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(半角で 6万文字以内という字数制限に達しましたので、こちらのブログ記事に 前回 すなわち 3月5日(日)の「父親の一周忌・中編・3」のブログの続きを記させて頂きます。前回のブログから 話が 繋 がっておりますので、前回のブログも 御覧頂きますと おわかり頂け易い と存じ上げます)
さて、去る 4年前の2月24日(日)の「母親の一周忌」のブログの中段に、
「(前略)上記のように 母親の好物の 蜜柑の缶詰、フルーツ・チョコレート以外にも、好物の お供えを 揃えさせて頂きました。
お供え
お仏壇
(後略)」と記させて頂きました。
なお、午前9時半に まず 義理の兄が到着しました。それで、西本願寺の僧侶は 説法があるとのことでありました。それで、東本願寺の僧侶は 読経のみですね と答えました。すると、説法があるから いいとのことでした。そして、義理の兄によりますと、浄土真宗は 何でも ありとのことでありました。それで、上記のように 母親の一周忌のときには、照恩寺の住職が 仏壇の小物の配置を変えたことを伝えました。
それから、1階に 和式のトイレがあり、2階に 洋式のトイレがあります。それで、到着して 姉によりますと、まず トイレとのことでありました。そこで、これ迄 姉は 当家に来ると 和式ではなく 洋式のトイレに行きましたので、2階の洋式のそれに案内しました。そして、姉によりますと、膝が痛い(後日 すなわち 数日後に 直ぐに 姉には、「(前略)膝のことを伺い、どうぞ 呉々も お大事になされて下さい。因みに、去る 一昨々年の2月12日(水)の『笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤ 小乗から 大乗へ・前編』のブログ、去る 一昨々年の2月12日(水)の『笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤小乗から 大乗へ・中編』のブログ そして 去る 一昨々年の2月12日(水)の『笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤小乗から大乗へ・後編』のブログなどに、『笑いと菜食療法』の対象となる R.A.(英語)(negativeで御座いますし、お読み下さっている方々に影響を お与えすることの無いように 日本語で綴ることを控えさせて頂きましたが、以前 それではわからない と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。関節リウマチのことで御座います。以下、英語の略語で R.A.と示させて頂きます)で なければいいのであるが と思わせて頂いて 心より祈らせて頂いております。(後略)」との便り(速達)を送りました。なお、去る 昨年の12月20日(火)の「武漢ウイルスのワクチンについて(拡散希望)・続報20・後編」のブログの中段やや下に、
「(前略)武漢ウイルスのワクチンの副作用である 過剰な自己免疫疾患の症状を 上記の『菜食療法』で抑えられる可能性があります。すなわち、副作用の強い ステロイド治療を 敢えて しなくても と思われます。(後略)」と記させて頂きました。
更に、来る 3月22日(水)の「武漢ウイルスのワクチンについて(拡散希望)・続報24・後編」のブログの中段やや下から下段に、
「(前略)1年~1年半は 慢性自己免疫疾患が起こる可能性が 充分にあるとされています。
すなわち、期間は おおよその値であり 前後しますが、急性炎症期、免疫抑制期 そして 慢性炎症期(自己免疫疾患期)の順番であります。
つまり、スパイク蛋白が存在することによる 細胞破壊 すなわち 慢性自己免疫疾患が起こ(後略)」と記させて頂きました。すなわち、誠に遺憾なことに 家政婦には話しましたが、武漢ウイルスのワクチンの副作用による 膝への自己免疫疾患 すなわち R.A.が起こっているようでありますね)ので 椅子が欲しいとのことでありました。それで、椅子を用意しました。また、僧侶も あの椅子が欲しいとのことでありましたので、上記の写真の 本の置いてある 椅子を 急遽 手渡しました。なお、その僧侶によりますと、勝手 知ったる 家とのことでありました。序で乍ら、気が早いですが と断って、来年の父親の三回忌の日程を 皆の前で 相談しました。すると、その僧侶によりますと、「生きていたら」とのことでありました。それで、「長生きをして下さい。」と伝えました。
ときに、 前々回 すなわち 3月5日(日)の「父親の一周忌・中編・2」のブログの下段に、
