんが、自分には、エホバの証人の真実に気づいた方で、自分と違う経緯をたどった方や自分と違う決断をした方の生き方について何か意見する気持ちは全くありませんし、当然そうした立場にいるわけでも全くありません。現役を続けようがエホバの証人をやめようが、排斥されていようがいまいが、断絶していようがいまいが、個々の人のそれぞれの判断または個々の人の置かれたそれぞれの個別の状況によってたどってきた経緯は、ほかの人に何か意見されるものではないと思います。