プロ野球カードとサイン

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プロ野球カードとサインでは、BBM・カルビー・タカラといった、NPBを取り扱うトレーディングカードを中心に選手の経歴を紹介。

アメンバー限定記事は主に球場でサインを貰う(インパーソン)際に更新しています。

80年代〜90年代のOB選手を中心です。

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ダブルヘッダーの連投!

 

中日ヤクルト 遠藤政隆 さんです。

 

遠藤さんは、投手分類としては「中継ぎ」の印象が強い選手。でも時には「先発」もする「便利屋さん」

 

実は遠藤さんは、今のところ、「日本最後のダブルヘッダーの試合で、連投をした投手」 なのです。

 

今年は、感染症であるコロナウイルスの影響で開幕が遅れているプロ野球。もし開幕できれば開催する可能性も高まってくるダブルヘッダー。

 

日本最後ダブルヘッダーを調べると、

 

パリーグでは、1998年10月9日の西武vsオリックス。

セリーグでは、1998年10月10日の横浜vs中日。

 

横浜ベイスターズが38年ぶりのリーグ優勝をした後の消化試合。

 

遠藤さんは、第一試合は中継ぎで2イニングを投げ28球。そして、第二試合では9回1死から抑えとして登板して、11球でその年のシーズン初セーブを記録。チーム順位も2位と確定させました。

 

遠藤さんは今のところ、1日2試合を投げた最後の投手に。

 

こんなところからも遠藤さんの「便利屋」加減が垣間見えます。

 

そんな遠藤さんは、日本大学明誠高校を卒業した後に、社会人野球熊谷組に入社。

 

1993年ドラフト4位で、中日ドラゴンズへ入団します。

 

1年目から1軍出場を果たすものの、定着とはいけず、2年目は、野球留学へ。

 

入団3年目の1996年4月初の完封勝利を成し遂げました。その年はその後、リリーフとして活躍し、49試合に登板しました。

 

このまま一軍定着し、リリーフエースになるかと思いきや、、、

 

1997年はリリーフを中心として40試合に登板するものの防御率は5点台。その後は、ケガで中々活躍できず、1999年の11年ぶりのセリーグを優勝した年は、1試合の登板に留まりました。

 

1999年から、背番号は「24」

 

これは、いとこである、大洋→横浜 遠藤一彦投手の背番号でもありました。尊敬しているからこそですね!

 

2002年に自己最多57試合の登板をするものの、その後は好調不調を繰り返し、2006年は初の一軍登板がなかった年に。

 

戦力外通告を受け、12球団トライアウトへ参加。2007年 東京ヤクルトスワローズと契約をしました。

 

開幕から一軍に定着し、中継ぎとして登板。38試合に登板し、2勝5敗2セーブ4ホールドを記録します。

 

しかし、2008年は一軍登板はなく、再び戦力外通告に。

 

2度目の12球団トライアウトにも参加。韓国プロ野球リーグの球団から誘いがあったものの、現役を引退しました。

 

調子の良いときの遠藤さんは、150kmに近いストレートと、鋭く曲がるスライダーを武器に三振を奪取する投手。

 

鋭く曲がるスライダーの名称は、「ゴリスラ」

 

・・・見た目? 鋭く落ちるから?

 

貫いたサウスポー

 

広島 大野 豊 さんです。

 

22年間、広島東洋カープでプロ野球選手として活躍した大野さん。

 

そんな、大野さんは島根県の出雲商業高校へ進学。母子家庭で、卒業後すぐに働けるからという理由だそうです。

 

チーム自体は甲子園出場はなかったものの、高校3年の夏には広島カープのスカウトも注目する選手に。

 

体力に自信がなかった大野さんの選んだ進路は、当時、唯一社会人軟式野球チームがあった、出雲信用金庫に就職でした。

 

プロ野球選手へと道が開けたのは1977年。出雲商業高校の監督と、広島カープの打撃コーチだった山本一義氏が大学野球部の先輩後輩という関係だったそうで、その縁から入団テストを受験し、合格。

 

軟式野球出身という異色の経歴で、ドラフト外で、広島東洋カープへ入団します。

 

転機が訪れたのは、1978年。南海ホークスから、江夏豊投手が移籍されてきたことがキッカケでした。江夏さんからアドバイスを貰い、フォーム改造や変化球の習得に取り組み始めます。

 

「俺と同じ 豊 という名前で、俺と同じ母子家庭で育ち、俺と同じ左腕投手なのも何かの縁。俺の弟のようなもの。是非、俺の後継者にしたい」

 

と、江夏さんは思い、時に厳しく指導をしたそうです。

 

1981年に、江夏さんはトレードで日本ハムファイターズへ移籍。そのタイミングで、大野さんはリリーフエースへ抜擢されます。

 

江夏さんは、「気の弱い大野に抑えは無理」と評されていたものの、その言葉に奮起し、1983年まで、年間40試合を越える登板数。

 

1988年には、13勝7敗 防御率1.70で、最優秀防御率、昭和最後の沢村賞を獲得しました。

 

1993年シーズンオフ。MLBのカリフォルニア・エンゼルスから、広島カープへ、大野さんを獲得したいというオファーが!

