前回投稿した、タカラプロ野球カードの記事 の続きです。
●昭和59年(1984年)版
この年から長年このデザインが採用され、伝統を積み重ねることになります。
微妙な変化なのですが、選手の背景が年度ごとに変わっていきます。
この編集技術は、クロマキーといい、ブルーバック合成を模したもので、均質な色の背景の前で人物を撮影し背景に別の映像をはめこむなどの使い方です。なので、青背景で選手の写真を撮影したと思われます。
●昭和60年(1985年)版
この年、テレビ朝日ニュースステーションがスタート。おニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」がヒット。
プロ野球では、阪神タイガースが日本一に!タイガースフィーバーに湧いた年でした。
この色は、チームによって分かれており、様々なカラーがありました。
カードのモデルは、現在DeNAベイスターズのGM補佐(ファーム担当)を務める、竹田 光訓 投手と、
ニコニコ動画の生放送でも活躍されている、ロッテ 愛甲 猛 内野手です。
竹田投手のカード化は、タカラプロ野球カードのみ。1984年のドラフトでは、明治大学の同期 広沢 克(広澤 克実)選手と共に注目されました。
入団2年目に32試合に登板したものの、あとは「・・・」でした。
愛甲 選手は、投手から転向し、前年は2試合に留まりますが、ここからオリオンズを代表する選手と駆け上がります。
●昭和61年(1986年)版
7月に行われた総選挙では、自民党が圧勝。中曽根 康弘が3期目の首相を務めることが決定します。
プロ野球では、ロッテ 落合博満、阪神 バースが3冠王を達成しました。
カードのモデルは、ヤクルト 鳥原 公二 投手、南海 佐々木 誠 外野手です。
この年の背景デザインは、実際の球場が使用されました。
セ・リーグ全球団→横浜スタジアム
パ・リーグ全球団→西武ライオンズ球場
です。
なぜこのチョイスかを考えてみたのですが、
横浜スタジアム→1978年開場
西武ライオンズ球場→1979年開場
「セ・パそれぞれで新しくできたスタジアム」を採用したのかもしれません。
本来ならば、ヤクルト、南海ともにビジターユニフォームになりますが、ホームユニでそれぞれの球場にいるのは違和感がありますねw
鳥原 投手は、この年に現役生活を終え、2016年までヤクルトの裏方として活躍されました。サインを頂いた時は、「こんなカードあるんだ!」とおっしゃってました。
佐々木 選手は、この後南海・ダイエーを代表する選手に。92年には首位打者になります。背番号「0」の前は、このカードの「57」でした。
●昭和62年(1987年)版
国鉄が民営化され、JRに。
日本一は、西武ライオンズ。桑田投手がいたジャイアンツを破り日本一に輝いた清原 選手の涙が印象的なシーンでした。
この年の背景画像は、セパ両方とも球場に。 どこの球場か不明です。
セ・リーグ球団 → 左スタンド/右ダグアウト
パ・リーグ球団 → 左ダグアウト/右スタンド
になっているようでした。これは細かいこだわりです。
カードのモデルは、中日 宇野 勝 選手と、阪急 今井 雄太郎 投手です。
ドラゴンズのユニフォームは、この年の開幕戦にお披露目。製作の都合上、それに間に合わなかったため、前年までのウルトラマン隊員ユニフォームに。
宇野 選手は、前年83試合に留まるものの、この年はフル試合出場。
昭和最後の完全試合達成者 今井 投手は、この年から陰りが見え始め、その後ダイエーにて現役生活を終えます。
●昭和63年(1988年)版
今にも続く、朝日放送「探偵ナイトスクープ」がスタート。8cmシングルCDが登場。光GENJIが、ガラスの十代などのヒット曲を連発します。高卒新人だった、立浪選手の応援歌として使われました。
この年も西武ライオンズが中日ドラゴンズとの日本シリーズを制し、日本一。
この年のデザインにはマイナーチェンジが。全球団グレーをベースに、選手写真がブラウン管のテレビ画面型に。
子供の玩具としては、ファミスタなどのテレビゲームの全盛期。それへの対抗意識(むしろ寄せてる?)感が否めないデザインにw
また、東京ドームがこの年から開場。ドームの基本色彩が「グレー」なため、その色を採用したのかもしれませんね。
カードモデルは、現在はジャイアンツの3軍監督を務める、川相 昌弘 選手。
入団から背番号が「60」だった時代は、1988年までのみ。翌年から「0」に。
60のカードを発行しているのは、タカラ社のみです。
っと、記事が長くなるので、今回は区切りのいい昭和時代で終了です!
タカラ社としては、テレビゲームとの戦いがこの時代あたりからスタートしておりました。