東京-米原-金沢-長岡-上野 楕円を描く北陸大回り ~そして北陸鉄道石川線雪景色~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

今年の3月の初め、福岡の仕事に行く途中に金沢を経由した数日後に、再び金沢へ行くこととなった。(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11867332936.html

仕事を終えてから東京駅へ向かう時には、とっぷりと日が暮れていたが、自動券売機の前で、ちょっと逡巡した。
上越新幹線の越後湯沢から北越急行へ乗り換える北回りで行くか、東海道新幹線の米原から北陸本線へ乗り換える西回りにしようか、行き方を迷ったのだ。
結局、東京駅ではJR東海の改札口をくぐった。
西回りは、若干の時間とお金がかかるけれども、上越新幹線のE2系や2階建て新幹線E4系よりも、東海道新幹線の700系やN700系の方がくつろげるような気がしたのである。




東京駅で乗り込んだのは、19時33分発「ひかり」531号新大阪行きだった。
N700系の車内は程よい乗車率で、隣席に人が来ることもなく、僕は3列席の通路側で過ごした。
街の灯が、窓外を過ぎ去っていく。

発車までに食事を摂る暇がなく、東京駅のホームでチキン弁当を買い求めた。
かき卵とグリーンピースが乗ったピラフと、鶏の唐揚げ、ポテトサラダ、そしてなぜか短いソーセージが1本というシンプルな駅弁であるが、20年前に初めて1人で新幹線に乗り東海道を下った時に初めて購入した思い出があるから、僕にとっては付き合いの長い商品なのである。



品川、新横浜、静岡、名古屋、岐阜羽島と、各都県に1駅ずつ停車して、米原には21時48分に到着した。
明かりが煌々と輝いている新幹線ホームから薄暗い在来線ホームに降りれば、ただでさえうらぶれた気分になるのであるが、米原仕立ての特急「しらさぎ」63号は既に入線していて、車内に入って座席に落ち着くと、少し肩の力が抜けた気分になった。
発車は21時56分である。
こんなに夜遅い米原に来たのは初めてだったが、これでも最終ではなく、北陸本線下り方面は22時48分の「しらさぎ」65号が終列車で、金沢着は0時39分と日付が変わってしまう。



米原から敦賀を経て福井平野に出るまではトンネルが多く、沿線に大きな街もないから、窓外は漆黒の闇に包まれたままで、トンネルの中も外も大して変わりがない。
どこか哀しげな風切り音が車内に響けば、トンネルに入ったことがわかる程度である。
武生、鯖江、福井、芦原温泉、加賀温泉、小松と、寝静まった深夜の街に停車し、金沢への到着は23時47分だった。

照明も消されて真っ暗な駅前に出ると、冷たい小粒の雪が横殴りの風に舞い、道路も白くなりかけていた。



金沢には2泊した。

前夜と打って変わって快晴になった2日目の夕方、武蔵ヶ辻を散策した。
買い物客で賑わう近江町市場のアーケードの入り口から振り仰げば、テナントが入った「M’ZA(エムザ)」の上にスカイホテルが顔を覗かせている。
昭和49年、初めて家族そろって金沢に旅行した時に宿泊して以来、40年ぶりに、ここに宿をとっていた。
当時、10階以上の高層建築などなかった長野市からやって来た僕は、20階建てのホテルに泊まれることに有頂天になった覚えがある。
金沢市内に他の高層ビルが建ち、建物自体が近代化された街並みに埋もれて外見が古びた今は、大したビルでもないように見えてしまうが、ANA系列のホリデイ・インに経営母体が変わり、室内も洒落た雰囲気に改装されていたので、快適な泊まり心地だった。




武蔵ヶ辻のバス停には大勢の利用客が集まり、様々な行き先のバスが引きも切らずに出入りする。
それを眺めるともなく眺めているうちに、「鶴来駅」と表示を掲げたバスが近づいてくるのが見え、僕は思わず乗り込んでしまった。
鶴来駅とは、北陸鉄道「石川線」の終着駅ではないか、と思ったのである。

金沢市内から延びている2本の私鉄路線のうち、金沢駅から海岸線の内灘へ向かう「浅野川線」は、二十数年前の大学時代に乗ったことがある。
終点の内灘が、草ぼうぼうの原っぱの中にある寂れた駅で、彼方に松林や砂丘が望めるだけで海が見えなかったことにがっかりしたことをかろうじて覚えいるくらいで、当時の車両も沿線風景も全く覚えていない。

