第48章 平成17年 下妻・筑波 晩秋の小さな旅~下妻行き高速バスと「つくば」号メガライナー~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス東京-下妻線、関東鉄道バス下妻-つくば線、常磐高速バス「つくば」号メガライナー】


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平成17年11月、晩秋の肌寒い週末のこと、僕は、錯綜する人々でごった返す東京駅八重洲地下街を通り抜けて、八重洲通りに面した停留所に立ち、襟を立ててビル風に震えながらバスを待っていた。
目指すは、東京駅から茨城県下妻市を目指す高速バスである。
その年の春に開業したばかりの、新路線だった。

定時に東京駅前を発車した下妻行き高速バスは、下町の頭上を飛び越えるように、首都高速道路6号向島線、中央環状線、そして川口線の高架を走り抜ける。
荒川の広大な河川敷を左手に見下ろしながら進むうちに、視界が防音壁に遮られ、窮屈な車窓のまま道幅だけが広がり、東北自動車道に入っていく。
しばらくして防音壁が途切れれば、魔法のように建て込んでいた街並みが消え失せて、常緑樹に覆われた小高い丘陵や、こんもりとした森林が点在している車窓に変わる。
刈り入れの終わった田園と、葉が落ち切ったすすき色の雑木林など、素寒貧とした秋の終わりの光景であった。

北上するにつれて少しだけ季節が逆戻りして、鮮やかな黄色や紅色を残す樹木が散見される。
美しさに目を奪われるような紅葉の盛りはとっくに過ぎ去って、ああ、もうじき冬が来るんだな、と胸がいっぱいになるような、侘しい紅葉だった。


50分程の短い高速走行が加須ICで終わり、バスは、茶色い裸の田圃が広がる地平に降りて、古河市に向かう国道125号線をのんびりと走り出す。
加須ICは埼玉県内に設けられて、前後の久喜ICと羽生ICも同県内であるが、並行する東北本線や東北新幹線は利根川を渡って茨城県古河市域に足を踏み入れ、そのまま栃木県野木町に移っていく。
古河駅は、東北本線における茨城県内唯一の駅として知られている。
国道4号線も鉄道とほぼ同じ経路を通っているものの、東北自動車道だけは、埼玉県と栃木県の間に割り込んでいる茨城県の古河市には目もくれず、利根川の西岸を真っ直ぐ北上している。
古河地方はこのような立地であるため、茨城県の東部の常磐線や国道6号線、常磐自動車道沿線よりも、埼玉県との結びつきが強いと聞いている。
我が国でしばしば見受けられるような、地元の人や物の流れの実態を把握していない明治の官僚が、機械的に定めた県境の1つなのかな、とも思うけれど、県境は利根川に敷かれているので、これ以外に県境を決めようがなかったのかもしれない。

地図で見ると、このあたりは殆ど等高線がなく、平坦な地形であることが伺える。
利根川の支流が、毛細血管のように数えきれない程の触手を伸ばしていて、流域面積日本一の勢いを目の当たりにする思いがした。
一概に言えば平板な車窓であり、しばらく経てば欠伸が出る。

それでも、巨大都市・東京から1時間足らずで、このように鄙びた土地に来ることが出来るとは、少しく驚きでもある。
ふと思い浮かぶのは、小松左京氏のSF小説「首都消失」で、超常現象により文字通り東京が消え失せた後の成田空港で、登場人物の女性が呟く言葉である。

「夜の成田空港界隈って、さびしいんですね……真っ暗で、森ばっかりで……東京がなくなっちまうと、関東地方って、どこかよその国の田舎になってしまったみたい……」

東京近郊へ向かう比較的短距離の高速バスに乗っていると、同じ実感が湧いてくる。
似たような感覚は、例えば、常磐自動車道の守谷SAの先や、東関東自動車道の成田JCTよりも遠方、もしくは京葉道路から千葉東金道路に入る辺りでも味わうことが出来る。


利根川を長大な橋梁で渡り、古河ニュータウンけやき平のバス停で、1人のおじさんがそそくさと下車していった。

古河、と言えば、日本史で必ず習い、しかもややこし過ぎて僕が苦手だった室町・戦国時代における古河公方の館跡があり、関東の小京都とも呼ばれて知名度は決して低くないから、バスの窓から街並みを見てみたいと思う。
ここまで来れば、古河駅にも寄ればいいのに、と思うのだが、バスは市街地には一瞥もせず、国道125号線をそのまま進む。
街の東のはずれの諸川バス停と、八千代町役場近くの菅谷バス停の降車案内がアナウンスされたが、誰も降りなかった。
東京駅を発車する時から、このバスには数人の乗客しか乗っていなかったのだ。

