お金とは | フラクタルの森 玄明 陰陽学  

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お金とは 

お金を債権と債務の記録とか言う人たちがいる
誰かの赤字は誰かの黒字とかともいう
そこから政府の財政黒字は民間の赤字を示すという答えが出るという


それは、簿記のことから導かれているようだが、私にはよく理解できていないことを白状する
しかし、簿記のことを調べてみると、健康状況を示すものとある

確かに政府は財政黒字を目指しこれまで増税をやってきた
その結果なのだろう
民間部門の赤字が続き経済成長が出来ていない状況が続いている

消費税を10%に上げてからだろうか、税収が増えすぎたという
それを還元しようとして、所得税減税とか給付を考えているようだ
確かに、数字から見るならば債権と債務の記録なのだろう
一方の黒字は一方の赤字かもしれない
しかし、見忘れているものが有りそうだ

その物、その数字の価値を見忘れているのではないだろうか
その為にMMT理論なるものが有るようだ
要するに、資金を使って購入したものには価格が有り、それが資産として数字に現れるのだが、実際には思っていたような数字的価値が無い場合がある
不良資産ということになるのだろう

なんでもそうだけれど、良い子悪い子普通の子がある
この評価にも数字が当てはめることが出来る
100点の価値が有ると思って居ても、その後、評価が下がるものも有れば、100点以上の価値があるとみられるモノもある
その善悪も人時所の違いによって評価は分かれる

その評価には、質と量の問題が関わる
当然、お金の問題にも質と量が関わり、
物やサービスにも質と量の問題がある
ここにも4象限の課題が有るようだ

お金も翻訳の問題であり、その価値をイメージするのにそれぞれでその翻訳は違ってくる
あるものを購入したくなった時のことを考えてみよう
松下幸之助さんの水道理論ではないけれど、量が多ければタダでも分けてくれる
感謝の気持ちだけで済む場合もある
しかし、少なくて相手にとっても価値を感じている物であるなら、何らかの交換条件が必要になる相手の欲しいものを自分が持っていればそれで交換する方法も有る
ただ、そこでは、相手と自分の持っている物との質と量の問題がある
そこで折り合いをつけるのは、手間がかかる
このような物々交換では問題が多過ぎるので貨幣経済が出来てきたのだろう

要するに誰でも認めるような価値の物を仲介させようとする
金とか銀とか希少金属で信用のあるモノを持ってくる
もちろん、金に価値を感じない人にとっては通用しない
どのようなものをその交換手段に利用しようとしても例外はある

しかし、今、金銀ではなく印刷された紙きれで代用されている
その理由は、うがった言い方をすれば、それに価値が有るという暗示をかけられているからだ
価値が有ると思い込んでいるから通用している
ただ、その思い込みは崩れ始めると、元々、数十円の価値しかないモノを一万円と思い込んでいたのだから簡単にその信用は無くなる

結局は、お金でも物でもサービスでも同列であり、価値(信用)という面で見たならば、ものすごく立体的である

例えば、イエスの教えがある
生存中は一部の者たちには価値を認められていたが、しかし、晩年では盗賊などの罪人と一緒に処刑されるようなことになった
その後、ローマ国教となるほど信じられるより、今でも多くの資金を集め価値ある存在となることができた

当時、ユダヤの民たちは審問官のイエスを釈放してもいいと、一人に恩赦を与えようとするのにイエスを選ばずに殺してしまった
当時ユダヤの民たちに対する信用がいかばかりだったか知らないけれど
その後、ユダヤの民たちがたどった苦難困難は、この事件が背景に無いことではないだろう

本当の救世主を価値無きものとした罪は、どれほど優秀な民であろうと、本来の価値を無きものとした事が、人類の潜在記憶に有るのかもしれない

話がそれそうだが、唯物論的にだけ見るのではなく唯心論的に見る必要があるのではないだろうかいうことだ

MMT理論を背景に持っている人たちは、おそらく唯物論的にしか見えていないのだろう

物・サービス・土地・人・情報 = お金であり = 数字であり
それらすべてに信用という霊的なモノがあることを無視しがちである

その信用にも良い子悪い子普通の子があり
最良なる信用は、神・創造主からの信用
今、神無き民が増えている現状では、すべての価値が狂ってきている

もちろん、宗教にも良い子悪い子普通の子がある
悪魔を神としている宗教も有る
お金を神としている宗教もある
本当に価値あるものを見いだせないでいるなら
必ず破綻する

今各国政府のやっている政策も無価値なものが多いようだ
因果応報と言われるように本質は、必ず表面化する