広島 大野豊さん | プロ野球カードとサイン

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80年代〜90年代のOB選手を中心です。

 

貫いたサウスポー

 

広島 大野 豊 さんです。

 

22年間、広島東洋カープでプロ野球選手として活躍した大野さん。

 

そんな、大野さんは島根県の出雲商業高校へ進学。母子家庭で、卒業後すぐに働けるからという理由だそうです。

 

チーム自体は甲子園出場はなかったものの、高校3年の夏には広島カープのスカウトも注目する選手に。

 

体力に自信がなかった大野さんの選んだ進路は、当時、唯一社会人軟式野球チームがあった、出雲信用金庫に就職でした。

 

プロ野球選手へと道が開けたのは1977年。出雲商業高校の監督と、広島カープの打撃コーチだった山本一義氏が大学野球部の先輩後輩という関係だったそうで、その縁から入団テストを受験し、合格。

 

軟式野球出身という異色の経歴で、ドラフト外で、広島東洋カープへ入団します。

 

転機が訪れたのは、1978年。南海ホークスから、江夏豊投手が移籍されてきたことがキッカケでした。江夏さんからアドバイスを貰い、フォーム改造や変化球の習得に取り組み始めます。

 

「俺と同じ 豊 という名前で、俺と同じ母子家庭で育ち、俺と同じ左腕投手なのも何かの縁。俺の弟のようなもの。是非、俺の後継者にしたい」

 

と、江夏さんは思い、時に厳しく指導をしたそうです。

 

1981年に、江夏さんはトレードで日本ハムファイターズへ移籍。そのタイミングで、大野さんはリリーフエースへ抜擢されます。

 

江夏さんは、「気の弱い大野に抑えは無理」と評されていたものの、その言葉に奮起し、1983年まで、年間40試合を越える登板数。

 

1988年には、13勝7敗 防御率1.70で、最優秀防御率、昭和最後の沢村賞を獲得しました。

 

1993年シーズンオフ。MLBのカリフォルニア・エンゼルスから、広島カープへ、大野さんを獲得したいというオファーが!

 

年棒100ドル、通訳と住宅付きで1年間レンタル。代わりに外国人選手を紹介という内容でした。

 

しかし!大野さんは、38歳というベテランの域になる年齢がネックとなり、辞退。このオファーを受けていれば、野茂さんより前にメジャーリーガーになっていたかもしれません。

 

大野さんは、長年練習している間は水分を摂取しないタイプだったそうで、それが一因でもある、左上腕部動脈血栓症を1996年に発症。

 

復帰後は、慣れなかったそうですが、水分を摂取するように変わっていったそうです。

 

1997年は41歳で、2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得。

 

1998年には42歳で、開幕投手に。2009年に中日 山本昌投手に更新されるまでセ・リーグ最年長記録でした。

 

しかし、同年。ワンポイントリリーフで登板した、巨人戦。

 

当時新人だった、高橋由伸選手に逆転スリーランを打たれたことをきっかけに、引退を決意。

 

引退試合後のセレモニーでは、

 

「我が選んだ道に、悔いはなし!」 とファンに伝え、グラウンドを去りました。

 

引退後は、チームのコーチを担当(1999年、2010~2012)した後に、現在は解説者、野球評論家として活動されています。

 

大野さんは、ジャイアンツを代表する4番打者 王貞治さんと、時を越えて、松井秀喜さんの両方と対戦したことがある投手。

 

長く1軍で活躍をした選手だからこそ、成せた記録ですね!