第47章 平成17年 夜のアクアラインを行くリムジンバスと高速バスで銀河鉄道の幻想にひたる | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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【主な乗り物:リムジンバス羽田空港-五井線、高速バス横浜-五井線】

 


羽田空港第2ターミナルを定刻20時10分に発車した五井行きのリムジンバスは、次に停車した第1ターミナルでほぼ満席となった乗客を乗せて、広大な空港の敷地をめぐる周回道路を走り始めた。 

平成17年の冬の平日のこと、普段通りに仕事を済ませてから慌ただしく出掛けて来たので、あたりはすっかり暗くなっている。 


大田区内にある職場の近くで路線バスに飛び乗って羽田空港に駆けつけ、ターミナルビルではバス降車場のある出発ロビーからバス乗り場のある到着ロビーにエスカレーターで移動しただけなのに、たった今飛行機から降りてきたばかりです、と涼しい顔をして、混雑するリムジンバス乗り場の列に加わっていた訳である。

車内にひしめく乗客を見回しながら、この中で航空機に乗っていないのは僕だけなのだろうな、と苦笑いが込み上げてきた。

 

着陸する航空機の逆噴射なのか、離陸する飛行機が吹かすのか、時折、轟々と低い爆音が、車内の空気を僅かに震わせる。

 煌びやかな2つのターミナルビルや、その向こうの滑走路と誘導路の赤、黄、青に散りばめられた無数の灯が、漆黒の夜空を背景に浮かび上がって、どこか幻想的である。

 

 

宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で夢想したのは、このような光景だったのかも知れない、との連想が、ふと心に浮かんできた。

 

 『カムパネラは、まるい板のようになった地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。

まったく、その中に、白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。

そしてその地図の立派なことは、夜のように真っ黒な盤の上に、一々の停車場や三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、美しい光で散りばめられてありました。

ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たように思いました。

 

「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ」

 

ジョバンニが言いました。

 

「銀河ステーションでもらったんだ。君ももらわなかったの」

「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちのいるとこ、ここだろう」

 

ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。

 

「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか」

 

そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀色の空のすすきが、もうまるでいちめん風にさらさらさらさら、揺られて動いて、波を立てているのでした。

 

「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ」

 

ジョバンニは言いながら、まるで跳ね上がりたいくらいに愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生懸命延び上がって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。

けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりも透きとおって、ときどき眼のかげんか、ちらちら紫色のこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、美しく立っていたのです。 

遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄色ではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは三角形、あるいは四辺形、あるいは稲妻や鎖の形、様々にならんで、野原いっぱいに光っているのでした。

ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。

すると本当に、そのきれいな野原じゅうの青や橙や、色々輝く三角標も、てんでに息をつくように、ちらちら揺れたりふるえたりしました』

 

 

ジョバンニとカムパネラが、「銀河のお祭り」と呼ばれる「ケンタウル祭」の夜に、突如として銀河鉄道に乗り込んだ直後の一節は、特に色彩の描写が得も言われないほどに美しい。 

 

大正13年に執筆が開始され、宮沢賢治が亡くなる昭和8年の直前まで推敲が繰り返されたと言われている「銀河鉄道の夜」の時代に、このような光景の場所が我が国に実在したとは思えず、あたかも著者がタイムトラベルで現代の羽田空港を覗きに来たのではないかと空想したくなる。

 

 

五井行きリムジンバスの車内は、混み具合の割にはひっそりとしているが、2人連れがいる席からは、かすかに話し声が聞こえてくる。

乗客の大半は、空の旅を終えてホッとひと息ついている心持ちだろうが、僕の旅は、ジョバンニやカムパネラのように、始まったばかりである。

僕も飛行機に乗るのは嫌いではないけれど、空の旅を終えれば、今回も生き延びたか、と決して大袈裟でなく肩の力が抜ける。

事故の確率が自動車や鉄道よりも低いことは重々承知しながらも、それでも、飛行機の旅は命がけなのだと思っている。

 

航空機から見下ろすならば、「銀河鉄道の夜」のような夜景を見ることも可能だろうし、着陸後の空港でも、よくぞパイロットは間違えずに飛行機を走らせるものだ、と感心しながら、無数に散りばめられた誘導灯にうっとりするのも好きである。

リムジンバスから同じような車窓が眺められるとは、思ってもみなかった。

 

