16年前の阪神大震災の翌日から立ち上がった外国人地震情報センターに
しょっぱなから韓国語ボランティアとして参加して得た教訓は山ほどありますが
その一つが
「マスコミは信じてはいけない」でした。
私たちは現場に入らない事とし、大阪市内で新聞、ラジオ、行政発表、現場報告などの情報を整理し
電話やフリーペーパーで各国語に翻訳通訳して被災地の外国人に情報を伝えるものでした。
1年後に初めて一番被害がひどかった現地で追悼会に参加しました。
その時に日本を始め世界から押し掛けるマスコミのお仕事ぶりに目を疑いました。
思い思いの所でレポートし、インタビューし、フラッシュを焚きまくって写真を撮り、
追悼会はマスコミのせいでめちゃくちゃでした。
その集会はテレビニュースでは地震発生時間に被災者の人たちが黙祷する姿を静かに映し
「しめやかに行なわれました」と放映されました。
ひっくり返りました。
仰天しました。
なんじゃこりゃ。
それ以降も「あーあ、マスコミって事前にシナリオを作ってそれに合う絵(写真/映像)を撮りに来てるだけなんだな」という思いは深まるばかりでした。
今回、被災地は私の住む滋賀からは遠く離れた東北。
日光から北に行った事がない私には縁者もほとんどいない所です。
テレビで流れ続ける現地の惨状と情報は無自覚に刷り込まれ、そうなんだと信じてしまいます。
しかし、当時とは違いインターネットや携帯を通じて個人から個人に情報伝達ができるようになって
今回もブログ、mixi、twitter、facebookなどソーシャルメディアから現地と世界を結んであらゆる情報が行き交うと、改めて「直ぐに健康被害はない」とかの「大本営発表」を信じそうになった自分の目が覚めたように思いました。
福島県南相馬市で避難していた高校生のtweetがまとめられたもの。
『助けてくれ!!南相馬市を助けてくれ!!
テレビでやってる放射能被害は嘘だ!もっと深刻なんだ!!
分かってるのにガソリンがなくて逃げれないんだ!!
国は本当のことを言って逃げてくれ!!逃がしてくれ!!』
そして韓国のブログ。
「新しい地球村のニュース、最近の北朝鮮の姿、地球村記録写真を共有します」
ここに共有されている写真は大地震、大津波の膨大で詳細な記録であると共に
東北の市民の方達の痛みと命あるものの営みの記録であると思います。
昨日ブログにアップしたyoutubeの映像はここの写真から転用したもののようです。
震災の翌日12日からアップされ、22日現在49ページ目。
日本のテレビや新聞には載らないだろう写真もあります。
避難所、被災現場、救援活動、アメリカ軍、海外マスコミ、様々に絡む現地を子供の目線から上空から網羅されています。
そして、人間に対しての優しい視線を感じられます。
この震災だけでなく韓国や世界の出来事についても沢山の写真が公開されています。
外国である日本についてこれほど力をそそいでまとめられているのは驚きです。
この写真は「使命」として公開されているのだろうなと思います。
ぜひ、皆さんにも見て欲しいです。
それでも、これさえも、膨大な現地の惨状のほんの一コマに過ぎないのだと
常に自分にも言い聞かせてゆくつもりです。
韓国の人たちの「がんばれ、日本。がんばれ、東北」のメッセージです。
私の友達にも見て欲しいし、
東北の人たちにもそのお気持ちを届けられたらと思います。
最後のハングルのメッセージは
『韓国人たちは日本国民を応援しています。
そばに友達がいることを忘れないで。
ファイト!』
私の友達にも見て欲しいし、
東北の人たちにもそのお気持ちを届けられたらと思います。
最後のハングルのメッセージは
『韓国人たちは日本国民を応援しています。
そばに友達がいることを忘れないで。
ファイト!』
東北大地震、津波から一週間経ちました。
168時間前、日本は突然死にました。
再建と言っても元の街も人もコミュニティももはや復活させる事はできないのです。
今からは以前とは全く違う価値観で生まれ変わらなければなりません。
いまのところ、私にできることは何もなく、
せめて日常を普通に過ごす事に務めています。
それさえも「闘い」なのだと思わせられた一週間でした。
亡くなった方々のご冥福を祈るとともに
被災された方々が一日も早く「日常」を取り戻されるよう
何かお手伝いができればと思います。
我が市でも各自治会ごとに防災倉庫を建て、防災グッズや保存用食糧を整備しています。
その話し合いでも強く感じるのですが、
なんで非常食といえば、未だに「乾パン」を外せないのでしょうね。
一応近隣の5軒ほどがグループになって防災担当を決めてます。
でも、わが家から非難しなくちゃいけないなら避難先の自治会館だって危ないだろうし、
それより大きな避難場所は最寄りの小学校だとして
住宅密集している土地柄絶対パンクすると思います。
それにうちには犬もいるので見捨てて一人避難なんてできないし。
そう考えると避難できそうなところって、、ないなあ。
地震直後に早くも津波に巻き込まれてゆく東北の街をテレビはライブで放映しました。
上空ヘリから状況がつかめても現場で状況の掴めない通行人はまるで津波を見物するかのようにたたずんでいました。
きっとその場にいたら何が起っているのか、次に何が起るかなんて全く判らないでしょう。
いままで私たちがあれこれ議論して来た「防災」は本当の意味の「防災」じゃないんだと今回の災害で強く感じました。
初期救助救援は自衛隊そして、世界中から即飛んできました。
アメリカの軍艦も、攻撃する為でなく救援に来ました。
被災地から遠い私にも韓国、インド、フィリピン、ドイツの友人がネットのfacebookの書き込みや電話で
「大丈夫かー!」
「インドのわが家にいくらでもいてもいいからー!」
「韓国に引っ越せー」
などと心配してもらってありがたい限り。
そして、私も東京や長野にいる韓国人の友人達とfacebookを通じてずっと励ましあったり。
状況はtwitterを通じて全国民、全世界がマスコミを通じずにやり取りできました。
消息情報の他にデマも広がり、そのデマを鎮静させたり、緊急にサイトを立ち上げたり。
私の経験した阪神大震災の時はネットも携帯もなかったものです。
ただ、電源のない現地の避難所に情報は届いてなかった。
全国民が今、防災についてはものすっごい評論家になれそう。
一つ、私も参加するとすれば
防災はグローバルに考えなければ行けない。
そうあらねばならない、じゃなくて
そうなっちゃうから。
普段頼り無さげな日本が、最も混乱している中でも秩序を保ってなるべく合理的に動こうとできる強さがある。
「感謝」と「思いやり」でお互いを支えあっている事。
それだけが私たちが再び幸せになる為に必要な総てじゃないかと思うのです。
168時間前、日本は突然死にました。
再建と言っても元の街も人もコミュニティももはや復活させる事はできないのです。
今からは以前とは全く違う価値観で生まれ変わらなければなりません。
いまのところ、私にできることは何もなく、
せめて日常を普通に過ごす事に務めています。
それさえも「闘い」なのだと思わせられた一週間でした。
亡くなった方々のご冥福を祈るとともに
被災された方々が一日も早く「日常」を取り戻されるよう
何かお手伝いができればと思います。
我が市でも各自治会ごとに防災倉庫を建て、防災グッズや保存用食糧を整備しています。
その話し合いでも強く感じるのですが、
なんで非常食といえば、未だに「乾パン」を外せないのでしょうね。
一応近隣の5軒ほどがグループになって防災担当を決めてます。
でも、わが家から非難しなくちゃいけないなら避難先の自治会館だって危ないだろうし、
それより大きな避難場所は最寄りの小学校だとして
住宅密集している土地柄絶対パンクすると思います。
それにうちには犬もいるので見捨てて一人避難なんてできないし。
そう考えると避難できそうなところって、、ないなあ。
地震直後に早くも津波に巻き込まれてゆく東北の街をテレビはライブで放映しました。
上空ヘリから状況がつかめても現場で状況の掴めない通行人はまるで津波を見物するかのようにたたずんでいました。
きっとその場にいたら何が起っているのか、次に何が起るかなんて全く判らないでしょう。
いままで私たちがあれこれ議論して来た「防災」は本当の意味の「防災」じゃないんだと今回の災害で強く感じました。
初期救助救援は自衛隊そして、世界中から即飛んできました。
アメリカの軍艦も、攻撃する為でなく救援に来ました。
被災地から遠い私にも韓国、インド、フィリピン、ドイツの友人がネットのfacebookの書き込みや電話で
「大丈夫かー!」
「インドのわが家にいくらでもいてもいいからー!」
「韓国に引っ越せー」
などと心配してもらってありがたい限り。
そして、私も東京や長野にいる韓国人の友人達とfacebookを通じてずっと励ましあったり。
状況はtwitterを通じて全国民、全世界がマスコミを通じずにやり取りできました。
消息情報の他にデマも広がり、そのデマを鎮静させたり、緊急にサイトを立ち上げたり。
私の経験した阪神大震災の時はネットも携帯もなかったものです。
ただ、電源のない現地の避難所に情報は届いてなかった。
全国民が今、防災についてはものすっごい評論家になれそう。
一つ、私も参加するとすれば
防災はグローバルに考えなければ行けない。
そうあらねばならない、じゃなくて
そうなっちゃうから。
普段頼り無さげな日本が、最も混乱している中でも秩序を保ってなるべく合理的に動こうとできる強さがある。
「感謝」と「思いやり」でお互いを支えあっている事。
それだけが私たちが再び幸せになる為に必要な総てじゃないかと思うのです。
先日インドで出逢った写真家の沖守弘さんがマザーテレサのメッセージ入りの肖像写真を送って下さいました。
早速額縁を買って来てベッドサイドに飾ってみました。
私のベッドサイドってインドの地図、世界地図、インドの神様のブロマイド(?)が貼ってあって、マザーテレサの土人形が飾ってあって、これじゃあなんだかインドマニアな感じ。
そんなつもりないんだけど。。
インドのマザーテレサの施設のボランティアに毎年通っていると言ってもクリスチャンでない私にはマザーハウスで行なわれるミサも神様への誓いの唱和や歌、祈りの時間にもどうにもヨソモノ感が否めません。
それでもマザーテレサが生前宗教の違いを差別せずに人々に接したままの大らかさで受け入れてもらえるので日本人のボランティアも本当に沢山訪れるのです。
マザーテレサが亡くなって14年。
今年のコルカタへの旅では本や映画で知っているだけのマザーを直接知る人に出逢いました。
その出逢いにインド行き直前の栗東の竹村さんのビニールハウスでの書き初め大会が伏線になっていて、わぁ、こりゃ一体誰のシナリオ?
