五條から東に向かうと吉野。
でもその前にちょっと南下して賀名生(あのう)の里へ。
ここは南北朝時代の南朝ゆかりの地なのだ↓
足利尊氏に追われた後醍醐天皇は京都から吉野に皇居を移す途中、賀名生にある堀家に滞在。「皇居」の扁額は天誅組の総裁 吉村虎太郎筆。これはたぶん複製。となりの資料館にあったのがたぶん本物↓
ひっそりと碑がある↓
裏には北畠親房のお墓があります↓
仮にも天皇がこんなところに。食べ物とかどうしていたのか↓
気を取り直して吉野へ。吉野歴史史料館↓
吉野は飛鳥時代に皇室の離宮があり、天智天皇の晩年、本当は天智の弟 大海人皇子が皇太子だったのだが、天智のわが子かわいさに息子の大友皇子に皇位をゆずろうという雰囲気があったので「このままでは兄上に始末される・・・!!」と危機を察知した大海人皇子は妻の鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)と数人の皇子を連れて吉野に隠棲したのです↓
吉野に行った大海人皇子は民衆から「虎に翼をつけてはなしたようなものだ」と言われました↓
天智没後、大海人皇子大友皇子の皇位継承争いが勃発。古代最大の内乱「壬申の乱」です。学校で習ったでしょ?入念に準備していた大海人皇子の勝利。天武天皇となりました。
ちなみに関ヶ原でも戦ってるの。徳川家康よりもずっと前に関ヶ原で天下分け目の戦いをしていたのよ。その時に大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったので桃配山という名前がついたとか↓
何年かして天武天皇も崩御。あとを継いだのは吉野にくっついて行った鵜野讃良皇女が即位して持統天皇となりました。一夫多妻の時代、天皇になった天武にはたくさんの夫人がいましたが吉野にいたころは妻はわたしだけ、大海人様との思い出の地・・・というわけで、持統天皇は何度も吉野の宮滝に行幸(30回くらい行っている)↓
宮滝(吉野川)はすごくいいところだった!遠かったけど行ってよかった。
持統天皇が何度も来たのがよくわかる気がする。そこが思い出の地ならなおさら。
つづく
参考文献
大化の改新(乙巳の変)の年に生まれた持統天皇の一代記。やっと完結したよ。ぜひ読もう
天上の虹(23)<完> (KC KISS)
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