「統一教談義」1 ~ ステラ注目記事!【goutさんの記事全面掲載】 | 神様と共に

神様と共に

統一教会の元シックです。
統一教会では私の神様に出会いまいた。
神はいつも私と共におられます。


明けましておめでとうございます。
昨年同様 本年もよろしくお願い致します。

さて、新年早々ではございますが、
ご紹介したい記事が目についたのでアップすることに致しました。

ご紹介したいのは
goutさん 「統一教会談義」 の記事です。

導入部分の goutさん の意見に共感したので是非多くの方にご覧頂きたいと思いました。

特に冷静な目、広い目を持って、「統一教会」を見る一助になると思われます。

熱烈な信者の方も、「反対派が言うことなど知る必要はない」ということで片付けては勿体無いと思われます。

こういう見方もあるのだということを知るのもよいのではないでしょうか?

そして、ご自分の教団についてじっくりと考えることも必要ではないでしょうか?

長いので2回に分けて記事をアップ致します。

「統一教会 批判・告発」 の記事の中に埋もらせてしまっては勿体無い記事です。

 goutさん
の記事を ここに全面掲載させて頂きます。

                             by ステラ

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いつも私の隣に献金FAX

goutさん
の記事

再掲「統一教談義」 (拡散希望)1
http://ameblo.jp/5200043/entry-11438658200.html


~以下、全面掲載始め~

再掲「統一教談義」 (拡散希望)1


 一年以上前に転載させてもらった「統一教談義」を再掲する。
「統一ブログ村」で行われている論戦も突き詰めてみれば、この「統一教談義」
にでてくる「責任論」が不在であり、なんら新鮮味がないからだ。
 
 結局のところ、「私たちは神側で正義である。お前たちが悪いから悔い改めろ」の応酬
であり数千年続いた宗教戦争、宗派対立を踏襲しているに過ぎない。
 
 本来、再臨主とはこのような不毛な対立を止揚するために現れるべきではないか?
 文教祖を再臨主として信じているがゆえに統一信者内で対立を起こしている
矛盾性にきづかないのだろうか?

 結局のところ、無責任な自称再臨主は火種を残して逝ってしまった。
現世での「救い」は放棄したようだ、死後の「救い」を担保にするだけ
なら文教祖の意義は何もなかったことになる。

 私は多くの人にこの「統一教談義」を読んで欲しい。
従って、「統一村」でも拡散してくれるように望む。

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昨日、私を含めた元統一教会員及び休眠中の教会員3人で、統一教会のについて議論をする場がありました。本来の目的は別件で、仕事の話をするために私が二人を紹介したのですが、当初から統一教会の話で盛り上がり、結局、気づいたときには約5時間も熱い議論を闘わせていたのでした。

その議論の中で、私自身も以前から漠然と考えていたことが明確になり、統一教会もしくは文鮮明氏についてどう向き合うかという点について、誰も拒絶できない、しかし、特に統一教会なり文鮮明氏なりを擁護する立場の人が意識的・無意識的に目をそらしている問題が整理されましたので、 今回はそれについて書いてみたいと思います。

昨日の参加者は、年齢順に次の通り。


A氏……統一教会に対する立場は、現実の教会組織は間違っているが、教えと文鮮明氏は正しい(だろう)というもの。組織が間違ったのは、弟子(幹部)が文氏の教えを誤解・曲解したためとする。教会に依存するのではなく、自分自身が文鮮明氏の御言の中から教えの真意を探り出し、実践して、その実態になっていかなければならないと考える。文氏が本当に正しいかという点を突っ込むと、文氏が本当に自分が言っている内容を完成しているかどうかはわからない、むしろ完成していないかもしれない、ただ、それに向かって実践していると信じるという立場。

B氏……統一教会に対する立場は、教会組織は間違っており、それは教えと文鮮明氏が間違っているからであるとする。教会内部の矛盾について悩み、いろいろな先輩や先生に聞いたが、誰も納得できる答えをする人がいなかった。ある時、ふと気がついて、もしかして根本がインチキであればと考えると、すべてがつじつまがあった。未だにそれを論破できる人に会ったことがない。組織が間違っているのは、確かに幹部に責任があるが、それをそうさせたのは文氏である。文氏と教えがインチキだと考えるのが、もっとも合理的だとする。

私………統一教会に対する立場は、教会組織は間違っており、文鮮明氏と教えも間違っているとする。ただし、組織の間違いは、必ずしも文氏と教えの間違いに由来するだけではなく、幹部の誤解・曲解に基づくところが大きい。とはいえ、文氏と教えに問題があるので、そもそも誤解・曲解がなかったとしても、行き詰まるであろうことは間違いない。だから、妥協なく文氏の教えを実践すれば、自ずから限界が来て、問題が明白に自覚するだろうから、無理に間違いを指摘するよりも、正しく実践する手助けをしたほうがよいと考える。

いわゆる文鮮明氏に関わるスキャンダルといわれるもの(文氏の出生に関する問題とか、日本留学時の問題、私生児の問題など)については、私とB氏は積極的に認め、A氏も大筋では存在を認めました。特に出生の問題(本当の父親は誰か)については、ほぼ見解が一致しました。