金沢市内の野町駅から山懐ろの鶴来へ南下する「石川線」の記憶はもっとあやふやで、乗ったのか乗らなかったのかすら定かではない。
野町駅が瓦葺きの古い街並みの中にあったような記憶があるのだけれども、それは違う駅のような気もするし、それならば乗ってしまえばいいじゃないか、と思ったのだ。

何かで気晴らししたい気分でもあった。

武蔵ヶ辻を16時15分に発車した小柄なバスは、南町、香林坊、片町と人通りの多い繁華街を抜け、郊外へと向かっていく。
城下町らしくごちゃごちゃと道路が入り組んだ中心部を外れれば、少しずつ建物の間隔が広がって、うっすらと雪が混じる田畑が目立つようになる。
市街から離れるに従って雪は深くなり、やがて車窓は一面の雪景色と化していった。
両脇から正面にかけて迫る山々も、まばらに雪化粧をしていた。

乗ってくる乗客はなく、すっかり閑散としたバスが黙々と走り続けるのは、眺めているだけで心まで冷え切ってくるような黄昏の田園地帯である。
この冬、それまでは金沢市内で雪を見ることはなかったのだが、3月になって、冬らしさが逆戻りしてきたようだった。






もう少し先へ進む余地はありますけど、ここらへんでやめておきましょうか、といった調子で、ひたすら走り続けてきた国道157号線・鶴来街道からはずれて、バスが鶴来駅前に滑り込んだのは17時15分、乗客は僕1人になっていた。
バスは、素朴なたたずまいの駅に僕を降ろすと、行き先を「松任」に変えて、誰も乗せずにそそくさと走り去った。

まだまだ平野の真ん中で、鉄道やバスが終点にするような地形には思えない。
町並みは綺麗に整っている。
白山に源を発する美川の支流を渡る駅前の橋の欄干で、僕は、素手で、久しぶりに雪のひんやりとした感触を楽しんだ。
のしかかるように視界を遮る白山山系の前衛の山々を、夜の帳が覆い隠そうとしていた。
賑やかな金沢市街から僅か1時間バスに乗っただけで、これほど、しっとりと心に滲みる風景を見ることができようとは思いもよらなかった。
静まり返った町を見回しながら、ここに来て良かった、と思った。





夕闇が迫る鶴来駅に、三々五々と乗客が集まってくる。
ほとんどが学校帰りの小中学生で、お喋りに余念がなく、彼ら、彼女らのおかげで古びた駅舎がパッと華やいだ雰囲気になった。

待合室にはストーブが焚かれて、少しでも離れると容赦なく寒気が服の中に忍び込んでくる。
待合室の片隅に置かれたガラスケースに、北陸鉄道「石川線」と、鶴来より先に鉄路を延ばしていた「金名線」が健在だった古き良き時代の写真や、駅名標、列車の行先標、模型などが並べられていた。

北陸鉄道は、今でこそ「石川線」と「浅野川線」の2本だけ、営業距離20.6kmという寂しい姿になってしまったけれども、かつては石川県内にくまなく、総延長144kmもの路線網を持つ地方私鉄の雄であった。
昭和初期に石川県下に雨後の筍のごとく発達していた小私鉄を戦時統合したのが北陸鉄道なのである。

「石川線」の鶴来から先に延びていた「金名線」は、更に山ぎわの白山下が終点だったが、昭和62年に鶴来の2.1km先の加賀一の宮から白山下までの末端区間が廃止され、平成21年には鶴来と加賀一の宮の間が廃止されたのである。
また、「石川線」の金沢側の現在の起点である野町の先も、白菊町まで線路が延びていたが、昭和47年に廃止されている。

「浅野川線」も、昭和49年まで、僕が終点の内灘で遠望した砂丘を越えて、1.3km先の粟ヶ崎海岸まで路線があった。

その他の北陸鉄道の旧線について振り返ってみれば、膨大な路線数になる。

「石川線」の途中駅である野々市と、北陸本線松任駅を結んでいた「松金線」は、昭和30年に廃止。
「松金線」と「石川線」は直通運転を行っていた時期もあり、先ほど僕が乗ってきたバスが「松任」行きとなって折り返したのは、その名残であろうか。

北陸本線の粟津駅と粟津温泉を結んでいた「粟津線」は昭和37年に廃止。

北陸本線の動橋駅と、海寄りの片山津を結んでいた「片山津線」は昭和42年に廃止。

路面電車として運行されていた金沢市内線も、昭和42年に全線廃止。

北陸本線の大聖寺駅と山中温泉の最寄り駅である山中を結んでいた「山中線」は昭和46年に廃止。

動橋駅から、片山津線とは反対に内陸側の宇和野を結んでいた「動橋線」は、「連絡線」の宇和野-河南間と統合されて動橋-河南間の「山代線」となった挙げ句に、「山中線」とともに昭和46年に廃止されている。

