侵略と植民地支配の日本史 2 | 気になる映画とドラマノート

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ドイツがEUを通してギリシャを支えて、ギリシャに経済政策を強要しているように、日本は、アメリカ同様、韓国と条約を結んで、基地をおきながら、ロシアの南下に備えるべきだった。

 


 

 併合は次のような点で、日本自身に大変な損失をもたらした。

 

 朝鮮本来悪政によって生じた貧困層の子弟が、併合によって、日本に移民する口実ができて、日本が朝鮮人移民を拒否することが、同じ日本人を差別するのか、という批判を生むことになった。また、民間レベルで朝鮮人を温情を持って受け入れるので、結果的に大量の在日朝鮮人集落ができて、あろうことか、後に、「強制連行によって来た」というとんでもない幻想が生まれた。

 


 

 保護国化に止めておけば、もっと厳しい条件を課して、日本への流入を拒否できたはずだった。

 


 

 そして、もし、韓国の知識人が、「強制連行できた」などとウソをつかない自制心を持っているならば、移民はあったとしても、人道上やむをえなかったかもしれないが、在日韓国人知識人の数々のウソによって、一般の在日二世がだまされて、日本国内に軋轢が生じ、日本は後世に大変な禍根を残すことになった。

 


 

 むしろ西郷隆盛ならば、朝鮮開国に向けて、朝鮮を強引に領導はしても、朝鮮王を取り潰すという政策は取らなかった可能性が高い。

 


 

 明治維新は、西郷隆盛、大久保利通を早くに失うことにより、維新後にすぐさま危機を迎える。桂太郎、山縣有朋ら足軽出身の権力家が、明治天皇の朝鮮王を継続を望むという意志を忖度することなく、勝手強引に併合を決めてしまったのである。

 


 


 

 当時、原敬は「山縣有朋が功名を急いだのだろう」と言ったし、伊藤博文は反対はしたが、さほど強く反対したわけではない。

 


 

 桂太郎、山縣有朋らが、伊藤博文の消極的反対派を押し切って併合を断行したために、日本は、イ・ハン皇太子を韓帝国立憲君主制の皇帝として再興させるか、そのまま日本統治し続けるかという余計な判断を抱えることになる。

 


 

 日本というのは、明治憲法も、日本国憲法も、まったく修正しようとしない。

 

 併合もまた、一旦併合してしまった後に、独立させるという英断をくだせないのが、日本の弱点だった。それでいて、日本は李氏朝鮮ならば、高麗の王族を皆殺しにしたような残酷な処置はせず、イ・ハン皇太子と梨本宮方子女王を結婚させて、世継ぎもちゃんといた。

 


 

 もし、日本が併合せず、保護国として、暫時韓国を発展させて、韓国自身に内政の責任を持たせていれば、現在のように、韓国があらゆる事を日本のせいにする馬鹿げた状況は起こらなかった。(併合しても、早く再興させればよかったが、惰性で進み、異民族、異言語の人々を同化する非常に矛盾をはらむ政策を施行せざるをえなくなった。

 


 

 南米諸国の人々やフィリピン人、ハワイ人が英語、スペイン語、ポルトガル語を話し、名前もスペイン系、ポルトガル系が多いように、長い時間が経てば、朝鮮半島の人々は、日本語・朝鮮語両方を話すのが当たり前になり、日本風の名前を持つ事に違和感がなかったかもしれない。が、それも、敗戦によって、すべてそれが、強制という解釈をされることになった。

 


 

 また、ルーズベルトがアメリカ国民に向けて発した、「(アメリカ自身の黒人差別はスルーして)朝鮮の奴隷状態を解放する」などという戦争プロパガンダの口実になった。

 

 併合せず、保護国化しておけば、奴隷状態などと言われることはなかった。

 


 

 ※現在、南米の人々、フィリピンの人々がスペイン風の名前を持つからと言ってスペインを非難する価値観はまったくない。それはスペインが悪くないからではなく、単純に、忘れてしまったのである。

 


 

韓国の国定中学歴史教科書には、「1905年以後、数多くの学校が建てられ、1910年ころには、全国の学校が5000余となった。」と記述されている。

 


 

 つまり、日韓併合の直前に、韓国は自力で5000校の学校を作ったと主張しているのだが、これは、韓国の歴史学者の捏造を、教育界が鵜呑みにしたもので、まったくのウソである。実際は、1910年以前は、日本の保護国だったのであり、その時に日本の指導で公立小学校を百校ほど作ったものの、実際は、教会の日曜学校や論語の私塾のようなものをあわせて、2000校くらいしかなかった。1945年になってはじめて、5000校近い数になった。

 


 

 日本は、朝鮮の人々に高等教育を与える努力をした。

 

