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根多帖別冊 by おしろまん

おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

永らく放置して清書していなかった城シリーズ 播磨国多可郡貝野城

(多可郡多可町中区東山)

もう8年も前になりますか、木内師匠の会で訪れました。

下地図の右端(東)小野尻峠を越えると丹波国です。岩尾城が至近。

那珂ふれあいセンターに駐車をしてゴルフ場の管理道を通って イ~ロ~ハというルートで登りましたが、ゴルフ場は無断立入をしないほうがいいかな。ふれあいセンターに問い合わせたほうがよろしいかと。

なんといってもこの城はb・cの畝状竪堀群が特徴でしょうか。

また主郭虎口と思われるaは枡形虎口のようにもみえます。

それらを考えると城主比定が難しいでしょう。

天正3年三木別所氏の軍事行動のときに別所孫右衛門←リンク が来ているようですので、そこで改修されたとすれば、織豊の技術導入があったかもですね。

 

ただ背後の妙見山との関わりから、寺院があった可能性もあるのかも…

まだ暑いので山には登らず、昨季行った城を清書しております。

ボクは「水生城Ⅳ」(「ひょうごの城紀行」の記載)だと思っていた竹貫城。訓みは「たかぬき」です。

ここも但馬山名城址保存会の谷さんにご案内いただきました。

国府駅から近く、長楽寺さんの横に車を停めさせていただきました。

この裏山が「水生城Ⅰ」この日はこのあと宵田城に行く予定であったので通り抜けるだけとなってしまいました。また図面を摂りに来よう。

水生城から尾根道を西に700mほど進むと、竹貫城になります。北西には但馬空港があります。「ひょうごの城紀行」によるとここは平成元年に存在が確認されたのだとか。

また同書によると、虎口cを外枡形、gを内枡形として「水水生合戦」のあとに織豊勢力による利用を想定しています。

これはどうでしょうね?ぼくは虎口Cは外枡形という程明瞭な虎口とは思えません。

またgに関しては後世の破壊道かと思った程異様な通路にみえました。

また、他の虎口a・b・eも見ようによっては内枡形にみえなくもないですが、横入りの坂虎口と表現したほうが妥当であると感じます。

従ってgもa等と同形式ながら地形制約上このような形になったのではないかと。

それより尾根続きのⅥの通路のほうが気になりました。

北側は行き止まりで南の竪土塁がアタリの通路となっています。

東に下る場合は迷いませんが西から登ってくる場合北(下)を通るのではないか。

「凝っている」と思うのは気のせいでしょうか。

その様子を鳥瞰図で描いてみましたが、[kuro]に書くのは難しい…無謀だったか(笑)

織豊の城郭統制から見ても宵田城を生かしているのに此処を活用するメリットがあるのか疑問です。たとえ豊岡出石方面への陣城だったとしても、それなら水生城も改修が為される筈ですね。

天正水生合戦の折、山名家中の親毛利勢力や毛利氏の援軍が入った城であると考えます。

淡路国の洲本城に石塁が見つかったとの報が流れたのは今週に入ってからのこと。

発掘調査の現地説明会にX(twitter)のフォロワーさんが行かれるとのことですのでお供させて頂いてます。

主郭の北西下段、大雨で崩れた石垣の修理が完了しております。

その南に延びる石垣も危険ということで、解体している過程で、そこに石塁が見つかった!ということです

石塁を埋めて面一にした為、土層からは瓦がたくさん出土しております。

写っている丸瓦はコビキAですが、少量コビキBもあるとのこと。

その後、洲本城を一周、やっぱエエお城やわ〜

先月、別のフォロワーさん方と訪問予定をしていたのですがインフルエンザに罹ってしまい泣く泣く断念したのでリベンジ叶いました。

モギテンはイタダケマセンが。

今日は早朝からジャンカラへ

阪神タイガースの日本シリーズ進出を祝ってのビール飲み放題だったので

決定後三日だったので全勝を予想してギャンブル予約してました!

