【遠藤のアートコラム】ダリvol.3~広がるダリの世界~ | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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「ドルの亡者」というあだ名をつけられたダリ。本当にそうだったのでしょうか?
今月は、国立新美術館(東京・六本木)で開催されている「ダリ展」の作品を紹介しながら、サルバドール・ダリについてご紹介します。
 

■今週の一枚:記憶の固執(ピン)(※1)■

―ニューヨーク、お前はエジプトだ!だが、裏返しのエジプトだ。
エジプトは死のために奴隷のピラミッドを建設したが、
お前は例外なく自由の究極点で相会するかずかずの摩天楼
という垂直のオルガンのパイプで、デモクラシーのピラミッドを建設する―



上記は、スペインが生んだ奇才サルバドール・ダリ(1904-1989)によるニューヨークへの賛辞の一節です。

ダリが妻のガラとともに初めてアメリカに渡ったのは、1934年。
ピカソからの経済的援助を受けてのことでした。

2人を船着場で出迎えたニューヨーカーの報道陣が目にしたのは、フランスパンを頭に乗せた画家の姿。
パンはこの日のために用意したもので、2mもあるものだったそうです。
挑発的で面白味に満ち、自己演出によって自分や作品を打ち出すダリは、いち早く広告の力を理解し、利用した画家でした。

1904年にスペインに生まれたダリは、1929年にシュルレアリスト・グループに参加。
すぐさま重要なシュルレアリスムの画家として名を馳せていきました。

しかし、ヒトラーへの共感を示すダリの姿勢やファシストへの接近、スキャンダラスな生き方などがもとで、シュルレアリストたちはダリに除名を迫るようになります。

ダリがアメリカに初上陸したのは、ちょうどその頃でした。

アメリカでメディアを多いに惹きつけ、開かれた個展では作品が完売し、この渡米は大成功を収めました。

1936年には、『タイム』誌の表紙を飾り、アメリカの名士にのし上がっていったダリ。
やがて、チャーリー・チャップリンなみに親しみのある存在になっていくのです。

※2 左)『タイム』誌、第27巻、第24号、1936年12月14日発行
   右)『サルバドール・ダリの絵画展』、ニューヨーク、ジュリアン・レヴィ画廊、1933年11月21日-12月8日​


1939 年に、ニューヨーク万国博覧会のために依頼を受けたダリは、「ヴィーナスの夢」というパヴィリオンを出展。
それはダリの絵画世界を現実化したもので、一種のインスタレーションでした。
実際の水槽の中を半裸のモデルたちが人魚として泳ぐなど、大掛かりなものだったようです。


※3 ニューヨーク万国博覧会のためのパヴィリオン「ヴィーナスの夢」


※4 ニューヨーク万国博覧会のためのパヴィリオン「ヴィーナスの夢」


さらにダリの名を世に知らしめたのは、ある事件でした。
1939 年、ダリはボンウィット・テラー百貨店のショーウィンドーのデザインを手がけますが、許可なく変更されたことに怒って元に戻そうとしたところ、ガラスを割ってめちゃくちゃにしてしまいました。
騒乱の罪で拘留されてしまったダリ。
裁判官が芸術的高潔さを理由にダリを擁護したため、逮捕前に釈放されましたが、この事件は一夜にしてダリの個性をアメリカ人たちに刻むことになったのです。

そして1940年。
第二次世界大戦中のパリはドイツ軍に占領されてしまいます。
戦火を避けたダリと妻のガラはヨーロッパを離れてともに渡米。
1948年まで、ニューヨークを主な発表の場として活躍するようになります。

1930年代半ばから、シュルレアリスト・グループから除名を迫られていたダリですが、その後もシュルレアリスム運動の活動に参加し続けました。
しかしこの頃には、グループを率いていたアンドレ・ブルトンは、ダリとの決定的な離別を示す批評記事を載せるまでになっていました。
1940年頃からダリは、アンドレ・ブルトンがダリの名からつくったアナグラム「アヴィダ・ダラーズ Avida Dollars(ドルの亡者)」の名で知られるようになります。