河川敷に、色褪せた木々が生い茂る鬼怒川を渡れば、そこが下妻市だった。
バスは、関東鉄道常総線下妻駅の小ぢんまりとした駅舎を横目に見ながら、遠慮するかのように少しばかり離れた道端に停車した。
降りた瞬間、激しい空っ風が、どん、とぶつかるような勢いで襲いかかって来て、思わず身体ががたがたした。


僕はいったい、下妻まで何しに来たのだろうか?──

バスが土埃を巻き上げて姿を消すと、ふと、自嘲めいた思いに駆られた。
バスファンとしては、常磐道経由の茨城方面への高速バスとは一線を画して、東北道から茨城県内に向かう道のりが、新鮮で面白そうに感じただけである。
この路線は、僕が乗車した半年後の平成18年4月にはひっそりと廃止されてしまったから、乗っておいてよかったと思う。
このようにユニークな経路のバスは、現在に至るまで運行されていない。
車でわざわざ来る用事が持ち上がりそうな街でもないから、この高速バスがなければ、古河も下妻も、一生、訪れることはなかったかもしれない。

バスに乗るのが目的だったから、実際に下妻まで来てしまえば、もはや何の用事もない。
眩しいばかりで、少しも身体を暖めてくれない陽の光が照りつけて来るだけで、人影は全く見当たらない。
時が止まったかのような昼下がりの下妻駅前だった。

あっけらかんとしているものだなあ、とぼんやり思うだけで、別に困ることはない。
商店や食堂も閑散として、開いてはいるけれど、時間つぶしのために気軽に入れるような雰囲気に感じられなかった。


関東鉄道常総線は、茨城県を縦断するように、常磐線の取手と水戸線の下館を結んでいる。
決して人口が少ない地域ではないはずだが、常総線は非電化で、ローカル線のような雰囲気があり、東京方面に直通していないため、沿線の水海道、岩井、守谷などに向けて、東京駅を発着する常磐道経由の高速バスが幾つも開業した。
常総線に乗ったことは1度もないけれど、沿線の街々には、高速バスが開業するたびに訪れたものだった。
どの路線も、住宅地や工場、整然と区画された水田、そして雑木林が繰り返し現れるだけの、単調な車窓だったけれど、このあたりは鬼怒川など利根川の支流の氾濫原で、沿線には平将門の生地として様々な遺跡が点在しているのだという。

下妻の地名は、10世紀の書物に既に見られると言う。
明治22年に誕生した下妻町が、昭和29年に騰波ノ江村、大宝村、上妻村、総上村、豊加美村、高道祖村を編入して下妻市になっており、下妻、上妻の他に、関東鉄道常総線には中妻駅と三妻駅がある。
そればかりか、中妻の名は水戸市、北茨城市、取手市、つくば市などに、またつくば市には吾妻と妻木、常陸太田市には古妻など、茨城県には妻の字を使う地名が多いらしい。
現代語では、つま、と言えば妻だけを意味しているけれども、記紀万葉を読んでいると、我が夫も、わがつま、と読んでいるから、夫と妻の両方の意味で使われている不思議な言葉だな、という印象を抱いていた。
一方で、切妻造などという言葉があるように、端という意味もある。
地名辞典によれば、下妻の語源は、郡の下方の詰まり、端っこの地を意味するという説がある。

草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へは止みぬ

と、筑波山からの眺望を詠んだ高橋虫麻呂の和歌が万葉集にある。
鳥羽の淡海とは下妻付近に実在した大きな沼であったらしく、その沿岸にあった下ノ津に近いことから下津間と名づけられた、という説があるという。

関東地方にはアイヌ語由来の地名も少なくないと言われ、妻についてもアイヌ語で解釈すると、「つ」は〇〇の、という助詞に当たり、「ま」は船着場や港の意味がある。
上と下は、後の和名のような都との位置関係ではなく、上が北、下が南の方角を意味していたようであるから、下妻とは南にある港と解釈することも可能で、鳥羽の淡海との関わりが想起される。
合併前の上妻村が下妻町の北寄りにあったことも頷ける。

