第27章 平成10年 アクアライン初の高速バスは東京湾の渡し守・川崎-木更津線 | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:高速バス川崎-木更津線、「マリンエキスプレス」川崎-木更津航路】



川崎と木更津を結ぶフェリー航路を僕が初めて利用したのは、平成7年の初夏のことだった。


なぜ明確に覚えているのかと言えば、その年にバイクの中型免許を取得して、ビッグスクーターの草分けだったHONDAヒュージョンを購入し、初めてのツーリングとして房総半島を1周した帰路だったからである。

無差別テロ事件を起こしたオウム真理教の教祖が逮捕された山梨県上九一色村の強制捜査の中継を、教習所のテレビで見ていた記憶は、今でも鮮明である。


目出度く合格したその足でバイク屋に直行し、前々から眼をつけていたヒュージョンを手に入れて、1ヶ月程度の慣らし運転をしてから、日曜日の朝早くに東京大井町の自宅を出発した。

都心に出てから国道14号線・京葉道路を東へ進み、千葉市を通過し、大網から国道126号線で外房に抜け、国道128号線で館山、国道127号線で木更津と、時計回りに房総半島を周回したのである。


海と山に彩られた房総の道行きは、バイクでなくても、走っているだけで楽しい。

ましてや生まれて初めてのツーリングであるから、慎重に気を使いながらも、浮かれた気分は抑え難い。

そのためなのか、木更津に差し掛かった頃には、若干息切れの感があった。

千葉市から房総半島を1周して木更津までは、220kmを超える。



当時、東京湾を横断する航路は、「マリンエキスプレス」と「東京湾フェリー」の2本があった。


三浦半島の久里浜港へ渡る「東京湾フェリー」が出港する金谷港では、国道沿いのこぢんまりとした乗船場を一顧だにせず通過する気力が残っていた。

「東京湾フェリー」は、大学時代に、講義が終わると品川駅から京浜急行の久里浜行き快速特急に飛び乗り、路線バスで久里浜港に足を伸ばして房総半島へ渡る、という憂さ晴らしの小旅行で、繰り返し乗船した経験がある。



木更津市内に入って山々が後退し、集落や工場だけの乾いた景観に変わると、何となく気怠くなってきた。

疲れよりも、飽きが来たのかもしれない。


この先、千葉市に向かう国道16号線は、4車線に広がって立派になる一方で、工場や倉庫が並ぶ埋立地ばかりで海は見えず、沿道はファミレスやコンビニに埋め尽くされた平板な眺めになってしまうことは、以前に車で通った経験から予想できた。

バイクに跨がっている時の僕は、どちらかと言えば、平坦な道を好まない。

適度な上り下りや曲線が続く方が、バイクを操る楽しさが感じられる。


バイク乗りの風上にも置けない行為だったかもしれないが、道端に掲げられた「木更津-川崎 マリンエキスプレス」の看板が眼に入った時、僕はふらりと進路を木更津港に向けてしまった。

自分の車をフェリーに乗せるのは、これが初体験だったので、どれほど高額な料金が上乗せされるのか、とびくびくしたけれども、人間の乗船料金が600円、バイクの車載料金が600円で、こんなものか、と拍子抜けした。



着岸したフェリーは双胴型で横幅があるのに全長が短く、船内を透かして見れば、がらんどうの船倉のすぐ向こうに空が見える。

短距離のフェリーは、前後で車を乗り降りさせるためなのか、一般的な船舶とは懸け離れてずんぐりした外見の船体が多く、ともすれば岸壁に建てられた車庫付きのビルのように見える。

船倉の片隅にバイクを置き、係員が手慣れた作業でバイクを固定するのを物珍しく眺めてから、船室に上がった。


木更津から川崎まで、1時間の船旅は楽しかった。

天候にも恵まれていたので、僕は後甲板のベンチに腰を下ろして、潮風に吹かれながらくつろいだ。

後方に伸びる白い航跡の彼方に、木更津の街並みが少しずつ遠ざかっていく。

港の左右はごちゃごちゃと密集した工場ばかりのように見えたけれども、不意に、その中から軍用ヘリコプターがすっと上空に飛び上がった。

首都防衛を担う陸上自衛隊の空挺師団が置かれた木更津基地の存在は知っていたけれども、あそこにあったのか、と思う。

「東京湾フェリー」は所要30分あまりで、乗り足りないような呆気ない航海だったけれども、「マリンエキスプレス」の木更津から川崎までは長からず短からず適度な時間で、僕は、このささやかな船旅にすっかり魅入られてしまった。