あと、先日訃報が伝えられた谷村新司サンの追悼ということで、「無頼」「階」「今のままでいい」を歌って来ました。

谷村サンの所属する“アリス”をプロモーションするために設立されたのが“ヤングジャパン”という会社で、そこに所属したのがスターダスト☆レヴィユーというバンド。

 

谷村さんがパーソナリティを務められた「MBSヤングタウン」に於いて、他でなかった二部制にし、そこに根本要氏がおさまっていたのはヤングジャパン繋がりであったのだろう。

そして谷村氏勇退のあとは根本氏が一年の浪人後繰り上がった。

 

つまり谷村氏なくば今のスタレヴィやesqはぼくらに知られることがなかったかもしれない。

 

その縁か「今のままでいい」は三谷さんの作曲である。

近江国栗太郡(滋賀県大津市大石)の妙見岳城に行ったのは7年前になりますか…

消化できない遺構があり清書せずにほったらかしておりました。

 

先日の「zoomお城会『諸説あり』」で、近江のSさんが紹介されていたので未消化ながら今回清書してみました。

 

近江国の最南部、瀬田川が信楽川を分岐する北側・標高202mのピークを選地しております。

南の大石は、のちに大石内蔵助を輩出する浅野家筆頭家老・大石氏の故地。

『図解近畿Ⅱ』にも載せられていますが、当時はそのことに気付かずでした。

主郭Ⅰは南と北に櫓台状の土塁があり、凝った造りです。Ⅱ・Ⅲも小さいながら丁寧に削平がなされています。

Ⅳ・Ⅴは外側に堀などがなく緩い斜面、だが主郭に面する側には土塁が。

尾根Aのピークには遺構と思われるものがないと感じました。

先述した「消化できない遺構」とはⅥです。あとで見た『図解近畿Ⅱ』には明瞭に書かれていませんし斜面なので曲輪というには無理がある気がしますが、土塁のようなものがあります。

 

またB・Cの尾根は国土地理院では表現できずに上記地図は埼玉大学教育学部・谷謙二先生による「web等高線メーカー」で顕在したものです。この二つの尾根の間北斜面に畝状竪堀群があるのです。

これが果たして畝状竪堀群なのか、自然の水流による崩落地形なのか非常に悩ましいのです。

 

是非行かれる方、確認していただきたいと思う次第です。

今、金スマにて 名作ドラマTOP30をやっている。

 

池井戸潤原作の『陸王』はリアタイで視ていた。

舞台は武州忍(埼玉県行田市)

戦国期の名城・忍城は江戸時代を通じて存続していた。

そしてここで生を受けたのが スターダスト★レヴィュー のリーダー・ヴォーカル・ギターの 根本要氏

 

この『陸王』においてメインのテーマ曲であったのが little green monster の 木星

 

いやいやちょっとまて、意味みわかんない 

地元出身の スターダスト★レヴィユー の曲を使わないの? まあ相応しい曲がないのかな~とか思ったのだが…

スターダスト★レヴィユー には “running” という曲があるではないか!

『陸王』にはピッタリの曲であるといっていい。

 

スタレヴィファンの、タイガースの投手であった下柳剛氏が登場曲として使っていたのだが…

当時からモドカシク思っていたのだが…まあ、このへんの運のなさが スタレヴィ ということであろうか。

単にドラマの製作陣の失策であるという気がする。大いに、する。

丹波国氷上郡の赤井・荻野氏の城郭をみていると、ある共通点が見えるような気がしていました。

今回清書したこの穴裏峠城も、そうかな?と思って行ってきました。

氷上郡(現・丹波市)の旧・青垣町と天田郡(現・京都府福知山市)の境には幾つかの峠がありますが、芦田氏の本城である小室城に直接至れる穴裏峠を抑える為に築かれたのだと思われます。

この穴裏峠、いまでこそトンネルがあるので道があるのはわかるのですが、隧道がなければそんなに鞍部になってないのです。ほんとに使われたのかなぁ?

まあとんでもない山奥で、ひとりでは怖いので但馬の谷さんをお誘いして行ってまいりました。

東の県道から南を回って登ったのですが、小室城と同じくらいはしんどかったっス。

 

で、縄張図を摂ったのですが結構緩く、高山ゆえの崩落なのか元々の仕様なのか不明です。

峠を監視する為の見張場程度であったのかもしれません。

築城者も、芦田氏なのか赤井氏なのか、はたまた他勢力なのかはわかっていないようです。

縄張図を摂っていると別の来訪者がいらして驚いたことは当日書いたとおり。

(ちなみに彼は南西から登ったらしい。この二週後、鐘ヶ坂金山城でも偶然お逢いすることになる。)


