ニューヨーク点描 第10章 ~ホテル・ペンシルバニアにて~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

地方出身者がニューヨークの街に放り込まれて戸惑い、しかし自分なりの特技やノウハウを生かして大活躍する、という映画やドラマは少なくない。

僕の記憶に印象深いのは、クリント・イーストウッドの映画「マンハッタン無宿」である。
アリゾナの保安官代理が犯罪者の受け取り・護送のためにニューヨークにやってくるストーリーだ。
「ダーティハリー」を製作したイーストウッドとドン・シーゲル監督コンビの第1作で、後に同じような設定で、デニス・ウェーバー主演のテレビドラマ「警部マクロード」となって放映されている。
「刑事コロンボ」の後継番組として放映され、子供の頃の僕はコロンボより好きだった。

テンガロン・ハットに爪先の尖ったカーボーイ・ブーツを履いている、イーストウッド扮する保安官は、ニューヨークで会う人ごとに、

「テキサスから来たのかい?」

と聞かれ、うんざりした表情で、

「アリゾナ」

と答える。
タクシーを降りるとき、料金を言うタクシー運転手に、

「ところで、ブルーミング・デールっていうデパートは、この街に何軒ある?」

と何気ない口調で聞くイーストウッド。

「1軒ですよ?」
「その前を2回通ったぞ」

ぼったくりタクシーだったのである。
そんな気の利いたやりとりも楽しめる、良質のアクション映画であった。

学生時代に観た映画「クロコダイル・ダンディ」も、面白かった。
オーストラリアの原野で案内人をしていた、ポール・ホーガン扮するダンディが、女性新聞記者の誘いでニューヨークにやってくる。

雑踏の中を歩きながら、すれ違う人全員に、

「Good Day!」

と挨拶するダンディの姿 (オーストラリアでは「グッダイ」と発音するらしい)は、微笑ましかった。
見知らぬ人には挨拶などしない、都会のクールさを表現したかったのかもしれないが、僕の印象に残っているのは、ニューヨーカーも、3人に1人くらい挨拶を返していたことである。
東京だったら、どうだろうか。
石を投げて見事命中させ、まるで狩りのように、ひったくりを捕まえるシーンなども、拍手喝采した。
ラストの地下鉄での、群衆の伝言ゲームによる求愛シーンでは、人間だってなかなかいいものじゃないか、と、心がほのぼのする映画だった。

のんびりした時間が流れていたオーストラリアでの大自然のシーンから、ニューヨークの雑踏に切り替わる場面の、一瞬の転換が印象的で、BGMも、のびのびとした曲調から、いきなりビートが効いたリズミカルな曲に変化したことを、今でもハッキリと覚えている。

ワシントン発のAcela Expressを降り、ニューヨークのミッドタウンにあるペンシルバニア駅を出て、いきなり目まぐるしく殷賑な街角に飛び出した僕の脳裏には、「クロコダイル・ダンディ」の、そのシーンと音楽が浮かんでいた。
果たして、太平洋の反対側、東洋の島国から来た僕らは、アリゾナ出身の保安官代理や、オーストラリア出身のダンディのように、機転を利かせながら、うまく世渡りをしていけるのだろうか。

ペンシルバニア駅は、マディソン・スクェア・ガーデンの地下にあり、僕らが3泊する予定のホテル・ペンシルバニアは、マディソン・スクェア・ガーデンとは7th Ave.をはさんで、向かい側にある。




ホテルは1919年に建てられたいかめしい造りの古びたビルで、エントランスに円柱が立ち並び堂々とした風格のある外観である。
玄関のハザードの上には大きな星条旗が翻っている。

狭っ苦しい回転ドアをくぐると、天井が低く、薄暗い照明に少しばかり入るのをためらう第1印象だけれども、ロビーには常に人が行き交い賑やかな活気ある雰囲気だった。
週末の夜でもあり、ちょうど、夕方のチェックイン客がピークを迎えている時刻なのであろう。
現地ツアーなども、このホテルを集合場所にしているものが多い。

「Hello!」

と、フロントに立つ女性係員に声をかけ、持参した英文のチェックインの書類を差し出す。
僕らが予約したのは3泊4日の素泊まりだった。
フロントの女性は、ニコリともしなかったけれど、仕事ぶりは非常にテキパキした印象を受けた。

