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プロ野球カードとサイン

プロ野球カードとサインでは、BBM・カルビー・タカラといった、NPBを取り扱うトレーディングカードを中心に選手の経歴を紹介。

アメンバー限定記事は主に球場でサインを貰う(インパーソン)際に更新しています。

80年代〜90年代のOB選手を中心です。

 

いじられる控えキャラといえば・・・

 

巨人 福王昭仁 さんです。

 

ジャイアンツ長嶋監督がインタビューで、「4番は誰にしますか?」と聞かれ、

 

「4番? 福王じゃないのはたしか」

 

といい、周りを笑わせる程のキャラクターの持ち主の福王さん。そう、生粋の控え選手でしたw

 

そんな福王さんは、明治大学在学中に、東京六大学リーグではクリーンナップとして活躍。4年次には主将を務め、リーグ戦で2回優勝に貢献します。

 

1985年 ドラフト5位で読売ジャイアンツに入団します。

 

入団2年目の1987年に1軍初出場。1988年からは内外野どこでも守れるユーテリティープレーヤーとして一軍へ定着します。

 

当時、監督は王さんでした。”王に福を与える男 福王”としてマスコミに取り上げられることもありました。

 

CSTVのG+で、よく過去のジャイアンツの過去の試合を放送しているのですが、ベンチ風景によく映りこんでくるのが福王さん。

 

高校、大学と主将を務め、普段からやさしくて温和な性格。ベンチウォーマーとしての役割を理解し、行動に移しているからこそ、大事な場面で、ベンチの真ん中にいらっしゃったのかもしれませんね。

 

特に印象的な活躍は、1996年

 

5月10日vs阪神で、9回表二死から同点となる代打本塁打!!が、裏にサヨナラ負け

7月28日vs阪神で、延長15回表に、これまた勝ち越し代打ホームランを放つものの、またまた裏にサヨナラ負け

 

”福王が起死回生のホームランを打つと負けるジンクス”で、すっかりいじられるようになってしまいましたw

 

そして、またまたまたの8月29日vs広島 延長10回に、勝ち越しホームランを放ちます!その裏、抑えて、ようやく勝利!!!

 

ジンクスから脱却しましたw この年放ったホームランはこの3本でした。

 

その後も控えとして、1999年まで活躍し、現役を引退。

 

実働13年で、100試合出場したシーズンは無く、30試合~60試合程の間を行き来し、長期にわたってジャイアンツの控え選手として支えてきました。

 

引退後もジャイアンツに残り、球団職員、コーチ、スカウトを務め、現在は少年少女の野球教室ジャイアンツアカデミーでコーチをしています。

 

主将の経験や控えの経験、コーチ、フロントの経験など、さまざまな立場を担った福王さん。

 

社会人や高校等、アマチュア野球の指導者としての活躍もみてみたいですね!!

 

長ーくロッテに尽くす この方

 

ロッテ 佐藤幸彦 さんです。

 

小学校の頃は、野球ではなくテニスをやっていて、海外へテニス留学をした経験の持ち主。

 

千葉県千葉市出身の佐藤さんは、高校は千葉県にある拓殖大学紅陵高校から、1986年ドラフト4位でロッテオリオンズに入団。

 

翌年7月に、一軍初出場を果たします。1991年に一軍へ定着し、そこから長年、準レギュラーとしての活躍を続けました。

 

ピーピピッピピッ ゆっきひこー! コールが懐かしい。

 

前年39試合に出場がとどまった、1998年。打率は3割越え、8本塁打、41打点をマークし、104試合に出場。クリーンナップとして活躍する試合も増えました!

 

しかし、翌年からは再び、準レギュラーとしては1軍で活躍。

 

いつしかベテランとなり、1999年から5年間ではファームにて、182安打・33本塁打と、二軍の帝王化しました。

 

一軍での佐藤さんのポジションは、「左キラー」と「代打」 2001年は97試合に出場し、自己最多タイの8本のホームランと、チャンス強い長打力を見せつけています。

 

そして、2004年 出場が30試合に留まり、現役を引退。

 

引退試合は、同じタイミングで引退をする西武 潮崎哲也投手と対戦。

 

佐藤さんの現役生活は18年。

 

入団から引退まで1軍出場がなかった年はないが、100試合出場を果たしたのは1998年のみと、長ーく現役生活を続けることができた、「世渡り上手」な選手なのでした。

 

引退後もロッテに所属。

 

近年は、佐藤さんの主戦場であった、ロッテ浦和球場でのファームに関わる仕事を役職を変えながら務めています。

 