免許がない学生時代と異なり、社会人になってバイクで気晴らしが出来るようになった身分ををいいことに、僕は、何度か川崎-木更津航路を組み込むツーリングに出掛けた。

浮島にある川崎港から国道409号線と産業道路、第一京浜を経由して大井町の自宅に向かう道筋も、当時働いていた職場の近くを通ることもあって、息抜きに立ち寄るコンビニや喫茶店も出来て、すっかり馴染みになった。


平成9年12月に東京湾横断道路、通称東京湾アクアラインが完成すると同時に、「マリンエキスプレス」川崎-木更津航路は廃止された。

同時期に、東京湾アクアラインを使って東京・神奈川と房総半島各地を結ぶ高速バス路線が開業し、中には「マリンエキスプレス」の代替のように川崎駅と木更津駅を結ぶ路線もあった。



平成10年の冬の某日、川崎駅から木更津駅まで高速バスの旅に出た。

当時の僕は、既にバイクで東京湾アクアラインを何度か行き来した経験があったけれども、高速バスでは未体験だった。


無論、僕の高速バス旅の常として、川崎にも木更津にも何の用事もない。

ただ、川崎の街に降り立てば、様々な感慨が込み上げてくる。

我が国を支えて来た京浜工業地帯の中心都市であるから、自然に乏しく殺風景な街並みは止むを得ないし、治安も決して良くなさそうな土地柄であるけれど、大井町に住む僕にとっては、映画や買い物を目的として出掛けるには、都心の繁華街よりも遥かに便利で、店舗や施設も程良く空いているのが魅力だった。

大正11年に東京日暮里で創業した美須興業を前身とするチッタエンタテイメントが、昭和11年に川崎最初の映画館として「川崎銀星座」を開業、近隣に同系列の映画館も出来て映画街を形成、太平洋戦争中の空襲により全ての映画館が焼失したものの、戦後の再建を経て、昭和62年に複数の映画館を収容する我が国初のシネマコンプレックスである「チネチッタ」が開業したのである。


僕は「チネチッタ」に生まれ変わる前からちょくちょく映画を観に行っていたが、駅前の喧噪から外れた路地に足を踏み入れ、古びた映画館に入ると、くたびれた椅子が並ぶ客席では、したたかに聞こし召したおっさんが前席に足を投げ出して、煙草を吹かしたり、居眠りをしていたものだった。

上京したばかりだった僕にとっては、そのような場所に行くだけで緊張したものだったが、同時に冒険心をくすぐられるような心持ちもして、不思議な魅力を感じていた。

「チネチッタ」として小奇麗に改装された時には、これでは川崎らしくない、と失礼な感想を拭い切れなかった。



社会人になってから暫く足が遠のいていたけれども、この日は、映画を観に来た訳ではなく、バスに乗りに川崎に来たのである。


若かりし頃の僕にとって、川崎は、バス趣味でも縁が深い街だった。

大学時代にバスファンになった僕は、一時期、東京から高速バスだけで全ての道府県庁所在地に行く、という目標を定めていた。

当時は全国津々浦々に高速バス路線が増えた時代で、暇と幾許かのお金があれば決して難しくない目標であったが、意外と難儀したのは首都圏の県都であった。



鉄道が便利な千葉市や宇都宮市、前橋市に向かう高速バス路線がなかなか登場せず、空港リムジンバスや路線バスを乗り継いだ顛末については、このブログに記したことがある。


横浜市もその1つで、羽田空港からYCATに向かうリムジンバスで目標は達成されたものの、路線バスを乗り継いでみたこともあった。

他の人には理解し難いことかもしれないが、路線バスで県境を越えるという行為は、なぜか僕の心を奮い立たせる。

東京から横浜に直通する路線バスなど存在しないけれども、川崎で乗り継げば、選択肢は少なくない。



筆頭は五反田と川崎を結ぶ東急バスの「反01系統」で、五反田駅から国道1号線・第二京浜国道を停留所にこまめに停車しながらのんびりと進み、多摩川大橋を渡って川崎駅に至る。

京浜工業地帯を貫く第一京浜とは異なり、何処か上品な雰囲気を醸し出している第二京浜の車窓は、単調だけれども、僕にとっては新鮮だった。


第一京浜経由でも、大森駅から産業道路の森ケ崎操車場へ向かう「森26系統」と、森ケ崎から産業道路と多摩堤通りを通り、六郷橋を渡って川崎駅に行く「川76系統」を乗り継ぐ行き方があり、1回だけ試みたことがある。



異色なのは羽田空港から川崎駅に向かうリムジンバスで、てっきり、短距離でも首都高速道路を使うのだろうと乗り込んでみれば、空港から多摩堤通りで多摩川を遡り、六郷橋で県境を越えるという、高速道路には見向きもしない路線だった。