アメリカで、愛想笑いに出会うことはない、という状態には、もう慣れっこになっていた。

確かに、愛想笑いに何か意味があるのだろうか?──

愛想笑いが、本当に人間関係を潤滑にするのだろうか?──

そんな風に、我が身を振り返ってしまうようになっていた。
愛想笑いでも必要、として、お互いに無言のルールを共有できるのが、アジアやヨーロッパなどの古い国々の歴史が培ってきた、不文律なのであろう。
一方で、不必要な行為はしない、する必要もない、という乾いた即物的な風習は、人工国家アメリカの、若さ故だろうと思う。
司馬遼太郎氏は紀行文「アメリカ素描」の中で、前者を文化、後者を文明と分類して対比していた。

察しろよ、空気読めよ!

という文化と、

言わなきゃわからないよ!きちんと本音を言えよ!

という文明との違いである。
慣れた者にとって、文化は心地良く、また安心できる。
だからといって、アメリカに来てから、物事がスムーズに進まなかったことはなかった。
何らかの手違いで予約が取れていない、などという事態を、密かに怖れていたが、パスポートを提示したくらいで、あとはどのような会話をしたのかはっきり覚えていないほどスムーズに、チェックインの手続きは終了し、古びた鍵を渡された。

部屋は8階の820Aだった。

ホテル・ペンシルバニアは21階建てで、客室の総数は1698室にも及ぶという。

人混みをかき分けるように、入り口で警備員が目を光らせている、フロントの脇のエレベーター・ホールに行けば、エレベーターが両側に合計10基も並んでいるから、長く待たされることはまずなかった。


エレベーターの行き先を押すパネルにはぎっしりとボタンが並んでいて、老眼の僕は、行き先階を探すのがひと苦労である。

エレベーターに乗り合わせれば、見知らぬ間柄でも、必ず、

「Hello!」

「Hi!」

「Good evening!」

と、笑顔とともに短く挨拶が交わされるアメリカの風習を、僕は好きになっていた。
心と裏腹、という可能性もある、上辺だけの愛想笑いではなく、その人の好意を表すきちんとした笑顔だと感じた。

8階に上ると、エレベーター・ホールの左右に長い長い廊下が続いている。


大袈裟でなく、突き当たりの壁が霞んでみえるくらいだった。

自販機が並ぶ小部屋のすぐ向こうに、820号室があった。
鍵を当ててみたけれど、合わない。

「あれ?あれれ?ダメだな、こりゃ」
「逆さじゃない?」
「逆さにも入れようとしてみたけど、入らないよ」
「ここ……820号室だよね」
「うん、ドアにそう書いてある」
「鍵には820Aって書いてあるけど……」
「そんな、ややこしい部屋が、別にあるのかな? 820階のA号室、とか?」
「まっさかあ!どんなビルなのよ!」

笑い出した妻と一緒に、もう少し廊下を奥に進んでみたら、突き当たりにも左右に連なる廊下があり、左へ折れてみれば、突き当たりも突き当たり、エレベーターから最も遠い1番奥の部屋に、目指す番号札が貼られた部屋があった。

820A号室──

今度はスムーズに鍵も入った。

古びた木製とも思えるようなドアを押し開けて入ってみると、

「うわあ、クラッシック!」
「ほお!」

広々として、かなり幅広のダブルベッドが1つ置かれた、シンプルなつくりの部屋が現れた。
ベッドのクッションはくたびれておらず、枕はフカフカ、シーツは清潔である。
対面には古風なテーブルやタンスといった、家具が配されている。
照明は最小限で、部屋全体を照らす明かりはなく、テーブルとベッドサイドのランプのみで、薄暗い感じだった。
窓は大きく、外を見下ろせば、ビルとビルの合間に人や車が行き交う7th Ave.が、明るく見下ろせた。



隣りの洗面室は、客室と同じくらい面積があるんじゃないかと思えるくらい、だだっ広い感じのする、機能的なつくりだった。
日本のホテルだったら、このスペースをせいぜい1/3にするであろう。
手前の洗面台と、その隣りの便器が、室内にポツン、と放り出されているような印象である。
どうして、洗面所がこんなに広くなくてはいけないのだろう、と戸惑うくらいなのだ。

銀色に光る、少しばかり錆びた蛇口の懐かしい形には、子供の頃の日本の蛇口を思い出した。
いつの間にか、日本の洗面台から、捻る形の蛇口は消えてしまったな、と思う。
奥の浴槽は、幅と深さは日本とあんまり変わらないように見受けられたが、長さは日本の1.5倍くらいあり、身長175cmの僕が悠々と寝そべることができた。

