朴裕河パクユハ著 「帝国の慰安婦」を読む 9 | 気になる映画とドラマノート

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107.朴裕河は、日本の支援団体も、錯誤がある、と言う。慰安婦のおばあさんは擁護されるべきとしても、「軍」「朝鮮業者」ふたつの要因把握をするべきところを、日本の支援団体は、「朝鮮業者」への視線を欠落させていた。


 そのため、責任を負うべきは、日本国家だけという方向へ認識が固定化した。

 これを欧米も踏襲するようになった。


 108.顕微鏡の焦点の合わせ方がちがうと、見えるものが違ってくるように、

 「慰安婦のおばあさん」は次のように見え方が違ってくる。

 ① したたかな娼婦という昔も今も存在する酷薄な見方。ただし、金をためて、そういう商売の経営者に転じるケースもあるから、簡単には済まない。

 ② 朝鮮半島系日本人として、日本に同化した愛国女性

 ③ 学校に通う境遇に恵まれず、家父長制支配の社会の中で、家族を経済的に支えるために犠牲になった遊郭の女性が戦時にちがう形の風俗業についたもの。


 ④ 個々の日本人によって、植民地人を軽侮し、醜業女性を軽侮するという場合もあれば、植民地人に同情し、醜業女性をいたわる場合もあった。


 以上が真実であり、次に

 挺身隊の名のもとに、いたいけな処女が強制連行されて性奴隷になった、という虚像が広まった。そして、日本民族特有の悪逆非道性に由来する(朝鮮業者の事を忘れて)とする。


 ※知的大衆は低脳だから、真実が分かるわけがないではないか、と言いたくなってくる。


 要するに、綱渡りをしながら考えぬく知性と、真実に迫る倫理的な執念なしには右に左に振り子が転ぶだけに終ってしまう。


 109.朴裕河によると、公娼制自体が、日本よりも、西洋のほうが設置が早く、しかも、実態として、朝鮮に公娼遊郭があれば、その朝鮮遊郭の成員は、内地人女性・半島出身女性半々だったが、フランス人の利用するアジア地域の公娼にフランス人女性はなく、すべてアジア人だった。オランダのアジア植民地、英国のアジア植民地も同じである。それは、日本の江戸末期からアジアの植民地に始まっていた。


 そこに、日本のからゆきさんもやがて行くようになった。


 110.これは日本民族の欠陥とはちがうものが原因だという事を示している。


 だが、それでも、日教組婦人部長などの日本憎悪の感情はおさまりがつきそうにない。


 111.朴裕河によると、韓国の「道徳優位への固執」は、「相手の屈服自体を目的とする支配欲望」だとされる。

 慰安婦もまた、これに影響されて、「天皇が私の前にひざまずいて謝罪するまでは許せない」という言葉弄して、問題をねじくらせる。

 このようなコンプレックスから抜け出ないかぎり、帝国を批判できる根拠もまたうしなう。

朴裕河の言うのを聞いていると、まるで、韓国ドラマの「シンデレラ・オンニ」の葛藤みたいに、倫理的な他者への許しと自己救済のが掘り下げられている。


 112.そして、2012年に、挺身隊問題対策協議会は、まぎれもない北朝鮮との協調闘争の理念を確立するにいたった。


 挺身隊問題対策協議会は、北朝鮮からの「お祝いの言葉」を受け入れた。

P302

 「挺身隊問題対策協議会は、民族自主権守護と日本軍国主義復活の策動に反対する闘争へと力強く動いている。」と。


 「日本民族がわが民族になした罪悪は、どんなに歳月が流れても、これをかならず決算するのは、民族共同の課題」


 「強い軍事力を国家の主な目標とし、戦争とそれに対する準備をする国家を軍国主義というと、韓国のウィキペディアは理解しているという。


 こういうものが、日本で、北朝鮮はちがうと挺身隊協議会はいうのだ。


 朴裕河は、日本の国防費のGDP比率は、韓国の2.7%よりも低い1%と認めている。


 ※ところで、ここでまた問題がややこしいのは、日本の軍国主義からの現代的変化のひとつである、謝罪しようという意識があるというのは、「正常な反省」からなのか、「社会主義幻想の結果」と「GHQのウォーギルトインフォーメションの結果、すべて日本が悪い」というねじくれた意識の結果」「あるいは、ポスト・コロリアニズム、フェミニズムのようなマルクス主義以降の新思想のゆえ」「天皇制ファシズムとの闘争の一幕(松井やより)」のどれなのか、という問題が残るのである。


 113.朴裕河の思想」は日本の保守派よりも、左派・反戦運動護憲派の慰安婦支援運動に対して毒物である。

 わたしは、この「帝国の慰安婦」が朝日新聞によって、出版された事は非常によいことだと思う。朝日新聞が出版した事で、安心して、世界中のリベラルも、日本の労働組合の婦人部長も多く手に取って読むだろう。朴裕河の思想は、ソ連のゴルバチョフになりうる。


