第28章 平成11年 高速バス東京-水海道線・岩井線で水の海道を行く | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:常磐高速バス東京-水海道線・東京-岩井線、関東鉄道バス水海道-岩井線】

 

 

東京と水海道、そして東京と岩井を結ぶ「常磐高速バス」の「常総ルート」が開業したのは、それぞれ平成11年2月と4月のことである。


僕は、水海道、という名前に惹かれた。

幼少時に関東地方の地図を開くと、平野の真ん中に書かれた「水海道」の文字に、視線が引き寄せられたことを思い出す。

東海道、西海道、南海道などと言われるように、○海道という地名は昔の街道に沿う地域を指すことが多いが、水海道は、利根川流域の湿地帯に生きる人々の往来と風土をよく表していると思う。

 

平安時代に坂上田村麻呂がこの地で馬に水を飲ませたという故事に因んで、水飼戸と呼んだことが地名の由来とされているが、柳田国男は、水運の集散地である御津垣内が転じたという説を唱えている。

江戸時代に鬼怒川と利根川の水運が発達し、江戸と下総、下野、会津方面を結ぶ水運の中継地として、「鬼怒川の水は尽きるとも、その富は尽くることなし」と歌われるほど栄えていたと知れば、柳田国男の説を信じたくなる。

 

後の平成18年に石下町を編入して常総市と改称されたが、地名を耳にしたことはあっても、常磐線から外れた関東鉄道常総線沿線であるために、実際に訪れる機会には恵まれていなかった。

2ヶ月という短い間隔で相次いで開業した高速バス路線を使い、この土地を往復してみたい、と思うようになったのは、高速バスファンとして当然の成り行きであった。

東京-水海道線の運行距離は55.1km、所要1時間10分で、東京-岩井線は57.5km、1時間20分と、休日の散策としては手頃である。


高速バスが行くようになったという理由で初めて訪れた町は、少なくない。

どのような車窓を見せてくれるのだろう、と心が弾む。

 

 

僕が東京駅八重洲南口で水海道までの乗車券を購入したのは、初夏の蒸し暑い日曜日の昼下がりである。

空は高曇りで、湿気が強く、もしかすると旅先で雨に見舞われるかな、と心配になるような怪しい雲行きであった。

 

東京駅を13時40分に発車する水海道行きのバスは、30人ほどの客を乗せ、八重洲通りから宝町の狭隘なランプで首都高速道路に入り、少々の渋滞に揉まれながら、墨田川越しに浅草の街並みを見下ろす「常磐高速バス」ではお馴染みの経路を進む。

10年前に、東京駅とつくばセンターを結ぶ「つくば」号に初めて乗った時から、何度、この車窓を目にしたことだろう、と思う。

その間の我が身や社会の変遷に思いを馳せれば、ふと、神妙な心持ちになる。

 

 

東京と水海道、岩井を結ぶ高速バスには、愛称が設けられなかった。

「常磐高速バス」の愛称は、「つくば」号に始まり、「みと」号、「ひたち」号、「いわき」号、「常陸太田」号と、ありきたりに地方側の地名を冠するだけであったが、なければ物足りなく感じるのは、高速バスファンの我儘であろうか。

「水海道」号など、まさに長距離高速バスに相応しい風格ではないか、 と思うのは、ファンとしてかなり重症かもしれない。


三郷JCTで常磐道に入ると速度が上がり、あっという間に流山ICと柏ICを通過して、工場や倉庫、住宅地よりも水田の比率が増えたな、と思う頃、バスは利根川を渡り始める。

群馬県と新潟県の境に聳える大水上山を水源とする利根川と、栃木県の鬼怒沼を水源とする鬼怒川が合流する地点のすぐ下流であるから、川幅は一層広くなっている。

常磐道の利根川橋の長さは775.1mに過ぎないけれども、草木が鬱蒼と生い繁る広大な河川敷を目にすると、もっと長いように感じられる。

 

 

