侵略と植民地支配の日本史 3 | 気になる映画とドラマノート

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 これにより、アメリカは、ソ連と日本がアメリカのアジア支配に将来対抗してくる芽を積んだつもりだった。そのために、日本の指導者が、ナチスと同様に、国民を欺いて戦争に駆り立てたという論理をつくりだして、東京裁判で日本の指導者を裁いた。

 


 

 しかし、アメリカは、毛沢東の共産党政権が誕生して、中国、モンゴル、北朝鮮とソ連の広範囲な共産主義が東南アジア諸国にまで伸びる事態に直面すると、アメリカ国内の判断は、「日本はファシズムでも軍国主義でもなく、アメリカが英国やフランス、ソ連などに遅れてアジアに商圏を進出させ、日本の満洲開発の時期と蒋介石と毛沢東という中国の新興勢力の勃興の時期がすべて一致したために、悲運に日本がのみこまれたというのが、真相ではないか、ということにアメリカは気付きはじめる。

 


 

 そこで、アメリカでは、マッカーサーが、「日本の戦争は自存自衛の目的であり、侵略戦争ではなかった」という上院証言がなされたり、共和党の有力議員のハミルトン・フィッシュが、「ルーズベルトは、議会に対して、対日強硬政策のハルノートを日本に突きつけて、日本を追い込んで、日本に先制攻撃をするように仕向けたのであって、真珠湾攻撃は、日本の侵略を証明するものではない」われわれアメリカ国民は、ルーズベルトにだまされたと言う解釈が現れるようになった。ただし、アメリカ国民の一般的な自負心を傷つけたくない大手メディアは、一貫して、ルーズベルトを英雄扱いしたが、すくなくとも、アメリカの有力議員の中に、日本は侵略意図はなかった、という中国・韓国には存在しない見解が出始めた。

 


 

 またルーズベルト死後のアメリカ政府は、ナチスの独特な世界観によるホロコーズトとちがって、日本の戦争は国家神道によるイデオロギー戦争とはちがう、資源を断たれた事による断末魔をほどく事を目的とする戦争であって、けっして国家神道が戦争の動因ではないと考えて、神道禁止令を解いた。

 


 

 この動きを見た中国共産党と韓国は、「アメリカは天皇制ファシズムが日本軍国主義の要であると知りながら、反共政策のために、日本の天皇制を温存したのだ」と解釈したが、実際は、アメリカの中で、「天皇制が軍国主義の元凶だ」と言う見方と、「天皇制は軍国主義の元凶ではなく、英国の王室に似た伝統習俗の一種にすぎないという見方が対立していて、やがて、長い年月が経過しても、日本に熱狂的な天皇礼賛の現象が生じない現実を見て、やはり天皇は日本人にとって、英国やスペインの王室とさほど変わらない伝統習俗と一種であり、危険なものではないという見方が優勢になってきた。

 


 

 また、欧米の知識人には、スペイン・ポルトガルの南米・フイリピン侵略、英国のインド支配オランダのインドネシア支配、フランスのアフリカ・ベトナム支配などの後進国への収奪侵略への疑問から、共産主義のような「国家権力が生産財を所有して、計画経済によって、富を再配分する方式が、私企業の私益を基本として動く社会よりも優位ではないか、という考えが生まれた。


 しかし、社会主義は、自由を否定する全体主義だという批判の対立が生まれはじめた。


 やがてソ連の収容所列島、ノーメン・クラツーラと呼ばれる共産党一党独裁支配が定着し、北朝鮮が韓国に侵攻し、中国が核実験をしはじめると、共産主義とは、人類解放の理論たりえず、現実の共産主義国家とは、新興勢力の権力奪取の一種に過ぎなかったのではないかという見方が優勢になってくる。

 


 

 魯迅と毛沢東

 


 

 アグネス・スメドレーは、「魯迅を想う」という文章の中で、1930年ころに魯迅と会った時、魯迅がスメドレーに「根こそぎにされた中国」の物語を語ったという。

 


 

 魯迅の言う「根こそぎにされた中国」の加害者とは、長い清朝の封建時代の中で、中國人自身の精神が腐敗した」という意味であり、けっして日本を加害国、中国を被害国と言いたかったのではなかった。

 


 

 スメドレーは魯迅の言葉として、貧しかった魯迅は、当時、中国の民族運動に同情的であった日本に留学して、日本の学校で医学を学び、同時に日本語訳によって、ロシアのトルストイやゴーリキーを熱心に読んだ」と言っている。

 


 

 戦後日本では、日本が中国を侵略した、これを認めるか認めないかとばかり騒ぐので、この魯迅の話の意味がすぐには、理解できないほど、歴史について無知になっている。

 


 