 1.京城医学専門学校

 

 2.京城高等工業学校

 

 3.京城法律専門学校

 

 4.水原高等農林学校

 

 5.京城高等商業学校

 

 6.京城鉱山専門学校

 

 7.釜山高等水産学校

 


 

 このような学校をアメリカがフィリピンに、英国がインドに、オランダがインドネシアに、フランスがベトナムに作っていたら、東南アジアはもっと発展していただろう。

 

 日本のTBSの「報道特集」は、日本の戦争中の戦争犯罪を暴き立てる事に血道をあげるが、このようなアジアの人々への貢献の側面は一切国民に知らせようとはしない。

 


 

 これらの専門学校には、大望を抱く朝鮮人学生が勉学に励んだ。

 


 

 日本が朝鮮人に日本語を教育したのは、西洋の学問の翻訳書などが、日本語で書かれいるために、近代化の力になるために、日本語を善意で教えたにすぎない。

 


 

 これを韓国人は、日本語を強要したと逆の意味に解釈した。

 

 もし、日本語を教えず、英語と朝鮮語だけを教育したとしよう。

 

 その場合、彼等は高価なドイツ語、英語の原書を購入して解読するしか、西洋の医学・薬学・法学・科学の知識を入手出きなかったことになる。

 

 日本語を教育されたからこそ、当時の韓国の青年たちは、日本の医学・法学を学ぶことができた。

 


 

 これを英国のインド統治に比較すると、英国統治時代のインド人の文盲率は、97.6%でインドの超富裕層以外の庶民には、英語教育は閉ざされていた。

 


 

 朝鮮語と日本語の教育比率は、小学校高学年になると、日本語のほうが増えていくのだが、これは、朝鮮には、森鴎外、夏目漱石に該当する小説家の伝統がなく、ハングルを覚える事が、朝鮮語教育のすべてなのだから、低学年で終わるのは当然なのである。

 


 

 繰り返すが、日本語教育を受けてこそ、漢字が読め、西洋の法学、医学、科学などの日本語翻訳書が読めるのだから、当然の事だった。

 

 ※中国の魯迅は、日本語を学んで事によって、トルストイやゴーリキーの内容を把握する事ができた、と言っている。

 


 

 朝鮮の人々にハングル・漢字混合文で新聞を読む習慣を教えたのも、日本人だった。

 


 

 ハングル・漢字混合文の漢字の部分の知識は日本語教育で自然に身についた。

 

 もし、日本人朝鮮の悪意を持っていたなら、新聞は日本語そのものだったろうが、福沢諭吉と弟子の井上角五郎は、ハングル・漢字まじり文を推奨して、朝鮮の人々が芯部によって社会的情報を得る習慣を身につけさせようとした。

 

 朝鮮の両班階級は、漢文を読む能力を独占的に習得して、庶民は書物をまったく読む事ができなかったが、日本がハングルを庶民に普及させ、同時に漢字も読むことができるようにしたために、韓国の庶民は、新聞を読む事ができるようになった。

 


 

 1898年創刊の朝鮮人の手になる「皇城新聞」は1886年1月から88年7月まで、日本人の井上角五郎の発行した「漢城周報」のハングル・漢字混じり文を真似たものなのだが、現在の韓国は、歴史学者が「漢城周報」を無視し、教育界はこれにだまされて、ハングル・漢字混じり文は朝鮮人の発案だと思い込んでいる。

 


 

 日本はハングル・漢字まじり教科書を朝鮮に持ち込まず、漢文教科書にしていれば、ハングルよりもむずかしい漢字だけの教科書に落語する庶民の子弟は多く、仮に両班階級の子弟が漢文を読みこなしても、漢文の医学書、法学書は当時なかったので、科学教養の点で、日本人は朝鮮人に圧倒的優位に立つことができたが、日本人はそうはせず、朝鮮人に教育の機会をふんだんに与えた。

 


 

 コメについては、日本人の耕作方法のほうが朝鮮のそれよりも優れていて、品種もまた、朝鮮米よりも日本米のほうが豊作になりやすかったが、日本人は熱心に朝鮮米の品種改良を行い、耕作方法を指導した。そのため、朝鮮米は併合開始時点の二倍に増産され、朝鮮の米業者は余った米を日本内地に売って現金を得て、可処分所得が増えた。

 


 

 朝鮮の農家、米業者は、朝鮮半島内で米を売るよりも日本内地に米を売るほうが高く売れるので、現金収入を求めて、日本内地へ優先的に米を売ったために、半島内の人々むけの米が高値になった時があるが、朝鮮総督府は雑穀を輸入して、朝鮮の人々が飢えないように配慮すると同時に、農家の儲けを否定しなかった。日本の農家は圧迫された。

