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根多帖別冊 by おしろまん

おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

ヴァン・アレン帯の日

 

妻より頂戴致した。

20数年になるが、仲は良い(とぼくは思っている)

ボクには過ぎた妻である。

 

ときどきしょーもない暴露をXにポストされるが。

近江国の坂本城の三ノ丸の敷地であったといわれる区域から石垣が出土し、明智光秀の坂本城のものだと発表され現地説明会が行われた。

 

行ってきた。整理券配布予定時刻ちょうどに着いたのだが、450人の予定を拡大して600人に配布した整理券を貰えず説明を聴くことができなかった。

 

「説明会の後、見学だけならばいいですよ」

 

という恩着せがましいことを言われて、現説終了まで坂本の町を見て廻ることにした。

上・日吉大社の参道北側の石垣 鏡石?

下・旧白毫院の石垣 枡形門?

坂本の町にはこういった石垣がたくさん残っているのは知っていたがまさかここまでとは…。

それもそのはず、坂本は 城石垣の集団として著名な 穴太衆 の本拠なのである。

だから実見するまで、今回発掘された石垣が「坂本城のものである」という発表には疑問があった。

 

で、実見した 坂本城 とされる石垣だが…。

新聞など報道で踊らされているひとたちはともかく、現場の担当者がそのあたりを精査せず

「明智の城!新発見」とぶち上げていることに多少ヤバさを感じる。

 

石垣の角度や横目地の入り方はまず織豊だし、転用石が使われることを考えれば明智期である可能性は高いとは思うが、背後の溝やNS(地山)の高さを考えると

 

織豊以前 明智以前 明智以降 織豊以降 城遺構以外

 

様々な仮説ができると思うのだが…

今週の「城飲み諸説あり」テーマ「消失」

事前にアンケートを(淡路叶堂播磨宇野構備中南山・摂津松原)摂り、プレゼンを松原城に決めました。

 

これらの城は開発や治水によってほぼ破壊されてしまっています。

松原城(蒲公英城・道場河原城・草下部城などの別名がある)は、神戸市北区道場町日下部(旧摂津国有馬郡)にあったお城です。

神戸電鉄道場駅のすぐ前の比高25mの独立丘で、「ひょうごの城紀行」のなかで土塁囲みの副数郭のあるカッコイイお城ということで行ってみたかったのですが、民有地だったため立ち入りできず、5年くらい前に発掘がされているという情報を得て行ってきたのです。

で、その年の8月と12月に二度現説が行われ、完全調査の上岡ごと削り取られてしまったようです。

駅近という立地がアダとなり宅地orマンションになるということで今はこの世に存在しておりません。

 

播磨や摂津有馬郡の城がそうであるように赤松氏により南北朝期の由来を残しますが果たしてどうでしょう。

天正六年、荒木の叛乱に呼応した荒木兵太夫(木下重竪)の守る三田城を攻める織田軍が陣城として利用したといいます。

それを示すように西郭Ⅱの土塁は、1.5mの土塁に更に倍の高さに積み上げた跡が見つかっています。

また、その後廃城となってからも有力者の屋敷地や神社となっていたようで改変が激しく、遺構の破壊や確定が難しくなっています。

たとえばⅠ郭東の虎口Cは、前面に土塁があるようにみえ、外枡形のようにもみえますが、これが後世の攪乱なのか、天正期以前か以降なのかを論じられた形跡がありません。

 

せめて残ってさえいればこれらの精査ができるものを、影形もなくなっているのでもうどうしようもありません。

 

この世に破壊されていい遺跡などないのです、と怒りを込めて今回の発表を締めさせていただきました。

お正月明け、九州からドローン使いのフォロワーさんが来られ、大聖寺山城(赤穂郡上郡町)へと行かれたいとのことだったのでご一緒させていただきました。

そこで、播磨のレジェンド・城めグマ氏が下土井城(赤穂郡若狭野町)に来られるということでこちらもご一緒させていただくことにいたしました。

ここには過去二度訪れ、図面も摂ったのですが下に敷いた地図が良くなかったので、今回新たに別の地図に貼り付けました。

埼玉大学教育学部 谷謙二研究室 によるWEB等高線メーカー

これは等高線の数を指定できたりいろいろ便利なのでよく使わせていただいております。

ただ、僻地ではキレイに出なかったりするので、これを使用していないボクの図は

「あ~そういうことか~」 と思ってください。

この城に関する雑感は上のリプログに書いたのですが、今回主郭?南の帯曲輪Ⅳが土塁囲みだった可能性と、その南斜面に通路や段があった可能性を同行の皆様と認めました。

皆様あけましておめでとうございます。

ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。

 

年末年始に書くべきことが多かったのですが、大きな問題が起きまして更新できず豊後に帰省しちょります。

パンデミック前からなので4⁇5年ぶりかな?

