フラクタルの森 玄明 陰陽学   -2ページ目

フラクタルの森 玄明 陰陽学  

陶芸を生業として独自の陰陽学で情報を発信しています

波動とは何か

車を例に出して、それが持っているエネルギーをどう使うかという視点で経済のことを考えてみた
その力を波動という視点で考えると、ふと気づくことが有った


波動からイメージできること
情報がメインではあるが、エネルギーとか価値とかがイメージできる
そして、情報、エネルギー、価値とかが何であるかと考えると
経営資源で学んだことを思い出す

人、物、金、情報という経営資源を生かして仕事が成され、色んな物やサービスが生まれ経済を回している
その生まれた経済が人を支え社会を国家を支え世界を支えている

波動という抽象的なことが産業を支え、具体的な資源として目に見える形に変化している事がイメージできる

私たちは、どうしても目に見える物で価値を判断する傾向があるが
深く考えるならそれは単なる一面なのかもしれないのだ

すべてのものの最小単位に有る素粒子、光に粒子と波動の性質があるのは 
これは、きちんと分けれるモノではないかもしれない
便宜的に分けているが、ただ、時間的に変化の過程を見ているだけなのかもしれない

光子に粒と波の性質があるということは、それらの集合体である私たち自身にも同じ性質がある、と
こう考えるべきなのだろう

因果応報という概念で時間を重ね、人・物・金・情報、様々な資源(価値)を重ね、生まれてからこの方、変化をしてきたけれど、全体を見渡すなら波の性質と粒の性質を見ているだけなのかもしれない

今まで霊的世界の情報も様々勉強してきた
死後の世界も絶対に有ると信じている
創造主も神なる存在も信じている
目に見えないあの世界を直接認識はできないけれど、波動としての世界の中を感じているのかもしれない

今まで、人にしても物にしてもお金にしても、目に見える形で手に入れてきたモノも有るけれど、もしかすると波動として変化の途中を見ているだけかもしれない

波動というと分かりにくいが、霊的世界のことと重ねると分かり易い
もちろん、霊的世界を知っているわけではない
色々学んだことを信じているにしかすぎないけれど、似ている
まさにフラクタル

量子力学の世界が霊的世界のことを証明しようとしているとしか見えないのだ

 

減税か給付か 

国会の議論を聞いていると、この議論がされていた
給付を積極的に推す意見もある。
考えてみると、この議論は常に付きまとうことでもあるだろう。
給付は、原則、税収から行われることなので、収入と支出の問題が常に付きまとう

今、MMTの考えの延長で積極的な財政出動の考え方が強い
そのせいなのか、減税という即効性の乏しいことよりも給付という即効性のあることを推す意見が多いようだ


政治家たちの心の中を覗いてみると、どうも、お役に立ちたいという思いからでは有るのだろうが、これ見よがしな意見になっているようにも見える
私たちは仕事を国民の為に立派にやってるということをアピールしたい気持ちが有るのだろう
しかし、「なぜ」役に立とうとしているのか聞くと、帰って来る本心の言葉が見えてくる
役に立つ自分をアピールして選挙の時に票を入れて欲しいという思いだ

今、選挙制度、政治の在り方がポピュリズムになっている
要するに即効性とも言えるのかもしれないが、表面的にすぐ見えるような対応をとろうとする傾向がある
陰陽でいえば、陽の表面的なことで仕事が成される
遠回しなことはないがしろにされる傾向性だ

それが、この陰陽学で一番に問題にしているところだ

この遠回りな事、言い換えれば落語話にある「風が吹いたら桶屋が儲かる」である
この落語話でもわかるように、原因と結果の連鎖で物事は流れていくのだが、途中に何かが入ると非常に分かりにくくなる
頭のいい人ほど途中に何かを入れて自分の都合に合わせようとする
MMTの理屈を入れる人たち、または、自国通貨建てでの借金で財政破綻することは無いと思い込んでいる人たちは、政府の赤字は問題ないように思ってしまうようだ