ノンストップで運行されて、車両はリムジンバスに相応しい前方1扉車両が用いられている直行便があるかと思えば、前扉と中扉を備えた各駅停車の路線バス車両だったり、何かと一貫性に欠ける路線であった。



都内と川崎を移動する選択肢は豊富だったが、川崎から横浜までは横浜市営バスの「7系統」しかなく、川崎駅で乗り換える際には、賑やかな東口からひっそりとした西口に移動する必要があった。

国道尻手、鶴見橋、子安小学校入口、東神奈川駅西口、青木橋、横浜駅東口と、第一京浜を進む所要50分ほどのバス旅である。


いずれにしろ、五反田や大森、羽田空港から横浜まで合計2時間、東海道本線の普通列車や京浜急行の快速特急ならば20分と掛からない区間に何倍もの時間を費やし、しかも運賃は電車よりも高くなるのだから、他人が見れば何をしておるのか、と首を捻ることであろうが、それが趣味というものである。

電車に乗っていたならば決して目に入らない東海道の街並みを、存分に楽しんだものだった。


京浜急行と「マリンエキスプレス」川崎-木更津航路の組み合わせと同じく、川崎を出入りする路線バスは、学生時代の恰好の気晴らしだったのである。



川崎に夜行高速バスが発着していた時期がある。

平成2年に京浜急行バスと阪神電鉄バスが運行を開始した横浜-神戸線「アンカー」号が、平成4年に起終点を川崎駅に延伸した。

僕は三宮駅から横浜駅まで乗車したことがあったけれども、川崎駅まで運行区間が伸びたと知って、ならば乗らねばなるまい、と2度目の乗車を試みたのである。


この路線は利用者数が不振だったために、平成9年に廃止されてしまい、川崎延伸も増収策の一環だったものと推察されるが、僕が1度乗車した高速バスに乗り直すのは稀である。

2回目も上り便を利用したのだが、その動機は、早朝の川崎駅に夜行高速バスから降り立ってみたい、という誠に他愛ないもので、それだけ川崎に対する思い入れが強かったのだろう。



東京湾アクアラインを走る多くの高速バス路線の中では、最も老舗である川崎-木更津線を、どうしてバイクより後回しにしたのか、自分でも不思議でならない。


『いつでも行けると思うと、いつまでも行かない。

東京の人は、いつまでたっても泉岳寺を訪れないし、東京タワーには昇らない。

こういうところは修学旅行で来た生徒のほうが知っている。

私はたまたま東京タワーに昇ったことがあり、船や都心を見下ろしながら案外面白いところだと思ったが、考えてみると、それより前に通天閣に昇っていたし、さらにそれ以前にエッフェル塔に昇った。

鉄道にしても同じで、北海道の果てから九州の南端まで相当な足跡を残している人でも、鶴見線には乗らない。

関西在住の人で尼崎港-塚口間や兵庫-和田岬間に乗った人は少ないだろう。

いずれもその気になれば、東京駅や大阪駅から2時間くらいで言ってこられる線である。

用がなければ乗る必要はないから、鶴見線に乗らなくても構わないけれど、私などのように富山港線だと眼の色が変わるが鶴見線に乗ったことがない、では心掛けの問題になってくる。

なんだか、出張だと張り切るが本社ではさっぱり仕事をしない社員みたいで、よくない』


紀行作家の宮脇俊三氏は、国鉄全線完乗を目指した著書「時刻表2万キロ」の第2章「鶴見線」を、このように書き出している。

出張で張り切る傾向は僕も身に覚えがあるし、東京タワーを訪れたこともあるから、川崎-木更津線に乗るのが遅れたのは、宮脇氏と似たような心境であったのは否めない。


平成8~10年は高速バスの新路線が目白押しだった年で、平成8年11月の上信越自動車道開通に伴う東京と故郷・長野市を結ぶ高速バスの開業を皮切りに、平成9年12月開業の東京湾アクアライン経由の高速バス、平成10年3月に完成した明石海峡大橋を渡る本四連絡バスと、同じ年の安房トンネル開通に伴う「中央高速バス」新宿-高山線など、僕の眼の色を変えさせる高速バスが幾つも登場していた。

東京湾アクアラインばかりでなく、明石海峡大橋や安房トンネルなど、我が国の技術力が試されたビッグ・プロジェクトが日の目を見た時代だったのだな、と思う。



僕が乗車した川崎駅東口を9時10分に発車する木更津駅行きの便は、鮮やかな緑色に塗られた川崎市営バスの担当で、市役所通りを東へ進み、第一京浜を横切って、国道132号線・富士見通りに直進する。