おんせん県を推している大分駅のトイレ。風呂やん。

諸事情の合間に行きたいトコロへ。

バランス悪いと思っていた府内城東ノ丸艮櫓

 

詳細後日!

64歳ですか…
この曲がお聴きいただいた方の誰かの琴線に触れればいいなと思い挙げます。

季節的にもちょうど…いや、ちょっと遅いかな。

OPEN HINATA にて兵庫県ほぼ全土の50㎝単位のCS立体図が公開され、それをみているとここに未登録らしき城址らしき地形を発見しました。

「丹波霧の里ブログ」さんには 仮称「東新庄城」とされ掲載されていたので全くの新発見というわけではないようです。

確認に先週行ってきました。

位置はこちら 兵庫県丹波市(丹波国氷上郡)氷上町下新庄

丹波市役所から1.8㎞ 本庄氏の本拠とされる森山城からも1.8㎞となっています。

北西麓には内山砦があります。 

往時は内山砦から尾根伝いに登ったのでしょうか。dへ道のような鞍部が登ってきており、その東は竪土塁のようになっています。ただそれが城遺構かどうかは不明です。

主郭はピークⅠでしょう。8m角と狭いですが南北の郭Ⅱがしっかり削平されていてこの3つの郭が中心であったのでしょう。

細尾根で平場が限定されているのに帯曲輪を設けているあたり森山城と共通するようです。

ⅠとⅡnの間は東は殆どフラットで西は堀状に窪み、土橋状の通路を挟んで堀切aに対応しているようにみえます。

主郭北の切岸と土橋状通路。

ⅡnとⅢの北はそれぞれ先端土塁のような高まりがありますが倒木等の為の高まりの可能性もあり断定できません。また尾根先端を脇から回り込ませるようにみえます。

こういった構造は黒井城西の丸や余田城と共通しています。

Cの堀切とⅢの切岸

ⅣはⅢより更に削平が緩く、eまでは結構下っています。

その鞍部から少し登ったⅤにも北端に高まりがあり先端土塁かもしれません。

以上の遺構から、ここが城跡である可能性が非常に高いと思われ、類似以降ではないと思われます。

南西麓より遠景。

今日は、山城シーズン初陣ということで、先日から気になっていた新発見城候補のお城に来ています。

ただここ、「丹波霧の里ブログ」様にて

【新庄東城】として紹介されているため、厳密に新発見とは言い難いかもです。

 

そのあと、森山城にも行って来ました

 

 

ってことでそろそろ山城に登るのに吝かでない季節になってきました。

ZOOMお城会「諸説あり」では、今シーズンの “城旅” 行きたい予定を募集しておりました。

 

今年はずっと暖かかったのでまだ行けてませんが、今年は行きたいところがあります。

少なくとも、二箇所

最近、赤色立体図が各所で公開され、それをみて「城」ではないか?と思えることが。

下図は播磨の、我が家から結構近いところ。

下は、丹波の某所。たぶん城址登録されていない…とおもう。

これらを早急に、図面を摂って、新規史跡として登録したい、とおもう。

 

で、あと今年(=昨季)1月と5月の連休に行った遠征のようなカンジで、今回も行きたいと考えていることをお話しさせていただいた。

 

a案 防長石方面 岩国 鴻峰 萩 津和野 益田 三隅

b案 土佐阿波方面 窪川 古渓山 佐川 音竹 内田 一宮 徳島

c案 甲斐西武蔵 甲府 躑躅崎 新府 滝山 八王子 片倉

d案 比企郡 杉山 柏原 小倉 青山 鉢形 武州松山 

 

休みが取れれば、ですがネ。 三日ぐらい取ってc・d両方行きたいな~。

永らく放置して清書していなかった城シリーズ 播磨国多可郡貝野城

(多可郡多可町中区東山)

もう8年も前になりますか、木内師匠の会で訪れました。

下地図の右端(東)小野尻峠を越えると丹波国です。岩尾城が至近。

那珂ふれあいセンターに駐車をしてゴルフ場の管理道を通って イ~ロ~ハというルートで登りましたが、ゴルフ場は無断立入をしないほうがいいかな。ふれあいセンターに問い合わせたほうがよろしいかと。

なんといってもこの城はb・cの畝状竪堀群が特徴でしょうか。

また主郭虎口と思われるaは枡形虎口のようにもみえます。

それらを考えると城主比定が難しいでしょう。

天正3年三木別所氏の軍事行動のときに別所孫右衛門←リンク が来ているようですので、そこで改修されたとすれば、織豊の技術導入があったかもですね。

 

ただ背後の妙見山との関わりから、寺院があった可能性もあるのかも…