 

年棒100ドル、通訳と住宅付きで1年間レンタル。代わりに外国人選手を紹介という内容でした。

 

しかし!大野さんは、38歳というベテランの域になる年齢がネックとなり、辞退。このオファーを受けていれば、野茂さんより前にメジャーリーガーになっていたかもしれません。

 

大野さんは、長年練習している間は水分を摂取しないタイプだったそうで、それが一因でもある、左上腕部動脈血栓症を1996年に発症。

 

復帰後は、慣れなかったそうですが、水分を摂取するように変わっていったそうです。

 

1997年は41歳で、2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得。

 

1998年には42歳で、開幕投手に。2009年に中日 山本昌投手に更新されるまでセ・リーグ最年長記録でした。

 

しかし、同年。ワンポイントリリーフで登板した、巨人戦。

 

当時新人だった、高橋由伸選手に逆転スリーランを打たれたことをきっかけに、引退を決意。

 

引退試合後のセレモニーでは、

 

「我が選んだ道に、悔いはなし!」 とファンに伝え、グラウンドを去りました。

 

引退後は、チームのコーチを担当(1999年、2010~2012)した後に、現在は解説者、野球評論家として活動されています。

 

大野さんは、ジャイアンツを代表する4番打者 王貞治さんと、時を越えて、松井秀喜さんの両方と対戦したことがある投手。

 

長く1軍で活躍をした選手だからこそ、成せた記録ですね!

 

剛裕、直倫のお父さん

 

中日 堂上照 さん です。

 

現在、中日ドラゴンズで活躍している堂上直倫(次男)選手、中日→巨人で活躍した堂上剛裕(長男)選手の父親。父親、息子と一家そろってドラゴンズだったのです。

 

堂上さんは、石川県の金沢高校卒業後、電電北陸(NTT北陸)で野球を続け、1970年ドラフト6位で、中日ドラゴンズへ入団します。

 

入団4年目の1974年に1軍初出場を果たします。そして、6年目の1976年に初勝利!

 

身長184cm 体重84kg と大柄の体格から、愛称は「ジャンボ」

 

徐々に登板回数を増やしていき、1978年には54試合に登板。シーズン途中からは先発ローテーションに入り、25回先発で、9勝18敗。めちゃくちゃ投げてますw この年は、オールスターゲームへも出場しました。

 

1980年も7勝7敗、1982年は中継ぎとして、防御率1点台を記録。リーグ優勝へ貢献しました。

 

1984年も40試合に登板し、8勝を挙げる活躍!コンスタントに活躍するものの、

 

翌1985年出場試合数が9試合に留まり、現役を引退しました。

 

現役引退後は、中日ドラゴンズの球団職員となります。

 

そして、2003年それまで、中日ドラゴンズの寮「昇龍館」の館長だった、村田広光さんの逝去に伴い、館長(寮長)に就任しました。その年のドラフト6位で、長男 剛裕がドラゴンズへ入団。 父:寮長 息子:寮入居者となりましたw

 

やはり、父親も気を遣うそうで、自分の子供を甘やかすわけにはいかないので、厳しく接していたそうです。

 

2006年には、次男 直倫が入団。一家の大半がプロ野球球団の寮で生活をしているという相当珍しい例となりましたw

 

2008年をもって、寮長職から退き、退団。その後は、野球教室などで指導者として活躍されています。

 

堂上さんの好きなプロ野球球団は、阪神タイガースだったそうで

 

次男直倫さんは、長男とも被らないように、阪神に入団してほしかったそうですw

全身で立ち向かい、縦横無尽に突撃!

近鉄 大石大二郎 さんです。

 

身長166cm 体重71kgとプロ野球選手としては小柄な体格なものの、扱うバットの重さは1160g!

 

プロ野球選手のバットの重さの平均は800~900グラム。

 

ちなみに1000グラム越えをしている選手は、ロッテ フリオ・フランコさんや南海→オリックス→ダイエー 門田博光さん

 

全然タイプが違いますねw

 

そんな大石さんは、静岡商業高校へ進学し、1975年には春の選抜高校野球に出場。1番打者としてベスト8進出に貢献します。

 

東都大学野球リーグに所属している亜細亜大学へ進学。3年次の春季リーグ戦では17盗塁をマークし、当時のリーグ新記録を樹立します。

 

そして、1980年 ドラフト2位で近鉄バファローズへ指名され、入団しました。

 

入団1年目から1軍出場を果たし、入団2年目に転機が

 

2塁を守っていた、助っ人外国人 ビクター・ハリス選手の怪我により、オープン戦へ出場。打率3割を残し、レギュラーを奪取。

 

レギュラーシーズンでも、打率.274 12本塁打 47盗塁を記録。新人王とダイヤモンドグラブ賞を受賞します。

 

その後、長きに渡り、近鉄バファローズを引っ張るリードオフマンとして活躍をしていきます。

 

1992年 年棒1億円に到達。これは、ケチで有名だった近鉄球団では初めての1億円プレーヤーの誕生でしたw

 