高架の首都高速横羽線に頭上を覆われている産業道路へ左折し、大師ランプの手前で国道409号線に右折すると、日本冶金、花王、東芝などのコンビナートや日本石油の製油所などが巨大な敷地を占めている工場地帯に足を踏み入れていく。


国道409号線は、川崎市内を起点に木更津、茂原、大網白里、東金、富里を経て成田に至る130kmを結び、川崎と木更津の間の海上区間が東京湾アクアラインとなっている。

現在では、国道409号線に大師JCTと浮島JCTを結ぶ首都高速川崎線が重なっているけれども、殿町ランプから浮島JCTの間が部分開通したのは平成14年のことで、この旅の当時は工事の真っ最中だったから、ただでさえ殺風景な車窓が一段と乱雑に感じられた。


多摩運河を渡って浮島に渡れば、それまで時折り見受けられた商店やコンビニも姿を消し、ところどころに自販機が置いてあるだけになる。

住人など存在しないのだから当たり前であるけれども、休日の工業地帯とは、これほど人の気配が消えてしまうものなのか、と思う。



東京湾に面した埋立地の突き当たりまで進むと、バスは9時37分発の浮島バスターミナルに立ち寄る。

東京湾アクアライン開通に伴って設置され、主として川崎-木更津線と一般路線バスとの乗り換えに使われているらしく、僕が乗る便を乗り降りする客はいなかった。


東京湾アクアラインの開通で、京浜工業地帯に働く人々の通勤圏が木更津周辺まで拡大したものの、当初は全線を通り抜けると普通車4000円、大型車6600円という高額の通行料金ゆえに、通行量は1日1万台と、当初見込みの2万5000台を大きく下回ったのである。

中でも、物流を担うトラックや路線バスを含む大型車の比率は3%にも満たない1日290台という惨々たる有様で、おそらく東京・神奈川方面から房総半島に向かうトラックの大半が、従来通り首都高速湾岸線を利用していたものと思われる。

川崎-木更津線、川崎-袖ヶ浦線、横浜-木更津線、羽田空港-木更津線の4路線が1日合計121往復を運行し、年間147万人を輸送していた高速バスだけが、唯一、東京湾アクアラインの恩恵を受けていたのである。


平成14年に普通車通行料金が3000円・大型車4950円に引き下げられ、更に社会実験によってETC搭載の普通車が800円、大型車が3830円となったのは平成21年のことで、その直後に、普通車が1日1万7600台、大型車が9%近い1549台まで増加、ようやく東京湾アクアラインは産業に寄与する動脈としての地位を獲得した。

この頃には、東京湾アクアラインを運行する高速バスも17路線を数え、1日344往復、輸送人員442万人に膨れ上がっていた。


工場や倉庫、そして雑草だらけの空き地に囲まれた浮島バスターミナルは、待合室とトイレ、自販機、公衆電話だけが置かれた簡素な建物と駐輪場があるだけだった。

僕は、鶴見線で京浜工業地帯に足を踏み入れた時のことを思い出した。



『鶴見から来た海芝浦行は発車するとすぐ運河に沿い、大きな荷船の行き交うのが見られる。

次の新芝浦は駅の出口と工場の入口が向かい合っているだけで、ほかには何もない。

電車はこの工場の中に突っこむように右に曲がり、広い京浜運河に接して停車した。

終点の海芝浦である。

対岸は新しい埋立地の扇島で、同一規格の石油タンクが整然と並んでいる。

ホームの鉄柵ごしに下を覗くと、10メートルばかりの真下に海面がある。

信越本線の青海川なども海に突き出たような駅だが、本当の真下に海面の見える駅はこの海芝浦だけであろう。

こうやって欄杆から下を覗いていると、停泊中の汽船の甲板から海を見ているような錯覚を覚える。

しかも海水は意外に汚れていない。

化学的には汚染されているのだろうが浮遊物はまったくなく、そこいらの海水浴場などよりよほどきれいに見える』


鶴見線について宮脇俊三氏はこのように記し、蒙を啓かれた、遠くへ行くばかりが旅ではない、と後に繰り返し主張するようになる。



海芝浦駅のように海面が間近に見える訳ではなく、海の方角には茫漠たる広大な空き地が広がっているだけであるけれども、人気がなく殺伐とした浮島バスターミナルの光景は、「マリンエキスプレス」を降り、何だか非日常的な場所に来てしまったな、と心細くなった時と何も変わっていなかった。


