広島反核沖縄反基地闘争の通俗性 | 気になる映画とドラマノート

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広島の反核平和運動をしている人たちが、アメリカの市民に非核と核の悲惨を訴える時、まず最初に「真珠湾を攻撃して申し訳なかった」という言葉から始まるそうである。

 


 

 そして、多くの場合は、あなたがそうやって、真珠湾攻撃について謝るなら、わたしも、原爆について謝りたいというのだそうである。

 


 

 もちろん、真珠湾と原爆が別問題だというのではない。

 


 

 ここには、明確にすべき事を忘れて同じ事を言っている気持ち悪さがあって、最近、広島の「過ちは二度と繰り返しません」という言葉を「被害者がなんで謝るのか」という疑問が口々に語られて、2015年の6月25日のテレ朝「朝まで生テレビ」でも、「過ちは二度と繰り返しません」というのは、おかしい。原爆は正当化できない。原爆投下は、ポツダム宣言の後に、投下されたのだから、連合軍は、勝利を確信した後に、投下したとう意見に賛成者が多かった。

 


 

 わたしは、これには、非常に違和感を覚える。

 


 

 というのは、この言葉は、本来、日本が「日本軍国主義」の悪性ゆえに、戦争をはじめなければ、起こらなかった事」という認識に基づくもので、大東亜戦争が侵略戦争だったと断ずる立場からすれば、さほど、まるで変な言葉でもないのだ。

 


 

 にもかかわらず、原爆投下よりも、この言葉の矛盾にこだわるのは、自分は反日ではなく、愛国者ですよ、といいたがる心理に由来する詭弁なのである。

 


 

 「過ちは二度と繰り返しません」というのは、日本軍国主義とその侵略のような愚かな事をして、日本人に、二度と、あなたがたのような悲惨な目に遭わせません、と言っている点で、おかしくもなんともない。

 


 

 ただし、日本は侵略したわけではなく、真珠湾が侵略の証拠になるわけでもない、明白に考える立場からすれば、この言葉は間違っているのである。

 


 

 大東亜戦争は、太平洋戦争であり、日本の侵略意図がなければ起きなかった、と考える人が、「過ちは二度と繰り返しません」を批判するのを見ていると、何を言っているのか、という気分になる。これは、因果関係から言えば、戦争をはじめなければ、核投下もないのは、当然で、かく考える以上、日本人自身が日本の死者に謝罪して当然なのである。

 


 

 そして、広島の核反対平和運動家は、じつのところ、アメリカに原爆投下の罪を認めて謝罪してほしい、と言っているのではなく、原因を作ったのは、日本の真珠湾攻撃に象徴される対米宣戦布告だから、罪は日本にあるが、この爆弾はあまりに、悲惨さだから、もう二度と使わないほしい。したがって、削減し、廃絶してほしい。これが、広島平和運動の当事者の考えかたである。

 


 

 原因を作ったのは、日本の真珠湾攻撃に象徴される対米宣戦布告だ、という長崎、広島の平和運動の認識は間違っている。

 


 

 日本は侵略したが、アメリカの原爆使用も非道だ、というのではなく、アメリカのパックス・アメリカーナを目指す、アジア・太平洋戦略にとって、日本の存在が障害になったために、アメリカが日本を壊滅させようと決意した、という事が、アジアの地域紛争が大東亜戦争に拡大した真因である。

 


 

 日本には、真珠湾攻撃を謝らなければいけない、という広島反核平和運動と真珠湾を謝る必要はないと考える広島反核平和運動が併存する。

 


 

 前者は「過ちは二度とくりかえしません」を肯定し、後者は、「過ちは二度と繰り返しません」は、おかしい。被害者がなんで謝るのか、という。

 


 

 これはどういうことか、というと、前者は、アメリカの言い分、日本軍国主義の侵略が戦争を起こしたという考えを肯定して、その上で、アメリカに核の放棄を訴える考えで、この場合、共産主義国には、直接訴える機会は事実上、ないから、彼等は、中国が核をへらさなくても、アメリカが減らせば、とりあえず満足だという考えに立つ。

 


 

 彼等は、天安門広場に観光旅行のふりをして行って、いきなり、中国の核武装に反対する、という横断幕を掲げるくらいの勇気も持ち合わせない。

 


 