だが、シンプルに考えるなら、どんなに繁栄発展した国家や文化文明でも、自堕落な施策をとっていると必ず破綻している
なにが自堕落な事なのか、何が悪なのか、よくわからずに積み重ねたことが、その集団の没落の原因になっている
この因果の法則は決定的だということを肝に銘じなければダメだ

減税か給付か、収入か支出か、物事には二つのベクトルが働く
原因と結果、他者と自己という陰陽の関係と同時に
それぞれにアクセルとブレーキの陰陽の要素が働く
税金にも給付金にも同じ事が言える

アクセルとブレーキをかけようとするなら、前提としてエンジンが回り進んでいる状況がある
そしてハンドル操作で状況を見極め方向を修正し、状況によってアクセルやブレーキのオンオフや加減が必要になる
どのような事でも車などの運転と同じ要素があることを考えに入れておく必要が有る

この国会での議論もそうだけれど、国家の運営でもそうだけれど
前提として国家という車は動いている
エンジンが回っているのだ
エンジンが動いているということは、エネルギーが常に供給されている
その動力があればこそエアコンに使ったり車輪を回したりいろんなことに使える
要するに、乗り物を動かすにはガソリンに頼るなり、もしくは、人力に頼るなり、何らかのエネルギーに頼る必要が有り、それらエネルギーの源泉を見るならば、わらしべ長者の話にも通じる価値の変換が行われている
結局、何も無い所からエネルギーは生まれてこない
究極の分かるところでの最初のエネルギーはどこから来るかというと、「思い」だけだ
これは、創造主の思いに起源を見るしかないことでもある

話が大きくなりすぎたが、できるだけ深く考える必要があるということ

今、世界中が国家体制で運営されている背景には、人力とは言えないかもしれないが、人々の思いを起源にして、その思いが産み出したエネルギーで運転されている
そのエネルギーを信用価値という風に翻訳するならば、その価値からエネルギーを取り分けて国家運営というハンドルを握り操縦しているのだ

誰が、どんな人がハンドルを握っているかでその車の未来は決まってくる
そして、その車が現在持っているエネルギーがある
そのエネルギーを使うしか方法は無い
そのエネルギーである信用価値(あらゆるものが含まれる)にも限度がある

今、そのエネルギーを政府がとり過ぎているから、景気、要するに進むスピードが落ちている
そうであるなら、単純にそのエネルギーを吸い上げているのをやめるべきなのだ
政府の規模が大きくなりすぎている、世界中がそうだろう
それが、良い仕事をしているならいいけれど、サイドブレーキをかけながらアクセルを踏んでいるような状況が世界中に有るのかもしれない

良かれと思いやっている仕事で、本当はそれが良くない仕事なら始末に悪い
政府組織が大きくなり、そのような仕事が多くなれば、あちらこちらでエンジンのパワーロスが起きて思ったように進まないだけでなく、あちらこちらで摩擦を起こして火種にもなるだろう

色んな理屈はあるが、結局はシンプルさが不足している
原理原則、因果応報を捕らえ、自己中や結果主義にならず
要するに利己主義に陥らないことが大切なのだろう

小さな政府を目指し、国全体が持っているエネルギーを適切に有効的に使えるかどうかだ

 

お金とは 

お金を債権と債務の記録とか言う人たちがいる
誰かの赤字は誰かの黒字とかともいう
そこから政府の財政黒字は民間の赤字を示すという答えが出るという


それは、簿記のことから導かれているようだが、私にはよく理解できていないことを白状する
しかし、簿記のことを調べてみると、健康状況を示すものとある

確かに政府は財政黒字を目指しこれまで増税をやってきた
その結果なのだろう
民間部門の赤字が続き経済成長が出来ていない状況が続いている

消費税を10%に上げてからだろうか、税収が増えすぎたという
それを還元しようとして、所得税減税とか給付を考えているようだ
確かに、数字から見るならば債権と債務の記録なのだろう
一方の黒字は一方の赤字かもしれない
しかし、見忘れているものが有りそうだ