私の参加したツアー主催の西山さんと写真家の沖さん
生前のマザーテレサを追いかけて10年の付き合いのあると言うKさん。
マザーの死後もインドを訪れ続けなんと今回40回目!
私が参加したツアーの主催者西山さんのお繋がりで同じホテルに宿泊しているので、お話を伺いに部屋へお訪ねしました。
事故で片足を失いながらも車椅子で来られたのです。
部屋の隅に控えてた私が滋賀から来たと聞いてKさんが尋ねました。
「Yさんって知らない?」
「Yさん」決してよくある姓ではありません。
なんと、今回のビニールハウスde書き初め大会で染色の件でとってもお世話になった方のことでした。
140万人を超える滋賀県民の中で一つ、ぽろっとKさんの口から出た名前がその方でした。
ちょっと前に知り合ったYさんですが、書き初め大会がなければそれほど親しくはなかった方です。
書き初め大会の為に布に墨汁で染める方法を教えていただきにお家に伺いました。
居間にはマザーテレサの写真集が飾ってありました。
「もうすぐここ、行くんですよ~、奇遇ですね~」と笑ってたのですが、
いや~、びっくし。
ミッショナリ オブ チャリティー、通称マザーハウスの1階にあるマザーテレサのお墓
Kさんと沖守弘さんはご一行様で、沖さんの部屋は私の部屋の並びでした。
朝ご飯でご一緒し、夕食でまたご一緒し、私が施設の一つプレムダンでボランティアの人たちに演奏用ノコギリを弾いていたところに偶然通りかかられたり。
接点を作ろうとしたわけではないのに自然にアチコチでお目にかかる事になりました。
そしてインドの貧民街の無名の修道女だったマザーテレサを
追いかけ続けた日本人カメラマン沖さんとの交流を直接伺う事ができました。
マザーの死後もマザーの写真展を世界中で自費で開いている沖さん。
元はクリスチャンではなかったのですが去年、スペインのサグラダファミリア教会、イタリアのアッシジの聖フランチェスコ聖堂で写真展をし、アッシジで洗礼を受けたそうです。
「これでマザーの所へ行ける」と、沖さんはとても嬉しそうでした。
沖さんはこれが人生最後のインド、と決めて来られたそうです。
そんな旅にご一緒できて本当に光栄でした。
80歳を超えてますますお元気な沖さんは
「来年はアメリカとメキシコでマザーの写真展をする!」と燃えていらっしゃいました。
その心にはいつもマザーと一緒にいらっしゃるんだなー、と思いつつ。。。
いつも思うのは、天からの使命に燃えるコマッたダンナさん思う存分泳がせられる日本の奥さんってば
マザーテレサ以上に偉大だな~、と思うのでした。
早速額縁を買って来てベッドサイドに飾ってみました。
私のベッドサイドってインドの地図、世界地図、インドの神様のブロマイド(?)が貼ってあって、マザーテレサの土人形が飾ってあって、これじゃあなんだかインドマニアな感じ。
そんなつもりないんだけど。。
インドのマザーテレサの施設のボランティアに毎年通っていると言ってもクリスチャンでない私にはマザーハウスで行なわれるミサも神様への誓いの唱和や歌、祈りの時間にもどうにもヨソモノ感が否めません。
それでもマザーテレサが生前宗教の違いを差別せずに人々に接したままの大らかさで受け入れてもらえるので日本人のボランティアも本当に沢山訪れるのです。
マザーテレサが亡くなって14年。
今年のコルカタへの旅では本や映画で知っているだけのマザーを直接知る人に出逢いました。
その出逢いにインド行き直前の栗東の竹村さんのビニールハウスでの書き初め大会が伏線になっていて、わぁ、こりゃ一体誰のシナリオ?
私の参加したツアー主催の西山さんと写真家の沖さん
生前のマザーテレサを追いかけて10年の付き合いのあると言うKさん。
マザーの死後もインドを訪れ続けなんと今回40回目!
私が参加したツアーの主催者西山さんのお繋がりで同じホテルに宿泊しているので、お話を伺いに部屋へお訪ねしました。
事故で片足を失いながらも車椅子で来られたのです。
部屋の隅に控えてた私が滋賀から来たと聞いてKさんが尋ねました。
「Yさんって知らない?」
「Yさん」決してよくある姓ではありません。
なんと、今回のビニールハウスde書き初め大会で染色の件でとってもお世話になった方のことでした。
140万人を超える滋賀県民の中で一つ、ぽろっとKさんの口から出た名前がその方でした。
ちょっと前に知り合ったYさんですが、書き初め大会がなければそれほど親しくはなかった方です。
書き初め大会の為に布に墨汁で染める方法を教えていただきにお家に伺いました。
居間にはマザーテレサの写真集が飾ってありました。
「もうすぐここ、行くんですよ~、奇遇ですね~」と笑ってたのですが、
いや~、びっくし。
ミッショナリ オブ チャリティー、通称マザーハウスの1階にあるマザーテレサのお墓
Kさんと沖守弘さんはご一行様で、沖さんの部屋は私の部屋の並びでした。
朝ご飯でご一緒し、夕食でまたご一緒し、私が施設の一つプレムダンでボランティアの人たちに演奏用ノコギリを弾いていたところに偶然通りかかられたり。
接点を作ろうとしたわけではないのに自然にアチコチでお目にかかる事になりました。
そしてインドの貧民街の無名の修道女だったマザーテレサを
追いかけ続けた日本人カメラマン沖さんとの交流を直接伺う事ができました。
マザーの死後もマザーの写真展を世界中で自費で開いている沖さん。
元はクリスチャンではなかったのですが去年、スペインのサグラダファミリア教会、イタリアのアッシジの聖フランチェスコ聖堂で写真展をし、アッシジで洗礼を受けたそうです。
「これでマザーの所へ行ける」と、沖さんはとても嬉しそうでした。
沖さんはこれが人生最後のインド、と決めて来られたそうです。
そんな旅にご一緒できて本当に光栄でした。
80歳を超えてますますお元気な沖さんは
「来年はアメリカとメキシコでマザーの写真展をする!」と燃えていらっしゃいました。
その心にはいつもマザーと一緒にいらっしゃるんだなー、と思いつつ。。。
いつも思うのは、天からの使命に燃えるコマッたダンナさん思う存分泳がせられる日本の奥さんってば
マザーテレサ以上に偉大だな~、と思うのでした。
長いことブログの更新をさぼっています。
書いた瞬間に世界中どこからだってレスポンスできちゃうtwitterやfacebookに馴染んでしまうとじっくりブログを書く事のリズムが掴めないのです。
しかも私ってば書けばダラダラ長いし。
これまでの面白い事、ワッと驚く事、
沢山の書くべき事を逃してしまいました。
日々、ついつい目の前の短期間で答えを出す事ばかりに執心してしまうけど
何年ものブログはたまには振り返ると山の上から大河の流れのような大きな景色を見せてくれるのかもしれません。
もとい。
2011年2月12日(土)の朝市の後に、竹村さんのビニールハウスで書き初め大会をやりました。
お習字の先生のツチヤさんもいるし、染色家のヨシザワさんもいる。
コレだ!と、絶対やりたいコラボですが
一般的には以前の「びにーるはうすde美術館」ほどのインパクトがないのも分かってました。
私の思いつきを叶えていただくのに周りの方々に無理に細々した事をお願いするわけにも行かず、
結局いつものように最後には中井さんに様々お世話になり本当に申し訳ないです。
今回はランチに地元栗東の鶏農家の中辻さんの卵かけごはん、
その中辻さんの卵で料理大好きのミサコちゃんにケーキとクッキーを作ってもらいました。
今回、手ぬぐいを半紙代わりに好きな言葉を書いて、それで一年間のお米作りの汗拭きにしようと思い、洗っても落ちない方法を染色家のヨシザワさんのお家にお邪魔したり、わが家においでいただいたり、何度も試して、薬剤や手ぬぐいの入手にも沢山沢山お世話になりました。
前日に大雪が降りました。
私は雨女。
やっぱりなー、とガッカリでしたが
当日はピッカピカに晴れて、ビニールハウスは暑いくらいでした。
準備した手ぬぐいの他にも、マキゾーさんやびにーるはうすの竹村さんは看板用に木の板をご用意されて、おお、そんな手もあったのね、と嬉しくなりました。
ヨシザワさんがご好意で手ぬぐいに柿渋染めしたのを用意下さったり、
ツチヤさんが準備下さった篆刻用の石は即完売でした。
柿渋で染めた布に書くと古紙に書いたような味のある文字になるし、
ペンや錐の先でキリキリ削った篆刻印で文字が作品としてグッと締まります。
その中で、意外な才能発見!!