シャワーや、浴槽に湯だめする蛇口も、緑青こそ吹いてはいなかったけれど、かなり古びていた。

まるでアンティーク・ショップにいるようなペンシルバニア・ホテルの1室だったが、電話やテレビ、ラジオ、ヘアドライヤー、アイロン、アイロン台、エアコンといった基本的な設備は完備されていた。

空調装置は窓際に置かれていたが、こちらも20~30年前に回帰したかのような代物である。
温度設定のつまみが72~87度に設定されていて、あれ?華氏でこの温度って、摂氏何度なんだろう? と迷ってしまう。

ネットで調べてみようと思ったけど、考えてみれば、ここは日本じゃないのでスマホのネット検索は全てアウトだった。
外国でネットが可能な設定には、していなかった。
電話はできるのだが。

この文を書きながら改めて調べてみると、華氏72度は摂氏22.2度、華氏87度は摂氏30.6度であるとのことである。
でも、その時はそんなことはわからないので、カンで温度調整をすることにした。

ちなみに、ペンシルバニア駅とマディソンスクェア・ガーデンの出口には温度を示す電光表示があり、だいたい、華氏40度前後を上下していた。
摂氏にすると4.4度である。
北海道と同じ緯度のニューヨークの11月下旬は、寒いの一言であった。

物珍しさも手伝って、しばらく部屋の中をあちこち吟味して回ったが、それでも、身体を思いっきり伸ばせるベッドがあり、荷物を解ける部屋でくつろげるしのは、本当に安心できる感覚だった。
はしゃいで、枕投げでもしたい浮かれた解放感である。

「いい部屋だよね!落ち着けるし」
「うん!さあ、ゆっくり休みなよ」

早速、妻は、着替えがてらシャワーを浴び、ベッドに潜り込んだ。
間もなく、すうすうと寝息が聞こえた。

羽田からJFK空港まで直行して、そのままワシントンを往復してきたのですから、本当に疲れたことであろう。

もう、そのような強行軍の予定はない。

僕は、と言えば、なんとなく心の高ぶりが抑えられない心地で、そっと部屋を出た。
エレベーターホールの手前の自販機室を覗いてみると、売っているのはドリンクとアルコール、そして隣りにはスナック菓子が並んだ自販機だった。
無料の製氷機もある。


エレベーター・ホールからは、ひしめき合って高層ビルが林立するニューヨークの夜景が見渡せた。

東京をはじめとする都会のほとんどは、ガラス張りの近代的な高層ビルが主体だけれど、ニューヨークは地震がない地域だから、石造りじゃないか、と思うほど、古びて風格のある建物が少なくない。
このホテル・ペンシルバニアも、そうなのだ。
とにかく、建物の密度の高い街、という印象である。




エレベーターを降りて、相変わらず賑わっているロビーには、お土産物や小物を販売している店舗が2つと、清涼飲料やお菓子を販売しているコーヒー・スタンドがあった。
そこで1ドル60セントのホット・コーヒーを買った。

「Milk?」
「No,Black please.Thank you」
「You are welcome」

ニューヨークのどの店でコーヒーを買っても、ミルクを入れるかどうかだけを聞かれた。
シュガーは自分で入れろってことなのだろう。
小さな飲み口が開くプラスチックの蓋がついたカップコーヒーをすすりながら、回転ドアをくぐって外に出てみれば、身を切るような冷気と、耳をつんざくような車のエンジン音と警笛が、僕を一瞬に包み込んだ。

アメリカは日本と違って、建物内に、喫煙場所は絶対にない。
空港でも駅でも、ホテルでも、例外はないようだった。

だから、羽田を出発前に一服つけてから、ワシントンのホワイトハウスの近くで地下鉄を出るまで、十数時間、1本も吸えなかった。
ワシントンのユニオン駅から、ホテル・ペンシルバニアまでも、禁煙状態を強いられた。
もちろん、妻と宿泊するホテルの部屋では、たとえ喫煙OKでも吸わないけれど、しかし、ガイドブックには、外で吸う分にはとがめられないと書いてあった。
事実、ホテルにも喫煙室などはなかったが、玄関の両側には灰皿が置いてあり、何人かが紫煙をくゆらせている。