しかしダリは「私がシュルレアリスムだ」と公言。
シュルレアリスト・グループとは断絶しながらも、独自の活動を続けていくのです。

アメリカで熱狂的に受け入れられたダリは、『タウン・アンド・カントリー』誌、『ハーパーズ・バザー』誌、『ヴォーグ』誌など雑誌の表紙をデザインし、アメリカの上流階級の人々からの高額の肖像画の依頼も受け、新たな環境下で成功を収めていきます。

社交界の人々とも広く交流。
1941 年には、「シュルレアリスムの森の夜」と名付けられた10 年に1 度の幻想的な仮装舞踏会を開催。
戦争を避けて移住したヨーロッパの芸術家たちへの支援を目的としたものでしたが、ダリはこのパーティーによって、ハリウッドの人々にその存在を認識させることもできました。

1942年には、化粧品会社で成功したポーランド出身の実業家女性ヘレナ・ルビンスタイン(1870-1965)が所有するアパートメントの装飾のために、3 枚の連作壁画を制作。

※5 左)幻想的風景 暁(ヘレナ・ルビンスタインのための壁画装飾)
中央)幻想的風景 英雄的正午(ヘレナ・ルビンスタインのための壁画装飾)
右)幻想的風景 夕べ(ヘレナ・ルビンスタインのための壁画装飾)


アメリカで熱狂的に受け入れられたダリのもとには、際限なく絵画以外の仕事も舞い込みます。

1944年には、アルフレッド・ヒッチコックがダリを雇い、サイコスリラー映画作品「白い恐怖」に登場する夢のシーンを制作させました。

その翌年には、ウォルト・ディズニーに雇われて「デスティーノ」と呼ばれる短編アニメーション映画作品を制作。この計画は中断されてしまいましたが、ロイ・ディズニー・ジュニアがプロダクションを整えた2003年に完成しました。

演劇やダンスなどの上演芸術にも没頭したダリ。


※6 狂えるトリスタン


1939年に制作されたこちらの作品は、ダリの舞台デザインの初期のヴァージョンだそうです。

舞台では、黄色い壁は、遠景へと続く廊下への出入り口として構想されています。
左の楕円形の周りには、無数の腕が描かれ、右の楕円形では、楕円の中に無数の腕が見えます。

※6 狂えるトリスタン(部分)


※6 狂えるトリスタン(部分)


動く腕が開閉するアイデアは、のちに宝飾品≪生きた花≫で結実しているため、ここでもはじめは動く腕が開閉する出入り口のイメージだったのかもしれません。

宝飾品のデザインを初めて手がけるようになったのは、1941年。
ルネサンス時代の芸術家に触発されたためでした。

1949年、ダリは一風変わった宝飾品を制作し始めます。

※1 記憶の固執(ピン)


こちらはダリを象徴するようなイメージ“柔らかい時計”をモチーフにした≪記憶の固執(ピン)≫です。

この時彼が制作した作品はいずれも、ダリのイメージや関心ごとを表現するものでした。
こうした宝飾品の事業を始めたのは、ダリの芸術の発展を大衆に見せるためでもあったようです。

バルセロナ生まれの棒付きキャンディー「チュッパチャップス」のロゴのデザインは、のちにスペインに戻ったダリが生みの親になったもの。
誰もが目にしたことがあるのではないでしょうか。

アメリカで、インスタレーション、舞台美術、映画、そして広告業界、ファッションとアクセサリー・・・さまざまな分野にダリは彼の創造力を活かしました。

アメリカという新しい地で、ダリ的イメージを物質化する手段と世界を広げたダリ。
やがて、彼はフロイトの精神分析を土台としたシンボリズムに代わるヴィジョンを見出していきます。