 

平成5年の羽田空港ターミナルビル「ビッグバード」の完成と前後して、空港の様相も一新した。

地方空港を少しばかり大きくしただけのようなみすぼらしさだった羽田空港が、首都の玄関に相応しく、見違えるような威容を現した時には、誇らしく感じたものだった。

 

旧来のアクセス道路は、環状八号線もしくは羽田の狭い街並みを抜ける弁天橋通りだけで、休日ともなれば、現在の国際線ターミナルの近くに置かれていた旅客ターミナルを、穴守稲荷の赤い鳥居が立つ空港の入口で眼にしてから、実際に車を横付けするまで数十分を要するような渋滞が、しばしば発生したものだった。

今では国道357号線・湾岸道路と首都高速湾岸線が敷地内を真っ直ぐに貫き、空港中央と湾岸環八の2つのランプも設けられて、接続する道路も高速道路のように滑らかな造りになっているから、とても走りやすい。

ただし、車の流れをスムーズにするためなのであろうが、敷地内の周回道路は一方通行であるから、時に間怠っこしく感じることもある。

 

羽田空港を出発するリムジンバスは、第2ターミナルを始発として、第1ターミナルを経由してから目的地に向かうので、僕は第2ターミナルから乗車するのが常だった。

第1ターミナルに面する道路が都心方向を向いているため、首都高速湾岸線の西行き方面に入るためには、2つのターミナルビルをぐるりと回る必要がある。

先程出て来たばかりの第2ターミナルを横目に見れば、またか、とうんざりするけれども、巨大空港とはこういうものだと諦めるしかない。

 

 

クリント・イーストウッド主演の米映画「マンハッタン無宿」で、テンガロン・ハットに爪先の尖ったカーボーイ・ブーツという出で立ちのまま、アリゾナからニューヨークに出て来た保安官が、タクシーを拾う場面を思い出した。

目的地に着いて、料金を口にしたタクシー運転手に、

 

「ところで、ブルーミング・デールっていうデパートは、この街に何軒ある?」

 

と、イーストウッド扮する保安官が何気ない口調で問い掛ける。

 

「1軒ですが?」

「その前を2回通ったぞ」

 

僕が乗っているのは日本のリムジンバスで、ニューヨークのぼったくりタクシーではないので、何度同じ建物が目に入っても安心である。

煌びやかな空港の夜景と、堂々たるターミナルビルや立体駐車場などを眼にすれば、凄い空港を造ったものだ、と瞠目せざるを得ないから、多少迂回しても飽きは来ない。

 

 

羽田の歴史は比較的新しく、江戸時代の後期に羽田村沖の干潟が水田開発を目的として干拓されたことに始まる。

幕末に江戸防衛のための砲台が設置され、明治35年には干拓地に鎮座している穴守稲荷神社に向けて京浜電鉄穴守線が開通、羽田球場をはじめ遊園地や海水プールを併設した一大レジャー施設が設けられた。

 

『羽田といえば、昔は漁師町と辨天とで聞こえたものだが、今では穴守ばかりが人口に膾炙してゐる。

そしてこの穴守稲荷が賑はふやうになつたのは、まだつい二十年前で、一時、新聞で盛んに書き立てたことを私は覺えてゐる位である。

縁起といふやうなものも極く無雜作なものである。

それにも拘わらず、東京近郊の屈指の流行神になつたといふことは、不思議な現象である。

つまり、花柳界方面の信仰を先づ最初に得たといふことが、かう繁盛していつた第一の理由である』

 

と田山花袋も著しているから、花街もあったのかもしれない。

 

 

大正6年に日本飛行学校がこの地に開校したことが、羽田と航空機との関わりの始まりで、滑走路は川崎側の多摩川河川敷に造られていたという。

 

大正12年の関東大震災をきっかけに航空輸送の重要性が見直され、それまでは立川陸軍飛行場を共用していた民間航空路線の需要も増えたため、都心からの利便性が高い羽田の干拓地に空港を建設することが決定し、昭和6年8月に羽田飛行場が開港する。

総面積が53ha、長さ300m・幅15mの滑走路を除けば草地ばかりで、管制塔もないような空港が、今や30倍の1516ha、2000~3000m級の合計4本の滑走路を備えるに至った羽田空港の元祖である。