「(前略)僧侶の尊父の生前の肉声を聞いてもらいました。また、そのとき すなわち 姉の結婚式で 祖母が 『恩徳讃』と『報恩講の歌』を歌いましたと伝えました。すると、誠に有り難いことに、その僧侶によりますと、その歌を聞くとのことでした。それで、祖母が歌った歌を レコーダーで流しました。すると、その僧侶の方から 聞くと言ったにもかかわらず 祖母の歌は 音が外れていたとのことでした。それで、数十人以上の披露宴で 歌ったのですから 緊張していたのでしょうと話しました。その後、家政婦には、浄土真宗の宗教団体の会場で歌うのではなく 一般の 会社役員が出席する場所で歌ったのであるから 凄いことと話しました。すると、誠に有り難いことに、その家政婦は、頷いてくれました。(後略)」と記させて頂きました。なお、昨年の父親の初盆(新盆)のときに、僧侶に希望して頂いて、この僧侶の尊父の紹介によって 歌った 祖母の歌を レコーダーで 聞いてもらいました。
すなわち、今回も、丁度 半世紀前の 昭和48年(1973年)の5月下旬の土曜日(中学一年生の新学期が始まったばかりの頃であり、中学一年生からの慣れない英語の授業が この土曜日にありましたので、休むことは 不安でありました。 因みに、当日は、学生服を着て 参列しまして、カセット・テープ・レコーダーによる記録係でありました)の椿山荘のおける 姉夫婦の結婚式のときに、上記のように 祖母が歌った歌を レコーダーで流しました。すると、姉によりますと、丁度 半世紀前のカセット・テープでありますから、誠に有り難いことに 物持ちがいいとのことでありました。 因みに、僧侶の尊父の紹介によりますと、祖母が 姉のことを 可愛いので 歌うと言ったとの旨でありました。すなわち、祖母によりますと、居ても立っても 居られなかったのでありましょう。それで、清水の舞台から 飛び降りるような気持ちで 歌ったのであると思われます。そこで、祖母は 度胸があると話しました。すると、姉によりますと、上記の 僧侶と同様に、祖母の歌は 音が外れていたとのことでした。それで、今回も、信徒の前で 歌うのではなくて、一般の 会社役員が出席する場所で歌ったのであるから 凄いことと話しました。すると、姉によりますと、恥ずかしいことをするのは 性格とのことでした。そこで、一周忌終了後に、家政婦と話をしました。すなわち、この家政婦とは、別の家政婦の話しであります。つまり、去る 5年前の9月19日(水)の「家政婦への贈り物(父親の食事)・9」のブログの中段やや下に、
「(前略)このヘルパー(日本語:家政婦)によりますと、臼井式レイキが 海外に渡って また 日本に戻って来た すなわち 逆輸入された、資格を取るのに お金の掛からない レイキの資格を持っている とのことでした。但し、このレイキを施すと 悪い気が入って来るので 辞めた とのことでした。ならびに、知り合いを お金を貰って 一週間 みていたら、映画・E.T.が 自転車に乗って いる姿が見えた とのことでした。 因みに、このときは このE.T.の映画は 見ていなかったそうです。なお、この話を この知り合いに話したら、それは 自分が 勤務していた会社の社長で、この社長は 亡くなったとのことでした。但し、この知り合いは 生前の この社長に 手籠めにされた とのことを話された とのことでした。(後略)」と記させて頂きました。
なお、岐阜県の片山で 繊維業を営んでいた実家が 倒産して、8人姉妹の長女であった 祖母は、東京に出稼ぎに行かなければなりませんでした。それで、上記と同様に 社長に 手籠めにされて、男女 二人の子供たちを身籠もることになります。ところが、女の子の方は 可愛かったのか、その社長の関係の芸者が 手放そうとしなかったとのことでありました。それで、祖母は たいへん悲しかったと思われますが、その自分の幼少の娘を置いて 男の子の方のみを連れて 東京から 岐阜県の片山に戻ってきました。そして、祖父(父親の父親)と 再婚することになるのであります。従いまして、祖母は たいへん苦労しているのであります。 因みに、苦労していますと、恥じらいは 大事でありますが、小さな恥ずかしいなどという 些細な感情は なくなってしまうのでありますね。序で乍ら、祖母は 苦労していたからでありましょう、その僧侶の実家の お寺の世話人になり、お布施を集めるようになるのであります。この話を 一周忌終了後に その家政婦に話しましたら、誠に有り難いことに、頷いて 納得してくれました。
ところで、去る 昨年の4月24日(日)の「父親の納骨(七七日・満中陰法要)(シンクロニシティ)」のブログの中段やや下に、
「(前略)僧侶による 読経の後に、この僧侶によりますと、お話をするとのことでした。
すなわち、
『お祖母ちゃんには、中学生のときに 可愛がってもらいました。大学生のときに、美濃屋(父親の かつての店名。 因みに、父親の生まれが、岐阜県[美濃]である為)で アルバイトをしました。お祖母ちゃんは、お小遣いを くれました。そういうことは 覚えています。今 75歳であり、中学2年生というと 何歳ですかね。(そこで、14歳との声)そう 14歳ですから、60年になりますね。○○さん(姉のこと)が、2歳の子供を亡くしたとのことでありました。(後略)』(後略)」と記させて頂きました。