日本シリーズでの戦いが有名なこの投手。

 

オリックス楽天 小林宏 さんです。

 

小林さんは1992年 広島経済大学からドラフト1位でオリックスブルーウェーブに入団。

 

大学時代はショートだったものの、4年次に相次ぐ投手の怪我で、緊急登板。そのまま好投を続け、ついには大学選手権に出場します。当初は地元広島東洋カープが2位指名するという評価だったもの、当日オリックスが上回る1位で指名。

 

入団一年目には、9試合に登板し、初先発初勝利を飾ります。

 

そして、何といってもこの戦いが有名。

 

 

「小林-オマリー(ヤクルト)の14球」

 

1995年 小林さんはシーズン通して15試合に登板し、先発13回。8勝3敗で、11年ぶりのパ・リーグ制覇に貢献。

 

この年のヤクルトスワローズとの日本シリーズ第四戦。ヤクルトの3連勝で迎えたこの試合。

 

9回表1-0ヤクルトのリードという展開で、オリックス小川博文選手が完封間近の川崎憲次郎投手からソロホームランで同点。

 

延長10回から、小林さんが登板。11回裏一死から四球、レフト前ヒットと安打を許した、1,2塁でヒットかホームランでサヨナラという場面。バッターは、阪神から移籍してきた、トーマス・オマリー選手でした。

 

ボールカウント1-2から、そのあと投げた10球の内、8球がファールに。

 

カウント2-3から投げた14球目を、オマリー選手がフルスイング三振!!

 

テレビ最高瞬間視聴率55.9%。時間は22時過ぎ、鳴り物応援が終わった球場にて静寂の中、どよめきが球場全体に響き渡りました。痺れますね!!

 

シリーズは、1勝4敗で敗れたものの、小林投手は敢闘選手に選ばれました。

 

1996年は、先発・中継ぎと登板し、37試合。8勝し、リーグ連覇と日本一に貢献。

 

1997年はすべてリリーフで登板し、53試合7勝3敗15セーブ。オールスターゲームにも出場しました。翌年も初の二桁勝利を達成。

 

1999年以降は故障と不調もあり、中々勝ち星を積み重ねることができなかったものの、チームとしても順位が低迷する中、登板は続けました。

 

そして、2004年オフ。大阪近鉄バファローズとの合併が決まり、分配ドラフトにて、東北楽天ゴールデンイーグルスへ入団します。

 

楽天1年目は登板3試合に留まり、戦力外通告を受け、引退。

 

引退後には、解説者として活躍の他に、車いすバスケットボールチームの監督を務め、チームを全国大会へ導きました!意外な活躍ですw

 

その後、2009年より古巣オリックスの二軍投手コーチへ就任。

 

2015年には、社会人硬式チームのシティライト岡山に、選手兼任コーチとして、現役復帰!!したものの公式戦での登板はありませんでしたw 2016年からは再び、オリックスのコーチへ。

 

・大学4年次から投手

・日本シリーズでの名勝負

・車いすバスケ監督で、全国大会へ

・引退から10年ほど経ち、現役復帰!

 

など、経験豊富な小林さん。今後も活躍に注目です。

 

口ひげの中距離ヒッターといえば・・・

南海ダイエーオリックス 藤本博史さんです。

 

藤本さんといえば、ダンディーな「口ヒゲ」 南海時代はトレードマークの「口ひげ」はまだありませんでした。

 

1980年 天理高校で高校2年生の夏、甲子園へ出場。4番サードとして活躍し、準決勝まで進みました。

 

そして、翌年ドラフト4位で南海ホークスへ入団します。

 

1軍初出場は、1985年。1988年に一軍へ定着し、108試合に出場します。そして、南海身売りで、福岡ダイエーホークスへ。

 

南海時代は、下位打線だった藤本さん。ダイエーになってからは、クリーンナップを任せられるようになりました。

 

ちょうどそのころに始めたのが、口ヒゲ。それを始めた理由は・・・

 

藤本さんのおじいさんが目を悪くして、テレビ中継をみても誰だか判別できず、チーム内にヒゲをはやした選手がいないことから始めたそうです。BBM92のカードは、通称ガッチャマンヘルメットの鳥の顔と、藤本さんの顔がよくわかるショットですw

 

福岡へ移転したダイエーホークスでは、レギュラー選手として、1989年~1995年まで二桁ホームランを記録し続けました。

 

当初はサードとして活躍していたものの1994年、サードには阪神から移籍してきた、松永浩美選手が。セカンドにコンバートされます。

 