太古の利根川は、現在の荒川の流路をなぞって東京湾に注いでいたが、約3000年前の縄文時代後期には、熊谷、鴻巣付近から東へ向かい、加須、越谷あたりで渡良瀬川に近づき、そのまま渡良瀬川と平行して南へ流れ、現在の中川と隅田川の流路で東京湾に注いでいた。

渡良瀬川は、今の江戸川の流路に沿って東京湾に流れ込んでいたと言われている。

 

利根川、渡良瀬川、鬼怒川などといった関東平野の大河を、現在の流路に変更したのは、人間による瀬替えである。

16世紀に徳川家康が江戸に入ると、開拓と水運を目的として利根川の流路を変更する工事が開始される。

中流を加須付近で渡良瀬川に接続し、その上流を利根川の支流に、江戸川を利根川の下流としたことで、東京湾に注ぐ元の下流は中川と呼ばれるようになる。

17世紀になると、利根川を、古河付近で鬼怒川水系の常陸川に繋ぎ、銚子付近で太平洋に注ぐ流路が開削され、利根川は、江戸川として東京湾に注ぐ流路と、常陸川として銚子に向かう流路の2本になった。


鬼怒川は、元々、縄文海進期に下妻付近を海岸線とする古鬼怒湾に注いでいたが、湾内に土砂が堆積することで沖積層の陸地となり、水海道付近から河口に至る常陸川水系は、広大な氾濫原の湿地帯となっていた。

利根川と常陸川を接続する工事の後に、鬼怒川を小貝川と分離して、鬼怒川と常陸川が合流する地点を30km上流へ移動する工事が行われた。

 

水海道は、利根川と合流する手前の鬼怒川と小貝川に挟まれた、三角州のような細長い土地に位置している。

 

 

天明3年に起きた浅間山の大噴火により、火砕流と泥流が堆積して河床が上昇したため、利根川と支流の吾妻川で洪水が広範囲に発生するようになると、人口密集地である東京湾への流路に土砂の流入を防ぐための棒出しと呼ばれる堤が設けられ、水流の大半を常陸川へ導く策が講じられる。

棒出しによって水流が増えた銚子方面で、水害が深刻化する事態を招く結果になるのだが、パナマ運河の建設で生じた土量を越えるという大規模な浚渫工事が実施され、浅間山大噴火の影響が利根川から取り除かれるのは、昭和の高度成長期を待たなければならなかった。

 

明治期には、渡良瀬川上流の足尾銅山で深刻な鉱毒事件が発生、鉱毒が東京湾に大量に流入することを防ぐために、棒出しの幅を更に狭める流入制限が実施されている。

 

利根川水系の人工的な流路の変遷を追うと、瀬替えの目的が、水運と開拓から治水へと変化していることがよく理解できる。

我が国随一の流域面積を持つ利根川の沿岸は、かつては海の底であった湿地帯であり、陸地になってからも、洪水のたびに流路が変わる厳しい土地であった。

近代を迎えてもなお、1100人以上の死者を出した昭和22年のカスリーン台風、埼玉県東部の5600戸以上が浸水した平成25年の台風26号、そして水海道市に多大な被害をもたらし、およそ50もの店舗や事業所が廃業し人口が800人以上も減少した平成27年の関東・東北豪雨などの大規模な水害がしばしば発生している。


現在でもスーパー堤防の建設や調整池の設置などといった対策が鋭意進められているものの、常磐道で利根川橋を渡り、大小の川に挟まれた田園地帯や集落を目にすると、営々と開拓に携わって来た人々と、繰り返される洪水とのせめぎ合いの歴史に思いが及んで、粛然とした心持ちになる。

 

 

水海道行きのバスは、小貝川の手前の谷和原ICで、短い常磐道の旅を終えた。

「つくば」号が出入りする谷田部ICよりも1つ手前のインターであるから、実に呆気ない。

 

