とある方のカウンセリングを受けてきたのだが、
また言われてしまった。
「頑張りすぎです」
「生きているだけで素晴らしいんですよ」
わからん。
頑張りすぎっていうのは、ブラック企業で、月100時間とかサービス残業している人のことを言うんじゃないのか?
20連勤とか働いている人のことじゃないのか?
ワンオベで育児しながら家事をすべてやりながらフルタイムで働いているお母さんのことじゃないのか?
アルバイトしながら奨学金で大学行く若者のことじゃないのか?
仕事休んで毎日ダラダラしているだけで「頑張りすぎ」ってどんだけダメな人間なんだ。
そして必ず言われる。
「生きているだけで素晴らしいんですよ。クララさんはすごいんです」
わからん。
でも、あまりにもいろんな人から同じことを言われるからきっとなにか意味があるんだと思う。
そこで、なぜクララは
「生きているだけで素晴らしい」と言われるのか?を徹底的に考えてみることにした。
まず言いたいのは、
私は誰かに「生きているだけで素晴らしいんですよ」なんて言ったことがないということ。
誰かにあなたは素晴らしいということを伝えたいときは、必ず「あなたは〇〇で、○○なところが素晴らしい。私は〇〇なところも好き」と具体的な例を挙げて言う。
私よりダメな人間なんて見たことがないので、全然難しいことではないし、いい人には自然にいいところがにじみ出るからあなたは素晴らしいというのに根拠がないなんてありえない。
私からみたら世の中の人はすべて、長所にあふれている。
「生きているだけで素晴らしいんですよ」って言うとしたら、犯罪者とかになると思う。
ぶっちゃけると、いいところがなかなか見つからない人だ。
もし「自分なんて生きる価値がない……」って言われたら、私は必死に探して探して「人間ってみんな祝福されて生まれてきたんです。生きているだけで素晴らしいんですよ」
って言うかもしれない。
多分言いかけて、「しまったそれじゃあなたは何もいいところがない」と同意だわ!って思いなおして、なにか話題をかえるとかどうにかしてごまかすだろう。
つまり私にとって
「あなたは生きているだけで素晴らしいんですよ」は、かなりひどい人に使う表現なのだが、私は人生であまりによく言われる。
だから、つまり、
「あなたはダメな人間なのに、それを認めずに普通の人間になろうとしているから苦しいのだ。
自分をダメな人間だと受け入れなさい」って意味だと思ったのだ。
だが、そう言うと「違う」と言われる。
「本当のクララさんは自分の素晴らしさを認めて欲しいのに、それでは認めてない。自分をバカにしています」
……私バカって言われたんじゃないの?
素晴らしいという根拠はとくにないけど、素晴らしいと思い込まないと怒られる。
わからん~~。
「ハードルが高すぎるんです」とも言われた。
「生きる」ことってハードル高いのか?
大人用のハードルは無理だから子供用のハードルから始めなさいと言われたら
「あ、私運動神経悪いんだ」って思う。
子供用のハードルで練習しながら「私、運動神経すごくいい」って思いなさいと言われているような、わけわからないことを要求されている気分になるクララ。
実際クララは運動神経悪かった。
マラソンは100人中87位くらい。
欠席者や障害者や負傷した人をのぞけば、ほぼビリ。
人生のあらゆることにおいて、87位だったと思う。
企業が採用したいのは、きっと30位くらいの人で、まあ妥協して50位くらいまでとしよう。
87位の人は採用しても、ぶっちゃけお荷物になるとしよう。
「人と比べるな」ともよく言われる言葉なんだけど。
できる?
人と比べないこと。
私はできない。
正社員で実家暮らしで「お金ない、生活苦しい」と愚痴っている人がいたら腹立つし、
同僚が私より先に仕事を覚えたら劣等感を持つ、
ニュースで私より年上の人が起業したとか、なんか功績をあげたって報道されててもちょっと心が痛む
ましてや、自分のミスを他人にフォローしてもらうと申し訳なくて、消えてしまいたくなる
もちろんそのたびに「人は人、自分は自分。比べちゃダメ」って必死に自分の軸を引き戻してはいる。
でもその作業に年々疲れてきている。
あまりに多すぎるからである。
積もり積もった劣等感とか不安とか申し訳なさとかがたまりにたまって、今休職していると思う。
「気にしなければいい」なんてもちろんわかってる。
どんなに会社のお荷物になろうと、仕事もせずに給与だけもらって平気でいられたらどんなにいいかと思う。
でも今の私は会社に自分がいることを想像しただけで、体中に緊張が走る。
「生きているだけで素晴らしい」のはその通りだろう。
だれどそれがなんなの?って思う。
87位だって必死に走った。頑張った。それも事実だし、
87位はぶっちゃけお荷物。それも事実。
自分はこれでもよくがんばったってことを認めたとして、でもこの世界で生きにくいという事実は変わらない。
……と考えたところで、一つ自分の本音が見えた。
私は
「能力が低いことで、差別されてつらかった」
って気持ちをずっと抱えてきたんだなと思う。多分学生時代から。
これを差別と言っていいのか微妙なのだが。
私にとっては差別だった。
87位という結果に「もっとがんばってね」と言われること。
クラスの成績に貢献できず、陰口を言われること。
能力のない人間は努力が足りないだけだから責めていいと思っている人間に私は差別されてきたのだなと。
(最近で言えば、航空会社が障害者用のタラップを購入したら「障害者がいるせいでこっちの料金があがるじゃないか」とバッシングする的な)
私は多分、それがとても辛かった。
けど、努力が足りないせいで87位という順位を出した方が悪いと自分も思っていたし、それが差別だなんて思わなかった。
でも、本当は辛かったんだと改めて思う。
「私は、能力のないことを理由に差別されてつらかった」
そう声に出してみた。
そして私自身もどっかで、能力のない人間はお金を得てはいけないという思いがあるのかもしれない。
難しい問題である。
車椅子の人が外出するのに人の手を借りるのに、謝ることは本来ないはずである。
でも私が車椅子だったとして、謝らずになんてとてもいられない。
できれば外出したくないと思うだろう。
謝らなくても大丈夫って思える社会になるにはまだ時間がかかる。
ここまで考えてきて、
私がつらかったことはわかったが。
「能力のない人間がどうやって生きて行ったらいいか」という問題と
クララなぜか「生きているだけで素晴らしい」と言われる問題は解決していない。
これは、これからも考えて行こうと思う。
もしわかる人がいたら教えてください。
≪追記≫
差別されてつらかった理由の一つに、両親が努力教の信者であったことがあると思う。
両親ともにたとえ苦手なことがあっても、努力でカバーして生きてきた。
足が遅いなら、人の2倍も3倍も走って結果選手に選ばれる。そういう人達だった。
「苦手」というのは言い訳にならない、という考え方だった。
最初から得意な人はいない、努力をしてから言いなさいと、日本の親ならみんな言いそうなセリフではある。
子供の私にも努力する素晴らしさを教えたかったようなのだが、私はさっぱり覚えなかった。
努力大嫌いな大人に育ってしまった。
実はそれが辛かったのかなーとふと思った。