記念すべき第1便は日本航空輸送の大連行き定期便であったが、当時の航空運賃は非常に高額で搭乗客がなく、大連のカフェに送る松虫や鈴虫6000匹が積載されただけという微笑ましい逸話を残している。

 

 

その後、大阪や福岡、台北、京城など、大日本帝国領土内の主要都市に向けた国内線や、満州国への国際線の運航が活発になり、ターミナルビルや格納庫、滑走路、各種設備が体裁を整えていく。

 

昭和12年5月には、欧亜連絡飛行を行った「神風」号が帰着し、同じ月に航続距離の世界記録を樹立した「航研機」の初飛行や、昭和14年8月に国産航空機として初めて世界一周飛行に挑んだ「ニッポン」号の発着地になり、昭和13年にはルフトハンザ航空が羽田とベルリンの間を飛行、昭和15年には国産旅客機三菱MC-20の完成披露式が行われるなど、航空先進国であった我が国の象徴とも言うべき空港に発展する。

昭和13年に最初の拡張工事が実施され、羽田球場は空港用地として接収されて消滅し、総面積72ha、全長800m・幅80mの滑走路2本が十文字型に配置されて、当時としては世界有数の近代的な空港になった。

 

昭和16年には霞ヶ浦海軍航空隊の一部が駐屯して軍用飛行場としても使用されることとなり、同年12月に開戦した太平洋戦争中には、国内線のみならず同盟国の満州国やタイ王国、南方作戦で占領した香港、ジャカルタ、マニラ、シンガポール、ニューギニアのウェワク、ラバウルなどへ向けて定期便が陸軍の委託を受けた日本航空輸送により運航され、捕獲した米軍や中国軍、オランダ軍などの戦闘機の展示会も行われたが、日本の民間航空は休止状態となったのである。

 

 

敗戦直後の昭和20年9月に羽田空港は連合軍に接収され、羽田干拓地の住民を48時間以内に強制退去させた上で、米軍808飛行場建設部隊による空港拡張工事が昭和21年6月に完成し、長さ2000m・幅45mのA滑走路と長さ1650m・幅45mのB滑走路が設けられた。

空港内に残されていた航研機や日本軍の軍用機は米軍によって投棄され、現在も敷地内の地中に埋まっていると言われている。

 

この時、敷地内にあった穴守稲荷神社の大鳥居は撤去されなかった。

国家神道に繋がるとして全国で4万6000基あまりの鳥居を取り壊したGHQにとっても、昭和4年に建立された大鳥居はアンタッチャブルであったらしい。

 

『門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な作りだった。

ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我したため、いったん中止となった。

再開したときには工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。

これは「穴守さまの祟り」という噂が流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった』

 

と京浜急行電鉄の社史に記されている。

 

 

占領下の我が国においては全ての日本国籍を持つ航空機の運航が禁止され、民間航空輸送が再開された昭和22年以降に羽田空港を発着したのは、ノースウェスト航空やパンアメリカン航空、英国海外航空、フィリピン航空、カナダ太平洋航空、民航空運公司など、連合国の定期便だけであった。

 

昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結され、我が国の航空活動が解禁されたことを受けて、後に伊豆大島の三原山に墜落する日本航空のマーチン2-0-2型「もく星」号が、羽田-伊丹-板付間を初めての民間航空定期便として運航を開始する。

昭和27年7月1日に、滑走路、誘導路、各種航空灯などの諸施設が連合軍から日本政府に移管され、羽田空港は「東京国際空港」に改名したものの、「東京国際空港の共同使用に関する日本国と在日米軍との間の取極」により管制権や一部施設は引き続き在日米軍の管轄下に置かれることになる。

同月に、世界初のジェット旅客機であり、後に構造欠陥から空中分解事故を起こすことになるデ・ハビランドDH106型「コメット」がロンドンヒースロー国際空港を結ぶ南回りヨーロッパ線で就航、昭和28年には日本航空のダグラスDC-6型旅客機による国際定期路線が東京-ウェーク島-ホノルル-サンフランシスコ間に登場する。

 

国内ローカル線の開設が相次ぎ、連合国以外に日本の空が解放されたことによるKLMオランダ航空、エールフランス航空、エアインディア、スイス航空、キャセイパシフィック航空など外国航空会社も就航して、旅客が急激に増加したのである。

 

 

