一人の老女(高齢者と言わなければならないかも)Sさんが、2012年の暮れに病院でひっそりと息を引きとった。93歳だった。
それに先立つこと2年と数ヶ月前、自宅で脳梗塞を起こし救急車で病院に運ばれたが、処置を受けたかいもなく半身麻痺の状態になった。
直前まで大家族で元気だったSさん。今どきめずらしいが、本人、子夫婦、孫夫婦、ひ孫という家族構成の大家族の一員として、当時まだひ孫の子守をしていた。認知症の気配もなく、身の回りのことはなんでも自分でできる、そんな元気で、幸せいっぱいの余生を送っていたおばあさん。
それが、突然の脳梗塞で一気に暗転してしまった。それでも集中治療室から一般病室へ移ったSさんは、見舞いの家族らと不自由な口を懸命に動かしながら二言、三言は話せた。紙と鉛筆を手渡すと人の名前を書くことができた。担当の若い理学療法士は、コメディカルの立場から「リハビリ頑張ります」と家族にも約束した。
ところがそれから1ヶ月も経たない頃に、主治医から家族に胃瘻をすすめられた。家族は遺漏がなんであるのかよくわからないままに、その提案に同意した。
それから急な坂道を転がり落ちるように、Sさんの認知症が急速に進んだ。「なぜ遺漏が必要だったんだろうか?」 誤嚥を防ぐための必要悪で、致し方ないのか? そんな疑問が、不快で重い余韻を曳きながら、今は亡きSさんの身近にいた人々の心のなかで鈍く反響し続けている。
2012年のある時期のことだが、折しもある臨床医系の学会が、患者の尊厳の観点からであろう、胃瘻に対して疑問を投げかけたのがせめてもの救いである。
生命の価値は長さでは測れない。
(南風)