中学生のハルノちゃん、絵がめちゃめちゃ上手い!!
最初にボタッと墨が落ちたのを利用して龍の目玉にしてもの凄く立派な昇り龍をサラサラ~と描いたのでした。
みんなでオオ~!!と大絶賛。
ご本人は「え~、そおかな~、ありがと~」っといたって軽やかなのですが
周りは皆で大興奮。
ツチヤさんは緑と金の墨で色塗りコラボされるし、
私はマキゾーさんに頼んで裏に竹ヒゴを貼って凧にしました。
そして、ハルノちゃんに「インドに持って行って子供達にプレゼントする」と約束して
その絵をいただきました。
その凧の行方をご報告。
インドのコルカタのマザーハウスの遺した施設でボランティアするツアーに毎年参加しています。
いつも私が行くプレムダンと言う施設で一緒だった韓国人1人と日本人3人の大学生を誘って
子供達に持って行く前に練習しとこ、と近くのメイデンという広い公園に行きました。
誰もが子供の時にやったであろう凧揚げ。
しかも日韓の高学歴の英知を持ってして、、、、
凧は上がりませんでした((iДi)
通りかかったインドの人たちが、「そんな縦長のサイズじゃ難しいよ」と。
まあな。
でも、時にチャイを飲み、走り回り、たまたま縁あってひと時を共にした皆で何かを作り上げようとする楽しい時間でした。。
帰り道、グラウンドでクリケットしてる人に打ち方を教えてもらったり、
屋外でバレーボール大会してるのに飛び入りで勝手に応援団したり
いや~、燃えたね~
翌日、NGO運営の学校へ。グランドで凧揚げに再トライ。
私たちのインドでのナビゲーター、ジェリーが「まかせとけ」というので
任せたけど、やっぱりアキませんでしたわ。
そのうち絵が破れて来たので裏からテープを貼って、普通に絵としてもらってもらうことにしました
すると、ジェリーが「ボクにくれ。車のリアウィンドウに飾りたいから」と言うので
結局ハルノちゃんの描いた龍の絵はインドのコルカタで高級ホテルのホテルマンとして働きながらも自営で数々の事業を興しているジェリーというオッチャンのものになりました(^ε^)
そんなうちに一人の男の子がノートの用紙にハルノちゃんの龍を真似た絵を描いてくれました。
「これ、くれる?」
これはハルノちゃんへお届け。
こうして日本からインドへ、書き初め大会が意外な形で縁を紡いできました。
この一つだけではありません。
つづきはまた次回
書いた瞬間に世界中どこからだってレスポンスできちゃうtwitterやfacebookに馴染んでしまうとじっくりブログを書く事のリズムが掴めないのです。
しかも私ってば書けばダラダラ長いし。
これまでの面白い事、ワッと驚く事、
沢山の書くべき事を逃してしまいました。
日々、ついつい目の前の短期間で答えを出す事ばかりに執心してしまうけど
何年ものブログはたまには振り返ると山の上から大河の流れのような大きな景色を見せてくれるのかもしれません。
もとい。
2011年2月12日(土)の朝市の後に、竹村さんのビニールハウスで書き初め大会をやりました。
お習字の先生のツチヤさんもいるし、染色家のヨシザワさんもいる。
コレだ!と、絶対やりたいコラボですが
一般的には以前の「びにーるはうすde美術館」ほどのインパクトがないのも分かってました。
私の思いつきを叶えていただくのに周りの方々に無理に細々した事をお願いするわけにも行かず、
結局いつものように最後には中井さんに様々お世話になり本当に申し訳ないです。
今回はランチに地元栗東の鶏農家の中辻さんの卵かけごはん、
その中辻さんの卵で料理大好きのミサコちゃんにケーキとクッキーを作ってもらいました。
今回、手ぬぐいを半紙代わりに好きな言葉を書いて、それで一年間のお米作りの汗拭きにしようと思い、洗っても落ちない方法を染色家のヨシザワさんのお家にお邪魔したり、わが家においでいただいたり、何度も試して、薬剤や手ぬぐいの入手にも沢山沢山お世話になりました。
前日に大雪が降りました。
私は雨女。
やっぱりなー、とガッカリでしたが
当日はピッカピカに晴れて、ビニールハウスは暑いくらいでした。
準備した手ぬぐいの他にも、マキゾーさんやびにーるはうすの竹村さんは看板用に木の板をご用意されて、おお、そんな手もあったのね、と嬉しくなりました。
ヨシザワさんがご好意で手ぬぐいに柿渋染めしたのを用意下さったり、
ツチヤさんが準備下さった篆刻用の石は即完売でした。
柿渋で染めた布に書くと古紙に書いたような味のある文字になるし、
ペンや錐の先でキリキリ削った篆刻印で文字が作品としてグッと締まります。
その中で、意外な才能発見!!
中学生のハルノちゃん、絵がめちゃめちゃ上手い!!
最初にボタッと墨が落ちたのを利用して龍の目玉にしてもの凄く立派な昇り龍をサラサラ~と描いたのでした。
みんなでオオ~!!と大絶賛。
ご本人は「え~、そおかな~、ありがと~」っといたって軽やかなのですが
周りは皆で大興奮。
ツチヤさんは緑と金の墨で色塗りコラボされるし、
私はマキゾーさんに頼んで裏に竹ヒゴを貼って凧にしました。
そして、ハルノちゃんに「インドに持って行って子供達にプレゼントする」と約束して
その絵をいただきました。
その凧の行方をご報告。
インドのコルカタのマザーハウスの遺した施設でボランティアするツアーに毎年参加しています。
いつも私が行くプレムダンと言う施設で一緒だった韓国人1人と日本人3人の大学生を誘って
子供達に持って行く前に練習しとこ、と近くのメイデンという広い公園に行きました。
誰もが子供の時にやったであろう凧揚げ。
しかも日韓の高学歴の英知を持ってして、、、、
凧は上がりませんでした((iДi)
通りかかったインドの人たちが、「そんな縦長のサイズじゃ難しいよ」と。
まあな。
でも、時にチャイを飲み、走り回り、たまたま縁あってひと時を共にした皆で何かを作り上げようとする楽しい時間でした。。
帰り道、グラウンドでクリケットしてる人に打ち方を教えてもらったり、
屋外でバレーボール大会してるのに飛び入りで勝手に応援団したり
いや~、燃えたね~
翌日、NGO運営の学校へ。グランドで凧揚げに再トライ。
私たちのインドでのナビゲーター、ジェリーが「まかせとけ」というので
任せたけど、やっぱりアキませんでしたわ。
そのうち絵が破れて来たので裏からテープを貼って、普通に絵としてもらってもらうことにしました
すると、ジェリーが「ボクにくれ。車のリアウィンドウに飾りたいから」と言うので
結局ハルノちゃんの描いた龍の絵はインドのコルカタで高級ホテルのホテルマンとして働きながらも自営で数々の事業を興しているジェリーというオッチャンのものになりました(^ε^)
そんなうちに一人の男の子がノートの用紙にハルノちゃんの龍を真似た絵を描いてくれました。
「これ、くれる?」
これはハルノちゃんへお届け。
こうして日本からインドへ、書き初め大会が意外な形で縁を紡いできました。
この一つだけではありません。
つづきはまた次回
滋賀県人権センターの山口さんはお仕事がらみ以上に個人的にも日韓の色んな人との繋がりの玉手箱みたいなオッチャンです。
毎年韓国にスタディツアーを主催してますが、滋賀県らしく(?)大きくお知らせされる事も無いので私も参加した事がありません。
それでもツアーの訪問先への連絡で私が電話通訳した事もあり、今日もその件で人権センターで山口さんにお会いしました。
慶尚北道義城郡信楽里の信楽農園に電話して当日の宿や交流会の打ち合わせ。
「ま~、来てからなんとでもなりますから~、来てから考えましょう~」
「ケンチャナ(大丈夫)精神」に則った大らかな打ち合わせ終了。
でも、このツアー、すごく面白そう。
最近私が行きたかったところばかり。
あぁ、行きたいなぁ~~
山口さんと色々話してたうちに、韓国語サークルで制作した「ハングル紙芝居」を
「ぜひ、やって下さい!」との事。
サークルの紙芝居メンバーじゃない人でも参加してみたい方、一緒にいかがですか?