それは、母の宗教であったカトリシズムと、1945年、ヒロシマ、ナガサキに投下された核爆弾でした。
これらは1950年代の作品に結実していきます。

アメリカに亡命した最後の2年間、ダリは原子核神秘主義の観念を探求し続けることになるのです。

続きはまた来週、原子核に魅せられたサルバドール・ダリについてお届けします。

参考:「ダリ展」カタログ 発行:読売新聞東京本社

 



※1 サルバドール・ダリ 《記憶の固執(ピン)》 1949年
7.0×6.0×1.5cm、金、ダイヤモンド
サルバドール・ダリ美術館蔵

Collection of the Salvador Dalí Museum, St. Petersburg, Florida
Worldwide rights: © Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016.
In the USA: ©Salvador Dalí Museum Inc. St. Petersburg, Florida, 2016.

※2 左)『タイム』誌、第27巻、第24号、1936年12月14日発行
定期刊行物
ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵
Collection of the Fundació Gala-Salvador Dalí, Figueres
© Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016.


右)『サルバドール・ダリの絵画展』、ニューヨーク、ジュリアン・レヴィ画廊、1933年11月21日-12月8日
リーフレット
ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵
Collection of the Fundació Gala-Salvador Dalí, Figueres © Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016.


※3 ニューヨーク万国博覧会のためのパヴィリオン「ヴィーナスの夢」
右)サルバドール・ダリ《想像力の独立と人間の自身の狂気の権利についての宣言≫、ニューヨーク、1939 年
リーフレット

ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵

Collection of the Fundació Gala-Salvador Dalí, Figueres © Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016.


※4 エリック・シャール
右から
《ニューヨーク万国博覧会のためのパヴィリオン、「ヴィーナスの夢」を制作中のサルバドール・ダリ》1939 年、23.8×20.5cm、写真(複製)
《「ヴィーナスの夢」のピアノ・マネキン》1939 年、21.2×20.6cm、写真(複製)
《「ヴィーナスの夢」の夜の眺め、正面》1939 年、21.5×20.3cm、写真(複製)
《「ヴィーナスの夢」の中にいる夢見るマネキン》1939 年、23.4×20.2cm、写真(複製)
《「ヴィーナスの夢」の中の人魚》1939 年、25.4×20.6cm、写真(複製)
《ニューヨーク万国博覧会のためのパヴィリオン、「ヴィーナスの夢」のチケット・オフィスから顔を出すサルバドール・ダリとガラ》1939 年、25.4×20.5cm、写真(複製)

ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵
Collection of the Fundació Gala-Salvador Dalí, Figueres
© Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016.

※5 サルバドール・ダリ
左) 《幻想的風景 暁(ヘレナ・ルビンスタインのための壁画装飾)》249.0×243.0cm
中央)《幻想的風景 英雄的正午(ヘレナ・ルビンスタインのための壁画装飾) 》251.0×224.0cm
右)《幻想的風景 夕べ(ヘレナ・ルビンスタインのための壁画装飾)》247.5×247.0cm
1942年
カンヴァスにテンペラ
横浜美術館蔵
© Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016.

※6 サルバドール・ダリ《狂えるトリスタン》 1938年
45.7×54.9cm、板に油彩、サルバドール・ダリ美術館蔵
Collection of the Salvador Dalí Museum, St. Petersburg, Florida
Worldwide rights: © Salvador Dalí, Fundació Gala-Salvador Dalí, JASPAR, Japan, 2016.
In the USA: ©Salvador Dalí Museum Inc. St. Petersburg, Florida, 2016.



<展覧会情報>
「ダリ展」
2016年9月14日(水)~12月12日(月)
会場:国立新美術館 企画展示室1E(東京・六本木)

開館時間:10 時-18 時
金曜日は20 時まで
※ただし、10 月21 日(金)、10 月22 日(土)は午後10 時まで
(入場は閉館の30 分前まで)
休館日:火曜日

展覧会サイト:http://salvador-dali.jp
問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)

 

 


 

 


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