新しい旅客ターミナルが完成し、A滑走路が2550mに延伸された上で、全面的に米軍から空港機能が返還されたのは、昭和30年5月のことだった。

 

昭和30年代に入ると、旅客ターミナルの増築が繰り返されるようになり、A滑走路が3000mに延伸、長さ3150m・幅60mのC滑走路の新設、東京モノレールの乗り入れ、初の空港敷地内ホテルとして羽田東急ホテルが開業するなど、東京五輪に向けた整備拡張が次々と行われる。

昭和46年にB滑走路が2500mに延伸されたが、高度経済成長で我が国の経済活動が活発になり、国内線・国際線双方の急激な増加に応じきれず、羽田空港は瞬く間に手狭になってしまう。

激しい反対運動により大幅に遅れたものの、昭和53年5月に成田空港が開港すると、ごく一部を除く国際線の発着をそちらに譲ることになる。

 

僕が東京に出て来たばかりの頃、昭和60年代の羽田空港には、航空機に乗りもしないのに、よく遊びに行ったものだった。

ターミナルビル内部の店舗を見て歩くだけでも楽しかったが、何と言っても、展望デッキで風に吹かれながら、航空機の離着陸や、駐機場の様々な機種を眺めていれば、時が経つのを忘れた。

当時の写真を見てみれば、懐かしい機種がボーディング・ブリッジに横づけすることもままならず様々な向きで駐機され、当時の羽田空港は何と乱雑だったのか、と思う。

世界が瞠目するような短期間で敗戦の痛手から復興した我が国の勢いを、そこに感じ取ることも出来るのだ。

 

新しいターミナルビルが完成した頃から航空機を見に出掛ける機会は減ってしまったけれども、バスファンとしてリムジンバスを頻繁に利用するようになったから、航空機に乗りもしないのに羽田空港を訪れることは全く変わりがない。

 

 

ところが、成田空港は長引く反対運動によって拡張が進まず、国際線だけで処理能力が飽和する有様で、国内線を引き受ける余力はなかった。

 

そのため、羽田空港の東側の海面を埋め立てる沖合展開事業が計画されたが、周辺の海底は長年に渡って投棄され続けた首都圏の建設残土が大量に蓄積し、ヘドロと化している底なし沼であった。

工事関係者が「おしるこ層」や「マヨネーズ層」と呼んだ、重機はおろか人間も立ち入れないような脆弱な地盤を埋め立てるために、含有水を抜く各種のドレーン工法や、地盤をジャッキで持ち上げてコンクリートで固める方法などが投入され、約20年の歳月をかけて、羽田空港の拡張工事は進められたのである。

広大な埋立地が全て組み込まれたために、東京23区で最大の面積を持つ区が世田谷区から大田区に変わるという逸話が誕生するほど、規模の大きなプロジェクトだった。

 

 

占領下でも残され、旧ターミナルの時代には駐車場の真ん中になっていた穴守稲荷神社の大鳥居は、平成初頭の沖合展開事業における新しいB滑走路の障害になるため、移設計画が持ち上がった。

事前調査では、鳥居の脚が殊のほか深く地中に打ち込まれていて、横方向に引きずり倒そうとしても無理だっただろう、という結論だった。

米軍は、撤去方法で間違っていたのである。

平成11年2月3日に鳥居をクレーンで吊り上げたところ、それまで晴れていた天候が俄かに雨風に変わり、クレーンのワイヤーが揺れ動いたという。

幸いそれ以上の怪現象は起こらず、2日間に及ぶ工事は滞りなく終了し、大鳥居は、弁天橋のたもとの現在地に移されたのである。

 

旧空港では、A滑走路が駐機場として潰されてしまったが、昭和63年に3000×60mの新しいA滑走路が完成、平成5年に3360×60mのC滑走路、平成12年に2500×60mのB滑走路が移転、平成22年には別の人工島に2500×60mのD滑走路が新設される。

一方、平成5年に首都高速湾岸線が羽田中央ランプまで延伸され、床面積29万平方メートル、24基のボーディングブリッジを備えた羽田空港旅客ターミナルビル・通称ビッグバードが完成し、平成16年に床面積24万平方メートル、15基のボーディングブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始したのである。

 

 