その物、その数字の価値を見忘れているのではないだろうか
その為にMMT理論なるものが有るようだ
要するに、資金を使って購入したものには価格が有り、それが資産として数字に現れるのだが、実際には思っていたような数字的価値が無い場合がある
不良資産ということになるのだろう

なんでもそうだけれど、良い子悪い子普通の子がある
この評価にも数字が当てはめることが出来る
100点の価値が有ると思って居ても、その後、評価が下がるものも有れば、100点以上の価値があるとみられるモノもある
その善悪も人時所の違いによって評価は分かれる

その評価には、質と量の問題が関わる
当然、お金の問題にも質と量が関わり、
物やサービスにも質と量の問題がある
ここにも4象限の課題が有るようだ

お金も翻訳の問題であり、その価値をイメージするのにそれぞれでその翻訳は違ってくる
あるものを購入したくなった時のことを考えてみよう
松下幸之助さんの水道理論ではないけれど、量が多ければタダでも分けてくれる
感謝の気持ちだけで済む場合もある
しかし、少なくて相手にとっても価値を感じている物であるなら、何らかの交換条件が必要になる相手の欲しいものを自分が持っていればそれで交換する方法も有る
ただ、そこでは、相手と自分の持っている物との質と量の問題がある
そこで折り合いをつけるのは、手間がかかる
このような物々交換では問題が多過ぎるので貨幣経済が出来てきたのだろう

要するに誰でも認めるような価値の物を仲介させようとする
金とか銀とか希少金属で信用のあるモノを持ってくる
もちろん、金に価値を感じない人にとっては通用しない
どのようなものをその交換手段に利用しようとしても例外はある

しかし、今、金銀ではなく印刷された紙きれで代用されている
その理由は、うがった言い方をすれば、それに価値が有るという暗示をかけられているからだ
価値が有ると思い込んでいるから通用している
ただ、その思い込みは崩れ始めると、元々、数十円の価値しかないモノを一万円と思い込んでいたのだから簡単にその信用は無くなる

結局は、お金でも物でもサービスでも同列であり、価値(信用)という面で見たならば、ものすごく立体的である

例えば、イエスの教えがある
生存中は一部の者たちには価値を認められていたが、しかし、晩年では盗賊などの罪人と一緒に処刑されるようなことになった
その後、ローマ国教となるほど信じられるより、今でも多くの資金を集め価値ある存在となることができた

当時、ユダヤの民たちは審問官のイエスを釈放してもいいと、一人に恩赦を与えようとするのにイエスを選ばずに殺してしまった
当時ユダヤの民たちに対する信用がいかばかりだったか知らないけれど
その後、ユダヤの民たちがたどった苦難困難は、この事件が背景に無いことではないだろう

本当の救世主を価値無きものとした罪は、どれほど優秀な民であろうと、本来の価値を無きものとした事が、人類の潜在記憶に有るのかもしれない

話がそれそうだが、唯物論的にだけ見るのではなく唯心論的に見る必要があるのではないだろうかいうことだ

MMT理論を背景に持っている人たちは、おそらく唯物論的にしか見えていないのだろう

物・サービス・土地・人・情報 = お金であり = 数字であり
それらすべてに信用という霊的なモノがあることを無視しがちである

その信用にも良い子悪い子普通の子があり
最良なる信用は、神・創造主からの信用
今、神無き民が増えている現状では、すべての価値が狂ってきている

もちろん、宗教にも良い子悪い子普通の子がある
悪魔を神としている宗教も有る
お金を神としている宗教もある
本当に価値あるものを見いだせないでいるなら
必ず破綻する

