【人】に【良】い事。 それが【食事】 -3ページ目

熱海 宝亭さん

熱海のメインストリートにある洋食屋さん。

以前より気になっていたので、熱海好きの僕としては
必ず行かなきゃならないと思っていたお店です。

飲食業を始めて数年。

やっとこ自分の店を立ち上げさせてもらい
やっとこ8ヶ月が経過し、もっと勉強しなきゃならない事があるので
月に2回の休みは徹底的に勉強に使ってきました。

繁盛するお店には理由があって
売りたい物をどうやって売るかにも理屈があって
その通りやれば確実に売り上げは上がる。

様々な場面に合わせた方程式があり
ソレを教えてもらうには、やはりお金が掛かる。

幸い、僕には強烈な先生が関東、関西に居て
無償で徹底的に教えてくれる。

でも、もっと自分でも学ばないと
絶対に勝ち残れない。

こんな時代を生き抜くには
徹底的な知識と、感性を持ち合わせていなきゃならないし
感性は常に磨いてなきゃ曇ってしまう。

格闘技も同じだから、初心者からアマチュアに上がったばかりの自分が
今どうしなきゃならないかは分かっているつもりだ。

ジムに行ったら便所掃除、月謝を払って便所掃除

懐かしい時代と同じで、毎日が新鮮だ。

でも、それだけじゃ駄目な今、
繁盛店と言うチャンピオンから、様々な事を盗み取らなきゃならない。
帰るべき事が山ほどある。

よく考え、自分の店とすり合わせ、
自分の店の地域特性とすり合わせ
自分の形に変えていく。

そのまんま真似しても駄目な事の方が多いと思うから
兎に角、自分の店の形の歪さを知り、街の特性を知り
どう言う形が最適なのかを探り続けなければならない。

そんな中、食材を求めて東京近郊に出たついでに
熱海に向かった。

ちょうど海上花火大会があり、町は大渋滞で
パーキングは全部満車

2時間近くウロウロした結果
以前から気になっていた【宝亭さん】で食事を取りながら花火を見ようと思い
宝亭さんの駐車場に停めさせて頂いた。

駐車場に入ると、厨房の裏口から初老の男性がコチラに来た。

窓を開けると

「お食事ですか?」と尋ねられたので、食事をしたいと告げた。

すると『もう閉店なんです。』と残念なお知らせ。

花火を見るチャンスも失ってしまい
ガッカリしていると

『車はココに停めて、花火を楽しんで来て下さい。』

と言ってくれた。

何と言う真心!!

熱海を愛し、誇るからこそ出来るお心使いを体感し

この人のご飯がどうしても食べたい!!

と心底思うも、閉店時間なので思い届かず。。。。

お言葉に甘えて30分の花火を見させて頂いた。

その30分の花火は、人生最高の花火に感じた。

花火の構成も素晴らしく、フィナーレなんて

これでもか!  

ってぐらいに格好良かった。

そう見えたのは、宝亭さんのお心使いがあったからだと思う。

町全体で歓迎し、町全体が街を誇る。

本当に素晴らしい街だった。

帰りにお礼のビールを厨房に届けると

そんなつもりじゃないから、持ってお帰りなさい。
お兄さんがお飲みなさい。

と、粋過ぎるお言葉を頂き、心が熱くなり

自分も飲食業を営む者で御座います。
宝亭さんに頂きましたお心使いが
本当に嬉しく、本当に勉強になりました。

とご挨拶させて頂きました。

最後は駐車場まで来て下さり、少しお話をさせて頂くと
お話下さったオーナーの長島様の奥様がタイと深く関係して居るなど
面白い共通点がありビックリしました。

僕の会社の訓でもあるように

【人】に【良】い【事】
それが【食事】

長島オーナーから

自分の街を愛し、街を誇る。
街に根付く 食 
それを創り出す心の底にある
強烈な愛情を感じました。

次にいつ来るか分からない小僧に駐車場を貸して下さる。
この熱海愛が宝亭さんが、名店と呼ばれる由縁なんでしょう。

僕はまだ8ヶ月

もっとやらなきゃならない事ばかりで
目が回りますが、大先輩から教わった事は
心に刻んで生きてまいります。

熱海の宝 宝亭さんのサイト

必ず今年中に時間を作ってお邪魔します!!