僕が、新装なった第2ターミナルビルに眼を見張りながら、五井行きのリムジンバスに乗り込み、敷地内の巡回路が更に伸びてしまったことに溜息をついたのは、その直後にあたる。

バスは湾岸環八ランプから首都高速湾岸線に入り、すぐに多摩川トンネルをくぐり始めれば、もう東京湾アクアラインを分岐する川崎浮島JCTの分岐に差し掛かってしまう。

実に呆気ない。

 

平成9年12月の東京湾アクアラインの開通と同時に羽田空港から木更津駅を結ぶリムジンバスが走り始め、平成11年5月には、僕が乗っている五井駅へのリムジンバスが開業する。

平成12年12月には茂原駅、平成13年2月に大網駅、平成14年8月に君津駅、平成19年9月に館山駅と、房総各地と羽田空港を結ぶリムジンバスが次々と登場したが、羽田空港と東京湾アクアラインの近さを目の当たりにすれば、なるほどと納得する。

 

 

アクアトンネルの内部で、昼も夜も車窓が変わらないのは当たり前だが、海ほたるを通過し、アクアブリッジに駆け上がると、不意に、見渡す限り真っ暗な海原に囲まれている今の自分が、無性に心細く感じられた。

思えば、夜の東京湾を渡るのは、この時が初めてだったかもしれない。

アクアブリッジの照明は、思った以上に少なかった。

遥か前方に房総の灯が点々と連なっているものの、窓に額をくっつけるように視線を黒々とした海面に定めると、吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われる。

 

海は、元来人間が住める場所ではなく、その意味では宇宙と何ら変わりはない。

昔の人々が極楽浄土を求めて海へ船出した、という補陀落渡海の風習も伝えられている。

補陀落渡海は紀伊勝浦が有名であるが、那珂湊、室戸岬、足摺岬でも行われた記録があり、松本清張の「Dの複合」には房総半島の鋸山や日本寺と補陀落渡海の関連性が指摘されている。


銀河鉄道ではなくても、海を渡る高速バスが、人を異世界へいざなうことがあるのかもしれない、などと、空想がとめどなく広がっていく。

 

 

「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニとカムパネラが乗る列車に、家庭教師の青年に連れられた2人の子供が乗り込んで来る場面で、幼かった僕は、銀河鉄道が何処へ向かう列車であるのかを薄々と感じ取って、急に怖くなった記憶がある。

 

『船が氷山にぶつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。

月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。

ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。

もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。

近くの人たちはすぐ道を開いて、そして子供たちのために祈ってくれました。

けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子供たちや親なんかがいて、とても押しのける勇気がなかったのです。

それでも私はどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。

けれどもまた、そんなにして助けてあげるよりはこのまま神の御前にみんなで行く方が、本当にこの方たちの幸福だとも思いました。

それからまた、その神にそむく罪は私ひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。

けれども、どうしても見ているとそれができないのでした。

子供らばかりのボートの中へはなしてやって、お母さんが狂気のようにキスを送りお父さんが悲しいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなど、とてももうはらわたもちぎれるようでした。

そのうち船はずんずん沈みますから、私たちはかたまって、もうすっかり覚悟して、この人たち2人を抱いて、浮かべるだけ浮かぼうと船の沈むのを待っていました。

誰が投げたかライフヴイが1つ飛んで来ましたけれどもすべってずうっと向こうへ行ってしまいました。

私は一生懸命で甲板の格子になったとこをはなして、3人それにしっかり取りつきました。

どこからともなく306番の声が上がりました。

たちまちみんなは色々な国語で一ぺんにそれを歌いました。

そのときにわかに大きな音がして私たちは水に落ち、もう渦に入ったと思いながらしっかりこの人たちを抱いて、それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです』

 

 

世界最大の海難事故である豪華客船タイタニック号の沈没は1912年、我が国では明治45年であるから、宮沢賢治はそれをモチーフにしたのだろうか。

文中に記されている讃美歌306番は現存せず、320番であろうと言うのが定説になっているらしい。

 

主よ みもとに近づかん

のぼる道は十字架に

ありともなど悲しむべき

 

主よ みもとに近づかん

さすらうまに日は暮れ

石の上の仮り寝の

夢にもなお天を望み

 

主よ みもとに近づかん

主のつかいは御空に

かよう梯の上より

招きぬればいざ登りて

 