今各国政府のやっている政策も無価値なものが多いようだ
因果応報と言われるように本質は、必ず表面化する

 

人は、何かを考えるときに、左脳的な思考と、右脳的な思考をクロスさせて考えているようです

「左脳」は、論理的な思考を管理し、言語や計算を担当すると言われていますが、フラクタルの森では、これを陰陽に整理し
5W2Hの、「なにを、なぜ」が右脳的(陰)であり
「どのようにして、どうしたい(どうなった)」が左脳的(陽)だと考えています
どうやら、この辺がフラクタルの森の特徴でしょう

 

 

情報を正しく伝えるためにも、正しく把握し、正しく認識するためにも
この5W2Hを細かく押さえるべきです
しかし、いつ、どこで、だれがという内容も表面的なことしか入れていません
何時何分、どの場所で、誰それが、ということしか入れて考えないでしょう
その表面的な情報も大切ですが、その時間、空間、人間に関する情報には深遠なものも有るはずです
図表に有るように認識している世界の前提が違うと、その後に来るものも違ってきます
一番違ってくるものは何かというと「なぜ」の所です

世界観が左側の無神論、唯物論の世界観なら、この何故に入るもの、その動機は結果に入るものと同じになります
何故行動するのかと言えば結果が欲しくてということになります
ここには右脳的な感覚思考が入るべきなのに、左脳的な論理的な帰結の成果が入ることになります
これでは、右脳は働きを止め左脳だけで考えていることになるでしょう

右左脳は左右の目とクロスして無限大マークのようにつながっている
左脳的な所しか活用していなければ視覚的にも影響が有り、
唯物論、無神論では、物事を立体的に見れないということになる
距離感を図るにしても両方が機能しなければムリです

何故、成果を求めるのか
何故、有名校に入り、何故有名企業に入りたいのか
何故、良い成績をとりたいのか
なぜ、高給取りになりたいのか
なぜ、稼ぎたいのか


この「なぜ」に結果しか入っていないとするなら片目でしか見て考えていないということです
結局、どんなに学力優秀で頭の切れが良かったとしても、片目で人世航路を進んでいくなら事故が頻繁に起こるでしょう

なぜの中には、与える愛に関するモノが必ず必要です
成果を手に入れられたという喜びは浅薄なものです
成果は、役に立つことが出来たという喜びの結果であり
成果の奥には、自己の存在意義とも深く関わるものが有ります

右脳で考えるべきことは、感覚的な事と言え、悟りと深く関係しています

 

 

政府(財務省)の犯罪の危険。

犯罪とは何かというと、原因(因)を作らずに結果(果)を得ようとすること。

他者をダマシ、犠牲にしてでも自己を潤わそうとすること。これは、最悪の結果至上主義でありすべての悪事の根源にある考え方だ。

 

多くの人がいろんな局面で犯罪行為に手を染めてしまう原因は、左脳的なもの(知性、理性)を重視して、右脳的なもの(悟性・感性)を無視していることにある。

 

誰であれ仕事で気になるのは結果としての収入ですが、これは左脳的な事であり、同時に右脳的な判断がなければ問題を起こす。全体で収入(結果)のことばかりを考えていると、右脳で考えるべき利他(愛)という感覚的なモノが薄らいでいく。

他者に与えずに、お為ごかしで上手にゴマカシていると、その仕事が成功することは無い。捕まりさえしなければ、簡単な方法は強盗や詐欺などで他者の稼ぎからかすめ取ることになるからだ。

一般企業などでは自然に淘汰されるけれど、法律や規則を自ら作り出せる政府組織になると話は違ってくる。メディアを支配し洗脳し、自らにも暗示にかけ間違いを起こしていることに気づかない。分配には財源が必要であるとか言いくるめ、自分たちの利を計る。

多くの知識人達は左脳的な頭の良さが災いし、間違いを犯しやすいのだ。

 