 魯迅が言っている日本が同情してくれた民族運動とは、西欧諸国の租界地だらけになって中國人自身も自立心にかける惨憺たる有り様が、「万里の長城」の内側において固定化していたその状況の事を言っていたのであり、1930年のこの時点でさえ、魯迅は日本人に対してなんの敵愾心も持ってはおらず、むしろ、日本に親近感を覚えていた。

 


 

 魯迅はアグネス。スメドレーに、たいていの病気、中国人の苦しむ病気は、(歯痛、食中毒・感染症などなど)は、貧困と貧困に伴う無知によるものだ、と語った。

 


 

 また、その中国人のそうした病気の原因である貧困の原因を作ったのが、日本だなどと、魯迅は夢にも思わなかった。それは長年に培われた中国人自身の怠惰と清朝政府が、日本人が日本国民に学校を用意したようには、教育を整備しようともしなかった事に原因があると考え、日本に見ならうべきだと考えていた。

 


 

 戦後日本人は、日本が日清戦争、日露戦争とアジアに侵略を続け、中国人、朝鮮人を苦しめ続けたと把握している人がいるが、魯迅自身はむしろ、日本人は貧しい中国人を世話し、親切に留学させ、医師になるための勉強までさせてくれたと考えていた。

 


 

 また、日本語を覚えたおかげあってこそ、トルストイやゴーリキーがどんな事を考えていたかを学ぶ事ができたのであり、中国語や朝鮮語を学んだでもロシアや西洋の事を学ぶ事ができたとは夢にも、思わなかった。

 


 

 アグネス・スメドレーは言っている。

 

「中国では、穏健な社会文學でさえ、読むのを禁じられていた。」

 

※これは、当時のアジア地域で、穏健な社会文學を読んだり書いたりする自由があったのは、ほかならぬ日本だったことを意味する。

 小林多喜二は拷問されて死んだが、結局小林多喜二は、北朝鮮のごとき共産主義の共鳴者だった。村山富市みたいに、長生きしていればよかったろうに。どんなに痛かったことか。


 小林多喜二の信奉する共産主義とは、暴力革命の、いまのイスラムテロリストと何も変わらない。


 

 日本では、文芸雑誌に労働者出身の佐田稲子の小説やプロレタリア文學の徳永直の小説と川端康成の「浅草紅団」が同じ号に掲載されるような状態だった。

 


 

 日本が中国の思想の自由をどうこうできるわけもなく、中国自身が、中国国内の言論表現を弾圧して、魯迅の文學は、中国政府の弾圧を避けるために。歴史に材をとって、現代中国をあてこするような手法で書かれたが、それでも、魯迅の小説は、検閲のため、あちこちが削除されて、意味の通らないかたちに改ざんされた。

 


 

 アグネス・スメドレーは魯迅のような作家をごく例外的な立派な文学者として評価しながら、中国のインテリのほとんどを「およそ肉体労働などしたこともないくせにそのくせ、傲慢な態度で、彼等中国インテリのいう「青年」に農民、労働者は眼中になく、「学生」の事しか頭にになく、農民に対して優越意識に凝り固まっている」と腹を立てている。

 


 

 日本が戦った中国とは、そういう農民を小馬鹿にした中国インテリの支える中国だった。

 


 

 アグネス。スメドレーは、中国人の書くプロレタリア文學など、ロシア文学の真似にすぎないと嫌悪を露わにしている。

 


 

 そういう真似にすぎないプロレタリア文學を書いていた中国インテリが後に中国共産党の党員として1949年に中華人民共和国を建国して、今日の腐敗につながっていく。

 


 

 1930年の魯迅は、スメドレーに、「無辜(罪のない)の民の虐殺と人権の冒涜に対する深い憎しみを語った」

 


 

 これまた、日本が虐殺したというのではなく、中国政府が中国の無辜の民を虐殺したのだと語っている。

 


 

 そういう日本は万里の長城の内外をめぐって中国との戦いの泥沼にひきこまれて行った。

 


 

 1931年2月21日には、魯迅の弟子のような若い作家たち24人が、逮捕投獄され、自分自身の墓穴を掘るように、強制されたうえ、銃殺された。

 


 

 この事件を魯迅が告発文に書き、スメドレーと茅盾が英語に訳して欧米で出版したので、50人以上のアメリカの作家が中国政府に抗議の声明を出した。

 


 

 カイロ会談でルーズベルト、チャーチルと語らった蒋介石こそ、魯迅を弾圧した張本人であり、日本が戦った中国政府とは、魯迅が憎んだ中国だった。

 


 

 魯迅の死後、中国共産党は魯迅の名声を共産党の信用醸成に利用するため、魯迅芸術学院を創設したので、中国津々浦々の学生たちが、尊敬する魯迅、その魯迅を顕彰する共産党という連想から、すっかり共産党を信用した。