主よ みもとに近づかん

目覚めてのち枕の

石を立ててめぐみを

いよよせつに称えつつぞ

 

主よ みもとに近づかん

うつし世をば離れて

天駆ける日きたらば

いよよ近くみもとにゆき

主の御顔を仰ぎみん

 

タイタニックの悲劇は様々な映画や読み物などで熟知しているものの、子供に焦点を当てた場面を観た記憶がなく、読んでいて胸が締めつけられた。

 

学者や鳥捕り、燈台守といった銀河鉄道に乗り合わせた人々を淡々と描写するだけであった物語は、ここから一気呵成に動き始める。

「ハレルヤ」の声が響き渡るサザンクロス駅で、沈没した客船の乗客たちが下車し、ジョバンニとカムパネラの2人だけが車内に取り残される。

 

『「カムパネラ、僕たちいっしょに行こうねえ」

 

ジョバンニがこう言いながら振り返って見たら、その今までカムパネラの座っていた席に、もうカムパネラの形は見えず、ただ黒い天鵞絨ばかり光っていました』

 

この一節を、僕はいつまでも忘れることが出来ない。

大切な友人が消えてしまったジョバンニの衝撃が、切ないほどに伝わって来る。

 

現実世界に戻ったジョバンニを待っていたのは、

 

『ジョバンニ、カムパネラが川へはいったよ』

 

という友だちの言葉だった。

川で溺れた同級生を救おうとして、カムパネラは命を落としたのである。

 

https://twitter.com/suimage_net/status/1291329084086038529/photo/1

 

大好きな高速バスに乗っているにも関わらず、漆黒の闇に塗り潰された東京湾の真ん中で、銀河鉄道に乗車した人々の運命ばかりでなく、タイタニックの遭難まで思い浮かべてしまうとは、我ながら意外な展開だった。

夜の旅は心を紛らす車窓が見えず、考える時間ばかりが多くて、僕が苦手とすることは何度も経験済みではないか、と自分を叱りつけたくなる。

 

大学時代に、講義が終わると時々京浜急行の快速特急に乗り、久里浜から東京湾フェリーの船旅で気晴らしをしたことは、以前にこのブログでも記したことがある。

今回の旅の前年に、東京-君津間高速バスに乗った帰り道で、思い出深い房総半島と三浦半島を結ぶルートを久しぶりにたどったことが心に残っていて、仕事帰りに手軽に楽しめる東京湾横断を、今度は新しい形で試みてみようと出掛けてきたのである。

 

思い出はいつも綺麗であるが、心に刻まれているのは良い場面ばかり、ということも少なくない。

京浜急行の快速特急や東京湾フェリー、そしてJR内房線から総武本線の長い帰路でも、乗り物に乗る楽しさだけでなく、身悶えするような独り旅の寂しさを託った時もあったに違いない。

それでありながら、僕は、いったい何のために、こうして衝動的にバスに乗り込んで、独り旅に出てきてしまったのか、と思う。

 

 

「銀河鉄道の夜」では、離別の直前に、ジョバンニがカムパネラに語り掛ける場面がある。

 

『「カムパネラ、また僕たち2人きりになったねえ。どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」

「うん、僕だってそうだ」』

 

そのように答えながらも、カムパネラは、眼に涙を浮かべて呟くのだ。

 

『けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう』

 

 

バスはアクア連絡道を瞬く間に走り抜け、木更津JCTで館山自動車道に進路を変えて北上し、市原ICで高速を降りた。

このあたりは館山道が最も海岸線に近づく区間であるから、21時05分に到着する五井駅までは直ぐである。

 

五井の地名は、村を通りかかった名工正宗から、良い刀を打つには良い水が必要であると教えられた地元の刀工が、5つの井戸を次々と掘ることで遂に名刀を鍛えることが出来た、という伝説に由来するらしい。

五井駅は、我が国で最大の石油化学コンビナートがある市原市の中心駅で、同市は工業製品出荷額が愛知県豊田市に次ぐ第2位を誇っている工業都市であるが、さすがに午後9時を過ぎようという頃合いともなれば、明かりが乏しい駅前の人影は少なかった。

 

 

橋上駅舎からロータリーに伸びている歩道橋の真下に停車したバスから降りた人々は、あっという間に何処かへ姿を消してしまい、僕は1人取り残された。

 