僕は持参の携帯灰皿を手に、少し離れた太い柱の合間の壁に寄りかかって、一服した。
これから3日間、この場所が僕の定番の憩いの場所となった。

街はすっかり暗くなっていたけれど、7th Aveを行き交う人の流れは途切れることがなかった。



ひっきりなしにクラクションを鳴らしながら、渋滞をすり抜けていくイエロー・キャブの多いこと。
道を走る車の2/3はイエロー・キャブのように見える。

1915年に、遠くから最も目立つ色が黄色である、という理由から、タクシーを黄色に塗装したのが、イエローキャブの起源だという。
現在、約1万3000台のタクシーがニューヨーク市で登録され、車体を黄色に塗ることが義務づけられている。
テレビなどでお馴染みの、アメリカの典型的なセダンともいうべきフォード社の「クラウン・ヴィクトリア」や「エスケープ」が大半を占めているが、トヨタ「シエナ」や「ハイランダー」「プリウス」も、決して少なくない比率で混ざっている。

僕らがワシントンで乗ったタクシーは、もちろんイエローキャブではないけれど、「クラウン・ヴィクトリア」だった。
この車種を見かけると、ダッジ・ブランドの車などと並んで、ああ、アメリカ車だなあ、という感慨を抱いたものだった。
しかし、ニューヨークのタクシー業界にまで、日本車がどんどん進出しているとは思わなかった。
2011年には、イエローキャブの標準車種として、日産「NV200」が選出されている。

なお、ニューヨークのタクシー運転手の8割がアメリカ国外の出身者だと聞いた。
カリブ海諸国や南アジアの国々の人間が多いという。

イエローキャブといえば、思い出すのはロバート・デ・ニーロ主演の映画「タクシー・ドライバー」である。
不眠症だからとタクシー運転手になり、都会の片隅で徐々に狂気を帯びていく若い主人公の物語は、迫力と説得力があったけれど、怖すぎて、おそらく2度と見られない映画の1つになってしまっている。
ニューヨークが恐ろしい犯罪都市、という概念は、あの映画を観てから、培われてしまったようにも思う。
ニューヨークのタクシーが怖い、という思い込みも。

しかし、こうして、実際にペンシルバニア駅付近にたむろするタクシーを観察していると、ニューヨークのタクシーは、怖いというより、やかましい。
街路いっぱいに響き渡るクラクションの殆んどは、イエローキャブが鳴らしているものだった。
じっくりと見ていると、客を乗せているタクシーは、滅多にクラクションを鳴らしていない。
空車のタクシーばかりが、まるでクラクションで他の車と会話をしているかのように、または音楽として楽しんでいるかのように、パッパカパー、と鳴らしまくっている。
必ずしも、他の車に威嚇したり警告を発しているばかりではないのではないか、とすら思ってしまう。

前方に少し身を乗り出しながら、勢いよくハンドルの中央を叩いている黒人の運転手などは、まるでドラムを演奏しているかのようにリズミカルな仕草で、絵になっていた。

ワシントンでも経験したように、割り込み、幅寄せ、二重駐車などは当たり前のようだった。
譲り合いの精神で事故防止、などという日本とは、自動車文化が全く異なるのだ。

目の前の歩道を行き交う人々は、帰り道を急いでいるらしいビジネスマンや、寄り添って語り合う恋人たちなど、その顔貌は様々ながら、日本と変わらない。
イヤホンを当てて、全身でリズムを取りながら歩いている黒人男性などは、映画の中から飛び出してきたように、個性的である。
集団で、大声を上げて談笑しながら歩いてくる男性たちも、1人で脇目もふらず足早に先を急ぐ若い女性も、みんな、歩道のど真ん中を闊歩している。
東京の雑踏のように、人の波の中に自分を溶け込ましてしまおう、自分の存在を消してしまおう、とでも言うような、消極的な姿勢は全く見られない。
顔をうつむかせることなく、自分の目的地に向かって、一目散に、堂々と、真っ直ぐ歩を運んでいる。

道を歩く権利を、当然のごとく主張するかのように。

または、都会で生きる自分の存在をアピールするかのように──。

この街では、自分を主張し、気持ちをさらけ出すことが自然で、恥ずかしくも何ともないことなのだ。
そんなことを、まざまざと実感した、寒風吹きすさぶ、華氏39度のホテル・ペンシルバニアの玄関先だった。


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