そして、僧侶によりますと、自分の父親は 30数年前に 肺のKrebs( 独語)(ネガティブ[英語:negative]で御座いますし、お読み下さっている 方々に影響を お与えすることの無いように、日本語で 綴ることを控えさせて頂きましたが、以前 それではわからない と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。がん[ 敢えて、平仮名で記させて頂きました]のことです。以下、Krebsと示させて頂きます。英語では cancerといい、独語と同様に、蟹[英語では、crabも 蟹の意味です]という意味も 御座います。この組織が 蟹の形態に似ているというところから、命名されたとのことです。よって、イメージ療法が 御座いますが、免疫担当細胞が この蟹の形態をした組織を食べる様子をイメージしたら、よいのではないか、と思われます)の症状で cough(英語)(ネガティブ[英語:negative]で 御座いますし、お読み下さっている 方々に影響を お与えすることの無いように、日本語で 綴ることを控えさせて頂きましたが、以前、それではわからない、と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。咳嗽、すなわち、咳 のことで御座います。以下、英語で coughと示させて頂きます)が出て 亡くなったとのことでありました。あと(「あと」という言葉を 添加の接続詞に使うのは、会話でも幼稚とのことでありました)、D.M.(拉語/独語/英語:diabetes mellitus)(ネガティブ[英語:negative]で 御座いますし、お読み下さっている 方々に影響を お与えすることの無いように、日本語で 綴ることを控えさせて頂きましたが、以前 それではわからない と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。糖尿病のことで御座います。以下、D.M.と示させて頂きます)のあれがあったものですから。その1年位前に 二週間か 10日間位 入院して 食事か何かのあれを 糖尿だ 糖尿だ なんてというようなことを言ってましたがね。結局 それからくることではなくして 肺のKrebs、もう30年前 僕なんか忘れていると 笑い乍ら 話していました。あれから ほんと 30年以上 父が亡くなってからね。この写真にもありましたが、この お婆ちゃんも 誓願寺に お参りして下さって 僕なんか 小学生位のときに お婆ちゃんには お正月か何かに お小遣い 御年玉を貰ったりしました。すなわち、上記の如くであります。高校・大学生のときであったと思いますが、お婆ちゃん、お父さんからも そうでしたが、お母さんも(居ましたが、)、お婆ちゃんが こっそり 私に お小遣いを くれました。笑い乍ら話していました。すると、姉によりますと、嬉しいですよねとのことでありました。誓願寺に お婆ちゃんと「しんさん」という お婆ちゃんと一緒に、もう一人「松田さん」という お婆ちゃん、父は もう家族 うまくいかなくて、一人で淋しそうにしているときには 誓願寺に いらっしゃい いらっしゃいと言って 皆で と その僧侶は笑い乍ら話していました。あのとき 三人 お婆ちゃんが居たとのことでありました。「しんさん」という お婆ちゃんと、「松田さん」という お婆ちゃんと、「長内さん」という お婆ちゃん、「長内さん」は青森のみさわだったかなとのことでありました。「しんさん」は 確か富山だったとのことでした。「松田さん」という お婆ちゃんは、息子さんが 三井物産の社長か何か 遣っていた人とのことでした。ところが、奥さんと浮気して 奥さんじゃない 嫁姑だよ うまくいかなくて 喧嘩して出てきて、そういう お婆ちゃんが居たとのことでありました。三人 お婆ちゃんが居て、それから その上に 下宿していた若い学生、親戚の従兄妹、そのときね 15人位 誓願寺に居て 姉が みんな食事を作ってとのことでありました。それで、姉によりますと、「姉は ふっくらしていた。」とのことでありました。その僧侶によりますと、姉は苦労したに違いないとのことでありました。そこで、姉によりますと、お母さんは小柄で綺麗な人とのことでした。すると、その僧侶によりますと、母は、たいへんだったに違いないとのことでありました。今思うとねとのことでありました。それで、誓願寺を建て替えるというときに、当家が 率先して 力になって下さって。今の誓願寺ではなくて、前の誓願寺とのことでありました。誓願寺を建て替えたときには、当家の大きな大きな 力があったとのことでありました。お力添えを頂いて 出来たとのことでありました。姉によりますと、「今の妹さんが 跡を継いだのですか。」とのことでありました。今の妹夫婦。結局、お話ししたかもしれないが、三人 息子が居て 皆 それぞれ優秀でね 誰かが 継ぐだろうと 皆 思っていた、私なんかも そう思っていたとのことでした。