谷和原ICは守谷ICと名付けても良いくらい守谷市街に近く、インターのすぐ南に関東鉄道常総線新守谷駅がある。

日本武尊が東征の際に、鬱蒼と繁る森に驚嘆して「森なる哉」という言葉から「森哉」となったという説、平将門が城を築いた際に「守るに易き谷」と評したことに由来する説などが由縁とされる守谷は、江戸時代には守谷藩の城下町という古い歴史があるが、新守谷駅は、住宅開発により昭和57年に新設された駅で、守谷市街の北部に位置している。

 

一方の谷和原村は、谷原村、十和村、福岡村、小絹村が合併して昭和30年に発足し、平成18年に伊奈町と合併して、つくばみらい市を名乗った。

僕は、地名は漢字であるべき、という古風な考えの持ち主なので、また平仮名の地名ですか、と狭量な感想を抱いてしまう。

しかし、例えば史上4番目の平仮名の自治体となったいわき市では、合併前に使われていた磐城を漢字のまま採用すると、吸収合併されたように見えてしまう他の自治体が反発する、といった問題が生じ、合併後の地名の選定には細やかな配慮が必要になるようである。


つくばみらいの市名は、平成17年に開通したつくばエクスプレスのみらい平駅が置かれた新興住宅地みらい平に所以するらしい。

古くからの地名でも、東西南北などといった方角でもない、未来という単語が広域の地名として選ばれるのは、珍しいと思う。

谷田部村と伊奈町の合併に際して行われた住民アンケートでは、1位がみらい、2位がつくばみらい、3位がみらい平、4位が南つくば、5位が南筑波であり、なかなか前衛的な発想の人々が多かったのだな、と驚いてしまうが、それが新興住宅地の特徴であろうか。

最終的には谷和原村議会がつくばみらいを強く推し、伊奈町長と谷和原村長の会談で決定したという。


いくら漢字に拘っていても、筑波未来、では女の子の名前のようで却下かな、と思ってしまう。

 

 

守谷から水海道へは、小貝川沿いに関東鉄道常総線と並走する国道294号線が通じているが、バスは新守谷駅入口の停留所で幾許かの客を降ろしてから、御所ケ丘、守谷町役場、薬師台、松前台、絹の台、小絹十字路、水海道車庫、水海道駅と、国道の西側に外れた町にこまめに立ち寄っていく。

道路は広々としていて、並木が植えられて整った町並みであるけれど、どこか画一的で乾いた雰囲気がある。

僕は、初めて「つくば」号に乗って訪れた筑波研究学園都市の車窓を思い出した。

薬師台、松前台、絹の台の停留所では、多くの乗客が次々と席を立ったので、いっぺんに空席が目立つようになる。

水海道まで乗り通す客は、意外と少ない。

 

常総線の列車に乗れば新守谷、小絹、水海道と3つの駅しかない短い区間で、新守谷駅入口から水海道まで、色々と回り道をしながら数分おきに客を降ろしていくバスでも、30分と掛からなかった。

 

 

こざっぱりした水海道駅で1時間10分のバス旅がほぼ予定通りに終わり、何となく乗り足りない気分で駅前の停留所に佇んでいると、大した待ち時間もなく、岩井行きのバスが姿を現した。

 

地名に惹かれて訪れたはずなのに、ごく僅かの滞在で、僕は水海道を去らなければならない。

このような場合、僕は、バスの窓から充分に町の佇まいを見られたではないか、と自らを慰めることにしている。

鉄道に乗っているだけならば、そのように思うことはなく、こまめに町内を走るバスならではの発想である。

 

 

岩井行きの古びた路線バスは、数えるほどの客を乗せて、板張りの床をぎしぎしと軋ませながら、緩やかな起伏の国道354号線を走る。

坂を登れば集落や幾許かの店舗があり、下れば水田と小川という繰り返しで、寝不足でなくても睡魔が襲ってくる。

 

いかめしいトラス橋で鬼怒川を渡り、一面の葦が繁っている菅生沼を過ぎれば、程なく岩井市である。

菅生沼は、この地域が沼沢で覆われていた時代の名残りをとどめていると言われているが、あまりに葦の密度が高くて、水面が全く見えない。

今では周囲にも家々が建ち並び、立派な道路が通じて、代わり映えのない平板な景観に見えるけれども、この沼のような荒涼とした土地が見渡す限り広がっていたならば、僕はここで生きていこうと思えるだろうかと、往事の自然の凄みを窺い知ることは出来る。