 よく読むと、朴裕河は、日本の保守派に対して、「単なる娼婦」では、ニュアンスが無さすぎる、という程度の事しか言っておらず、(そればかりではないが)現在でも日本は帝国主義だとか、軍国主義になりそうだと言っているのではない。多少旧左翼的ではあっても、日本の朝日・毎日・岩波書店文化人・労働組合婦人部長の世界観を覆すほどのインパクトを十分備えている。


 問題は、彼ら朝日・毎日・岩波書店文化人・労働組合婦人部長らが、朝日新聞出版であることに食いついて、まじめに読むかどうか次第だ。


 まじめに読めば読むほど、従来の左翼思想のおかしさに気づくきっかけになりうる。


 朝日新聞も、毎日新聞、岩波書店「世界」も、NHKも、けっして、朴裕河のこの著書を積極的に紹介しようとはするまい。読む人が読めば、この本は左翼にとって、非常に危険な本だとわかるからだ。


 朴裕河は「日本は謝罪をし、受け入れるほうも、拒まず、受け入れるべきだ」という。そこだけが間違っている。

 まず、できるだけ、多くの人が、この本の示された事実を知る事が先決だ。


112. 政治学者の矢野暢の著作に中公新書「南進の系譜」というのがあって、その中に福沢諭吉の言葉「(日本の娼婦の)海外への出稼ぎは、「日本の経世上必要なるべし」という言葉が引用されているという。


 福沢諭吉の言葉は、「日本の娼婦が海外に出稼ぎする。今なら韓国女性や(ちょっと前は、フィリピン女性)、南米女性が、事実上、盛んに風俗の仕事で出稼ぎしているが、福沢諭吉は、それが、経済の安定、発展に資すると言ったという。


 もし、本当なら、こんな意味だろう。

 貧困な農漁村の父親はいかに、こどもが泣き叫ぼうと、妻を心細く一人家に残していこうとも、生きていくためには、都会に出稼ぎして仕送りしなければならなかった。また、盲目の病を得た子どもたちはいかに艱難辛苦の人生であろうとも、瞽女さんが、門付けの芸人として、諸国を旅しなければならなかった。


 これを人道主義によって、社会福祉によって救おうというのは、言うはたやすい。

 社会福祉にあてるだけのストックと富を生み出す経済力がなければ、救うことはできず、ひとりひとりが娑婆苦に耐えて生きて行かないかぎり、結局は、間引き(生まれたら、すぐ殺してしまう)や堕胎に頼るしかない。


 福沢諭吉の「日本の経世上必要なるべし」とは、結局、貧困の親とともども一家心中するよりは、海外に出稼ぎして、弟、妹に仕送りしてやる事は、少なくとも、何もせず途方に暮れるよりも、まちがいなく、経世上必要なるべし、という冷徹な認識だったかもしれない。


 が、朴裕河の認識は、少しちがうようだ。

 「祖国を離れた商人たちが、東南アジア各地で商売の交渉、競争に勝ち抜きながら、海外に長く居続けるために、日本の娼婦は彼らを癒やす役割を果たす。だから、日本の経世上必要だ」言った。「経世上必要」の福沢諭吉の意図はそういう意味だ、と言う。


 なるほど、朴裕河の解釈は、かなり説得力があると言える。福沢諭吉の本文を読んでいないから、わからないが、果たして福沢諭吉はそこまで、貧困から海外にまで風俗業者に連れられてボルネオやシンガポールなどに行くからゆきさんが、日本の東南アジア貿易の商人の癒やしの役割者とまで認識していたのだろうか?という疑問は残る。いずれにしても、歴史の解釈はこれほど、ちがうものなのだ。


 わたしは、朴裕河のこの解釈はちがうのではないか、と思う。

 なぜなら、フィリピン女性、南米女性、韓国女性が世界各国に風俗出稼ぎをしている事はまちがいない事実である以上、朴裕河の言う、その国の商人の海外進出を後押しするのに、それら女性の風俗出稼ぎが役立つ、というなら、南米のビジネスマン、フィリピンのビジネスマンが日本に来ていなければおかしい。


 実際は、イランの労働者が、日本に多数来たことはあっても、イランの女性は日本に来ることはなかった。


 このアンバランスは、朴裕河の言う、日本のからゆきさんが日本の貿易商人の海外の寂しさを助けるために存在したというのとは、ちがうのではないかという疑問を呼ぶ。さらにおかしいのは、実は矢野暢は、この本で、「シンガポールは淫蕩な白人のうごめく町」と言っており、日本のからゆきさんのお客とは、白人だったのである。


 その事を朴裕河は、うっかり忘れて、日本の帝国主義の貿易商人が長く東南アジアを商売してまわるその間の癒やしの役割だ、と解釈している。


 福沢諭吉の言っているのは、白人のフトコロから金銭を得て、利益を日本に持ち帰り、家族に資益することは、一家心中するよりも良い、と言う意味だと思うのだ。