川崎-木更津線を運行しているのは、京浜急行バス、川崎鶴見臨港バス、川崎市営バス、小湊鐵道バス、日東交通、東京ベイサービスの6社で、このうち東京ベイサービスは、廃止された「マリンエキスプレス」社員の雇用の受け皿として設立された会社である。

昭和63年に開通した備讃瀬戸大橋では、廃止航路の従業員の雇用の受け皿として瀬戸大橋高速バスが発足し、また平成10年に完成した明石海峡大橋でも、同じ目的で本四海峡バスが設立されているので、大規模な架橋が完成すると、平行航路の救済措置がバス会社設立という形で行われるようである。



「マリンエキスプレス」は、昭和39年に設立された「日本カーフェリー」が前身で、平成2年にシーコムへ営業権が譲渡された後、平成4年の同社の破産に伴い債権銀行が買収して、「マリンエキスプレス」に社名が変更された。


昭和40年に開業した川崎-市原、川崎-木更津といった東京湾内航路ばかりでなく、昭和46年に川崎-日向、神戸-日向、昭和47年に大阪-日向、昭和49年に広島-日向、昭和55年に大阪-志布志、平成6年に川崎-宮崎、平成16年に貝塚-日向-宮崎と長距離フェリー航路を次々と開設、平成14年には川崎-日向航路が高知に、川崎-宮崎航路が紀伊勝浦に寄港するなど、かなり大手のフェリー会社と思っていたので、川崎-木更津航路が廃止された程度で雇用対策が必要なのか、と首を傾げたものだった。

ただし、川崎-木更津航路には4隻のフェリーが就航して30分間隔の頻回運航を行っていたため、関与する従業員が多かったのかも知れない。


川崎-市原航路は昭和49年に、広島-日向、大阪-志布志航路は昭和57年に、大阪-日向航路は平成2年に、神戸-日向航路は平成10年に、川崎-高知-日向航路と川崎-紀伊勝浦-宮崎航路は平成17年に廃止されていることから、内情は火の車であったものと推察される。



僕が川崎-木更津航路を頻繁に利用していた頃、川崎港を出入りする長距離航路は日向・宮崎航路だけになり果てていたが、それでも乗船券を発券する窓口で「日向・宮崎」の文字を眼にすると、遙々九州まで公開する船旅への憧れが湧き上がってきたものだった。

いつかは川崎から九州までのんびりと船旅を楽しんでみたいと思っていたが、ついに叶うことはなかった。

ただし、同社の長距離夜行フェリーとしては、大阪港と宮崎港を結ぶ航路を利用したことがある。

僕にとっては何かと思い入れが強いフェリー会社であったのだが、平成16年の貝塚-日向-宮崎航路開設の4ヶ月後に、大阪-宮崎、貝塚-日向-宮崎航路を宮崎カーフェリーへ譲渡し、平成17年に川崎-日向、川崎-宮崎航路を廃止、その翌年に「マリンエキスプレス」は解散した。


浮島バスターミナルの隣りにある浮島町公園に接して、「マリンエキスプレス」のフェリーターミナルがあり、この旅の当時は宮崎航路が健在だったが、平成17年に解体されて、跡地は物流センターになったと聞く。



バスターミナルの海側に高架道路が螺旋状に張り巡らされた浮島ICが視界を遮り、バスは流入路をぐるぐると回りながら、東京湾横断に挑んでいく。

地下トンネルから迫り上がってきた首都高速湾岸線の接続路と合流し、右へ右へときつい曲線が続くうちに、全長15.1kmの東京湾アクアラインのうち、3分の2の9607mを占めるアクアトンネルの入口が現れた。

上部に置かれたピラミッド型の格子状の装飾は、換気口である。



東京湾アクアトンネルは、首都高速中央環状線山手トンネル、関越自動車道関越トンネル、東海北陸自動車道飛騨トンネルに次ぐ我が国第4位の長さを誇り、海底道路トンネルとしては世界一、その最深部は海面下60.1mと一般国道の中で日本一標高が低い。


東京湾横断道路の構想は、昭和36年に産業計画会議に提出された勧告に始まり、当初の計画では川崎側と木更津側の両端を橋梁とし、中央部分がトンネルであったという。

全ての区間を大型船舶が通過可能な高さの橋梁にすると、羽田空港を離着陸する航空機の障害となるため、大型船舶を航行可能とするトンネル部分を設ける必要がある一方で、当時の換気技術では5km以上の自動車トンネルを設けることが困難だったのである。

昭和60年頃になると換気技術が進歩し、当初は橋梁とする予定だった川崎側の区間に1日1000隻近くの船舶が航行することから、川崎側の10kmをトンネルにする現在の設計に変更されている。