下妻、という響きは美しいだけでなく、河川が幾度となく氾濫し、湖沼や湿地が誕生したり埋まったりを繰り返していた未開の関東平野と、そこに根差して逞しく生活を築き上げていた古代の人々の様子が、ありありと目に浮かぶような地名の由来ではないか。


下妻と言えば、僕は「下妻物語」を思い起こす。
2人の女子高生を主人公とした小説で、平成16年5月に映画化された。
カンヌ国際映画祭に併設されたフィルム・マーケットで「Kamikaze Girls」と題して上映されたところ、大きな話題を呼び、多くの映画祭にも招待され、平成18年にはカンヌJr.フェスティバルにおいて邦画初となるグランプリを獲得したと聞く。
僕は原作の小説は読んでいないけれど、映画は見ている。
主人公の女優が良かったなあ、と思うけれども、ロケ地巡りをするほど惚れ込んでいる訳ではない。

人気のない下妻駅舎に入って掲げられた時刻表を見ても、次の常総線の列車までは、1時間近く間があいている。
駅前のバス停に戻ると、つくばセンター行きの路線バスが、20分ほどで来る予定になっていた。

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待つほどもなく姿を現したのは、関東鉄道「71系統 下妻・つくばセンター線」の小柄な路線バスだった。
高速バスからバトンを受け継いだリレー選手のように、小型バスは、下妻駅から国道125号線の続きを東へ向けて走り出す。

高道祖という由緒ありげなバス停を過ぎるが、これは合併前の昭和29年まで存在していた村の名前で、たかさい、と読む。
道祖神は、さいのかみ、と呼ばれることがあり、災いの進入を防ぐために集落の入口や峠などに祀られることが多いとされる。
この地域の中心であった下妻よりも高台に存在していたため、高道祖と呼ばれるようになったと伝えられているが、高道祖神社には男性器を模した石造が多数置かれ、祭りの日には、子宝を授かる縁起物として男女の性器を模したお餅が売られるという。

何かと興味が湧く場所であるけれど、このバスに乗っていて勾配を上り下りした覚えがないので、下妻からそれほど登って来たっけ、と首を傾げたくなった。

田中の交差点で国道406号線に右折し、高エネルギー加速研究機構の敷地に沿った大穂のあたりでは、車窓が、いかめしく物々しい雰囲気になって、学園都市に来た実感が湧いてくる。
国土技術政策研究所、筑波記念病院、土木研究所、筑波大学病院と、沿線に研究機関や病院が多くなってくる。
整然とした区画に街路樹が植えられて、美観に配慮した街づくりがされているのはよくわかるのだが、風景は何処か乾いていて、画一的でぬくもりに乏しい人工都市の趣だった。

建物の密度が増えて青空が狭くなったように感じられれば、約50分に及ぶのんびりしたローカル路線バスの旅は終わりを告げた。


つくばセンターは、東京駅からの高速バス「つくば」号に乗って何度も来たことがあったけれども、「つくばエクスプレス」が開業してから訪れたのは初めてだった。
何年ぶりになるのか、と、あたりを見回しながら、懸命に記憶の底をまさぐった。
高速バスだけが走っていた頃とは、全く面影が異なってしまったつくばセンターの大型商業施設を、浦島太郎のように当てもなく彷徨いながらも、僕は、街並みをこれほど変貌させた「つくばエクスプレス」には目もくれず、ここまで来れば次に乗るのは「メガライナー」だ、と決めた。
全長15m、車体重量19t、座席定員84人という、文字通り「メガ」の名に違わぬ我が国最大の超大型バスである。

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今では信じられないかもしれないが、「つくばエクスプレス」が開業する平成17年8月まで、東京と筑波の間の直通交通機関は、常磐道経由の高速バス「つくば」号だけが孤軍奮闘という時代があった。
「つくば」号が開業したのは昭和62年4月1日のことで、国鉄が分割民営化された日でもある。
「つくば」号は、JRグループが初めて開業させた高速バス路線であった。

「つくば」号は、都市の路線バス並みの10~15分おきに運行され、ピーク時は1日87往復が行き交うという高頻度を誇っていた。
この運行本数でも、東京駅八重洲南口の乗り場には長い列が絶えることなく、積み残しが出ることも珍しくなかった。
更に短い間隔で臨時便も頻繁に運転され、運行事業者が運輸省から需要の甘さを叱責される程の超人気路線だったのである。