政府(財務省)の犯罪は、税制に関する事であり、取れる所、取り易いところから取ろうとする。その典型が消費税、これは何重にも徴収できるので効率が良い。

ただ、政府の目的は素晴らしい国創りであり、幸福社会を広げることに有る。

財政均衡は結果としての目標であり目的ではない。その仕事の目的の中に愛(与える愛)が不可欠であることを忘れている。黒字化の先には税金を減らし、国民負担を減らす使命も有る。シンガポールなど資源国でもなく大国でもないのに、基金を次第に増やし自ら稼ぎ出し税金を安くしようと努力している国もある。

このたび幻冬舎さんから本を出すことができました。

タイトルは「フラクタルの森 玄明 陰陽学」

著者名は、玄明(genmei)です。

 

内容は、目に見えにくいものを見ませんかというのがメインで、見えにくいモノ(陰)と見えやすいモノ(陽)を複眼で立体的に見ませんかということ。

     陰  と  陽

時間的 原因  と  結果

空間的 他者  と  自己

人間的 右脳的なものと左脳的なもの

この、人、時、所を単眼で見がちなために、世の中は蛇行しておかしなことになっています。何事も立体的に見ることができなければ判断を間違え理想としない結果を招くでしょう。

 

 

児童手当などの子育て支援、社会保障など様々な支援がある

どのような政府支出も国内で積み上げられた資産から出ている

政府が国債発行して借金が出来る元には、国民が皆で積み上げてきた様々な資産がある

言い換えるなら「信用」だ

 

その信用をもとに経済が成り立っていることを忘れるべきではないだろう

最近、大切なことを学ばせていただいた

 

それは、バブル崩壊後の日本経済の低迷の原因だ

企業株価の推移を見れば、銀行などの金融機関株が元に戻っていない

要するに銀行の信用が崩れた状態が影響しているということ

その原因は、山一證券とか拓殖銀行とか政府が助けず潰してしまったこと

貸しはがしが横行し銀行は企業を守ってくれないということがはっきりしたこと

 

経済の大切な機関である銀行などが、その信用を失ったままだと

その影響は深くいろんなところに及ぶ

政府は、護送船団方式かなんかは知らないけれど、政府が大きく銀行などに指導といって口を出しておきながら、いざとなれば見捨ててしまう

要するに蛇行させてしまったのだろう

結果として民間からの信用も揺らぎ、企業は社内留保するしか身を守れないという考え方に流れた。

そのおかげで資本主義の原点である資本の集積が行われず

投資活動もブレーキがかかってきたのだろう

 

投資が滞れば、当然、消費にも影響して図の循環を加速させるエネルギーが出にくくなる

 

更に、その上に、政府は、国民受けの良い政策を打ち出す

要するに支出が膨らむような方向に動いてしまうのだ

子育て支援、福祉の充実、いろんな財政出動が必要になり

国債での借金か、増税である

 

借金は、個人レベルでも同じことが言えるが

どうしても甘く考えてしまう

MMT論者が落ち込んでいる穴も同じだ

 

どちらにしても、この「信用」という問題は、馬鹿にできない

一旦失うと、その影響は多大なものがあるということだ

 

基本は、このピラミッドの図に有るように

全体で作り出した価値を分配しながら経済を維持している

 

政府の取り分が今、大きく膨らんでいる

企業の取り分も自分のお腹に抱え込んでいる

個人も自己防衛のために支出を減らしている

本当は、ここで政府は、この循環が滞っていrのを打開するための手を打つべきなのだ

しかし、消費税増税などで消費にブレーキをかける

色んな税金を増やして、自分が使えるお金を確保しようとする

そのお金を良い方向に使うならまだましなのだろうが

国民に分配するだけだ

分配にも人材が必要となりコストがかかる

分配された効果を検証することも無いようだ

 

どうやら、政府に、メディアに、国民に善悪を考える規範が無くなっている

善悪もそうだが、信用も、どのような立場の人から見たものであるのかということだ

 