もし一緒に行ける人が居たら
一緒に行きましょう!!

車は僕が出します!!


男は一生 勉強あるのみ。

今年の下半期の言葉はこれだな。

山口さん通信【東十条さん編】



私の両親は宮城県栗原市で暮らしています。

3月11日は最大の震度7を記録し、全壊した家もあったそうですが、死者は出ませんでした。

海から遠く離れていたのと、数年前にあった地震で準備が出来ていたことが不幸中の幸いでした。

両親の住む地域では、お盆に「盆棚」というものを作ります。

仏壇に餅や赤飯を備え、笹を立てて、仙台七夕の様に色とりどりの折り紙できらびやかな飾り付けをします。

私は今年初めてその由来を知ったのですが、それにはお盆に帰って来る死者が迷わぬ様に、きれいで派手な目印をかざすという意味があるそうです。

普段はわりといい加減に作っていたのですが、今年は、家族みんな流されてしまった人、供養してくれるはずの一族がみんないなくなってしまった人、帰るところがなくなった人達はみんなこっちに来て餅食ってったらいい、 そんなことを話ながら作っていました。

栗原は田園地帯です。今の時期は実りかけた稲穂がきれいです。

両親は毎年挨拶代わりに無料で新米を送っている知人から、お金を払うから古米をたくさん都合してくれと言われていました。

なんだか哀しいですが、特に小さいお子さんがいる家では仕方がない部分もあると思います。

これからどんな検査結果が出るかわかりませんが、農家も消費者も、自分の考えを持って対処していくことが必要になってくると思います。

支援のやり方も被災地の農家も、答えの出ない難しい状況におかれていくでしょうが、刻々と変化する情報を受け入れつつ惑わされない判断力をもっていい方向に向かえるよう対処していきたいです。


