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続・日々コラム・・・

Shen Teh n Shui Ta = hen na TeTSuShi・・・

いろんな分野で、「グローバル・スタンダード」に注目されるようになって久しいです。

企業も人も地球規模での活動があたり前になってくると、世界の中でうまくやっていこうとすると、「日本の常識は世界の非常識」じゃいけなくなってくるわけです。

そういうことで、この20年位前からでしょうか、僕ら徹底的に「世界基準」を勉強するのが、最先端でした。なので、いまだにその「最もモダンな」はずの「世界で通じる」という考え方が、固定概念になっています。

たとえば、ビジネスの現場で考えるは、「株式会社は株主のもの」「株主に利益を配当するのが使命」という基本です。
その基準で事業を営み、経営者は評価されるべきというのが、「正しい」と思ってきました。

直接間接でも、株主の利益にならないことに資金を投入すると、下手をすれば「背任」行為になってしまうわけです。

しかし、従来日本的な社会で、「会社」の果たしてきた役割はそれだけではありません。
「会社」は社会を構成する一番大事な要素で、社員は家族、そして損特に関わらず地域と密接な関係を持っていました。社長さんは、経営手腕とともに、地域の盟主たるバイタリティある人で、まさに「日本の社会」を構成する役割を担ってきました。
契約書と同じくらい、あるいはそれ以上に「酒場の約束事」でも大事にして、お互いの面子に気配りが出来ていたと思います。

株式を上場している大企業に限らず、中小企業までが、そういう「人と人が穏やかに繋がる」関係の橋渡し役を務めていたのが、「日本的」な良さだったように思います。

この「日本的」を否定して、(アメリカンな)MBA的な株式会社の理念を叩きこまれたのですけれども、そうやって(いわばアメリカ式)経営してきた日本の大企業が、この20年でどうなったかというときに、少し疑問を覚えます。

株価を見れば、経団連で威張っているそれらの経営者様型が「株主」の利益と財産をどれだけ奪ってきたことか、税金で保護して肥大化した大手銀行、文化のなくなったメーカー、SONYだって大賀さんのときまでは憧れる企業でした。
いま、世界で必要不可欠な企業がどれだけ残っているか、そう思います。

日本は、日本の価値基準にもっと自信をもって、しかも他とすり合わせる必要はないのではないかとさえ思います。
「世界基準」を知らないと、国際社会で非常識な存在になってしまいますが、「世界の考え方」を、一応知った上で、さらにすばらしい日本のスタンダードを、貫く自信が必要なのだと思います。


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教育という観点での「体罰」という大きな問題が出てきています。
教師でも親でも、「罰」を与える資格はないのですけれども、愛のムチとか鉄拳とか、制裁とか総括とか、ただの暴力とか、パワハラ、リンチ、エトセトラ…
合法的に市民一般に暴力が許されるのは、正当防衛の場合だけだと思います。
なので、体罰を正当化する為には、
「これは俺のプライドの正当防衛だ!」
ということでどうでしょうか。って駄目に決まってますけど…。

大阪市の橋下市長は、問題高校の入試中止まで言及して、事の大きさを訴えています。
入試中止、というと僕は幼少時の記憶ですが、東大がたしか入試中止になったのを覚えています。
連日ニュースになる大騒ぎの末の処置だったと思います。
つまり、橋下市長は、それほどの大事だという認識の薄い世論に警鐘を鳴らそうとしているように思います。
実際、大阪の悲劇を例外事例として、それでも「体罰」も場合によっては「是」とする意見は多くあるように思います。

そして柔道界でも同じような問題が取り上げられてきました。
なんか僕らの時代は、コーチは「鬼」で、それに耐えるのがヒーローだと思ってましたから、逆に最近のさわやかなスポーツの環境は、「やる側」としては嬉しいのですけれども、感動させてもらえるような国民的ヒーローを認めにくくさせられているようにも思います。

世界一をめざすにしても、スポーツは楽しくやってなんぼ、なんでしょう。
罰が怖くて必死になって出すアドレナリンよりも、たぶんもっと良質なやる気で競うのがスポーツだと、まず「シゴキ」世代のぼくらが認めなきゃいけないのかもしれません。


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アフリカの事件が気になります。
外国で仕事をすることのリスク、特に地理的にも歴史的にも関係が薄い国だと、リスクも不安も絶えません。なんとかご無事を祈るのみです。

考えてみれば、ネット社会になってとっても「地球」が小さく「外国たち」が身近になりましたが、それだけに異民族の理解、特に宗教についての勉強が必要になってくるとおもうんですよね。国際化社会対応の教育って、まずは宗教からやらないといけないと。
日本じゃ、キリスト教は「ごっこ遊び」と商売に利用するために便乗するもので、イスラム教は無知以前の誤解。ユダヤ教とヒンズー教もしかり。