待つほどのこともなく、21時25分発の横浜行き高速バスが、眩いヘッドライトでこちらを照らし出しながら近づいてくる。

その強烈な光芒に眼をしばたたかせながら、「銀河鉄道の夜」でジョバンニが列車に乗り込む場面を思い出した。

 

『するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと言う声がしたと思うと、いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そこらじゅうに沈めたというぐあい、またダイヤモンド会社で、値段が安くならないために、わざと獲れないふりをして、隠しておいた金剛石を、誰かがいきなり引っくり返して、ばらまいたというふうに、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼をこすってしまいました。

気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走り続けていたのでした。

本当にジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄色の電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながらすわっていたのです。

車室の中は、青い天鵞絨を張った腰掛けが、まるでがらあきで、向こうの鼠色のワニスを塗った壁には、真鍮のボタンが2つ光っているのでした』

 

 

ふと気がつけば、僕も、いつの間にか走り出していたバスの座席に収まり、五井の暗い街並みをぼんやりと眺めていた。

さすがに仕事帰りで、朦朧としていたのだろうか。

乗り込む際に運賃を支払ったのか、それとも後払いだったのかすら、覚えていない。

薄暗い照明がほんのりと照らしている車内には、数人の客しかおらず、ずらりと並ぶ座席はがら空きだった。


羽田空港-五井駅間のリムジンバスと同時に開業した横浜-五井線が、時刻表に掲載された時には、東京都内や川崎ではなく、横浜に高速バス路線を設けたことに、少しばかり意表を突かれた。

東京湾アクアラインが開通した当初も、木更津から川崎駅、羽田空港と並んで横浜駅への直通便が登場しているのだから、房総半島と横浜を行き来する流動は案外多いのかも知れない。

後に房総半島各地から東京都内に直行する高速バス路線が次々と開業したけれども、五井から都心への路線は出来ていない。

房総半島の付け根に位置する五井ともなれば、都心へは、東京湾アクアラインよりも鉄道の方が便利なのだろう。

 

 

横浜-五井線の運行本数は多く、21時過ぎまで上り便があるのは有難いが、これが最終便である。

20分の乗り継ぎ時間とは、バスにしては際どいけれど、もし羽田空港からのリムジンバスが遅延したならば、鉄道で帰ればいいだけのことである。

 

こうして乗り込んでしまえば、後は来た道を戻るばかりだった。

行き先が南十字星や天上でないのは確かであるから、僕は、無事に帰路につけたことに安堵の溜息をついた。

 

「銀河鉄道の夜」で、カムパネラとの別れに見舞われて悲嘆に暮れているジョバンニに、1人の乗客が語り掛ける。

 

『さあ、切符をしっかり持っておいで。

お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火や激しい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければならない。

天の川の中でたった1つの、本当のその切符を決してお前はなくしてはいけない』

 

ある文献は、この時にジョバンニは銀河鉄道の旅が何を意味していたのかに気づき、みんなの本当の幸いのために尽くすことに生きる意味を悟った、と解説している。

 

『僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます』

 

 

人は、幸せを得たくて、旅に出るのだろうと思う。

あくせくして気苦労の多い日常を忘れて、楽しい時間を過ごしたい、という希望を、旅の前途に描く人は少なくない。

 

夜をついて走り込む高速バスの車内で、「銀河鉄道の夜」を思い浮かべるとは、何と贅沢な時間であっただろうか。

重い物語であるけれども、数々の悲しみを乗り越えたジョバンニの最後の決意は、銀河鉄道で旅をしたからこそ、得られたものだろう。

心が暖まる見事な大団円だと思う。

 

帰り道は旅の終わりだからちょっぴり寂しいけれども、僕も、ジョバンニのように、きちんと日常に戻らなければならない。

横浜駅への到着時刻は、22時30分の予定である。

羽田から五井、そして横浜へのとんぼ返りは、待ち時間を含めても僅か3時間に満たないささやかな旅であったけれども、僕にとってはジョバンニとカムパネラの星めぐりの旅と何ら遜色はない、珠玉の旅であったように感じられた。

 

前方に、川崎や東京、横浜の明かりが金色の帯のように闇の底に煌めいている。

明日からまた頑張ろう、と思う。

そのように思い直せば、東京湾を横断するバスの走りは実に力強く、頼もしかった。

 

 


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