トンネルの工法も、建設過程における船舶への影響を少なくするために沈埋工法からシールド工法に変更されたが、当時のシールド工法はまだ発展途上で、小口径のトンネルのみに用いられていた技術であったらしい。

東京湾アクアトンネルのような大口径の海底トンネルに採用された事例は無かったが、我が国の建設技術の進歩が、実現を可能としたのである。


東京湾の海底は、ヘドロによる軟弱な地盤であることに加え、地震も頻繁に起こるため、海底トンネルとしては悪条件が多く、人類を初めて月面に到達させた米国の「アポロ計画」になぞらえて「土木のアポロ計画」と呼ばれたという。

工事に用いた鋼材は約46万トン、セメントは約70万トンにのぼり、総工費は約1兆4000億円にも達したのである。

開通当初の東京湾アクアラインの通行量が割高になったのも、無理はないのかもしれない。


一方で、自動車社会を迎えた我が国の道路行政では、経済効果も考慮せねばならず、あまりに割高な通行料金のために利用台数が寡少となるのも考え物である。

普通車が4000円という通行料金は、東名高速道路に当てはめれば東京ICから220km離れた静岡県の袋井ICまでに匹敵するから、難工事であったことを鑑みても、全長15kmの東京湾アクアラインの料金としてはあまりに高額であった。



トンネルというものは、中に入ってしまえばつまらない。

景色が見えるわけでもなく、今は東京湾の海底にいるのだぞ、どえらいモノをこしらえたものだ、と自分に言い聞かせているより仕方がない。


やがて、「風の塔」という標識が照明に照らし出される。

またの名を「川崎人工島」と言い、外径は195 m、高さ96mと81mの2本の換気塔が設けられている。

天然の風を利用する換気方法のため、季節ごとに変化する東京湾の風向きや強さを計算した形状になっていて、羽田空港を離着陸する航空機のレーダー波を乱反射しない素材が使用されているという。

浮島入口の換気口も、後に完成した羽田空港D滑走路の障害となったため、平成21年に上部が取り払われたように、東京湾アクアラインの建設は、軟弱地盤だけでなく、羽田空港にも相当の配慮を払っている。

てっぺんに空でも見えないものか、と窓越しに「風の塔」を見上げてみたけれども、真っ暗で、換気口があるのかどうかすら定かではなかった。


「風の塔」がアクアトンネルの中間地点で、それまで下り坂だった道路は、緩やかに上り傾斜に変わっていく。

トンネルに入って7~8分も経った頃合いであろうか、登り坂の彼方に、眩く光を溢れさせている出口が見え始めた。

バスは少しずつ減速し、トンネルを抜けて車内に光が満ちると同時に、海ほたるPAへの流入路に逸れていく。



別名「木更津人工島」と呼ばれる海ほたるPAには、全長650m・幅100mの、客船を模した5階建ての休憩施設が設けられている。


当時は大変な人気で、駐車場に繋がる乗用車用の流入路には長い列が出来ているが、バスは専用通路を滞りなく進み、船の甲板のような乗降場に停車した。

川崎-木更津線を使えば、車がなくても海ほたるを楽しめる訳で、家族連れを含めた10名ほどが下車し、入れ替わりに数人が乗り込んでくる。



僕は終点まで乗り通すつもりだったので、ここでは降りなかったが、以前にバイクで立ち寄った時のことはよく覚えている。

店舗やレストランが並ぶ各階層は人混みがひどくてうんざりしたけれど、外に出てみれば、360度を見晴るかす眺望には圧倒された。

上空を、羽田空港への着陸態勢に入った航空機が、遠い轟音をかすかに響かせながら次々と姿を現す。


展望デッキから川崎方面を見通してみれば、彼方に浮かぶ陸地の手前に、真っ白な「風の塔」がぽつんと見え、この海の下に長さ10kmに及ぶトンネルが掘られているのか、と、不思議な感覚にとらわれたものだった。



再び本線に戻れば、我が国で最も長い全長4384mのアクアブリッジが、前方に一直線に伸びている。

アクアブリッジの橋桁は、2000トンクラスの船舶がくぐり抜けられる高さと径間が確保されるとともに、我が国では前例がない11径間という多径間連続化により、耐震性と走行性の向上が図られているという。


こちらも壮大な建築物であることは間違いないが、行き交う車の台数は少ない。

勿体ないことだ、と思う。



上方に向けてなだらかな弧を描く橋梁の彼方に、房総半島の陸地が霞んでいる。

地図で見れば東京湾なんて狭いものだ、と高をくくっていたけれど、こうして海の真ん中に放り出されてみると、何という雄大な眺望であろうか。

「マリンエキスプレス」川崎-木更津航路でも同様に感じたことを懐かしく思い出したが、東京湾アクアラインは、巨大な人工物との対比が視界に加わることで、一層荘厳な気分にさせられる。