 


 

 そうこうするうち、医療・衛生の向上の効果が現れて、1910年の併合の年に1313万人だった朝鮮の人口は、1942年には2553万人になった。

 


 

 もともと、朝鮮の人々は、日本と関わる前は、栗・麦・雑穀を主食にしていた。

 

 日本が品種改良えと水田改良をしてはじめて米が増産され、もともとさほど食わなかった米を日本に売却して現金を得るという儲け口が出きたというのが、真実なのに、韓国は、この時代を日本は朝鮮の米を輸入して米を奪ったと教育している。

 


 

 米を奪ったのではなく、朝鮮農家の現金収入をあげてやろうと配慮した結果が、日本内地への米の輸出だったので、日本が指導しなければ、輸出するだけの増産さえ不可能だった。

 


 

 日本が関わる前の朝鮮の農業には、池やダムなどの水利施設がまったくないありさまだった。だからこそ、日本が池やダムを造成してやり、農機具の持ちこみ、肥料の改良・品種改良をすると、一気に増産された。

 


 

 これまた、英国のアイルランド政策と比較すると、英国は、アイルランド統治下の1740年間の一年間で40万人の餓死者が出ており、8年間には、60万人の餓死。

 

 そして、英国以外の国に向かって、140万人が脱出したが、朝鮮の場合は、いつの時代にもいる貧困層は、中国・東南アジアには行かず、出稼ぎ先を日本内地に選び、これを戦後、在日の中の政治的なクセのある人物が、「強制連行」とウソをついた。

 


 

 日本とかかわる前の韓国では毎年餓死者がでていたが、併合後は、大規模な餓死の報告はない。

 


 

 アイルランド人の土地保有率は、英国の政策によって、5%以下になったが、朝鮮の全土地の90%は、朝鮮の両班出身の大地主が持ち続けた。

 

 この状況は、韓国の国民小説「土地」に書かれており、日本人はこの内容をおおよそ、「名家の娘ソヒ」で知ることができる。

 


 

 わたしたちは、日本のニュース、アメリカのニュースで、警察の不祥事をしばしば見たり聞いたりする。しかし、だからといって、犯罪を目撃した時に、警察は信用できないからと、110番しないというならとんでもない阿呆で、そんな人はいない。

 


 

 現に警察は同時代に存在して、トータルとしてどの程度の腐敗か、基本的には信頼できるかを感じとることができるから、馬鹿でもないかぎり、かなり不祥事の存在を知っていても、まったくあてにならないほどの組織だとは思わない。

 


 

 ところが、戦前・戦中というのは、今現に見聞きしている事柄ではないだけに、当時の日本軍の不祥事を記録を示して見せられれば、たやすく、当時の日本軍は残虐不正なものだったというイメージがつくりあげられてしまう。

 


 

 たとえば、タイの英国軍兵士が日本軍の捕虜になって、食事が粗末なために、痩せさらばえている映像を見せられれば、いかにも、日本軍は残虐だったという印象をもつが、そもそも、英国軍、オランダ軍は長年にわたってインドネシア、インドなどを植民地支配して、その間、インドに例をとれば、インドの90%の人々は読み書きができない境遇に置かれた。

 


 

 そのような虐待を東南アジアの人々に強いていた英国人、オランダ人が日本の捕虜になると、めしを食わせない、虐待だと騒ぐのである。

 


 

 第二次世界大戦時には、すでにアメリカと英国の国力は開き、アメリカ軍は通常兵器においても格段の破壊力のある兵器を所有していた。だから、日本軍はさしたる最新兵器を持たない英国軍・オランダ軍には、しばしば勝利したが、アメリカ軍と戦う場合には、アメリカ軍の火炎放射器や日本制戦車よりもはるかに性能のよい戦車に圧倒されて、捕虜になる前に焼き殺される場合が多かった。

 


 

 こうした背景を知らずに、日本軍が英国軍兵士、オランダ軍兵士を捕虜にして、その捕虜が痩せているのを見ると残虐だと思ってしまうが、そもそも、残虐な東南アジア支配をしていた英国・オランダだということを勘定にいれないといけない。

 


 

  GHQの作った日本の憲法の前文と9条は、アメリカにとっては、中国が蒋介石政権になり、共産主義にならない事を前提とする日本非武装化戦略だった。

 


 

 この非武装憲法には、二重の仕掛けが施されていて、象徴天皇の項目を設ける事によって、日本国民が共産主義に同調する事を抑える効果を持たせる事。

 

 中国・米国というアジアの二大国に反発する日本が、ソ連と結んで、中米同盟に対抗する意志を持つ前に、憲法9条という障壁を設けて置くこと。