10月2日で一区切り

久し振りのブログ更新です。


実は私は昔、キックボクシングをやっておりまして

そしてまだ引退をしておりません。


もう試合から遠ざかっているのですが

正式に発表し、区切りをつけておりません。


そんな中、折角やるなら

最後までキックボクサーとしてリングに立とうと思い

引退記念の試合をする事になりました。


エキシビジョンなので勝敗はありませんが

倒す気で準備して、倒す気で戦います。


その対戦相手は、バンタム級時代に

私を熱く燃やしてくれた好敵手


現在の東洋スーパーフェザー級王者

蘇我英樹


こいつは大バカなので計算しないで

思い切り殴り合いをします。


そんな大馬鹿野郎が最後の相手です。


気持ちよく殴り合って終えられるように

今から目一杯追い込んで15kg減量して

猛烈に熱い気持ちで殴り合えるように

徹底的に追い込みます。


お時間が御座いましたら

是非とも最後を見届けてやってください。


馬鹿が咲かせるバカの花


18年で枯れずに散ります。


もう枯れてましたが根は生きてました。


花吹雪を起こせるように

しっかり準備して戦います。


皆様、見届けてやってください。

宜しくお願い致します。


山口さん通信【山口さん恩師A先生編】




あの日は寒かったですね。

避難所では水も食べ物も毛布も、何もかもが足りず、このまま凍え死ぬかと思いました。

3月半ばだというのに外は容赦ない吹雪。

真っ暗でケータイも繋がらず、ただ座っていました。

避難所は中学校の体育館。

整然と並べられたパイプ椅子と紅白の横断幕。

翌日は卒業式の予定だったのでしょう。

誰かが避難所に持ち込んだラジオからは「沿岸地域に数百体の亡骸が打ち上げられている」という不気味なニュースが流れていました。

NHKラジオのアナウンサーはただ淡々とニュースを読み上げます。

何か大変なことが起こっている。

情報としては私たちの耳に届いているはずなのに、私たちは全く状況が把握できませんでした。


現地にいる私たちがいちばん何も分かっていなかったのでしょう。


翌朝自宅に戻りました。

7階東向きの私の部屋からは、沿岸から幾筋もの煙が立ち上っているのが見えました。


ひときわ大きな黒い煙はコンビナートの火事であり、津波被害のため誰も消火活動ができないのだと、友人(新潟)のメールで知りました。


水と食料を求めて龍のような長い列にも並びました。

私はたまたま開いている店の列に並べましたが、他の人々はいつ開くとも知れないコンビニに並び続けていました。


その列をながめて、日本人というものは本当に冷静な民族なのだと感心しました。

災害に慣れている、ということもあるのでしょうが、外国ならたちまち略奪、暴動です。

震災直後、世界中から賞賛の声が届いていたようですが、この国に生まれたことを誇りに思います。

震災から数日たって、横浜からハガキが届きました。


横浜の業者さんです。

ずっと私を捜してくれていたのです。

感動しました。

1年に一度逢うか逢わないかのひとです。

家族でも親戚でもないのに、ずっと気にかけてくれていました。


とらやの羊羹を送ってくれました。

まだ甘い物が手に入りにくい時期のことです。

生まれて初めて食べるとらやの羊羹は、甘くて、おいしくて、ありがたくて、泣けました。

この感謝の気持ちはまだまだお返しできていません。

地震と津波で故郷は半分なくなりました。

親戚も何人も見つかっていません。

いとこが目撃されたのは、足の不自由な人を助けながら避難していたのが最後。

遺体は幸いにも見つかったけど、おじさんは未だ葬儀をしていません。

行方不明の親戚は7名。

でももうこれ以上望んだら罰があたる。

あのがれきの中からいとこを見つけ出してくれました。

自衛隊や警察の、必死の捜索は感謝の一言では到底言い表せません。

テレビや写真も十分インパクトがあるけれど、テレビや写真はフレームがある。

あの場所に立ってみるといい。

どこまでも続くがれき。
何もない、変わり果てた風景。

もはや涙も出ません。


被災地から悲鳴があがっています。

ものすごい悪臭とハエ!支援お願いします!つるすタイプの虫除け、ハエ取りリボン、蚊帳、虫さされ薬・・・こどもたちの遊具(ボール、縄跳び)やボランティアもお願いしたいですが、さしあたって虫関係お願いします!


山口さん通信



岩手県大船渡市の友人のお父さんの体験です。

友人の家は、ブックボーイという本屋をしています。

3月11日、大船渡湾を見下ろす高台にある自宅で地震にあいました。

17歳の時にチリ地震津波を経験していたので、すぐに足の不自由な叔母の住む港沿いの家に車で行きました。

叔母を乗せて、お店に向かい従業員に避難を指示して自宅に戻りました。
叔母を車から降ろして振り返ると、街がじわじわと盛り上がる海に飲み込まれていました。

電気も水道も止まり、携帯電話もつながらない。街は瓦礫に覆われて道もない。店を任せている娘夫婦が夜になって帰ってきたときは、涙を流して抱き合いました。

壊滅的な被害を受けた大槌町には書店とCDショップがありました。

従業員と連絡が取れず、会いに行こうにも道もガソリンもありませんでした。

人づてに無事が確認できましたが、声が聞けたのは1ヵ月以上たってからでした。


大槌町店も大船渡店も、大船渡駅前の貸しホールも失い、残ったのは借金と瓦礫の山で、廃業するしかないと考え始めていた頃、津波を免れたショッピングセンターサンリアの再開の知らせがきました。

正直悩みました。でもテナントに穴を空けたら迷惑をかけてしまうとサンリア店の再開を決意しました。

サンリア店以外の店舗の再開めどがたたない中で、従業員を待機させていては申し訳ない。会社都合の退職だとすぐに失業保険がおります。少しでも早く現金が手にできればと考えて、サンリア店の二人を残して従業員を解雇しました。苦渋の決断でした。

再開前、本は売れないだろうと思っていました。ところが震災の本が飛ぶように売れました。一人で何冊も買っていくのです。もちろん、小説やコミックも売れましたが、その比ではありませんでした。それから児童書もよく売れました。

これからのことを考えると、途方にくれることばかりです。

でも、お客さんが

再開してくれてありがとう。

と声をかけていくんです。

それも一人二人ではなく何人もです。

こんなありがたいことはないです。

本屋を続けて本当によかった。大船渡の人たちのためにもがんばっていかなきゃと思います。


友人は仙台で働いていましたが、今は大船渡に戻って毎日お店を手伝っています。

おかげさまで忙しく、ありがたいと言っていました。

4月7日の余震で全壊した家も直すことが決まり、少しずつ復興に向けてがんばっています。