 

 

岩井市に入ると、「将門せんべい」「清酒 将門」などといった看板が道路沿いに目立つようになった。


領地を巡る親族同士の私闘を繰り返していた平将門は、当時、石井と呼ばれていた岩井を根拠地としていたと言われている。

一介の豪族に過ぎなかった将門が、常陸国の国司と対立して国府を占領し、続けて下野国、上野国の国府を短期間で攻略したことで、京の都を震撼させた天慶の乱が勃発する。

関東一円を制した将門が「新皇」を称したのが守谷城、その2ヶ月後に藤原秀郷率いる軍勢との合戦中に討死したのが、岩井の国王神社の近くと伝えられている。

 

 

逆賊を祀っているにも関わらず国王神社とは、よくぞ名づけたものと思うが、この判官びいきに似た感情は、子供の頃にNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」を観た記憶と結びついているのかもしれない。

昭和51年に放映された「風と雲と虹と」は、NHK大河ドラマの中でも最も古い時代を描いた作品であり、平将門を加藤剛、父親を小林桂樹、側近を草刈正雄、宍戸錠、米倉斉加年、対立する武将に山口崇、佐野浅夫、長門勇、蟹江敬三、西村晃、峰岸徹、藤巻潤、露口茂、そして宮口精二、小池朝雄、新珠三千代、吉永小百合、奈良岡朋子、太地喜和子、真野響子、多岐川裕美、丹阿弥谷津子、更には同時代に西国で反乱を起こした藤原純友に緒形拳、といった豪華な俳優陣の競演には、子供心にも夢中になった。


当時の貴族政治は腐敗を極めていたとされ、藤原純友は、国家という大木に巣食うシロアリと、京の貴族を言下に切り捨て、平将門も、まず民衆が存在して公は後からやってきたものだ、と激を飛ばす場面が設けられるなど、庶民の視点で描いた反乱の位置づけがドラマの基盤となっていたことと、何よりも、昭和45年から「水戸黄門」と入れ替わりで放映されていた時代劇「大岡越前」で30年間の長きに渡り主役を演じ続けた加藤剛という配役であれば、小学生だった僕が、平将門を悪者と捉えるはずはない。

 

京の七条河原にさらされていた将門の首が、胴体を求めて東へ飛んでいったとする言い伝えや、移転を計画すると必ず事故が起きると畏怖されている東京大手町の首塚の伝説など、怪奇的な後日談は、僕にはどうもしっくりと来ないのである。

 

 

大河ドラマは、歴史上の人物を好人物として描く傾向があり、1年間という長丁場で主役を張るためにはやむを得ないことと理解している。

 

それでも、昭和58年に放映された滝田栄主演の「徳川家康」で、大坂夏の陣で炎上する大阪城を見た家康が、息子の徳川秀忠を「馬鹿者!」と怒鳴りつけるシーンには、少なからず違和感を抱いたものだった。

家康が豊臣家の滅亡を画策していたのは明白と思い込んでいたから、秀頼を助けたかったと解釈する筋書きには、いやいやそれはないでしょう、と苦笑したくなった。

滝田栄も、誠実な人物を演じさせれば加藤剛に引けを取らない俳優であるけれど、戦国時代に幕を引き、泰平の世を築くために、豊臣家には滅びて貰わねばならぬ、と強固な信念に基づいた台詞の方がどれだけマシであったか、と感じた僕は、「風と雲と虹と」の時代より大人に近づいていたということか。


大河ドラマ繋がりで徳川家康を連想したが、考えてみれば、豊臣秀吉から関八州に移るように命じられ、利根川の瀬替えの事業をはじめ、苦労を重ねながら未開に近かった関東の地を開拓したのは、家康である。