むしろA氏は、教会幹部が、自分たちはその事実を知っていながら、公式的にはそれを否定し、信者は無知な状態に置いておけばいいとしている現状については極めて批判的でした。それは、幹部が信者をコントロールするための都合しか考えていないというわけです。

ただし、そういうスキャンダルといわれるものは統一教会の根本的な問題ではなく、それを根拠に否定するというのは間違っているという点でも一致しました。

では、何についてそれほど熱い議論になったのかというと、「責任」という問題です。

統一教会は80年代から、信者に借り入れをさせて献金させるということを始めました。A氏によれば、80年代の終わりの時点で、その残高が約3000億円あったというのです。その後、残高が減るような返済はしていないということを考えると、たぶん、現在では十数兆円に膨らんでいるのではないかという恐ろしい話です。当然、教会員では自己破産が相次ぎ、中には自殺者も出ています。

幸せになるために入ってきたにも関わらず、不幸の極限に追い込まれているわけです。

この問題について、A氏が文鮮明氏の言葉を調べたところ、「借金をしてまで献金をしようとする心情はすばらしい」というようなことは言っているが、「借金をしてでも献金をせよ」というようなことを言ったという証拠はないそうです。

つまり、「借金をしてでも献金をせよ」というのは、当時(今も復活したそうですが)経済の責任者であったF氏が勝手に捏造した言葉であって、むしろ80年代に、F氏が借金をさせて献金を集めていたことについて文氏から叱責されたが、それをF氏が黙殺した事実もある、というのです。

A氏の見解によれば、文氏が人と金を集めよと言うのは、自分の教えを実践して、周囲の人々に対する愛を実践し、自分自身がそれらの人からメシアのごとき存在として認められるようになれば、自ずから人も金も集まるようになるから、それによって献金をせよと言っているのだというわけです。

※これは、確かに文鮮明氏の教えにはそういう内容があります。で、私もそれが本来のあり方だと思いますし、統一教会で実践をするなら是非そうしてもらいたいと思うわけです。ただし、統一教会の教えでは行き詰まりが来るだろうとも確信しているわけですが。

ですから、現在の統一教会の惨状は、弟子たちが文氏の教えを正しく理解して実践しなかったため、統一教会的に言えば、教会自体がサタン圏になってしまっているところに問題がある。教会の中にいてはそのことに気がつかないので、外に出た人間がコツコツと実践していくしかないと主張するわけです。

これに対して、B氏が猛烈に反論したのが「責任」という問題でした。そして、それを突きつめれば、文氏は最初から責任を取るつもりなどなく、詐欺を働いていたと考えるのがもっとも合理的だ、つまり文氏の動機に問題があるはずだとするわけです。

一方、私の主張は、B氏と同じくもっとも重要視するのは「責任」の問題ですが、むしろ動機に問題を置くより、どう責任を取ろうとしているかに注目すべきだという考えです。つまり、責任の取り方によって本物か偽物かが決まるのであって、その意味では最終的結論は出ていないとするべきだという立場です。

これらの論の詳細は次回にまわします。
前回は、A氏が、統一教会の問題は、文鮮明氏の弟子たち(つまり統一教会の幹部たち)が、文鮮明氏の教えを理解せず、自分に都合よく誤解・曲解することによって、教会をサタン圏にしてしまったことにあるという主張をしたところまで書きました。

つまり、A氏の主張では、文氏及びその教えは正しいが、幹部がそれを理解していないために、組織はまったく間違ったものになった。教会員が教会に失望するのはしかたがないが、それが文氏や教えの間違いにつながるとはいえないという立場です。

それに対して、B氏が猛然と「責任」という観点から反論し、私もやや違う立場から、同じく「責任」の問題を論じました。

まず、B氏は自分がもともと統一教会や文鮮明氏に懐疑的だったわけではなく、人並み以上に理想に燃え、『原理講論』も42回読み、御言も読んで、言われることを実践し、納得ができないことは教えを請うために人を求めていったという歩みがあったことを最初に断りました(確かにそれは私も知っており、初めて出会った頃は信じたい心と信じられない心が葛藤している最中でしたが、それでもかなり熱心で真摯な信仰を持っていました…それだけに葛藤も大きかったのでしょうが。その後、統一教会はインチキであるというスタンスが明確になっていきました)。

わからないことがわかるようになると、そこからさらに大きな疑問が生じてきます。それが解決すると、またさらに大きな疑問が起きます。しかし、教会内部で質問すると、「それは考えてはいけない」という回答が返ってくるというわけです。教会の幹部たちは、自分も信者も思考停止状態に置くことによって、組織を維持しようとしていたからです。

※私は、そればかりではなく、単に幹部たちにもわからず、答えようがなかったという要素も大きいと思います。そもそも、統一教会の教えは俗諦レベルにとどまるものですから、その範疇を超える問題には答えようがありません。ただし、俗諦レベルにとどまるからこそ、一見わかりやすく、もっともなもののように見えるわけです。


しかし、B氏はそれでも追求を続け、教えの整合性を維持しようとしているうちに、ふと、もしすべてがインチキであったと仮定したら…ということを思いついたのだそうです。そして、恐る恐る「すべてがインチキである」という前提で考えると、見事にすべてのつじつまが合ったというのです。

続く

~以下、掲載終わり~

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これをお読みになり、皆様方は如何お感じになりましたか?
次に2つ目の記事が続きます。
お楽しみに♪

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