結局、まあ 姉が 先に亡くなって、兄が しょんぼりして、兄も 肺のKrebsでしたとのことでありました。その前も 心臓弁膜症か何かで ゴルフを遣っていて 急に倒れたとのことでありました。心臓のあれがあるのでとのことでありました。そんなんで 兄も 息子の誰も 継がないって 兄も 遣る気を失くして、結局 僕が 3年半位 その誓願寺の代務じゅしというかね。それで、姉が、「あちらの方迄 通われて」と言いますと、その僧侶によりますと 「行ったり来たり、八王子から 行ったり来たりしていた。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「たいへんでしたね。」とのことでありました。それで、兎に角 三人 共 誰も お寺を継がないと言うので、これは どうしたもんかと思ってね、僕が 遣る訳にいかないからね。それで、妹夫婦 御主人も 岩田屋という福岡にある デパート の役員か 何かを遣っていて 辞めて 何か 別の仕事をしようか 司法書士か何かの勉強をしていた、結局 司法書士にはならなくて その 誓願寺の専従になった訳だから その 「なおえつ」さんって 言うんだが 「なおえつ」さんに 東京に来てもらって 出て来て 妹と一緒に そして その お坊さんの資格を取って 何年かは 一緒に仕事をして いろいろ 東京で教えてあげて お坊さん 兎に角 何にも ないところから 僕は その 八王子で お寺で 使わせてもらっていますので その経済的な お寺の運営維持というのも なかなか たいへんで そういうことを どういう風にして 遣ったらいいかていうことで いろいろ 教えてあげて そして バトンタッチして。そこで、姉によりますと、「一大決心ですよね。」とのことでありました。また、義理の兄によりますと、「バトンタッチをするときがね。」とのことでした。すると、その僧侶によりますと、「こんなことを申し上げら あれだけど、あそこの土地はね、誓願寺の土地はね 借地だったんですよ、それでね、地主さんと兄と 更新料は どうのこうのっていうような 話しになって、地主さんと喧嘩になった。」とのことでありました。それで、姉によりますと、「それは、たいへんだったですね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「『更新料は 払わない』というようなことになって、僕は聞いていて お寺で そんなことがあって どうしたらいいの どうするの、兄は お寺 辞めようということを言うんだよ、冗談じゃないよと思ってね、これで、結局 僕が 代務になったときに 土地を買い取るっていうか 借地権、何と言うか 底地権とか何と言うのが、それを買い取ったら お寺の土地になるっていう、その不動産屋さんと 『ふく何とか』と言う 下落合の不動産屋、そこが持って土地を、そこ行って 僕 いろいろ話をして 最初 1億何千万円じゃなきゃだと」とのことでありました。そこで、姉によりますと、「目白の方は 高い」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「それが、彼女、お父さんが亡くなって 娘さんが継いでいる、その娘さんが ハワイの方の土地、コンデミニオンとか そう言う仕事をしていて ハワイに何年か居たことがある 僕も 居たでしょ その不動産の関係の人やら 商工会の会頭やら 市長やらっていうような人 個人的に 昔 会って いろいろ 親しかったからね、トランプ・タワー(愈々 週明けに 米国連邦議会議事堂襲撃事件の未公開映像が公開されますね)って 大きなホテルが ある、ホノルルにもね、ワイキキの そこに オフィスを構えて 会いに行って」とのことであり、その僧侶は笑い出しました。すると、姉によりますと、「ハワイ迄 行ったのですか。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「いえいえ 別の用事で ハワイに 行ったときに、その土地に 問題が起こってましたからね。会いに 行って いろいろ話をして、交渉して 僕 不動産の人に入ってもらった方がいいって言われたんだけど、直接 彼女に会って 話しをして そしてら その 最初の方は その1億2千万だ とか 何だ かんだとか、それは ちょっとあれ、結局 6千万円で 手を打つ」とのことであり、その僧侶は笑い出しました。すると、姉によりますと、「たいへん」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「誓願寺の そのときの状況では 銀行から お金を借りることは 出来ない、兄も年だし 遣る気ないし、子供たちも 遣る気ないし、そんなんで 僕が その八王子の お寺を建てるときに えっ何億円、それを返済してきた実績があったからね、僕が お金を借りた銀行に話をして そこで うまく そういう話がある。」とのことであり、また その僧侶は笑い出しました。すると、姉によりますと、「妹さんがね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「だから、今 土地の問題は 全然 何にも問題 もう土地になっているから。」とのことであり、また その僧侶は笑い出しました。そんな詰まらないことを言ってとのことでありました。すると、姉によりますと、「貴重な お話を ありがとうございました。」とのことでありました。