仮想通貨でもそうだが、その価値を支えているような人たちの多くが欲にまみれている

そのような価値は、ちょっとしたことですぐに消えて行くだろう

 

善悪も信用も、神仏から見た視点であるべきなのだ

 

個人的には、いろんな手当でお金を貰うのは嬉しいけれど、神仏から見れば、さてどうだろう

増税で多くの人を苦しめて、借金とかでごまかしなながら集めた資金で分配するようなことに賛成されるだろうか

そんなことで良い循環が起こるとは考えられない

 

勇気をもってやめるべきで

勇気をもって消費税などの増税を止めるべきだ

財源が不足するという意見も有るだろうけれど

ここでいうような、陰と陽の視点で考えるなら道はいくらでもある陰とは、右脳的なモノ

陽とは、左脳的なモノ

 

今、政府もMMT論者もマスコミも、この左脳的なモノを中心にして考え動いているから蛇行し不幸の淵に落ち込んでいる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この社会は、どのようにして成り立っているのか?

フラクタルの森で説明するなら、

宗教(世界観)があり、思想・道徳が有って、法律が決められ、社会が出来ている。

社会を見ていくと、法律・道徳・宗教という目に見えにくく、わかりにくい順番でその社会は支えられているのだ。

単に弱肉強食で成り立っているわけではない。

 

何であれ、出てきている結果に対して、その本質を知ろうとすれば「なぜだろう」「なぜかしら」と問いかけをする必要が有る。

キーワードは「なぜ」にある。

しかし、この言葉は便利な言葉であり、深く考えようとしても常にこの問いかけは効力がある。

 

最初は、「どのようにして」という、具体的、手段、方法論に対する問いかけになる。

そして、次になぜと問いかけると動機とか目的とかの本質的な「何故」になる。

さらになぜと問いかけるなら、「なんで」「どうして」という意味合いが強くなり、その奥にある理由や原因を求めることになる。

 

子供のころには、この「なぜ」を何度も繰り返し、その本質を求めているようだが、大人になるにつれ、おそらく洗脳されるのだろうが、思考停止を余儀なくされ浅いところの「なぜ」でストップしてしまうようだ。

そして分かった気になっている。

要するに、多くの人は、この表の上段部分でしか考えない傾向性を持つようだ。

道徳とか宗教とか無視して結果ばかりを見てしまう。

 

基礎的、基本的な道徳教育や宗教教育をされずに育つと、唯物論、無信教の人たちが育っていく。

要するに、戦後教育で日本が強かった道徳とか宗教教育をつぶされてきたためだ。日教組などの左翼教育と連動して世界観が狂わされてきた。優しさだけが前面に出て結果としての平等が独り歩きして「なぜ」の探求がなおざりになってきた。

 

左脳的な教育ばかりになり、片方の思考しかできない人間を造ってきた。道徳、宗教教育は、どちらかといえば右脳的なものだ。

 

フラクタルの森では、すべてを陰と陽に分けようとする。

この左脳的な陽と右脳的な陰とに分けながら論理性の中に当てはめようとする。

左脳的にだけ優秀な人たちは、深く「なぜ」を掘り下げることができずに、陰の眼に見えにくい証明の不可能な不思議な世界に入ろうとしない。そのために両目で物事が見れず、全体で物事を考えることができなくなっていくのだ。

 

そのせいだろう。私から見て頭が良いと思われている人々が、不思議な判断をする。財政でもそうだ。

消費税をやめようとせず、国民に分配しようとして、そのためのつじつま合わせでさらに増税しようと消費税も上げたいらしいけれど、景気対策でやっているなら臭い匂いの元から断たなければだめだということぐらいわかりそうなもの。

 