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
日時:3/6(日) ~3/9(水)
訪問先:
3/6 慶州ナザレ園
慶州ナザレ園は慶尚北道慶州市にある施設。1945年の終戦後、朝鮮半島に取り残された日本人女性の唯一の避難場所を目的として設置されたが、日本に見請け人のいない日本人女性が帰国できずに施設に残り、やがて養老院になっていきました。現在のナザレ園を訪ねてその歴史、現状に学びます。
→ナザレ園ホームページ
慶州泊
3/7 慶尚北道義城郡信楽里 信楽(シンラク)農園
韓国のハンセン病回復者が自立した生活を目ざす為に建設したコミュニティです。1961年から進められた韓国政府のハンセン病定着村政策は広がり全国に100カ所を超える定着村が作られました。そこに住む人たちは養鶏、養豚、農業などをして地域との関わりを持ちながら生活しています。信楽農園の高永根さん(定着村全国組織の理事)からお話を聞き、夕食と交流会をします。
信楽里ホームステイ
3/8 ソウル 平倉洞(ピョンチャンドン)希望製作所
市民の為のシンクタンクとして2006年に設立された希望製作所。スタッフは現在30名でホームレスや生活保護者の人たちで内装会社を立ち上げたり、就労困難者の就労支援(社会的企業)やアート、リサイクル製品の製造販売などの活動をしています。活動の状況や韓国の就労困難者を取り巻く課題について学びます。
→日本希望製作所ホームページ
ソウル泊
3/9 ソウル 自由行動 帰国
費用:実費
元々参加の方達は飛行機代、ホテル代、予約、金額とも決まってますが、
これから参加する私、どらここルートの参加者は何も決まってません。
安く行けるかは私たち次第。
でも、豪華な観光旅行以上の充実感と面白さは間違いなくあると思います!
希望される方は2/11までにどらここまでご連絡下さい。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
今回行けない方も山口さんが来年はもっと余裕を持って皆さんにお知らせできる韓国スタディツアーを企画してくれるそうです~♪
毎年韓国にスタディツアーを主催してますが、滋賀県らしく(?)大きくお知らせされる事も無いので私も参加した事がありません。
それでもツアーの訪問先への連絡で私が電話通訳した事もあり、今日もその件で人権センターで山口さんにお会いしました。
慶尚北道義城郡信楽里の信楽農園に電話して当日の宿や交流会の打ち合わせ。
「ま~、来てからなんとでもなりますから~、来てから考えましょう~」
「ケンチャナ(大丈夫)精神」に則った大らかな打ち合わせ終了。
でも、このツアー、すごく面白そう。
最近私が行きたかったところばかり。
あぁ、行きたいなぁ~~
山口さんと色々話してたうちに、韓国語サークルで制作した「ハングル紙芝居」を
「ぜひ、やって下さい!」との事。
サークルの紙芝居メンバーじゃない人でも参加してみたい方、一緒にいかがですか?
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
日時:3/6(日) ~3/9(水)
訪問先:
3/6 慶州ナザレ園
慶州ナザレ園は慶尚北道慶州市にある施設。1945年の終戦後、朝鮮半島に取り残された日本人女性の唯一の避難場所を目的として設置されたが、日本に見請け人のいない日本人女性が帰国できずに施設に残り、やがて養老院になっていきました。現在のナザレ園を訪ねてその歴史、現状に学びます。
→ナザレ園ホームページ
慶州泊
3/7 慶尚北道義城郡信楽里 信楽(シンラク)農園
韓国のハンセン病回復者が自立した生活を目ざす為に建設したコミュニティです。1961年から進められた韓国政府のハンセン病定着村政策は広がり全国に100カ所を超える定着村が作られました。そこに住む人たちは養鶏、養豚、農業などをして地域との関わりを持ちながら生活しています。信楽農園の高永根さん(定着村全国組織の理事)からお話を聞き、夕食と交流会をします。
信楽里ホームステイ
3/8 ソウル 平倉洞(ピョンチャンドン)希望製作所
市民の為のシンクタンクとして2006年に設立された希望製作所。スタッフは現在30名でホームレスや生活保護者の人たちで内装会社を立ち上げたり、就労困難者の就労支援(社会的企業)やアート、リサイクル製品の製造販売などの活動をしています。活動の状況や韓国の就労困難者を取り巻く課題について学びます。
→日本希望製作所ホームページ
ソウル泊
3/9 ソウル 自由行動 帰国
費用:実費
元々参加の方達は飛行機代、ホテル代、予約、金額とも決まってますが、
これから参加する私、どらここルートの参加者は何も決まってません。
安く行けるかは私たち次第。
でも、豪華な観光旅行以上の充実感と面白さは間違いなくあると思います!
希望される方は2/11までにどらここまでご連絡下さい。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
今回行けない方も山口さんが来年はもっと余裕を持って皆さんにお知らせできる韓国スタディツアーを企画してくれるそうです~♪
2010年のクリスマスを岡山の長島愛生園で過ごした帰りに私ら一行が超たのしみにしてたのが、
「かきおこ」
静かな日生(ひなせ)でB級グルメの大会「B1グランプリ」に出品されたと、
町中のお好み焼き屋に熱く熱く登りや看板が出ていたのでした。
私は24歳まで牡蠣がキモチ悪くて嫌いで家でカキフライの日も私だけはキャベツだけに喜んで甘んじていたのに
大阪に住んでいる時にスーパー「ライフ」で殻付きの牡蠣を見た時に食べられそうな気がして
家でレモンを絞って食べて以来牡蠣好きに。
その後、とある店で牡蠣に当って七転八倒の苦しみを経てなお牡蠣大好きに。
産業の少ない日生はタクシーの運転手もオバちゃんに当る率が高く、しかも「これだけでは食べて行けないから」と、牡蠣むきのパートにも行っていらっしゃるそうです。
そんなタクシーの運転手のオバちゃんお勧めの「かきおこ」の店。「もりした」
「日曜日だからかなり並んでるかも」とタクシーのオバちゃん。
8人待ちぐらいで、しかも私たちも11人なので順番を待って鉄板の前に。
わくわく。
牡蠣1.5倍で1200円也。
牡蠣が溢れんばかりにいっぱいで、半分に割ってあり、お好み焼きソースと醤油の2種類を注文。
オジさんのお勧めは醤油なんですが、お好み焼きソースになれているのに醤油を頼むのは勇気がいる事。
それで、オジさんは半分は醤油にしてはどうですか?とお勧めしてくれてるのでした。
醤油に、山椒を振りかける。
ビンゴ!
お好み焼きソース派だったけど、これからは醤油+山椒!!
すごく美味しい。
「もりした」は元々は本屋さん。
この立地で本屋さんとはちょっと厳しそう。
お好み焼き屋の建物の半分はまだ本屋さんの面影がありました。
人気のお好み屋さんになり、オジさんは
「体力的にはしんどいけど」と鉄板は休む間もありません。
引きも切らずにお客さんが訪れるのはきっと転職は英断だった言えるのかもしれません。
柔らかめの生地をゆっくり固めて行く「もりした」のお好み焼きのようにオジさんも穏やかで地に足の着いた感じがしました。
地元の特産が今後の日生の街の産業の命運をにぎっているのかも。
そう思うほど、静かな岡山県日生の海辺の街でした。
このお好み焼き食べに岡山まで行くのも全然あり!
そして春以降、牡蠣のシーズンが終わったら「エビオコ」だそうで、
それも楽しみ♪
愛生園のおじいちゃんおばあちゃん達にも会いたいし、
「カキオコ」「エビオコ」も楽しみ!