ニュースの現場は、サハラをはさんで、ナイジェリアとマリ。
旧宗主国のフランスといえば宗教嫌い。いま、ムスリムとテロリストが、わけわからないままオーバーラップしたイメージで伝えられているように思います。
僕は、たくさん流れてくる情報を、正しく読み取る力を持ってる自信がないんですね。


(写真はトンブクトゥ)
サウジアラビアで、スリランカ人の家政婦さんが死刑になりました。
斬首刑です。17歳。
罪は雇用主の子どもを窒息死させた(疑い)。スリランカ政府も抗議、未成年の死刑ということでアムネスティも抗議、いろいろな問題がみえてきます。
サウジアラビアでは、以前にもインドネシア人家政婦さんで、同じような国際問題になった死刑例がありました。
サウジアラビアの法律では、殺人以外にもいろいろなことで死刑になります。
日本では笑ってすむようなこと、謝っておしまいということでも、国や宗教の違う地域では、看過されないことがあります。
ベルギーで、身体障害の方が安楽死されました。
安楽死を認めているのはオランダ、ついでベルギー。
安楽死といわず、尊厳死といえばどうなんでしょうか。それでも死を選ぶ権利が人間に認められるとするなら、人権に対して問題があるのでしょうか。
日本は毎年3万人以上の自殺者があります。人口当たりの自殺者数では、韓国はさらに上です。
人が生きるということ、その権利と義務について、地球上でどれだけ共有できているのだろうかと思います。
「命は大切だよ」という綺麗事だけでは処理できない価値観の確執。歴史、民族、経済、しがらみの多さ。
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This photo is a toilet of a convenience store in Japan.
There are close to 50,000 such convenience stores in Japan, and most of them has clean toilets like this can be used.
It is free of charge for use, of course, consumers are not required even to buy goods in this store.
Then, in a poster in the toilet wall , are written as follows.

"To our customers.
  Thank you very much to use it clean, anytime."
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スペイン語講座。お饅頭は、オストアンデル host un delle という。(わかるひとだけ(笑))

てのはさておき、写真は、現在整理中の本棚にあった『造景』という都市デザインの雑誌。(15年以上前のですけれど)

ここで紹介されているのが、スペインの『クエンカ』という街です。

この景観すばらしいところは自然と街並みが調和しているのです。実際には、送電線も目に入るし、古くなって割れた石畳みや、色の落ちた壁も混在しています。
しかし、それでも風景として趣があるのは、その土地の風俗に根付いたものを使って造られ、経年の辛苦を自然と人間が共にして生活してきたからだと思います。

日本はお金があるので、(厳密には産業のために借金奨励して無理させられているだけですが)、すぐに新しいデザインやコンセプトで作り直してしまいます。外国の建材や機能、色をすぐに取り入れます。

でも、やっぱり住居や街並みも、地元密着でないと、長い目で見ると調和しません。そこらじゅう、気持ち悪い施設ばかりが残ってしまいます。

日本の地方も、つい最近まではは瓦屋根でしたけれども、瓦の色や屋根の形状は、それぞれの地域で特徴があったじゃないですか。
それが連なって、風景とマッチしていたんですけど、今やナショナルブランドの安っぽい四角い建物ばかり。

建築を、経済効果だけで語ってはいけないですよね。

ではお終いに、スペイン語でどうぞ。
このスペインの町は、クエンカ。
饅頭は、オストアンデル。

 ”オストアンデル、クエンカ?”
「はだしのゲン」中沢啓治さんが亡くなったとのことです。

現在は、あの「ゲン」のご家族。広島の家の柱に埋もれ焼死されたお父様達とお別れになって67年後の年末です。

ちょうど総選挙が終わり、新内閣が発足するタイミングでした。
新政権が「右傾斜」かどうか、そもそも今、政治家がどれだけ権力をコントロールできるのかはわかりませんが、「戦争」と「核」にまつわることを、どれだけ今の日本人は意識できているでしょうか。

被爆は1945年のこと、という認識があります。
とくに関東にいるとそう感じます。
しかし、その後の長い間に渡って、病気や差別に苦しんできた多くの人々のことを思うと、いま核の恐ろしさからなにも教訓を得いていないように思えてなりません。

僕は、原発に反対をしている訳ではないんです。憲法改正をダメだというわけではないんです。
「考えなくなった日本人」に警鐘を鳴らしたいと思っています。

「はだしのゲン」は決して楽しい話ではありません。
年末に家族で笑って見られる話でも、子どもが喜ぶものでもありません。

でもこの機会に、67年を生き抜いてこられた中沢さんからのバトンを受けて、もういちど見直してみてはどうかと思います。本でもアニメでもなんでもあります。

これは他人事ではなくて、そこで僕らの傍らで生きていた人の一つの真実なんです。
つまり、明日は我が身かもしれないのです。$続・日々コラム・・・