優しい指の感触が背中を撫でる
ぞくぞくと何かが這い上がってくるようで、ビクリと体を震わせると、別の感覚が訪れた。


この香りに包まれると意識が遠のくような、安らぎを手にしたような不思議な感覚・・。
自分の想いさえどこへ向かっているのか、何を欲しているのか・・・・
すべてが混濁した意識の奥で渦巻いていた。


どれくらい2人は抱き合っていたのだろうか
蓮が電話で玄関前にいるから開けてくれる?と連絡をしてきたので、キョーコはドアを開けた。挨拶をする間もなく蓮はキョーコの腕を引き寄せてやさしく抱きしめると一歩部屋の中に入り後ろ手に扉を閉めた。


そんな蓮の行動に驚きながらも、キョーコは黙って抱きしめられていたが、一向に離れない蓮をいぶかしく思い囁くように声をかけた


「・・・・く、苦しいです・・よ?」
クスリと笑いながらキョーコが訪ねても蓮はギュッと彼女を抱きしめるだけだった。誰の心臓の音なのかドキドキと耳元でその音が聞える。


「つ、つるがさん?・・・・あの・・大丈夫ですか?もしかして具合が?」
調子が悪いのかと思いキョーコは慌てて蓮の顔を覗き込もうとした。
だが、力強い腕の中で身動きできず、もがくようにしていると蓮がかすれた声でキョーコに答えた。


「・・・・大丈夫・・・でも、もう少しだけ・・・もう少しだけ・・」
このまま・・・
その声がやさしくて、切なくてキョーコは知らずに蓮にしがみついていた手に力を入れていた。



「その・・敦賀さん?」


「ん?」


「・・・・狭い部屋ですが・・・・中に入りますか?」
玄関先でどれくらい抱き合っていたのか、蓮に抱きしめられている体はとても温かいのに、足元だけがひどく冷えていた。


「・・・・いいの?」


「え?・・・はい・・・・どうぞ?」
そう言うとやっと蓮が腕を緩め、少しできた空間から、やっと瞳を覗き込むことができた。


切ない色を帯びたやさしい瞳。
こんな瞳で自分を見つめているとは思わず、キョーコは恥ずかしくなって視線を逸らした。


「・・・・最上さん・・」
そういうと蓮はキョーコの頬に手を添えた。


「・・逸らさないでほしい・・すごく・・・・寂しいよ・・」
その言葉に驚いてキョーコが慌てて蓮に視線を向けると蕩けるよう甘い笑みを浮かべ顔をゆっくりとキョーコへ近づけた。


「・・・・つ、敦賀・・さ・・ん・・?」


「好きなんだ・・君のことが・・・仕事が手につかなくなるほど・・」
嫌なら俺から逃げてくれる?と言いながら頬を包み込みながら蓮は自分の唇でキョーコの唇を塞いだ。


一件目の留守番電話を無理矢理終了させると、まだ留守番電話が登録されていることに気が付いて、蓮は恐る恐るボタンを押した。


『最上です・・何度もすみません。・・・・』
心地よい鈴の音のような声が、心の奥に響いた。
音声を止めようと思って伸ばした指がそれ以上動かせず、会いたいと思う気持ちが急速に膨らみ、声が聴きたくて仕方がなかったんだと改めて思わずにはいられなかった。


音声がとまる寸前に、留守番電話の点滅が始まる。再生されたように音声が聞こえてきて蓮は首をかしげた。


『最上です・・何度もすみません。・・・・もし・・・』


留守番電話ではないと頭で考えるよりも先に、素早い動きで受話器を取り上げた。反射的に持ち上げた受話器にキョーコの声が聞こえてくると心臓をわしづかみされたような痛みが走った。