 コレに対して、「過ちは二度とくりかえしません」という言葉を否定し、なおかつアメリカの原爆を否定するが、真珠湾攻撃をアメリカに謝る必要はないが、真珠湾攻撃は日本の恥だとする者がいる。そして、彼等は同時に、日本は中国には、戦争、占領・朝鮮には、武断統治で植民地化という侵略をしたと思っている。

 


 

 また、彼等は、アメリカと日本はどちらも、侵略国家だと考える。中国・韓国は完全な被害者だという認識を持つ。

 


 

 このように、辻本清美が、朝日新聞が、広島の日教組が、大江健三郎がどちらに、近いのか、本当は、確かめないと、見る側は、同じ考えの人たちと錯覚して見ているのである。

 


 

 少なくとも、本多勝一、田原総一朗、保坂正康は、「過ちは二度とくりかえしません」否定派で、日本の中国・韓国侵略派だ。この三人しか、いったい、だれがどういう本音を持っているか、確かめるのは、むずかしい。

 


 

 保守派の場合にも、アメリカの長所短所をトータルに考えて長所を肯定的に見る立場とアメリカの短所の指摘に価値を置く立場の違いがある。

 

 この二つの違いを持ちつつも、全体主義、共産主義、社会主義の、生産財の国有化と計画経済を否定し、一党独裁を全否定する。そしてもうひとつは、大東亜戦争は、西欧のアジア侵略への抵抗戦争だという見方に立つ点で共通するのだが、戦後、アメリカと日本は同盟国として進むだけの価値観の共有が基本的にはあると考える立場と、アメリカは本質的に日本嫌いであり、油断ならぬグローバリズム・大衆支配という欠陥を持つ国だという観点を持つ立場の違いがある。

 


 

 これまた、けっして無視できない大きな違いだ。

 


 

 つねに、新しい、世代の青年が政治思想を自己形成するとき、現代では以上のような左右両翼の政治思想の似て非なる両派の争論の間で、いったいそこで何が対立しているのか、困惑にさらされる事になる。

 


 

保守派は中国、韓国に対する日本のおこなった侵略という戦後の多数派の考えに対しては、次のように考えている。

 

 日本は明治初期、中国、朝鮮に開化の助力を必死になってしたが、中国・朝鮮は何度も、日本の、ともに、開化し自立して協力しあいながら、西欧の脅威をはねつけよう、という誘いにのりながら、反日に転じ、ついには、衝突した。

 


 

 その衝突の意味とは、中国・韓国の反日は、自立中立ではなく、欧米・ロシアなどへの従属という形をとったため、それは、日本の脅威の増大を意味したので、日本は中国・韓国への支援をあきらめて、日本とすれば自衛的に、わからずやの中国・韓国をおさえこまずにいられえなくなった、という考え方を持っている。

 


 

 沖縄の大衆もまた、広島・長崎の平和を願う人々が、「日本軍が真珠湾攻撃をして開戦しなければ、そして、もっと早く降伏していれば、広島・長崎はあのような悲惨な目にあわずに済んだ」という論理に近い、日本責任観に立つ。

 


 

 日本がもっと早く降伏していれば、沖縄戦はなく、また、沖縄は日本本土の身代わりになった、というのである。

 


 

 しかし、ここには、アメリカがなぜ、沖縄を戦後になっても、占領したかということの解釈不能に立った認識がある。

 


 

 もともと、沖縄は、台湾、中国大陸の狭間にある島嶼として、第二次世界大戦後のアメリカの中国大陸への支配を確立するための絶好の位置にあった。だからこそ、これを見越して、アメリカは沖縄に上陸し、占領を長期化させた。それは、日本の再南下とソ連の南下を沖縄で阻止して、ソ連の東南アジア進出をシャットアウトするための要衝の意味があった。

 


 

 それが、中国共産党の成立によって、沖縄は、アメリカ軍にとって、台湾防衛とソ連の東南アジア進出阻止、朝鮮半島の韓国防衛の三つの意味を持つようになった。

 


 

 したがって、沖縄は、日本の九州、本州の身代わりになったというよりも、元来、東アジア、朝鮮半島の北と南の抗争、東南アジアにおけるソ連(ロシア)の軍港(ベトナムのカムラン湾には、もとソ連の軍港があった)、中国、アメリカの覇権のるつぼに位置するからこそ、沖縄に基地があるのであって、アメリカがひきあげれば、平和がおとずれるわけではなく、ロシア、中国の基地が置かれるだけのことなのであるが、沖縄の人々は、アメリカが去り、日本の自衛隊基地が去れば、空白の平和地帯になると思い込んでいる。