「かきおこ」
静かな日生(ひなせ)でB級グルメの大会「B1グランプリ」に出品されたと、
町中のお好み焼き屋に熱く熱く登りや看板が出ていたのでした。
私は24歳まで牡蠣がキモチ悪くて嫌いで家でカキフライの日も私だけはキャベツだけに喜んで甘んじていたのに
大阪に住んでいる時にスーパー「ライフ」で殻付きの牡蠣を見た時に食べられそうな気がして
家でレモンを絞って食べて以来牡蠣好きに。
その後、とある店で牡蠣に当って七転八倒の苦しみを経てなお牡蠣大好きに。
産業の少ない日生はタクシーの運転手もオバちゃんに当る率が高く、しかも「これだけでは食べて行けないから」と、牡蠣むきのパートにも行っていらっしゃるそうです。
そんなタクシーの運転手のオバちゃんお勧めの「かきおこ」の店。「もりした」
「日曜日だからかなり並んでるかも」とタクシーのオバちゃん。
8人待ちぐらいで、しかも私たちも11人なので順番を待って鉄板の前に。
わくわく。
牡蠣1.5倍で1200円也。
牡蠣が溢れんばかりにいっぱいで、半分に割ってあり、お好み焼きソースと醤油の2種類を注文。
オジさんのお勧めは醤油なんですが、お好み焼きソースになれているのに醤油を頼むのは勇気がいる事。
それで、オジさんは半分は醤油にしてはどうですか?とお勧めしてくれてるのでした。
醤油に、山椒を振りかける。
ビンゴ!
お好み焼きソース派だったけど、これからは醤油+山椒!!
すごく美味しい。
「もりした」は元々は本屋さん。
この立地で本屋さんとはちょっと厳しそう。
お好み焼き屋の建物の半分はまだ本屋さんの面影がありました。
人気のお好み屋さんになり、オジさんは
「体力的にはしんどいけど」と鉄板は休む間もありません。
引きも切らずにお客さんが訪れるのはきっと転職は英断だった言えるのかもしれません。
柔らかめの生地をゆっくり固めて行く「もりした」のお好み焼きのようにオジさんも穏やかで地に足の着いた感じがしました。
地元の特産が今後の日生の街の産業の命運をにぎっているのかも。
そう思うほど、静かな岡山県日生の海辺の街でした。
このお好み焼き食べに岡山まで行くのも全然あり!
そして春以降、牡蠣のシーズンが終わったら「エビオコ」だそうで、
それも楽しみ♪
愛生園のおじいちゃんおばあちゃん達にも会いたいし、
「カキオコ」「エビオコ」も楽しみ!
先月のクリスマスに岡山の長島愛生園に行きました。
韓国出身の患者さんが島の道路工事に大きく貢献した事で彼の日本名「一朗」を残した一朗道の碑。
前回は2年前の夏の暑い暑い日に
ここに20年近く通っている京都で人の出会いの講座を主宰している論楽社の虫賀さんに連れて行ってもらいました。
長島愛生園はハンセン病患者の隔離島でした。
今は橋がありますが、長い間船がなければ出られない孤島でした。
この島に連れて来られた患者は幼い子供といえども容赦なく「らい病病み」の現実にさらされました。
家族との縁は切られ、この島に連れて来られた後、二度と故郷には戻れませんでした。
消毒液に漬けられ、所有物は取り上げられ、強制労働と集団生活を強いられました。
戦時中の物資が乏しい中で病人でありながら虐待と餓えで沢山の子供が死んでゆき
絶望で海に身を投げる人も沢山いました。
ここは療養でなく監獄の島。
治療法はあったにも関わらず正しい治療はされずに患者さんたちは「わずらった事の罰」を受けながら人生を生き抜いて来た「サバイバー」なのです。
長島愛生園の元患者さんもかつては1300人以上いましたが今では三百人程度で平均年齢が80歳を超えています。
部屋の多くが空き部屋になって、取り壊しになった建物もあります。
高齢の元患者さんたちが島を散歩する事も少なく、自然がいっぱいの静かな静かな美しい島です。
前回と変わった事は食事の提供が無くなった事です。
一食あたりのごはんの量が恐ろしいくらい多く1食分を、夜、朝、昼にお持ち帰りのおにぎりにしてもまだ余るほど無駄に多いごはんの量は、かつて餓えで苦しんだ患者さん達が闘って勝ち取ったものなのです。
とはいえ、患者さん自身も訪問者も食べきれるものでなく、縮小していく施設規模にあわせて食事の提供もついに無くなったのです。
そして、もう一つ前回と変わった事。
近藤宏一さんがもう居ない事です。
近藤さんが無くなった事を新聞の死亡欄で知り、
近藤さんが生きているうちにお会いできて良かった、
全盲の患者達の「青い鳥楽団」を率いていた近藤さんの素晴らしいハーモニカの演奏を聴かせてもらって良かった、
本当によかった。
今回も虫賀さんの旧知の患者さんの宇佐見さん、キムさん、阿部さんとカネ子さんを訪ねました。
鋭く激しい「闘士」と虫賀さんが呼んでいた宇佐見さん。
80歳を超えて今では「だいぶ丸くなった」と宇佐見さんの老いを感じて虫賀さんは寂しさを隠せません。
キムさんは私の事を覚えていてくれました。
キムさん84歳!?若っ!!
キムさんは11歳で韓国から日本に来ました。
植民地時代の日本語教育の中で育った為、日本語には当初から困らなかったそうですが
病と民族差別の二重の差別の中で生きて来られた事でしょう。
キムさんは今でもとてもハンサムで若い時はきっとモテたでしょうね。
人生のほとんどを日本で生きて来たにもかかわらず今でも完璧な韓国語で私とキムさんはお話しできるのが嬉しい。
韓国の兄弟さんが送ってくれると言う韓国のカップラーメンをごちそうしていただいて寒い中歩いて来た私たちは心も体もポカポカ。
翌朝、島の教会のクリスマスミサに参加しました。
聖書とか賛美歌とか主の祈りとか久しぶりだなー。
患者さんの隣に座って歌い、祈りました。
既に沢山とは言えない数とはいえ、ここに自力で、または車の送迎でも参加できる患者さんは「よっぽど元気な人」なのでしょう。
島の中に80年前に患者さん達が連行されて島に上陸した桟橋がありますが、
今にも崩れそうです。
立っていられないほどの強風が海から吹き付けます。
愛生園の不思議スペース。体育館の舞台上に休憩場所を揃えたら、舞台装置みたい。
最初に収容された建物は修繕されたようで、もうちょっとリフォームすればオシャレなカフェになりそう。
ここが、その「地獄」だった場所
子供達が集団生活をさせられた建物は既になく、今は木々がそよぐのどかな場所を虫賀さんが
「ここはかつて地獄だった」と言いました。
今回、私は訪れた元患者さん達みんなと記念撮影して握手をしました。
「また来ますね。お元気で」とお別れしましたが、
もう次回は無いかもしれないからです。
島には桜やヤマモモの木が沢山。
モミジも沢山散っていて少し早く来ていればさぞ美しかった事でしょう。
でも、人でにぎわうのは最近は夏祭りぐらいだと言います。
この島を訪れる人もどんどん少なくなっています。
元患者さんたちの中でもこの療養所の将来は20年以上も議論されて来ましたが
結論もでないままもうどうしたらいいのか判らない状態です。
10年先には本当に少数の「要介護老人」しか残らないでしょう。
この島はどうなって行くのでしょう。
この島に家があったらいいなぁ、今ある空き家でも住めたらいいのになぁ。
ライフラインありの橋付きの無人島が住宅になったらあっという間に別荘も増えそうです。
寂しいような、寂しいような。
阿部さんとカネ子さんご夫婦は引っ越しの真っ最中。
人の少なくなった棟から介護しやすい中央の棟に患者さんを集めているのです。
目もよく見えないカネ子さんですが、お茶やおやつを出してくれて、
「私、冗談ばっかり言って笑ってるのが大好きなのよ~」ホホホと笑うカネ子さんが
抱きしめたいくらい愛おしい。
カネ子さん、カワイイ。
阿部さん優しい。
私は自分が本当にのんきで幸せな人生を歩いて来たのだとつくづく思います。
人間性を否定される事を「理不尽」と認めてくれる場所で生きて来れた。
存在を抹殺されて生きて来た人たちの、今のぴかぴかの笑顔の存在感を残したいんです。
だから、みんなで記念撮影。
次も、その次の再会も、ある事を祈って。
宇佐見さん、元気でね
韓国出身の患者さんが島の道路工事に大きく貢献した事で彼の日本名「一朗」を残した一朗道の碑。
前回は2年前の夏の暑い暑い日に
ここに20年近く通っている京都で人の出会いの講座を主宰している論楽社の虫賀さんに連れて行ってもらいました。
長島愛生園はハンセン病患者の隔離島でした。
今は橋がありますが、長い間船がなければ出られない孤島でした。
この島に連れて来られた患者は幼い子供といえども容赦なく「らい病病み」の現実にさらされました。
家族との縁は切られ、この島に連れて来られた後、二度と故郷には戻れませんでした。
消毒液に漬けられ、所有物は取り上げられ、強制労働と集団生活を強いられました。
戦時中の物資が乏しい中で病人でありながら虐待と餓えで沢山の子供が死んでゆき
絶望で海に身を投げる人も沢山いました。
ここは療養でなく監獄の島。
治療法はあったにも関わらず正しい治療はされずに患者さんたちは「わずらった事の罰」を受けながら人生を生き抜いて来た「サバイバー」なのです。
長島愛生園の元患者さんもかつては1300人以上いましたが今では三百人程度で平均年齢が80歳を超えています。
部屋の多くが空き部屋になって、取り壊しになった建物もあります。
高齢の元患者さんたちが島を散歩する事も少なく、自然がいっぱいの静かな静かな美しい島です。
前回と変わった事は食事の提供が無くなった事です。
一食あたりのごはんの量が恐ろしいくらい多く1食分を、夜、朝、昼にお持ち帰りのおにぎりにしてもまだ余るほど無駄に多いごはんの量は、かつて餓えで苦しんだ患者さん達が闘って勝ち取ったものなのです。
とはいえ、患者さん自身も訪問者も食べきれるものでなく、縮小していく施設規模にあわせて食事の提供もついに無くなったのです。
そして、もう一つ前回と変わった事。
近藤宏一さんがもう居ない事です。
近藤さんが無くなった事を新聞の死亡欄で知り、
近藤さんが生きているうちにお会いできて良かった、
全盲の患者達の「青い鳥楽団」を率いていた近藤さんの素晴らしいハーモニカの演奏を聴かせてもらって良かった、
本当によかった。
今回も虫賀さんの旧知の患者さんの宇佐見さん、キムさん、阿部さんとカネ子さんを訪ねました。
鋭く激しい「闘士」と虫賀さんが呼んでいた宇佐見さん。
80歳を超えて今では「だいぶ丸くなった」と宇佐見さんの老いを感じて虫賀さんは寂しさを隠せません。
キムさんは私の事を覚えていてくれました。
キムさん84歳!?若っ!!