その輸送力を増強する目的で、平成12年に輸入されたのが西独のネオプラン「メガライナー」だった。
15mという車体長が、法律で規定されているバスの最大サイズである12mを超えているため、運行の認可に手間取り、輸入して2年後の平成14年12月より、特殊車両として法律の特例措置を受ける形で、ようやく運行を開始したのである。
「メガライナー」を国内で走行させる場合には、運行経路や使用時間帯などを道路管理者に申請し、許可を得る必要がある。
そのために走行可能な道路が制限されてしまい、渋滞や通行止めの場合でも、迂回運行が出来ないといった制約が多い。
運輸関係の省庁なのか、警察なのか、輸入から運行開始まで2年も費やしたことや、杓子定規の様々な規制など、「メガライナー」の導入をめぐる推移を振り返ると、秩序維持のためには必要なのであろうが、お役所仕事と呼ばれる厄介な代物に対する、もどかしさにも似た忸怩たる思いを禁じ得ない。

それでも、84人乗りの座席定員を誇る「メガライナー」が、東京と筑波を結ぶ主役を張っていた時代があったことは確かである。


「つくばエクスプレス」の開業により、高速バス「つくば」号は利用者数がピーク時の30%と大幅に減少し、「メガライナー」をわざわざ投入しなくても充分に運べる輸送人員まで落ち込んでいた。
ファンとして、「メガライナー」はこれからどうなるのか、と前途を危ぶんでいた時期に、僕は筑波にやってきたのである。

発車時刻のかなり前から、「メガライナー」は乗り場の手前で待機していた。
実際に、間近で目にするのは初めてである。
流麗な欧風のデザインと、見上げるような巨大さには、ひたすら圧倒されてしまう。
前後4軸のスマートな車体は、バスファンでなくても魅了されるのではないだろうか。

一方で、乗り場に並んでいる利用者の数は、ほんの僅かだった。
往時の「つくば」号の隆盛を知っている者としては、これほどであったとは、と、あまりの凋落ぶりに愕然とした。


発車時刻が近づいて、乗り場に横付けされたJRバス関東の東京行き「メガライナー」に真っ先に乗り込んだ僕は、迷うことなく、2階最前列の席に腰を下ろした。
ドイツ製のバスの常として、シートがやや硬い感じの造りになっていて、前後の間隔も窮屈に感じられるのは致し方ない。
他の高速バス路線で乗車した事のあるネオプラン「シティライナー」やベンツ社製のバスも、同様の座り心地だった記憶があり、アウトバーンで育まれた質実剛健とも言うべき手堅い造りが、高速道路での安定性を生み出していることも理解している。
乗り心地の些細な評価よりも、この上等な席で東京までの1時間あまりを過ごせることの方が、大きな喜びだった。
「メガライナー」の巨大さを実感するためには、最後部に座るのも一案と思ったのだけれど。


定刻になると、「メガライナー」は、悠然と走り出した。
ちょっとした交差点を曲がるだけでも、他のバスより大回りをする走行ラインは、まさに陸上の王者の風格である。
ハンドルを握る運転手さんは大変だろうな、と察するけれども、この巨体を自分の腕1本で操ることは爽快さも伴うのではないだろうか、と想像したりする。
サスペンションが固めで、跳ねているように上下動を強く感じる乗り心地も、まさにドイツ車の特色であり、その揺れ具合も、豪華客船を思わせるふわりとした感触だった。


街路樹の紅葉は、古河や下妻に比べて、ひときわ鮮やかに色づいていた。
つくば市内の数カ所の停留所で、「メガライナー」は、僅かばかりの乗客を拾っていく。
このあたりは、バスでつくばセンターに行って鉄道に乗り換えるよりも、高速バスの方が便利なのかもしれない。

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停車中に追い抜いていく車の動きが、何となくぎこちないように見えたのは、気のせいだろうか。
自分で運転しながら「メガライナー」と並んだ経験はないけれど、普通のバスと思って追い越しを始めてみたら、トレーラートラックにも匹敵する15mもあったという感覚は、どのように感じるのだろうと思う。

全ての乗車停留所を経て、谷田原ICから常磐道に乗る頃合いになっても、広々とした車内には、数える程の乗客しかいなかった。

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西陽が早くも山ぎわに隠れようとしている頃合いで、斜めに低く差し込む光で黄金色に輝く黄昏の田園地帯を、「メガライナー」は時速100kmで走り込んでいく。
微塵の揺らぎもない、安定した走りっぷりだった。

