鉄拳と食品玩具 | 続・日々コラム・・・

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「体罰」が急に社会問題化されて、混乱している様子を見て、これも一つのジェネレーションギャップなんだと思ったりしています。一部には、特にスポーツ関係では、根強く「部分的肯定論」が残っています。場合によっては、愛があればそれは教育の一つだということです。

また、殴ると「畜生じゃない無いから殴らなくても分かる」と反抗されるのが定番でしたが、指導者から反論として聞いていたのが「殴らないと分からない奴もいる。」ということでした。
現在さらに誤解された自由奔放が許される時代、正論はともかくとして、それも現実の現場の声なのだと思います。

ところで今、問題の渦中にいるのがたまたま同世代の人たちなのですけれども、我々が若年だったときの指導者層は、「軍隊」世代だったんです。鬼の監督、鬼コーチ、しごき、星一徹、地獄のトレーニング、そういう「スポ根」世代だったんですね。
その後変遷して今は、全部さわやかで「スポ恋」(=スポーツ恋物語)になってますし、衣食住レベルの貧乏という背景も見当たらなくなりました。つまりモチベーションの基礎が違ってきました。

スポーツの世界での成績も、近代的システムのトレーニングと指導で、大きく向上しました。昨今、どんなスポーツの世界大会をみていても、本当に日本選手の活躍はすばらしくて、誇らしく思えます。
そして「軍隊世代」の指導者や指導法の非合理性を指摘して、批判する意見はあたり前になってきました。

さて、そこで思い出したのが、「鬼」のようだった怖い怖い小学校の先生(Mせんせい)のお話。
とにかく、立っているだけでも般若の面のような顔して怖いのに、さらにすぐに「鉄拳」が飛んでくるんです。もう、小学生としてはたまったものじゃありません。一年間の担任にきまっただけで、児童は雄先真っ暗、泣きだした子もいたくらいです。

そんな、Mせんせいが、ある日朝礼で、市販の「お菓子」の袋を手に持って挨拶されました。

「このお菓子が、昨日に捨てられていた。“おまけ”を集めるために菓子を買って、お菓子のほうは棄てたらしい。・・・私たちの子どもの頃は、食べるのものがなくて、食べるために泥棒までした。食べられないものでも食べた。こんなお菓子は、宝物だった。こんなものが食べられるようになりたくて、それだけ望んでがんばって生きてきた・・」

と泣いて語ってくださいました。まさに、鬼の目に涙。

この頃、日本人の基本にあったのが「食べ物を粗末にしない」という、人間としてあたり前の理念です。鉄拳制裁をしてまで是正させ徹底させるべき正義と理念。「軍隊世代」の非合理的な教育には、そういう「あたり前」がありました。これは、どんなに豊かな時代になっても、合理的になっても、失っていいものがどうかと思います。

そして現在、スーパーやコンビニのお菓子売り場には、そもそも「おもちゃメーカー」の「食品」が並んでいます。「食品」部分は、完全に言いわけ程度に駄菓子が入っているだけで、実際に売っているのは「おもちゃ」です。
これは、ビジネスモデルとしては、ものそごく優れているんです。おもちゃメーカーの革新的販路拡大なんです。マーケティングとしては素晴らしいんです。

しかし、言いわけ程度にくっついているお菓子は、棄てはしないとしてもどういう立場の食品なのでしょうか。そしてその「おもちゃ」も、すぐに捨てられてしまうことは明白。安く簡単に手に入るものは、簡単に捨てることが出来るんですね。
買った親にも、買ってもらった子どもにも、何の疑問も待たせない思考になっているみたいです。今は、戦後生まれの人たちの子どもが、さらに親になっている世代です。「食べ物は残さずに食べろ」ではなくて、太るからいっしょにファスティングしようね、という時代です。

でも、変わっていい価値観だけではないと思うんですね。

体罰はダメだとしても、前世代の教えを全部否定することはないと思うんです。むしろ、日本人の基礎をダメにしてしまっているのは、現代的な合理主義の考え方のほうじゃないかと思ったりもするんです。

もちろん、「言葉」でちゃんとコミュニケーション出来ないから、鉄拳や無口で誤魔化すのは、全世代の悪いところなんですけれども。