おおきくⅠ(東郭群)とⅡ(西郭群)に分かれていて、先行図ではaに土壇があるように描かれていましたがぼくがみた限りはそんな風には見えず。

逆にⅡ郭に相対するcに土壇があります。だがしかし、cよりもⅡ郭のほうが高く、他の氷上郡内にある城の土壇とは異なっているようにみえます。これをどう考えるべきか…。

城域の東端bと西端dには土塁があり、黒井城や余田城にみられる「先端土塁」と評価できるのかどうか悩ましいです。

また尾根筋のeは馬出しのようにもみえ、曲輪面の緩さとはべつに凝った造りのようにもみえるが気のせいのようにも思えます。

 

シンドイ思いをしたのに悩ましい気持ちの残るお城でした。

ZOOMお城会「諸説あり」 私の町の自慢の城 ということでどこを紹介させて頂こうか

いま住むまちの姫路城、通った小学校にあった肥後藩の野津原御茶屋 中世山城の野津原城(鷲ヶ城)等と悩みましたが
いちばん近い近世城郭である豊後府内城にいたしました。

 

いまは天守台とその続櫓台、本丸北と二ノ丸の石垣、二基の現存櫓を残すのみで、百名城のなかでも「しょぼい」といわれているこの城ですが、往時は四層の天守に天守曲輪(姫路や伊予松山と同じ所謂“環立式”天守)の石垣高さは六間(約11m)三重櫓1基、二重櫓15、櫓門・平櫓・多聞櫓20超と福原右馬助築城時の十二万石以外はずっと四万石以下には過ぎた規模の城であったといえるのではないでしょうか?

 

それと特徴的なのは豊後府内城のこれらの建物の ”規格性” 

白漆喰塗り込め、方杖、反りのない屋根、大きく意匠的な石落とし、櫓門や多聞櫓には切妻屋根

復原された廊下橋と同じ仕様のものがおそらくあと二つ…

たとえば姫路城などは各地から転用された建物が多いせいか多様な見た目の建物ですがここは建物全体に統一感があります。

ということで「しょぼい」などといわずに是非見てあげてください。

本丸の内堀も復元されるかもですしね。

昨年から足を突っ込んで抜け出せない 但馬宵田城(兵庫県豊岡市日高町)

主要部だけ以前ここでご紹介←リンク して3月に但馬山名城址保存会の谷さんと再々訪、周囲にもオモシロそうな遺構があって、ZOOMお城会では紹介したのですがこちらでは未だだったので取り敢えず縄張図を形にしました。

郭Ⅰ~Ⅶまでは織豊期の改変がみられ、史料をみても間違いないですが、

(三月の再再訪時は主郭の虎口bの石垣がよく見えた)

その周囲の遺構の年代観が全く不明です。

特に興味深かったのは郭Ⅷ、北に石積を数段たたみあげており、その周囲の段にも石積がみられる箇所が多いです。

更に郭Ⅸは矩形でしかも石積もみられる「堡塁」のようです。

その下、稲葉川に面した郭Ⅹは、紀伊新宮城の船蔵のようです。

これらが中世のみの仕様なのか(石積が楽々前城に似ている気がする)、織豊期にも使われたものなのか、とても興味深いです。

郭Ⅶ周辺では茶器らしきものも転がっていたため、よく見ればこのへんでも何か見つかるかもです。

今日は、毎年横浜で行われている お城EXPO が姫路で開催されるということで来ております。

横浜では12月下旬に行われるのですが、その時期は山城シーズンに突入する時期ですので行く気はしなかったのですが、この時期ならいいかな…と思っていったら暑すぎて汗だく!

なかなかの盛況ですね

このところ連絡のなかった我が師匠ともお会いできました。

ひととおり会場を見たあとは、一乗谷朝倉遺跡ミュージアムの石川先生の講演を拝聴させて頂きました。

 朝倉氏のお城~越前国のうち嶺北と嶺南(若狭・近江を含む)で城造りが違う理由がわかった気がしました。

 ボクは中世城郭研究30号で「若狭堂谷山城は朝倉氏主体では」と書いて、以前一乗谷にいらした南先生に「卓見である」と言って頂いたのが嬉しかったのですが、それが裏付けできる気がしてます。

時間がなくこの講演しか聴けませんでしたが、横浜のエキスポではぜひオンラインでやってもらえればイイなと思います。