このカードの背景は、中日ドラゴンズが本拠地としていた、ナゴヤ球場。大阪から名古屋まで近鉄電車が繋がっていることからの開催だったようです。この時期は、よく近鉄vsオリックス(愛工大名電出身のイチローが集客)を開催していました。

 

大石選手は、「自分は走れなくなったら終わり」と、自負をされていて、プロ13年目の1993年には、31盗塁で4度目の盗塁王に。35歳での盗塁王は、阪急 福本豊選手に並ぶ、最年長での盗塁王受賞でした。

 

翌年から、後身のことも考え、準レギュラーの立ち位置でチームに貢献。

 

「40歳までの現役と2000本安打の達成」を目標として、出場していました。

 

近鉄の本拠地は、藤井寺球場から大阪ドームへと変わった、1997年。このころは眼鏡をかけてプレーしていらっしゃいました。

 

この年、試合出場数は73試合に留まり、球団からは引退を勧められ、同年限りで現役を引退。

 

39歳 1824安打 あと数年頑張れば、いけるであろう2000本安打。惜しかったです!

 

その後、解説者・野球評論家として活動した後、2003年に近鉄へコーチとして復帰。

 

2005年からはオリックスのコーチへ。2007年からは、前任のテリー・コリンズ監督の辞任から、一軍監督代行へ就任。就任時は5位だったチームを復調させ、クライマックスシリーズへ導きました。

 

2009年には、ソフトバンクホークスのコーチへ。日本一にも貢献。

 

2016年からは愛知県に本社を置く、ジェイプロジェクトの監督へ就任し、社会人野球に貢献しています。

 

 

ちなみに、大石さんは、高校卒業後、大学卒業後と、競輪選手になりたい意思があったそうです。体格的にもその分野でも成功を収めそう!

 

息子さんは、2013年まで四国アイランドリーグ 高知ファイティングドッグスで野球を続け、2016年から競輪選手として活躍しているそうです。

 

最強の「脚のスペシャリスト」

 

広島 今井譲二 さんです!

 

近年の脚のスペシャリストといえば、読売ジャイアンツの鈴木尚広さんや、ソフトバンクホークスの周東佑京選手が有名ですね。

 

鈴木尚広さんは、50mのベストタイムが5秒8~6 周東選手は、5秒7。これでも相当速いのすが、

 

今井さんが、広島の入団テストで出した50mのタイムは、「5秒6」 非公式ながら、日本記録(朝原宣治)の5.75秒を越えてますw

 

中学校時代から野球を始め、陸上大会も兼任で参加をしていた今井さんは、鎮西高校から中央大学へ進学。

 

東都大学リーグに所属する中央大学では1年生からベンチ入りし、1番打者として活躍します。ちなみに、「5秒6」のタイムを出した、広島カープの入団テストは、入団テストだと知らずに受験をしたそうでw 今でもプロテストを受験する場合は大学野球部に退部届を出した上で受験する必要があるのですが、それをしていず・・・。大学側にそれが知られて、リーグ戦メンバーから外されてしまったそうです。

 

そして、1978年にドラフト外で晴れて広島東洋カープへ入団。

 

入団4年目の1982年に9試合に出場し、安打1を記録。盗塁よりも先に初ヒットを記録しました。

 

1983年 31試合出場、10打席で2安打。盗塁成功5。

1984年 52試合出場、8打席で1安打。盗塁成功15。

1985年 42試合出場、6打席で、1安打。盗塁成功8。

1986年 46試合出場、2打席で、0安打。盗塁成功17。

 

って、まったく数値が合わない試合出場が続きまくっている成績なのですが、プロ11年間で263試合に出場した、その大半が「代走出場」だったのです。

 

今井さんは、プロ野球で生き残るために、とにかく盗塁成功数を増やせるように、投手のクセや傾向を研究。

 

当時のバリバリのレギュラーで、盗塁王経験者の高橋慶彦選手や、後に盗塁王を獲得する正田耕三選手などを下げてまで、今井さんが代走で起用される場面もありました。それほど、首脳陣も信頼していた今井さんの走力。

 

1987年には、0打席で36試合に出場。9盗塁を成功させるという、「打つことがなく1軍出場を終えるシーズン」が訪れましたw

 

そして、今井さんが一塁ベースに立つと、応援団から、

 

いまい♪ いまい♪ いまい♪ いまい♪ いまい盗塁♪♪

 

と、原曲「マイムマイム」の応援歌がw プロ野球史上初の代走での応援歌が演奏されるほどの活躍ぶりでした。

 

1989年 出場試合数が4試合に留まり、現役を引退。

 

その年の広島市民球場最終戦終了後、引退セレモニーで誰もいない無人のダイヤモンドを一周し、最後はヘッドスライディングでホームイン!今井さんらしい、セレモニーでプロ野球から去ることとなりました。

 

現在は、野球教室の講師もやられているみたいです。

 

一軍ではホームランとは無縁の今井さんでしたが、実は二軍では9ホームランを記録しています。

 

チームの役割を全する、特徴を活かした今井さんの紹介でした。