また、関東地方の生産性が向上したからこそ、徳川家は250年以上にも及ぶ安定した幕府の長として君臨できたという見方も出来る。

ならば、家康も、水に支配されたこの土地のゆかりの人物であると言えるだろう。

 

 

30分程バスに揺られて着いた岩井バスターミナルの記憶は、朧ろであるけれど、何軒かの民家に囲まれて、午後の日差しが暖かい長閑な駐車場が、今でも脳裏に浮かぶ。

 

ここでも接続は良く、大して待つことなく15時30分発の東京駅行き高速バスに乗り継ぐことが出来た。

数人が乗り込んだバスは、定時に岩井の街並みを後にして、なだらかな丘陵を上り下りしながら、水海道からの国道354号線より南寄りの県道を進む。

客室は静寂が支配し、低いエンジン音と、岩井局前、原口、神田山、神田山南、大塚戸、平松、内守谷工業団地といった乗車停留所を案内する乾いた音声だけが、思い出したように流れるだけである。


 

ところが、きぬの里と久保ヶ丘の停留所では、20人を超える客がどやどやと乗り込んできて、車内の空気が一変した。

会話を交わすような2人連れ以上の客は見当たらず、混雑しながらも奇妙な静けさを保ったままで、日曜日と言うのに通勤電車のような取り澄ました雰囲気である。

松前台、御所ヶ丘、新守谷駅といった、水海道行きのバスが経由した停留所でも、乗って来る客は多く、あたかも水海道行きの車内を映したフィルムを逆回しにしているかのようで、瞬く間に満席に近い状態となった。

 

隣席に投げ出していた荷物を慌てて片付けながら、なるほど、と思う。

水海道や岩井といった歴史的に魅力のある町を終点にしていても、この高速バスの主な役割は、常総ニュータウンと東京を直結することであった。


古くは三重交通の名古屋-大山田団地線、近年でも京成電鉄の東京-千葉北IC・ユーカリが丘・成東線、京浜急行の横浜-横須賀・八景島線など、都心と郊外の住宅地を行き来する高速バス路線が増えている。

 

 

東京-水海道・岩井線は、関東地方で初めての都心とベッドタウンを結ぶ高速バスであり、「常磐高速バス」でも、東京-三郷・吉川・松伏線や東京-江戸川台線といった同様の路線が登場することになる。

 

昭和50年代から、取手市、守谷市、つくばみらい市、常総市に跨る850haにも及ぶ常総ニュータウンの開発が行われ、北守谷地区の御所ケ丘、久保ケ丘、松前台、薬師台、南守谷地区の松ケ丘、けやき台、つくばみらい市の絹の台地区、常総市のきぬの里といった新興住宅地が出現する。

大正2年に開業した関東鉄道常総線が通じているものの、常磐線の取手駅で乗り換えて都心まで1時間半以上を要するこの地域からの通勤は、かなり苛酷であったと聞く。

そのため、守谷市の住民から東京を結ぶ高速バスの整備が要望され、行政も、茨城県、住宅都市整備公団、JR東日本、関東鉄道と高速バスの運行を協議していた。

 

 

その結果、平成11年に実現したのが東京-水海道線と東京-岩井線であり、翌年には、新守谷駅入口、御所ケ丘、松前台、薬師台、守谷町役場まで東京-水海道線と同じ経路を使い、更に松ケ丘、けやき台、南守谷駅といった守谷市の南部を網羅する東京-南守谷線が開業する。

 

開業当初も、水海道系統が1日20往復、岩井系統が16往復という比較的頻回のダイヤであったが、開業2ヶ月後には水海道系統で12往復の臨時便と、夜間に小絹十字路止まりの臨時便を運行する盛況を呈し、半年後には水海道系統が1日40往復に増便された。

平成12年に南守谷系統が1日16往復で加わると同時に、水海道・岩井両系統が合わせて56往復に増便され、平成14年には週末深夜便の「らくらくミッドナイト守谷」号が東京駅と新守谷駅の間で運行を開始、更に岩井系統の一部が猿島町まで延伸される。

 