キムさんは11歳で韓国から日本に来ました。
植民地時代の日本語教育の中で育った為、日本語には当初から困らなかったそうですが
病と民族差別の二重の差別の中で生きて来られた事でしょう。
キムさんは今でもとてもハンサムで若い時はきっとモテたでしょうね。
人生のほとんどを日本で生きて来たにもかかわらず今でも完璧な韓国語で私とキムさんはお話しできるのが嬉しい。
韓国の兄弟さんが送ってくれると言う韓国のカップラーメンをごちそうしていただいて寒い中歩いて来た私たちは心も体もポカポカ。
翌朝、島の教会のクリスマスミサに参加しました。
聖書とか賛美歌とか主の祈りとか久しぶりだなー。
患者さんの隣に座って歌い、祈りました。
既に沢山とは言えない数とはいえ、ここに自力で、または車の送迎でも参加できる患者さんは「よっぽど元気な人」なのでしょう。
島の中に80年前に患者さん達が連行されて島に上陸した桟橋がありますが、
今にも崩れそうです。
立っていられないほどの強風が海から吹き付けます。
愛生園の不思議スペース。体育館の舞台上に休憩場所を揃えたら、舞台装置みたい。
最初に収容された建物は修繕されたようで、もうちょっとリフォームすればオシャレなカフェになりそう。
ここが、その「地獄」だった場所
子供達が集団生活をさせられた建物は既になく、今は木々がそよぐのどかな場所を虫賀さんが
「ここはかつて地獄だった」と言いました。
今回、私は訪れた元患者さん達みんなと記念撮影して握手をしました。
「また来ますね。お元気で」とお別れしましたが、
もう次回は無いかもしれないからです。
島には桜やヤマモモの木が沢山。
モミジも沢山散っていて少し早く来ていればさぞ美しかった事でしょう。
でも、人でにぎわうのは最近は夏祭りぐらいだと言います。
この島を訪れる人もどんどん少なくなっています。
元患者さんたちの中でもこの療養所の将来は20年以上も議論されて来ましたが
結論もでないままもうどうしたらいいのか判らない状態です。
10年先には本当に少数の「要介護老人」しか残らないでしょう。
この島はどうなって行くのでしょう。
この島に家があったらいいなぁ、今ある空き家でも住めたらいいのになぁ。
ライフラインありの橋付きの無人島が住宅になったらあっという間に別荘も増えそうです。
寂しいような、寂しいような。
阿部さんとカネ子さんご夫婦は引っ越しの真っ最中。
人の少なくなった棟から介護しやすい中央の棟に患者さんを集めているのです。
目もよく見えないカネ子さんですが、お茶やおやつを出してくれて、
「私、冗談ばっかり言って笑ってるのが大好きなのよ~」ホホホと笑うカネ子さんが
抱きしめたいくらい愛おしい。
カネ子さん、カワイイ。
阿部さん優しい。
私は自分が本当にのんきで幸せな人生を歩いて来たのだとつくづく思います。
人間性を否定される事を「理不尽」と認めてくれる場所で生きて来れた。
存在を抹殺されて生きて来た人たちの、今のぴかぴかの笑顔の存在感を残したいんです。
だから、みんなで記念撮影。
次も、その次の再会も、ある事を祈って。
宇佐見さん、元気でね
2泊3日の韓国語サークル修学旅行を釜山にてお見送りして
姪のせんちゃんを連れてポハンへ。
地下鉄で終点のノポドンの市外バスターミナルから1時間半のバスの旅。
到着バスターミナルで待ってくれてたオトコマエ2人は
6、7年ほど前に通訳の仕事で知り合った元サッカー選手達。
その仕事を降りてから会う機会は無くなったけど
時々電話で消息を伝えあっていました。
元気?の次の「いい知らせ(=ケッコン)はないのか?」との問いに私は
微動だにせず「ナイ」の一言で
私の生活はこの5年でそれほど変わった事もないのだけれど
韓国の彼らの状況は大きく変わっていました。
日本に来日する彼らとあしかけ3年ほど仕事で会う中で
プライベートでも遊びに行ったりして、彼らの地元ポハンと言う小さな海辺の街を訪れるのは5回目。
こんなに仲良くなったのは、なんといっても選手の奥さんでかつ超難関の基準を合格したサッカーの国際審判であるスーパーウーマン、ウンジンさんと仲良しになったから。
ウンジンさんがいなければオトコばっかりの選手に会いに行く事はなかったと思います。
男性選手の試合の審判も当然のようにこなし、ふがいないと試合後に檄を飛ばすカッコいい姉御。
ご主人は年下で元国家代表選手。
ご主人にとっても男らしい姉御な奥さま。
チビな私と並んだ写真はまるで大人と子供なのに私の方がたった1歳年上なだけで
ウンジンさんは律儀に私を姉扱いしてくれるのでした。
私は仕事で関わってもサッカーに全く関心がなく、
選手、監督みんなサッカーしか興味ない人たち。
本当に彼らは朝から晩まで仕事を除いては常にサッカーについて話してる。
サッカーの話しかしてない。
そんな中に私がなんの不自然もなく混じっているのが不思議。
みんなで朝からサッカー、夜遅くまで食べて飲んで。
私も混じってワイワイやってたあの時って本当に大人の青春だったなぁ
キラキラしてたなぁって思い出すのはどうやら私だけじゃないよう。
でも、もう2度とあのメンバーが集まる事はないでしょう。
選手達の状況の変化はウンジンさん夫婦から始まりました。
娘の教育の為に家族でアメリカに旅立って行きました。
韓国では子供の教育の為の海外移住が大流行りです。
急な知らせに急遽送別にポハンに行って来ました。
それ以来、忙しいだろうと思い連絡もとりませんでした。
ホさんは私が「お兄さん」と呼ぶ親しくしている人で、この人も国家代表選手でした。
とても謙虚で優しい人です。
ヤンさんはとてもハンサムで絶対女の人にモテると思いますが要領がいいのか?男同士の付き合いもいいので男友達からの信頼も篤い人。
チームの中でいまもずっと連絡をとってるのがこの二人です。
5年ぶりに再会だけどああ、全然変わってない。
ポハンにも海の見える高台にこんなオシャレなカフェが!!
ホさんは私を気遣うばかりで自分の事はあまり話さないけど、
ヤンさんは仕事が大変だったり、夫婦関係が危機だったり、そんな時によく電話をしてくる。
今では話題がサッカーよりも子育て中心なのが感慨深い。
でも、やっぱウンジンさんがいたらなぁ。
突っ込みがいないボケばかりのお笑いグループのような。
なんだかお互い気を使っちゃうカンジ。
昔はなかったポハン製鉄poscoの夜のライトアップは遊園地みたい!
翌日、一日せんちゃんと慶州を観光してまたポハンのホテルに帰り、
トイレで用を足してると玄関チャイムがピンポン~。
せんちゃんが戸を開け、
私は手を洗って出た出会いがしらにヤンさんが
「なんで電話せえへんねーん!」とズカズカ入って来た。
やっべーーーーー!!!