「・・・・最上さん?・・・・最上さん?・・何度か連絡もらったみたいだけど・・携帯に連絡をくれればよかったのに・・」
思うように声が出なかった。
のどを締め付けられているようなかすれた声に、軽く咳払いをしてキョーコの返事を待った。
社に頼まれて電話したという彼女の姿を思い浮かべると、今すぐに会いたいと言い出しそうな自分に驚きつつ、いまさら隠し通せそうにないと諦めて大きくため息をついた。


『・・・あの 、ご、ご迷惑でしたか?』
キョーコに言われた意味が分からず、蓮は焦って返事をする。


「あ、いや違うんだ・・」
自分でも何を答えたらよいのかわからず、蓮はあいまいな返事をする。
蓮がついたため息を迷惑だと受け取ったキョーコに誤解だと言いたいのに、自分をフォローすることもできず、さらに自分の首を絞めたような気がした。


キョーコを相手にすると、まるで自分が小学生にでもなったように気持ちがコントロールできない。何をしてもどれ一つ彼女に良いところが見せられないでいた。


「いや、違うんだ・・・・、その・・・・その君の声を聴いていたら・・会いたくなって」
彼女の迷惑にならないように、そっと想いを伝える。


『あ、え・・とあの・・・・』
彼女の戸惑った声を聴いて蓮は胸に痛みが走った。
いまさら自分の想いを隠しても仕方がないと開き直り、思いのすべてを伝えるか、それとも彼女を思って冗談だよと笑いにかえるか、そんなことを考えながら自分自身を冷静に分析する。


そんなことをしていないと彼女の元へ今にも走り出してしまいそうだった。



・・・・失ってから気が付いた大切な人・・・・
もう、これ以上好きになれる人はいないだろうか・・


「最上さん・・・今時間あるかな?・・やっぱり、直接声がききたいんだ・・」


息をのむ音が聞えた

彼女が驚いた顔をしているのが想像できた。もう、自分の想いをこれ以上抑えることができず、蓮は彼女の返事を待たずに伝えた。


「最上さん・・君に会いたい。会って伝えたいことがあるんだ。今から君の部屋に行かせてもらうね・・・・じゃ」


『え、・・あ・・・・』


何か言いかけた彼女の言葉を聞く勇気もなく、気が付かなかったふりをして蓮は受話器を置くと急いで車のキーを手に取り駐車場へと足を向けた。

蓮に2度連絡をしたが、むなしく機械音が応答するだけだった。
社に頼まれたから連絡をしているのだと自分に言い訳をし、早く電話に出てほしいと願い
ながら、今日も大きくため息をついた後、受話器を手に取ってすっかり覚えてしまった番号に連絡を始めた


「どうせ、でないんだろうけど・・社さんに頼まれたし・・・・」
いつもの通り数回のコールが聞えた後、機械音が応答する。
残念な気持ちとどこか安心したような気持ちが胸に広がると、心の中でため息をつき何度も心の中で復唱した言葉が口からスラスラとこぼれだす。



「最上です・・何度もすみません。・・・・もし・・」



ガチャ


『・・・・最上さん?』
体中にしびれが走り、さっきまで考える必要もないくらいスラスラ出ていた言葉が、何一つ出てこなかった。
頭がパニックを起こしたようで、言われた言葉が理解できない。何か答えなくてはと思えば思うほど頭が真っ白になっていった


『・・最上さん?・・何度か連絡もらったみたいだけど・・携帯に連絡をくれればよかったのに・・』
やさしい声に、聴きたかったその声に体中の血液がドクドクと音を立てて流れ始めて、急に周りの音が何も聞こえなくなったようだった。


「あ、あ、あの・・・・その・・や、社さんが・・」


『クス、社さんは心配しすぎなんだよ・・・大丈夫だよ・・それより君は大丈夫?』
これ以上話しかけられるのが辛かった。
この優しさが、この電話で最後だと思うと涙がこぼれそうで胸が痛んだ。


『・・最上さん?・・大丈夫?』


ちっとも大丈夫ではなかった・・
今にも 会いたくて仕方がないです と叫びだしてしまいそうだった
何か一言でも話してしまえば、涙が零れ落ちそうで、これ以上優しくしないでくださいと言いたいのにその一言さえ言えない。