ここで両目を開けなければだめだと言っているのは、「なぜ」を何度も何度も繰り返す中で両目が開いてくるといっているのだ。

弱肉強食の動物の世界に人間をレベルダウンさせて、創造主たる神が喜ばれるわけは、無い。

神の子、仏の子としての尊厳をどぶに捨てるなら、それなりの報いがやってくるだろう。

 

補正予算が通り、景気対策に多額の資金が使われるという

今読んでいる本で得た知識からしても単純に喜んではおられない。

著者アーサー・B.ラッファー(レーガンとトランプの経済顧問)
「大きな政府」は国を滅ぼす / 幸福の科学出版公式サイト (irhpress.co.jp)

私は数字は苦手だが、ここで言われている考え方は大川隆法先生の心の教えに通じるし、私の「フラクタルの森」の視点から言っても的を得ていると思う。

 

日本が置かれている状況、今後の経済がどう動くのか

大井幸子氏の意見もとても参考になる

(1393) 日銀はどう動くか?増え続ける財政赤字に増税で国債格付に警戒感 日本にお金があるうちに持続可能な成長に舵を切れ - YouTube

 

両方とも難しくてすべてが理解できるわけではないけれど、ここでMMTのことが頭をよぎる。

とんでもない理論が一部市民権を得て、れいわ新選組の山本太郎氏などが巧妙に利用している。

 

三橋孝明氏など2%のインフレ率を目途にブレーキをかければ、ハイパーインフレの危険などあるわけは無いと言っていたが、今、3%以上のインフレで、ブレーキをかけるタイミングなどどこに有るのか。

自国通貨での借金は財政破綻しないだろうけれど、無制限に続ければ、破綻に向かうターニングポイントはどこかに現れてくる。現れて信用失墜すれば遅いだろう。

政府の借金は、国民の所得になるというけれど、たとえそうであっても所得にも良い所得と悪い所得がある。何でも同じで良し悪しがある。

 

要するに善悪の判断ができないでお金を使うとマイナスの効果を生み出す可能性があるだろう。

投資するにしろ消費するにしろ、必ず使われた金額に比例してその善悪の影響は出る。

 

善悪の判断は難しい。

結果ばかりで判断していると、善悪の判断はないがしろになる。

善悪の判断がどこでなされるだろうかと考えると、「思い」のところだ。道徳と言い換えても良い。修身といっても良い。

渋沢栄一が「論語と算盤」と言っていたように論語でもあろう。

宗教で説かれるべき「心の教え」である。

この「なぜ」の問いかけが、「どうやって」「どのようにして」に置き換わっているような世界では、善悪の判断が「行い」(成果、結果)の中だけで行われがちになる。

 

MMT理論を言っている人達は、財政出動を推すけれど、大半が間違った世界観に影響されている。世界観が唯物論、無神論にむしばまれているために「なぜ」の探求が出来ないでお為ごかしに陥っている。

 

もちろん、対極の緊縮財政で増税が必要と考えるような人たちも同類である。

 

そんな中で大きな経済対策が打たれようとしている。

ラッファー博士の言葉を借りるなら、お金を使えば使うほど経済を疲弊させGDPを押し下げることになるのにだ。

 

国会討論を聞いていても、この蛇行した躁うつ病のごとき国会対策で、ますます混迷を深くしていくだろう。

 

お金を配るより、減税で市場からお金を巻き上げることをやめればよいのに、財務省や政治家の自己都合があるのだろうが、話すら出ていないようだ。

税金が自分たちの収入源とか権威のために必要と考えているためだろう。

ここでは、フラクタルの森での考え方の基礎をお伝えします。

 

物事を正確に把握するためには、より科学的に考える必要がある。

科学的と言えるためには、「論理性」と「客観性」と「再現性」が必要だ。

論理性とは、タテ(時間)軸での積み重ねての観方。

客観性とは、ヨコ(空間)軸での立場(主体・人間)を変えての見方。

 