「連絡線」とは即物的な路線名だけれど、「山中線」の途中駅の河南から「動橋線」の終点の宇和野を経て「粟津線」の終点の粟津温泉まで、3つの路線を横つながりに結んでいたのだが、粟津温泉-宇和野間が昭和37年に廃止されて縮小されたのである。

金沢市内の中橋から、大野港までを結んでいた「金石線」は、途中駅の松原と涛々園を結んでいた支線が昭和20年に、そして「金石線」そのものも昭和46年に廃止。

能登半島の付け根に位置する、国鉄七尾線の羽咋駅から、半島の西岸に沿って三明まで延びていた「能登線」も、昭和47年に廃止。

鶴来から北陸本線の寺井駅までを結んでいた「能美線」が、昭和55年に廃止。

北陸本線の小松駅から鵜川遊泉寺を結んでいた「小松線」は、昭和61年に廃止──。

昭和40年代から50年代にかけて、車やバスに追われる形で、更には経営難や労使紛争、そして他府県の大手私鉄の思惑が複雑に絡み合って、石川県内の鉄道に大粛正の嵐が吹きまくったのである。

ちなみに、石川県内にありながら戦時統合されなかった唯一の私鉄として、小松駅と、鉱山があった尾小屋を結んでいた尾小屋鉄道も、昭和52年に廃止されている。
そのバス部門が、先日に小松駅から小松空港まで利用した路線バスを運行している小松バスであることを先日知ったばかりで、ふと不思議な思いにとらわれた。

こうして歴史をひもとけば、金沢近郊に「石川線」と「浅野川線」が残っているだけでも、奇跡と云わざるを得ない。

「石川線」の次の発車は、17時51分発の野町行きである。
僕が鶴来駅に来た直後に到着した電車は、元京王井の頭線の3000系で、折り返すことなく留置されたままである。
夕方の下り方面のラッシュも終わりが近づいて、これから夜に向けて運行本数が減っていくのだろう。
しばらくして、元東急の7000系が、下り電車として駅舎から離れたホームに滑り込んできた。



これが野町に向かって折り返すのだが、先頭の貫通路がなくなってのっぺりした顔つきになっているけれども、紛れもなく、僕が学生時代に東急東横線や大井町線でよくお世話になった車両に違いなく、旧友に出会ったように懐かしかった。
違う会社の車両が同じ線路を仲良く走っていたり、思わぬ懐かしい車両に巡り会ったりするのは、地方の小私鉄の旅の醍醐味だと思う。

先頭車両のロングシートに身を沈めてみれば、ワンマン運転用に運転室が少し改造されている以外、車内の雰囲気は東急時代そのままで、大学時代の仲間がひょいと乗ってくるのではないかという錯覚に陥りそうであった。
扉の横に座ってしまったので、駅に停車するたびに寒くてしょうがなかったのだけれど。

日御子、小柳、井口、道法寺、曽谷、四十万、乙丸、額住宅前、馬替、野々市工大前、野々市、押野、新西金沢、西泉──

窓外はとっぷりと闇に包まれて、物思いに沈みながらぼんやりと過ごした30分ほどの短い旅だった。

いつしか、田園地帯から市街地に入っても、灯りに乏しい沿線風景は変わらなかった。
黒々とした建物がひしめいている気配がするだけである。
考えてみれば、線路側に明かりが漏れる窓を設けるような家は少ないのかもしれない。

JR北陸本線と接続する新西金沢駅も、気づかないまま通り過ぎ、終点の野町駅には、18時20分に到着した。
線路をきしませながら、きついカーブで建て込んだ街の狭間を抜け、穴蔵に頭を突っ込んだような心持ちにさせられる行き止まりの駅であるが、ホームに降りても、路線バスが接続を待つ駅前に出ても、昔、ここに来たことがあるのかどうか、記憶は蘇らなかった。



思案に暮れる僕を置き去りにして路線バスが発車していき、僕は襟を立てて、大通りに通じる狭い路地をとぼとぼと歩くしかなかった。

白山の麓の雪雲が街に降りてきたのか、スカイホテルから見下ろした翌朝の金沢は一面、真っ白になっていた。






東京への帰り道として僕が指定席特急券を手に入れたのは、13時38分発の特急「北越」5号新潟行きである。

直江津から越後湯沢へ抜ける経路が所要時間も短いけれども、平成9年に北越急行線ができるまでは北陸連絡の主役であった長岡経由ルートを、僕は経験したことがない。
1月に長岡経由で帰ろうとした時は、悪天候で北陸本線のダイヤが乱れて果たせなかった(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11779807412.htmlhttp://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11779809870.html)。
今度こそリベンジして、念願を果たそうと思ったのである。
「北越」の車両も、そんな懐古趣味の旅にふさわしく、国鉄時代の塗装そのままの485系だった。