この眺望を1500円の運賃だけで我が物に出来るのだから、川崎-木更津線に乗りに来た甲斐があったと思う。


冷暖房完備の高速バスの窓を開ける訳にはいかないけれども、海ほたるからの数分間は、見渡す限りの大海原を存分に満喫しながら、あたかも潮風に吹かれているような爽快な道行きとなった。



房総半島に上陸して間もなくの袖ヶ浦ICで、バスは高速道路を降りてすぐの袖ヶ浦バスターミナルに立ち寄る。

利用者用の駐車場を備えたバスターミナルは、浮島ほどではないけれども、周囲に草むした空地が目立つ、あっけらかんとした場所であった。

それでも幾分風景が柔らかく感じられるのは、元々の陸地と埋立地との違いであろうか。

アクアラインは完成したけれども、沿線はまだまだ発展途上なのだな、と思う。


袖ケ浦バスターミナルから木更津駅までは15分あまり、東京湾を横断する壮大なバス旅は、1時間05分で終わりを告げた。



江戸時代から港町として栄えた木更津の由来は、「如月の津」や「木足らず」が転じたなどと諸説あるらしいが、倭建命が三浦半島の走水から東京湾を渡ろうとしたところ、海が大いに荒れ狂い、妻の弟橘媛が海中に身を投じて海神の怒りを鎮めた伝承が、最も有力であるという。

弟橘媛が身にまとっていた衣の袖が流れ着いたことで、袖ヶ浦の地名が生まれ、上総に上陸した倭建命が妻の死を悲しみ、しばらくこの地を離れなかったことから、「君不去(きみさらず)」、つまり木更津の起こりなのである。


昭和43年に旅行雑誌「旅」に連載されたSF作家小松左京氏のルポ「日本タイムトラベル」に、次のような同行者との会話がある。


『「君は知ってるかね?東京湾横断橋ってのはどこらへんに架ける予定なんだ?」』

「さあ──はっきり決まってるわけじゃないけど、架けるとすれば、三浦半島は観音崎の走水あたりから、富津洲あたりでしょうかね」

「走水?」


私は思わず膝を打った。


「できた!いやできましたよ、そうこなくっちゃ面白くない。未来へ向かう東海道メガロポリスは、近代をこえて次第に上古の姿を復元して行くことになる。──東京湾横断架橋の際には、ヤマトタケルの碑でもたてることだな」

「なんです、それは?」


白山喜照は、あきれたようにつぶやいた。


「ヤマトタケルさんてのは、橋梁設計家ですか?」

「記紀を知らんのか?──ヤマトタケルノミコト東征の砌、伊勢、尾張、駿河ときて、相模の国、走水から上総へ渡る。以後、これが古代の東海道の公道になった。つまり、律令体制成熟以前の時代にあっては、東海道は、伊勢を発して参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模と来て、そこから海上を上総へ渡り下総を経て常陸で終わる。月の无邪志(むさし)は、東山道に属して、信濃あるいは上毛野、つまり上野は群馬あたりから南下しなきゃならなかった。こいつが不便だというので、宝亀2年(771年)太政官秦請によって、武蔵の国はやっと東海道行政区に編入になり、多麻の国府から甲斐の国府、下総の国府、相模の国府などの間に道路がひらかれる」

「へーえ、すると、古東海道から、東京都ははずされていたんですか?」

「その通り、現在の府中にあった、武蔵国国府へのルートは、当時北関東における最も文化の高かった上毛野の国府、つまり現前橋付近から秩父山脈の山麓沿いに、埼玉県飯能あたりを通って南下しなけりゃならなかった。こいつは、3、4世紀になってやっと海退著しくなった関東平野を、古利根、古荒川がまだずたずたに切り刻んでいたことを考えれば、無理からぬことじゃないかね?武蔵の国府は、武蔵野台地の南縁に設けられ、その前を多摩の急流が流れ、その向かいの多摩丘陵をもって、相模との国界とする。──武蔵の国が、やっと東海道に編入され、小仏越えで相模と結ばれたり、利根川、大日川(現江戸川)を越えて、市川市にあった下総国府と結ばれるのは、架橋、渡船、いずれにしても渡河技術が相当発達してからだな」