再現性に関しては、人、時、所を違えても同じ結論が出る必要があるのだろうが、前提条件が違えば違った結果が出るように難しい面が有る。

基本的には、論理性と客観性のタテ軸とヨコ軸の光をあてることで正しく見えてくることだと思う。

 

論理性で言ば、5W2Hのように言葉で表現される。

5W2Hとは、When・Where・Who・What・Why・How・How much(How many)の7つの要素で構成される。

 

要するに観て、判断し、行動し、結果が出るという流れが循環している。目の前のその結果を見て、修正し、判断し、創意工夫を凝らし新たな成果を生み出し、何らかの幸福というものを手に入れようとしているのが私たちの本質だろう。

それぞれの課題で思った成果が得られないなら、この7つのどこかに間違ったものを入れている。

 

前提が違えば、当然ながら判断は影響され行動も違ってくる。

究極の原因には、間違った「世界観」がある。

もっと突っ込んでいえば「宗教観」だ。人生観であり死生観であり宇宙観であり、霊界の存在、創造主の存在に関する世界観である。

反省するにしても世界観、宗教観が違うと全く違ったものになる。

 

世界を深く見ず、見えている所ばかりで考える傾向の人は「どうやって」「どうなった」の「行い」の部分だけに見てしまう。

唯物論であり、無神論になりやすく、信仰心があるという人でも、どうしても「結果」に振り回され結果主義、ご利益主義に引っ張られてしまう。

一番上の表面でしか判断しなくなるのだ。

そして、見えにくい「思い」(道徳・理念)の所が希薄になる。

 

この7つの中で一番重要なのが何かというと「WHY:なぜ」(思い)の所。ここが人生の設計図となり基本となるスタート点なのです。

 

そのためにまともな宗教であれば、「心の教え」が不可欠であるのです。何をどうしたかなどはその次に来るものです。

高額なツボを買ったり、高額な献金をすれば良き結果につながり救われるなどとはダマシのテクニックです。

お経をあげれば御利益があるなどということもミスリーディングです。もちろん思いと行いは連動しており、行為から入ることも有るが、前提には心の教えが不可欠なのです。

思いが変われば行いの中に込められた意味も変わり、行為の強弱も変わり、結局は思いの邪悪さに沿った形へと変化してしまう。

この7つの循環は「思い」を起点に回転している。

私たちは、この思い(悟り)を磨き鍛えるためにこの地上に生まれ人生修業をしている。

 

この「思い」悟性、感性を磨くために不可欠なのは世界の観方です。人、時、所が違えば、同じ課題でも対応を変えざるを得ないように、人間、時間、空間に対する認識の違いで、そのあとのモノがすべて変わってくる。

例えば、死んだら全てが終わるという世界観と、死んでも魂は残り、来世、来来世が有るという認識では、当然ながら人生観も違い思いも違い、生き方も違ってくる。

 

世界観は、大きくは二つあり、無神論・唯物論(見えない霊的世界を否定する考え)と有神論(神や霊的な世界を認める考え)に分かれる。無宗教・一神教・多神教・至高神(万教帰一)の4つに分けて考えることも出来る。

無宗教は最悪です。

 

我々の親であり、主たる神の存在、救世主の存在を信じることです。

 

今、世界は、このことで二分されて対立しています。

霊的世界を認めている存在でも、主なる神を信じているものと、悪魔であっても自分たちの欲望を満たしてくれる者を信じているものとの対立も表面化しています。

闇宇宙の勢力たちとも対立しています。

創造主、神を認めず、自らが神になり世界を支配しようとする者たちとの対立が表面化しようとしている。

まさにハルマゲドンが始まっている。

 

悪魔は、結果を見せてくれ欲望を駆り立てるようです。

世界の政治経済を見ていると二つの対立軸がありますが、どちらがどちらの立場の影響を受けて戦っているかは明白です。

 

アメリカのバイデンが、闇の勢力の影響を受けていることを知る必要が有ります。