この年、一塁には同じく口ヒゲをはやした、トラックスラー選手が。口ヒゲの一・二塁間が名物となりましたw

 

1995年には、セカンドに西武から移籍してきた、石毛宏典選手が。藤本さんはファーストへコンバート。この年、得点圏打率が.391とパリーグトップを記録します。現在、藤本選手の応援歌が、ソフトバンクホークスのチャンステーマになっているのもこの時の活躍があったからこそですね。

 

1997年からは不振を極め、1998年シーズン序盤に金銭トレードで、オリックス・ブルーウェーブへ移籍。

 

出場試合数を増やすことはできず、この年限りで現役を引退しました。

 

その後、2010年まで野球解説者として活躍。2011年からは古巣ソフトバンクホークスのコーチに就任し、

 

2019年からは三軍監督を務めています。

 

野球選手らしくない体系の藤本さん。実は、柔道有段者。

 

口ヒゲを含め、武道の風格を感じる風格ですw

長ーく支えた、第二のキャッチャーといえば・・・

 

近鉄 古久保 健二 さんです。

 

現役生活20年で、100試合以上出場したのは1年のみ。

 

第二の捕手として活躍した古久保さんは、1982年 太成高校からドラフト6位で近鉄バファローズへ入団。

 

しばらくは2軍で過ごすものの、入団3年目の1985年に1軍初出場を果たし、初年度は14試合に出場します。

 

こちらのブログでも以前紹介した、「あり・なしコンビ(梨田昌孝捕手、有田修三捕手)」が当時の近鉄の正捕手。その二方の衰えが見え始めた、1987年頃から、山下和彦捕手、光山英和捕手、そして古久保さんと3名で正捕手争いを長ーく続けます。

 

そして、1990年。エース野茂英雄投手との相性の良さから、光山捕手が正捕手に近い立場に。しかし、それ以外の選手の時は残り2名の山下選手、古久保さんで争っていました。

 

そして、1994年に山下和彦捕手は、日本ハムファイターズへ移籍。光山・古久保の2人併用体制となりました。

 

古久保さんが、唯一出場試合数100試合を越えたシーズンは、1995年。エースであった、野茂英雄選手のメジャー挑戦がキッカケで、自己最多出場試合数を成し得ました。

 

1997年 ライバルであった、光山英和選手が開幕直前にトレードで中日ドラゴンズへ移籍。ここでレギュラーになるか!と思いきや、

 

後の正捕手として優勝に貢献する的山哲也捕手の入団。打撃に特に定評があり、後に外野手として活躍する、磯部公一選手が入団し、一定の出場試合数は保たれるものの、50試合程度に留まる数年が続き・・・

 

2000年には、磯部公一選手を正捕手として起用したため、古久保さんはとうとう出場試合数が一桁に・・・。打撃・肩の衰えから引退がささやかれるようになりました。

 

しかし!2001年

 

開幕直前に捕手失格を言い渡された磯部選手は外野へコンバート。的山捕手が正捕手に復帰するものの、投手陣はまとまらず…

 

梨田昌孝監督は、古久保さんを再び起用するようになります。

 

当時、売り出し中だった、岩隈久志投手とは親子ほどの年齢が離れた、「親子バッテリー」と特集されw、53試合出場。近鉄最後のパ・リーグ優勝に貢献。

 

9月26日のあの北川博敏選手の「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」の代打として替えられたのは、古久保さんでした。日本シリーズにも捕手として先発出場。12年越しで日本シリーズ出場を果たしました。

 

翌2002年も的山捕手と併用が続きましたが、体力の限界からこの年限りで現役を引退。古久保さんは生涯一チームを全うすることとなります。

 

古久保さんと正捕手争いをした捕手は、磯部公一選手は後に楽天へ分配ドラフトで移籍しましたが、それ以外は全員、他球団へ移籍(山下→日本ハム 光山→中日、巨人、ロッテ、的山→ソフトバンク)する形となりました。それだけ、重宝される選手だったということです。

 

引退後、近鉄→中日→ヤクルト→オリックス→ハンファ(韓国)→東北楽天と、2018年までコーチを務め、

 

2019年から、台湾プロ野球リーグの富邦ガーディアンズのバッテリーコーチとして指導にあたっています。

 

実は、古久保さんもアメーバブロガー。最近も更新されているので、今後の動向もチェックできる指導者です。

 

・古久保一家の家長日記

https://ameblo.jp/kenji-furukubo/