「東海道にお江戸なしとは驚いたな」


と白山喜照はつぶやいた。


「それで、无邪志をはずした上古東海道は、それからどうなるんです?」

「木更津へんから、房総半島を東京湾沿いに北上して、現在の市原市付近にあった上総の国府に出る。さらに北上して浮島の牧あたりへ出た。むろん、市川の下総国府へも行ってたろう。下総国府から常陸へのルートは、大体今の常磐線、水戸街道と考えていいだろうが──しかしね、香取、鹿島へ抜ける道は、船橋、習志野へんから水路という手もあったらしいぜ。なんせ、東京湾海岸線は、現在よりだいぶ内陸へ向かって後退してたし、霞ヶ浦なんて、鹿島大砂嘴で湾口を狭められていたものの、がっぽり内陸まで入りこんでいた海湾だったんだからな。──霞ケ浦があんなに土砂で埋まってくるのは、坂東太郎に暴れられて、江戸後背地がすぐ水づかりになっちまうのに苦しめられた江戸幕府が、文禄3年(1594年)の第1改修に続いて、元和7年(1621年)から30年間に、利根川の本流を鬼怒川に合流させてからさ」』


倭建命が東京湾を横断したのは、三浦半島側が現在の「東京湾フェリー」の起点に近く、房総半島側が東京湾アクアラインの袂、ということになり、嵐で北へ流されたのかな、と思う。

古代の東海道が、河川の氾濫原で未開の地であった関東平野を避けて、三浦半島から房総半島へ渡り、現在の館山自動車道や圏央道に沿っていたと言うのだから、東京湾アクアラインがそれを復元したことには、心が揺さぶられるような歴史のロマンを感じる。


東京湾横断道路が、倭建命に倣って横須賀と富津岬を結ぶ構想だったと言う話も面白いけれど、三浦半島は東京までが遠すぎるし、そうなったら東京湾を横断する高速バス路線がこれだけ増えたかどうか。

走水-富津よりも距離が長くなって難工事になったのかもしれないが、川崎と木更津を結ぶルートは正解だったのだと僕は思う。



僕が利用した川崎市営バスは、公営バスが高速バスに参入した珍しい例であったけれども、平成16年に川崎-木更津線から手を引いてしまう。

利用者数が少ないのか、と不安にさせられる推移だったが、その後の東京湾アクアラインを使う高速バスの発展ぶりは目覚ましく、木更津発着路線だけを取り上げても、


平成9年12月:川崎駅・横浜駅・羽田空港

平成14年7月:品川駅

平成15年10月:東京駅

平成20年9月:新宿駅

平成30年7月:渋谷駅


と、各方面に路線が伸びている。


川崎-木更津線は、いわば東京湾の渡し船である。

首都圏や房総半島の各地から川崎や木更津に客が集まれば、それなりの需要を維持できたのかもしれないけれど、都心部を直結する高速バス路線が発達したことで、相対的に川崎-木更津線の利用者数が減ってしまったのかもしれない。

後の通行料金値下げも、自家用車に客を奪われる結果を招いて、川崎-木更津線には痛手であったのだろう。


平成24年4月には「三井アウトレットパーク木更津」が開店し、こちらも首都圏各地から直通高速バスが開設され、休日ともなれば最寄りの木更津金田ICで買い物客の車が大渋滞を引き起こすのも後の話で、この旅の時代の木更津金田ICの周辺は、一面の水田だったように記憶している。

木更津金田バスターミナルが追加して開設され、年間60万人近い利用客で賑わうのは、平成28年以降のことである。



高速バスでは初めてとなった東京湾アクアラインの旅は、短くても、僕を大いに満足させてくれた。

フェリー時代の情緒が惜しくないと言えば嘘になるけれども、人間の感傷など顧みずに進歩していく時代の趨勢と理解すべきだろう。

僅か1時間前に、川崎駅の雑踏の中に身を置いていたことが、俄には信じられない。


高速バスファンとしては、横浜や羽田空港へ向かう未乗の別路線で折り返すところであろうが、木更津駅前の賑わいをぼんやりと眺めているうちに、ふと、昔を偲びながら、以前と変わらない内房線の列車で、東京湾をぐるりと回って帰ろうか、と考えた。

木更津からは、横須賀線に直通する総武本線快速電車が走っている。

川崎駅は通らないけれども、品川の1つ先の西大井駅で降りれば、帰宅にも便利である。

所要は2時間、高速バスの2倍を費やすことになるが、時間に束縛される旅でもなし、乗っている時間が長いのは、僕のような人間にとって素晴らしいことではないか、と考えた。

まだ午前10時を過ぎたばかりで、時間はたっぷり残されている。


加えて、東京湾アクアラインを渡る高速バスの快適さが予想以上であったため、今後、東京から木更津まで鉄道を使う機会がなくなってしまうことを危ぶんだのも、理由の1つであった。



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