1月は、湖西線が比良おろしの強風のために不通になって、金沢駅からダイヤが混乱していたが、今回はそのようなこともなく、朝の雪も消えた古都を定時に後にした。

分厚い雲が覆う空の下を、右手に立山連峰、左手に日本海を望みながら、特急列車はひた走る。
高岡、富山、魚津、黒部、泊、糸魚川、直江津。
車内は空席が目立ってのんびりした空気が漂い、停車駅も越後湯沢行きの特急「はくたか」より細やかである。

1月の「北越」の旅では、柏崎付近の強風のために上越新幹線への接続の目途が立たないと言われ、急遽、北越急行に乗り換えたのだが、今回は何事もなく糸魚川を過ぎ、車内の明かりが消える交直流電化切り替えのデッド・セクションを越えて、直江津から信越本線に入った。
直江津には、廃止されたばかりの「あけぼの」に使われていた車両であろうか、寝台特急が1編成、停泊していた。






窓に映る日本海の様相が変わり、逆巻く白い波濤が目立ち始める。
この日の「北越」の走りは微塵も揺るがなかったけれども、荒れ狂った波が洗う砂浜に、張りつくように敷かれた吹きっさらしの線路を見れば、悪天候の影響を受けてもおかしくないと納得させられた。

いつしか横なぐりの吹雪が窓を濡らし、暗い海原と、黒々と垂れ込める雲の果ての水平線は、その境がはっきりしない。
海岸線に並ぶ樹林が、真っ白な雪を枝にまとって、夜のように陰鬱とした車窓に鮮やかに浮かび上がっていた。






柿崎、柏崎と吹雪をついて走りこみ、長岡には定刻16時27分に到着した。
近郊電車が出入りする構内の路床は濡れていたが、先ほどの吹雪が嘘のように、雪は消え失せていた。

このまま、16時43分に発車する「Maxとき」336号に乗り継げば、上野に18時15分に帰れる。
しかし、せっかく長岡まで遠回りしたのだから、僕は17時08分発の「Maxとき」338号の指定席を手に入れていた。
一服しながらコーヒーでも飲もうかと思っていたのだけれど、駅ビルにそのような店は見当たらず、霧雨が街を洗う駅前に出ても手持ち無沙汰なだけだった。





駅ビルのフード・コートでうどんをすすって暖まっただけで、ホームに戻れば、間もなく「Maxとき」338号が姿を現した。



1本前の「Maxとき」336号は越後湯沢、高崎、大宮だけに停車する速達便だから、わずか1時間半で着くけれども、25分後の「Maxとき」338号は浦佐、越後湯沢、高崎、熊谷、大宮と停車駅が多く、上野の到着が53分も遅い18時55分となってしまう。

ちなみに、「北越」5号の23分前、13時15分に金沢を発つ「はくたか」15号に乗り、越後湯沢で「とき」332号に乗り継げば、上野には17時14分に着く。
もともと酔狂なことをしているのだから、長岡での途中下車が目論み通りに運ばなかったからと言って、今さら30分や1時間の差に目くじらを立ててもしょうがないのである。

2階建て車両の1階席だったから、防音壁に遮られて窓の上1/3くらいしか風景が見えなかったが、長岡を出て間もなく、車窓は再び雪に覆われた。
日本海を背景にした「北越」の車窓ほど寒々としてはおらず、どこか明るい感じがする雪の色だったけれど、暗欝とした曇り空は変わりがなかった。

除雪用のスプリンクラーから飛び散る大粒の水滴が窓で弾ければ、間もなく、上越国境の大清水トンネルである。
列車は、冬木立が並ぶ北国を抜け、乾ききった春の関東平野へ軽快に駆け下っていく。






ついに念願の長岡経由ルート走破が達成できて、僕は大いに満足していた。
未だに冬の面影が強く残る車窓に反して、順調だった行程に、拍子抜けする思いがしたことも確かである。

東京から米原、金沢、長岡と、本州中央部に大きな楕円を描きながら戻ってくる、延々1080kmにも及ぶ旅も、無事に終わりが近づいたようである。




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