キョーコは受話器に小さく はい と答え天井を見上げる。さっきまでくっきりと見えていた視界がかすかに歪み始めた。


零れ落ちそうな涙を寸前でおさえ、瞬きをしないようにするのが今自分にできる精一杯の事だった。


病欠をしたのをいいことに、長引いてご迷惑をおかけしそうなので退職させてほしいと人事担当に連絡をしたところ、優秀な人材だから、気にせず休むとよい と言われて一度はありがたく休職扱いにしてもらったものの、どうしても敦賀さんに逢いたくなくて、結局退職させてもらうことにした。


あれからまだ2週間もたっていないというのに、心にぽっかりとあいた穴が徐々に広がっていくような気がした。


ショータローが突然現れたことにも驚いたが、まさか敦賀さんがお見舞いに来てくれるとは思わず、狼狽える自分を押さえ込むのに精いっぱいで何が起きたのか全く分からなかった。


渡された可愛らしいブーケの花がまだ部屋に飾ってある。
蓮が訪れたことが夢ではなかったことをその花が語る。


「なんで、あのタイミングで現れたのかしら・・」
せっかく忘れようと心に誓ったばかりだった。

都合よくショータローが彼女役をやってくれと言ってくれたことで、蓮に嘘をつかずに距離を取ることができた。

それなのに・・・・
心はすさまじい悲鳴を上げている。


唇に残る感触に心が不安で揺れる


会いたくて・・心が壊れそう・・・



ブーンブーン・・ブーンブーン


携帯電話の着信にキョーコはテーブルの上に手を伸ばし表示された名前を見て驚いた。


「はい、・・・最上ですが・・」


『久しぶりだね・・キョーコちゃん?調子はどう?』


「こんばんは社さん・・だいぶ良くなりました・・それとお世話になったのに挨拶もなく退職してしまいすみません。ちょっと風邪をこじらせてしまって長引きそうだったので、退職にさせてもらいました。」


『・・・本当に・・それが理由?』
心配そうに尋ねる声が、どこか攻めているようでキョーコは急に息苦しく感じた。


「え?どういうことですか?」


『いいや、蓮に・・会いたくないのかと思って・・』


敦賀さんに会いたくないと思えたらどんなによかっただろう
会いたくないと思う反面・・心は会いたくて仕方がなかった


『・・蓮が・・元気がないんだ・・』


「え?どうか・・されたんですか?」
ドキッとするような社の言い方にキョーコは落ち着かない気分になる。どうして忘れたいと思うのに、何かしらのタイミングで敦賀さんを思い出させるような事態が発生する


『無理は承知でお願いしてもよいかな?少し、調子が良くなった頃で良いんだけど蓮に連絡してもらえる?たぶんキョーコちゃんの声聞いたら少しは元気にあると思うから・・あ、でもキョーコちゃん今彼氏いるんだっけ?』


彼氏がいるという話が、社さんにまで伝わっていることに驚きながら、キョーコは少し笑って答えた。


「私が連絡することには、もう他の女性と仲良くなっていらっしゃるのでは?」
彼氏については何も答えないことにした。ずるいと思いながらも理由を説明したくなかったし、数日後には彼氏ではなくなるとは言えなかった。


『・・・・まぁ、確かに否定はできないけど、心を許したのはたぶんキョーコちゃんにだけだと思う。だから、調子が良くなったら、一度だけでいいから連絡してもらえないかな?』
切羽詰まったような社の声にキョーコは渋々頷いた。


「わかりました。社さんにはたくさんお世話になりましたので、敦賀さんの様子を確認したらまたお電話させていただきます。」


電話を切った後キョーコは大きなため息をついた。



・・・・大丈夫だろうか・・


会いたいなんて、愚かなことを言ってしまいそうな自分の心を押さえ込むことができるかキョーコは不安で仕方なかった。