韓国の地方の観光ホテル、と名のつかない「ホテル」というのはラブホも兼ねているので造りがラブホです。
私たちが泊まったホテルは日本選手が来韓したときも泊まりました。
歯ブラシ、ドライヤー、シャンプーなどちゃんと常備されていて
インターネットもできて壁には大きなテレビが。
とても快適だけどバスルームへの扉がなくてトイレはガラス張り。
ホテルの窓からベッドに座ったままでこんなに美しい海からの日の出が臨める。
1泊50000ウォン(約4000円)。
あと30秒ヤンさんが早く来てたら恐ろしい事になっていた。
そして、「いや~、トイレ行ってから電話しようと思ってたんよ~」とさりげなくバスルームの入り口に干したパンツを奥に押し込んだ。
日本ででもヤンさんが「なんでさっき電話出えへんかってん~!」という私の答えは
「私がトイレ入ってる時に電話せんといてくれる?」。
こんなだから誰が見ても男前のヤンさんとも全く色気のある付き合いが出来ない。
ベットに座り込んでポチポチ色んな話をする。
「年取ったよね」とお互いフフフと笑える、今ではそんな友達になれました。
ふいにヤンさんが携帯でウンジンさんに電話してくれました。
帰国して今はソウルに住んでいるらしい。
急な事に何を話したらいいのかしらと慌てたけれど、
「オンニ~(おねえさん)!会いたいよ!今からソウルに来てよ!!」
そう言ってくれたウンジンさんにジンと来てしまいました。
弟分だったヤンさんとも久しぶりの通話だったらしくお互いの近況を話してました。
次はウンジンさんに会いたい。
韓国語を一から勉強して20年。
韓国で韓国人の誰かとこうして友達としての年月を重ねられた事は本当に幸せな事だと思います。
そして、長く友達でいる人はなぜだか出会った時には私と全然合いそうにないタイプばっかりだったりするんです。
ヤンさんが「僕がポハンに来た20代の初めからまったく変わってない」という行きつけのお店のタコ鍋。
辛いもん好きのせんちゃん一押し。
姪のせんちゃんを連れてポハンへ。
地下鉄で終点のノポドンの市外バスターミナルから1時間半のバスの旅。
到着バスターミナルで待ってくれてたオトコマエ2人は
6、7年ほど前に通訳の仕事で知り合った元サッカー選手達。
その仕事を降りてから会う機会は無くなったけど
時々電話で消息を伝えあっていました。
元気?の次の「いい知らせ(=ケッコン)はないのか?」との問いに私は
微動だにせず「ナイ」の一言で
私の生活はこの5年でそれほど変わった事もないのだけれど
韓国の彼らの状況は大きく変わっていました。
日本に来日する彼らとあしかけ3年ほど仕事で会う中で
プライベートでも遊びに行ったりして、彼らの地元ポハンと言う小さな海辺の街を訪れるのは5回目。
こんなに仲良くなったのは、なんといっても選手の奥さんでかつ超難関の基準を合格したサッカーの国際審判であるスーパーウーマン、ウンジンさんと仲良しになったから。
ウンジンさんがいなければオトコばっかりの選手に会いに行く事はなかったと思います。
男性選手の試合の審判も当然のようにこなし、ふがいないと試合後に檄を飛ばすカッコいい姉御。
ご主人は年下で元国家代表選手。
ご主人にとっても男らしい姉御な奥さま。
チビな私と並んだ写真はまるで大人と子供なのに私の方がたった1歳年上なだけで
ウンジンさんは律儀に私を姉扱いしてくれるのでした。
私は仕事で関わってもサッカーに全く関心がなく、
選手、監督みんなサッカーしか興味ない人たち。
本当に彼らは朝から晩まで仕事を除いては常にサッカーについて話してる。
サッカーの話しかしてない。
そんな中に私がなんの不自然もなく混じっているのが不思議。
みんなで朝からサッカー、夜遅くまで食べて飲んで。
私も混じってワイワイやってたあの時って本当に大人の青春だったなぁ
キラキラしてたなぁって思い出すのはどうやら私だけじゃないよう。
でも、もう2度とあのメンバーが集まる事はないでしょう。
選手達の状況の変化はウンジンさん夫婦から始まりました。
娘の教育の為に家族でアメリカに旅立って行きました。
韓国では子供の教育の為の海外移住が大流行りです。
急な知らせに急遽送別にポハンに行って来ました。
それ以来、忙しいだろうと思い連絡もとりませんでした。
ホさんは私が「お兄さん」と呼ぶ親しくしている人で、この人も国家代表選手でした。
とても謙虚で優しい人です。
ヤンさんはとてもハンサムで絶対女の人にモテると思いますが要領がいいのか?男同士の付き合いもいいので男友達からの信頼も篤い人。
チームの中でいまもずっと連絡をとってるのがこの二人です。
5年ぶりに再会だけどああ、全然変わってない。
ポハンにも海の見える高台にこんなオシャレなカフェが!!
ホさんは私を気遣うばかりで自分の事はあまり話さないけど、
ヤンさんは仕事が大変だったり、夫婦関係が危機だったり、そんな時によく電話をしてくる。
今では話題がサッカーよりも子育て中心なのが感慨深い。
でも、やっぱウンジンさんがいたらなぁ。
突っ込みがいないボケばかりのお笑いグループのような。
なんだかお互い気を使っちゃうカンジ。
昔はなかったポハン製鉄poscoの夜のライトアップは遊園地みたい!
翌日、一日せんちゃんと慶州を観光してまたポハンのホテルに帰り、
トイレで用を足してると玄関チャイムがピンポン~。
せんちゃんが戸を開け、
私は手を洗って出た出会いがしらにヤンさんが
「なんで電話せえへんねーん!」とズカズカ入って来た。
やっべーーーーー!!!
韓国の地方の観光ホテル、と名のつかない「ホテル」というのはラブホも兼ねているので造りがラブホです。
私たちが泊まったホテルは日本選手が来韓したときも泊まりました。
歯ブラシ、ドライヤー、シャンプーなどちゃんと常備されていて
インターネットもできて壁には大きなテレビが。
とても快適だけどバスルームへの扉がなくてトイレはガラス張り。
ホテルの窓からベッドに座ったままでこんなに美しい海からの日の出が臨める。
1泊50000ウォン(約4000円)。
あと30秒ヤンさんが早く来てたら恐ろしい事になっていた。
そして、「いや~、トイレ行ってから電話しようと思ってたんよ~」とさりげなくバスルームの入り口に干したパンツを奥に押し込んだ。
日本ででもヤンさんが「なんでさっき電話出えへんかってん~!」という私の答えは
「私がトイレ入ってる時に電話せんといてくれる?」。
こんなだから誰が見ても男前のヤンさんとも全く色気のある付き合いが出来ない。
ベットに座り込んでポチポチ色んな話をする。
「年取ったよね」とお互いフフフと笑える、今ではそんな友達になれました。
ふいにヤンさんが携帯でウンジンさんに電話してくれました。
帰国して今はソウルに住んでいるらしい。
急な事に何を話したらいいのかしらと慌てたけれど、
「オンニ~(おねえさん)!会いたいよ!今からソウルに来てよ!!」
そう言ってくれたウンジンさんにジンと来てしまいました。
弟分だったヤンさんとも久しぶりの通話だったらしくお互いの近況を話してました。
次はウンジンさんに会いたい。
韓国語を一から勉強して20年。
韓国で韓国人の誰かとこうして友達としての年月を重ねられた事は本当に幸せな事だと思います。
そして、長く友達でいる人はなぜだか出会った時には私と全然合いそうにないタイプばっかりだったりするんです。
ヤンさんが「僕がポハンに来た20代の初めからまったく変わってない」という行きつけのお店のタコ鍋。
辛いもん好きのせんちゃん一押し。
私が韓国語の講師だからって韓国の地理に詳しいわけではないし、
私と一緒に行ったから韓国語が上手くなるわけではないので
サークルの皆さんと韓国に行った事がないワケなのですが
サークルを初めて8年。
初修学旅行。
最近では朝市の他でも、サークルの授業の一環で韓国料理作りの調理場を貸していただいたりですっかりおなじみになった中井さんご夫妻とカトリくん、そして私の母と中国から高校留学中の姪ッコそしてメンバーさんのお友達、てな約半数を韓国になじみがないメンバーが同行する事で韓国語サークルの皆さんに頑張ってもらおっかな、と相成りました。
出発当日からパスポート間違えて飛行機に乗れなかった中井さん伝説誕生。
手に汗にぎる伝説の中身は「もんぺおばさん」ブログに
夕方の便で来てくれて、翌朝からみんなと朝ご飯を食べ、お寺を歩き何事もなかったかのように
楽しんで、大変だったけどやっぱり来て下さってよかったなぁ、と思ったのでした。
買い物もしたし、ミュージカルも観た。焼肉やアワビ粥も食べたし、温泉チムジルパン(サウナ)も行った。
でも、どこがハイライトだったかと考えたら私には梵魚寺(ポモサ)かなぁ。
梵魚寺は昔来た事があって、「意外といい所」と記憶に残るお寺でした。
例えば京都の清水寺みたいなレジャーランドチックな意味じゃなく、
韓国の色彩や佇まい、自然の風景なんかが渋く残ってるところが。
多分、他のお寺とそう違いはないかもしれません。
でも、梵魚寺には安らぐ「気」が漂っているように思います。
アワビ粥を食べて地下鉄に乗り町中の雑踏を離れた梵魚寺駅から道を尋ねながら歩いて寺へ。
天気もよくて空気も澄んで、気持ちよい散歩道でした。
ちょうど紅葉のベストシーズン。
それでも人も多すぎなくていい感じ。
参拝客より途中から登山道へ入って行く登山客の方が目立ちました。
きゃ~♪カワイイ~!