左手には、ライバルである「つくばエクスプレス」の高架橋が、一直線に続いている。
寂しげな晩秋の田園風景が少しづつ暗転し、夜の帳が静かに幕を下ろし始めていた。

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三郷JCTで首都高速に乗る頃には、とっぷりと日が暮れていた。
「メガライナー」は、6号向島線から都心環状線にかけての恒常的な渋滞を避けて、手前の向島ランプで高速を降り、ひしめく車の波に揉まれるように下町を南下していく。

震災などによる大火の延焼防止対策として、高層アパートが城壁の如く1.2kmもの長さに連なっている白髭東団地に差し掛かると、枯葉が舞う墨堤通りには、買い物や勤め帰りの人々が溢れ、久々に賑やかな車窓を目にすることが出来た。
交差点で信号待ちをしている歩行者が、目を丸くしてこちらを見上げている。
「メガライナー」の2階席から見下ろせば、見慣れた東京の下町も、まるで異国の地に来たかのような新鮮さに感じられた。

上野駅広小路口と交差点を挟んだ降車停留所で半数以上の乗客が降りてしまい、更に閑散となった巨体を持て余し気味の「メガライナー」は、東京駅八重洲北口バスターミナルへ、ほぼ定刻に滑りこんだ。
林立するビルの明かりや街灯に照らされながら、待機場所にひっそりと羽を休めた「メガライナー」の姿が、颯爽とした外観とは裏腹に、肩を落としてどこか寂しげな姿に見えたのは、僕の感傷だったのだろうか。

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僕が乗車した次の年に、「メガライナー」は、「つくば」号の運用を外されてしまった。
乗っておいて良かったと思う。
「つくば」号として活躍したのは僅かに4年、その巨体を生かし、定員いっぱいに乗客を満載して活躍したのは、つくばエクスプレスが開通するまでの3年間に過ぎなかったと思われるので、返す返すも、輸入してから運行許可を取得するまでの空白の2年間は勿体なかったと思う。

「メガライナー」には、次の檜舞台が用意されていた。
東京と関西を結ぶ夜行高速バス「ドリーム」号の慢性的な混雑の緩和と、徐々に増加していた格安ツアーバスに対抗するために、「メガライナー」は、平成18年6月より、東京駅と大阪駅を結ぶ格安夜行バス「青春メガドリーム」号として生まれ変わったのだ。
1台のバスで84人も運べるメガライナーの収容能力は、東京と大阪の間の運行経費を安く抑えて、運賃を下げることに貢献したのである。
安い旅を望む若者を中心に、好評だったと聞く。
僕は、固めの狭い座席で8時間以上も過ごすのは何となく億劫で、1度も利用することはなかった。

もちろん「青春メガドリーム」号においても厳然たる通行制限が設けられており、臨機応変な経路の変更や迂回が出来ないことに変わりはなかった。
通行止めなどが発生した場合でも、迂回運行ができずに、最寄りのサービスエリアで待機する場合もあり得ることが、出発前に案内されていたという。
大阪の新御堂筋の千里中央付近では、本線での走行が認可されず、側道を経由していたらしい。
何かと使いにくい車両であったのも確かであろう。


「メガライナー」の末路は、哀れであった。

平成20年5月28日の午後11時55分頃、大阪発東京行き「青春メガドリーム」2号が、名神高速大津SA付近で火災を起こして全焼する事件が起きた。
乗客・運転士あわせて61人に死傷者が出なかったのは、不幸中の幸いだった。
原因はエンジンブローとされているが、整備不良であったのか、車体に異常があったのかは不明と言われている。
車体は廃車となり、同年7月に解体された。

10ヶ月後の平成21年3月16日午前4時15分頃、同じく「青春メガドリーム」2号が、東名高速牧之原SA付近において、ターボチャージャーのシャフトが折れたことがきっかけでエンジンブローを起こして出火、同SAに緊急停車した後に全焼した。
乗客・運転士あわせて78人に死傷者はなかったが、被災車両は廃車となった。
巻き込まれた乗客数を見れば、「メガライナー」便にきちんと客がついていたことが窺えるけれど、普通の車両よりも大人数であっただけに、死傷者が出なかったのは不幸中の幸いであった。

これらの事故を受けて、JRバス関東は同日以降の「メガライナー」の運行中止を決め、全車が除籍処分となった。
輸入された4台のメガライナーのうち2台が焼失した訳であり、残りの2台もドイツに返却されたという。

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