 

猿島は、さしま、と読み、昭和31年に沓掛村と富里村が合併して町政が敷かれ、猿島茶や、ビニールハウスによる野菜などを産する近郊農業が主産業であった。

平成17年に、隣接する岩井市との合併により坂東市となったが、もともとこの地域は西の埼玉県境にまで及ぶ猿島郡に含まれ、猿島台地と、飯沼、長井戸沼などの低湿地帯を干拓した農地が広がる平坦な土地である。

後に、東京駅を発つ高速バスの行先が「守谷・岩井・猿島」と表示されるようになると、いつかは猿島にも足を延ばしてみたいものだ、と思っていたが、鉄道も幹線国道もない地域であることと、岩井まで行ったことがあるという理由から、旅先を選ぶ優先順位が低くなっていた。

 

猿島系統が登場した平成14年から、深夜便の「らくらくミッドナイト守谷」号が平日の毎日運行となった平成16年までが、「常総ルート」の最盛期であった。

 

 

平成17年につくばエクスプレスが開通すると、3系統合わせて1日70往復を越える本数を誇っていた「常総ルート」は、いきなり48往復に減便となり、つくばエクスプレス開通の2ヶ月後に、南守谷系統は廃止された。

同じ年の師走に「らくらくミッドナイト守谷」号が廃止され、平成19年には水海道系統と岩井系統が統合されて1日28往復に減り、平成20年には22往復、平成21年には16往復、平成23年には9往復と立て続けに減便が繰り返され、平成25年には猿島系統が廃止されて、1日7往復になり果ててしまう。

そのまま何とか踏ん張っていた「常総ルート」であるけれど、平成28年の大晦日の運行を最後に廃止された。

 

栄枯盛衰は世の常であるけれど、最盛期の運行本数が多かっただけに、何とも寂しい結末である。

つくばエクスプレスのラッシュ時の凄まじい混雑を経験したことがあるから、僕ならばバスを使うけどなあ、と思ってしまうけれど、水海道駅から関東鉄道常総線で守谷駅まで10分、つくばエクスプレスに乗り換えて秋葉原まで40分という速達性を見せつけられると、例え座って行けるにせよ、利用者は高速バスに見向きもしなくなってしまうのだろうか。

 

まして、平日に東京駅へ向かう上り便の所要時間は、首都高速道路の渋滞により、水海道系統が1時間40分、岩井系統が2時間と、大幅に増加していた。

更に遅延が加わることも少なくなかったのであろう、上野駅に寄ったり、八潮PAで下車して八潮中央駅からつくばエクスプレスに乗り継ぐ割引切符が発売されたりと苦肉の策が講じられていたものの、それならば守谷からつくばエクスプレスを利用するに決まっている。

休日ならば、上り便でも水海道系統が1時間20分、岩井系統が1時間35分であったから、「常総ルート」を運行していたバス事業者は、首都高速道路公団を大いに恨んで良いと思う。

 

 

都心でも見られることだが、最近の住宅団地も高齢化の問題が生じている。

どれだけ需要があるのか分からないけれど、駅の乗降や乗り換えで歩行距離が増える鉄道よりも、バリアフリーに近く、直行機能を持つ高速バスが、所要時間の差はあるにしろ、今一度見直される時代が来るのではないだろうか。

 

17年後に路線が消滅してしまうという未来のことなど知るべくもない僕は、谷和原ICから常磐道をひた走る新しい高速バスの旅を満喫していた。

乗り継ぎが順調すぎて呆気なかったけれども、子供の頃から気に掛かっていた水海道と、平将門ゆかりの岩井を訪ねる午後の小旅行は、楽しかったの一語に尽きる。

2つの高速バスのおかげで、いい休日が過ごせたと思う。

 

心配していた空模様は、いつしか雲が切れて、澄み切った青空が覗いている。

早くも、初夏の太陽が西に傾く頃合いとなっていた。

窓から斜めに差し込む光の温もりが、とろとろと眠気を誘う、黄昏時の高速バスであった。

 

 

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