手洗いのひしゃくからして絶対日本ではあり得ないキッチュさ。
山門もエメラルドグリーンを基調にきっと五行の色彩なのだと思うのだけれど
圧倒されるほど色とりどり。
瓦の奉納をみんなでお願い事を書きました。
といっても、欲望の深いあまりにこういう時に一つ何か書こうと思っても
その一つって思い浮かばないものだねぇ。
とりあえず、「またみんなで梵魚寺に来れますように」と書いてみました(つまんねえ)。
テンプルステイもやっているそうで、来年はテンプルステイで来たいねぇ♪と、
瓦やお茶のご奉仕をしてるアジュンマ(オバちゃん)たちに寺の事を尋ねたらとても嬉しそうに、誇らしそうに、お寺の話をしてくれました。
そんな梵魚寺が。。。。。!!
日テレさん、「ボンオ寺」じゃありませんったら。
こうして半月前にいい思い出を作った梵魚寺(ポモサ)の山門が全焼というショッキングなニュース。
あの立派な正門ではなくて、その奥の閉まっていて「入り口はあちら」と案内が置いてあった門の一つ。
地味だけどそれでも築300年だったそうです。
その前を私たちは何気なく通ったけれど、もう二度とお目にかかれないようになってしまったのです。
韓国ではこのニュースと同時に放火犯の推測も流れました。
真相は不明ですがキリスト教との宗教対立と。
根拠にされたのが釜山で最近行われたキリスト教のイベントで
熱狂の盛り上がりの中で牧師だか伝道師だかが
「寺社を滅ぼして下さい!」と祈りの声をあげたのです。
その会場の動画がネットで公開されていました。
実際に見て、耳を疑うとともに、梵魚寺が放火された事実以上に腹立たしく思いました。
宗教が日本と比べ物にならないくらい存在感の大きい韓国。
宗教間だけでなく宗派間でもバイオレンスな対立事件をよく見聞きし、何とも不思議で仕方がありませんでした。
むかしむかし、私の韓国在住中、「○年○月○日に地球が滅ぶ!」と終末思想で信徒と注目を集めた宗教団体もありました。
「んな事あるわけねえだろ」と思いながらも固唾をのんでその時間を見守りましたが
やっぱり何もなく、教祖はお金の持ち逃げ、どうせ世界は滅びるのだからと全財産を寄贈した信徒の嘆きはなんかの演劇かのような不思議すぎる顛末。。。
他の宗派の教会に放火した、、、ってなニュースは今に始まったものではありません。
でも、実際の映像で指導者自身の他宗教に対するあまりに非寛容な言動を見てしまい怒りが治まりません。
少しでも思いやりのある人間にこんな事が言えたもんだろうか?
来年、またサークルの皆さんと韓国に修学旅行するでしょうか。
その時にはまた梵魚寺に行ってみたいですね。
私はキリスト教徒でも仏教徒でもないですが、お寺には人々が築き上げた美意識がいっぱいに詰まっていてそれに対して素直に賞賛を捧げたいと思うのです。
韓国と関わると否が応でも宗教についても考える事が多くなります。
それも韓国といえばと、切り離せない一つの顔でもあります。
私と一緒に行ったから韓国語が上手くなるわけではないので
サークルの皆さんと韓国に行った事がないワケなのですが
サークルを初めて8年。
初修学旅行。
最近では朝市の他でも、サークルの授業の一環で韓国料理作りの調理場を貸していただいたりですっかりおなじみになった中井さんご夫妻とカトリくん、そして私の母と中国から高校留学中の姪ッコそしてメンバーさんのお友達、てな約半数を韓国になじみがないメンバーが同行する事で韓国語サークルの皆さんに頑張ってもらおっかな、と相成りました。
出発当日からパスポート間違えて飛行機に乗れなかった中井さん伝説誕生。
手に汗にぎる伝説の中身は「もんぺおばさん」ブログに
夕方の便で来てくれて、翌朝からみんなと朝ご飯を食べ、お寺を歩き何事もなかったかのように
楽しんで、大変だったけどやっぱり来て下さってよかったなぁ、と思ったのでした。
買い物もしたし、ミュージカルも観た。焼肉やアワビ粥も食べたし、温泉チムジルパン(サウナ)も行った。
でも、どこがハイライトだったかと考えたら私には梵魚寺(ポモサ)かなぁ。
梵魚寺は昔来た事があって、「意外といい所」と記憶に残るお寺でした。
例えば京都の清水寺みたいなレジャーランドチックな意味じゃなく、
韓国の色彩や佇まい、自然の風景なんかが渋く残ってるところが。
多分、他のお寺とそう違いはないかもしれません。
でも、梵魚寺には安らぐ「気」が漂っているように思います。
アワビ粥を食べて地下鉄に乗り町中の雑踏を離れた梵魚寺駅から道を尋ねながら歩いて寺へ。
天気もよくて空気も澄んで、気持ちよい散歩道でした。
ちょうど紅葉のベストシーズン。
それでも人も多すぎなくていい感じ。
参拝客より途中から登山道へ入って行く登山客の方が目立ちました。
きゃ~♪カワイイ~!
手洗いのひしゃくからして絶対日本ではあり得ないキッチュさ。
山門もエメラルドグリーンを基調にきっと五行の色彩なのだと思うのだけれど
圧倒されるほど色とりどり。
瓦の奉納をみんなでお願い事を書きました。
といっても、欲望の深いあまりにこういう時に一つ何か書こうと思っても
その一つって思い浮かばないものだねぇ。
とりあえず、「またみんなで梵魚寺に来れますように」と書いてみました(つまんねえ)。
テンプルステイもやっているそうで、来年はテンプルステイで来たいねぇ♪と、
瓦やお茶のご奉仕をしてるアジュンマ(オバちゃん)たちに寺の事を尋ねたらとても嬉しそうに、誇らしそうに、お寺の話をしてくれました。
そんな梵魚寺が。。。。。!!
日テレさん、「ボンオ寺」じゃありませんったら。
こうして半月前にいい思い出を作った梵魚寺(ポモサ)の山門が全焼というショッキングなニュース。
あの立派な正門ではなくて、その奥の閉まっていて「入り口はあちら」と案内が置いてあった門の一つ。
地味だけどそれでも築300年だったそうです。
その前を私たちは何気なく通ったけれど、もう二度とお目にかかれないようになってしまったのです。
韓国ではこのニュースと同時に放火犯の推測も流れました。
真相は不明ですがキリスト教との宗教対立と。
根拠にされたのが釜山で最近行われたキリスト教のイベントで
熱狂の盛り上がりの中で牧師だか伝道師だかが
「寺社を滅ぼして下さい!」と祈りの声をあげたのです。
その会場の動画がネットで公開されていました。
実際に見て、耳を疑うとともに、梵魚寺が放火された事実以上に腹立たしく思いました。
宗教が日本と比べ物にならないくらい存在感の大きい韓国。
宗教間だけでなく宗派間でもバイオレンスな対立事件をよく見聞きし、何とも不思議で仕方がありませんでした。
むかしむかし、私の韓国在住中、「○年○月○日に地球が滅ぶ!」と終末思想で信徒と注目を集めた宗教団体もありました。
「んな事あるわけねえだろ」と思いながらも固唾をのんでその時間を見守りましたが
やっぱり何もなく、教祖はお金の持ち逃げ、どうせ世界は滅びるのだからと全財産を寄贈した信徒の嘆きはなんかの演劇かのような不思議すぎる顛末。。。
他の宗派の教会に放火した、、、ってなニュースは今に始まったものではありません。
でも、実際の映像で指導者自身の他宗教に対するあまりに非寛容な言動を見てしまい怒りが治まりません。
少しでも思いやりのある人間にこんな事が言えたもんだろうか?
来年、またサークルの皆さんと韓国に修学旅行するでしょうか。
その時にはまた梵魚寺に行ってみたいですね。
私はキリスト教徒でも仏教徒でもないですが、お寺には人々が築き上げた美意識がいっぱいに詰まっていてそれに対して素直に賞賛を捧げたいと思うのです。
韓国と関わると否が応でも宗教についても考える事が多くなります。
それも韓国といえばと、切り離せない一つの顔でもあります。