前回の記事に付随して気が付いたこと。
他人からの見張りに脅えるということは、イコール
「そのままの自分では、決して受け入れてもらえない」
と思っていることになるなと思った。
私がもし、完全防音の最新鋭セキュリティ搭載で、絶対に誰も入ってくることも中を見ることもできない空間でしかくつろげないとしたら、
それはちょっと健全な精神ではないなと思った。
普通は、隣から生活音がしようか、
なんなら人前であろうが、もっとリラックスできるのではないだろうか?
私は母親からのダメ出しに脅えている。
多分、小さい頃にお店で騒いで怒られたとか発端はそんな些細なことかもしれない。
「ぼーっとしたありのままの自分」では受け入れてもらないないから
「緊張したきちんとした自分」を見せないといけない。
どうもそう思い込んでいるようだ。
「そのままの自分を受け入れて欲しい」なんて、書き出してみると痛すぎて恥ずかしすぎる。
けど、私はどうやら「そのままの自分を受け入れて欲しかった」らしい。
母からもらった愛は
「そのままのクララでいいよ。 でも、○○ができるともっといいな」
「そのままのクララでいいよ。 ただし、××には気を付けてね」
って愛情だった気がする。
母がクララがいつか最低限のことをちゃんとできる子になると信じていたように、
クララもまた母がいう最低限のことをできる人間になりたかった。
そしたらいつか母と笑って話せる日がくると、それだけを希望にしていた。
……けど、なれなかった。
そもそも「ありのままの自分」ってなんだろうと思う。
朝起きれない
部屋を片付けられない
間食ばかりする
ネットとゲーム依存
ブログに毒吐きまくり
仕事ができない
そもそも働いてない
そんな私を他人に受け入れて欲しいというのは確かに傲慢だと思う。
(私の場合基本スペックがそもそも低いというのが、どうしてもハードルになる)
でも、自分は受け入れてもいいのではないかと思う。
「私は、ありのままの自分を受け入れます」
そんなアフォメーションを唱えてみようかと思う。