 


 

 魯迅自身が中国共産党に信頼を寄せた形跡はなく、むしろ、根本のところで漱石、鴎外のいる日本、留学先で接した日本庶民の姿を信用していた。

 


 

 スメドレーはその後、毛沢東にすっかりだまされ、入れ込んで毛沢東をほめあげる英語本「偉大なる道」を英語で書いて中国共産党を欧米に紹介するが、もし、アグネス・スメドレーが長生きして、現代中国を見届けたなら、ああ、なんだ、あの時、魯迅を話した時の中国のダメさ加減はまったくそのまま、なにひとつ変わらず、共産党なら中国はよくなるだなんて、自分は完全に思い違いしていたんだな、と思ったことだろう。

 


 

日本共産党は、ハウスキーパー問題と言われる革命の潜伏生活の面倒を女性にみさせるという事を平気でやったり、リンチをしたりしていた。

 

 また、新聞の投書には、「わたしは、戦後、田舎から、日本共産党に入党して、一旗あげようと思って上京した、などとおおまじめに書く人もいるのが、人間の現実だった。

 

 新左翼は内ゲバで、われこそは、真の革命党派だが、おまえたちは偽物で、革命を妨害する役割を持ってしまうとお互いに罵ってバットで殴りつけて殺しあったりした。

 


 

 つい最近、2015年7月初旬、中国政府は100人におよぶ人権活動家を逮捕投獄している。

 


 

 毛沢東は中国共産党のゲリラ活動を自画自賛して、アグネス・スメドレーに吹き込み、スメドレーはこれを真に受けて、「偉大なる道」と題して、英語圏の知識人、日本の進歩的知識人をたぶらかした。

 


 

 「偉大なる道」114ページ

 

「共産党軍が敗北しないのは、軍隊内で民主主義を実行しているからだ。」

 

現代の日本人は、どうしたわけか、2010年ころから、映画「西部戦線異状なし」に出てくる「指導者がまず先に立って戦争をやればいいんだ」という言葉を九官鳥みたいに、真似するようになったが、共産党の指導者たちもまた、率先して、前線に出ていったわけではない。指導者が前線に出ていくような組織は最弱の組織だろう。

 


 

 軍隊にかぎらず、会社の社長が、経営方針を考えずに、窓口に座っていたら、半年もせずに、その会社はつぶれてしまう。

 


 

 「ここではいっさい階級は無くなり、みな自由にしゃべる完全な権利を持っていた。」

 

 会社員なら、この毛沢東の話が法螺話にすぎない事はすぐにわかるだろう。

 

 人間には、大きな構想を持った人物もいれば、短期の目標の達成に長けた人物もいるし、検討ちがいの判断しかできないが、言われた事をまじめに黙々と実行する人間もいる。そうした人間たちが、組織の中で、好き放題に喋り始めたら収拾がつかんくなる。

 

 だが、日本の会社経験もなければ、世間にもまれた事もない進歩的知識人は、毛沢東のこの言葉を文字とおり本当の事と受け取った。

 


 

 毛沢東はスメドレーに話す法螺話の興にのって、「きのうは、敵軍にいて、勇敢ではなかった兵士が、われわれ共産党に入党すると、勇敢な兵士に変わるのは、民主主義の影響である」

 


 

 「傷病兵の傷の治療についても、民主主義の平等精神が行き渡って、重傷者の治療費も、軽傷者の治療費も同じ額だけ給付するようになったので、さすがにこれはダメだと指導した。」

 


 

 こういうすぐわかるウソをついては、民主主義、民主主義と強調している。

 

 だから、北朝鮮の国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」なのだろう。

 

 日本の戦後の平和運動のデモをする市民もやたらに民主主義民主主義とくりかえす。

 


 

 

 

 日本およびアジアは、西洋列強に比べて圧倒的に弱いのは、まぎれもない事実であり、西洋列強は、武力を持って、弱い日本、アジアに処するという基本認識は、明治にはじまり、大東亜戦争まで、日本人にまったく不変の認識だった。

 


 

 この認識を日本でほぼ最初に気づいた水戸の会沢正志斎が、1825年、欧米列強のアジア侵略に対する抵抗に対する日本人の結束意識を高める根拠として構想されたのが、天皇を日本人の結束の要とする「国体」観念だったといわれる。

 


 

 この時、まだ、徳川幕府と藩の体制を解消するという考えはなかった。

 

 徳川家は、天皇を守護する将軍であるという観念の再確認が国体の意図だったと思われる。

 


 

 それから約30年後、佐久間象山が「国体論」を検討する段階にいたると、徳川幕府が天皇を守る将軍だという制度の否定まで行かなければ、「西洋に対抗しうる統一国家」になりえないと考えたようだ。