そこで、定刻の午前10時になりましたので、当方から「開始予定の定刻の午前10時になりましたので。」と伝え、「家政婦さんは 昭和22年生まれの 亥年であり、本日は、亥年の お方様が お三方 居られて 誠に有り難く、何卒 宜敷く お願いします。」と話しました。すると、姉によりますと、「お世話になっちゃって」とのことでありました。その僧侶によりますと、「猪が、3匹ですか。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「突進しますね。」とのことでありました。その僧侶によりますと、ちょっと着替えてとのことでありました。そして、上記のように その僧侶によりますと、椅子を借りてもいいですかとのことでありました。痛いから こっちがいいとのことでありました。座布団のことに関しましては、座布団は要らないとのことでありました。何にもない方が いいとのことでありました。すると、姉によりますと、「何か敷いた方が いい。」とのことでありました。それで、母が使っていた 膝掛けを添えました。その僧侶によりますと、「今頃 ちょっと 足が あの 毎朝 今 歩いているのですよ。」とのことでありました。そして、姉によりますと、「私は これ 使う。壊しちゃうかもしれないけれど。」とのことでした、それで、「壊しもいいから、だけど、怪我したら まずいね。」と伝えました。ここに お邪魔すると、父の字やら 写真やら 庄野のさん字やら 懐かしいものが 一杯あるとのことでありました。それで、今回も、その僧侶の父親の直筆の 絵も描いてもらったことを伝えました。すると、その僧侶によりますと、「父は なかなか 大したものだね。」とのことであり、その僧侶は笑い出しました。すると、義理の兄によりますと、「お寺が 個人の持ち物になるというのも 珍しいですね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「個人じゃないの。宗教法人の 勿論、宗教法人の」とのことでありました。すると、その義理の兄によりますと、「檀那さんが、普通 あれですものね。お寺の場合は」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「だから、内の お寺なんかでも、八王子のお寺なんかでも、僕なんか 本当に この何10年間 銀行から お金を借りて 結局 全部で 10何億円 借りているんですよ。」とのことでありました。すると、その義理の兄によりますと、「檀家さんが のところから 始められて」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「そうそう。」とのことでありました。すると、その義理の兄によりますと、「凄いですね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「寄付を募ってということでは なくして、結局 その どうして そんなことが出来たかと言うと、僕も まさか そんなことになるとは 自分でも ハワイから 帰って来たときに 思ってなかったのだけれども、結局 今頃 その 亡くなる人の 病院で亡くなるでしょ そして お寺との繋 がりっていうのが 田舎で居るときは あったけれども、東京に出てきてからは そういう あれがない 結局 病院で亡くなって 病院と葬儀屋さんが繋 がっている」とのことでありました。すると、その義理の兄によりますと、「はい、そうですね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「葬儀屋さんから 紹介を 結局 浄土真宗だったら お願いしますって言って、葬儀屋さんに 僕が 頭を下げて ずっと回って 」とのことであり、また その僧侶は笑い出しました。「そういう風にして、『浄土真宗の縁のある人は 是非 紹介して下さい。』って言って、その お葬式の御縁で その檀家の人が増えて行って」とのことでありました。すると、その義理の兄によりますと、「それでも 10何億円って たいへんですね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「それ たいへん」とのことであり、また その僧侶は笑い出しました。そして、「あんまり 言うと あれだけど。で あと お寺に納骨堂があるんです。」とのことでありました。すると、その義理の兄によりますと、「お墓」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「(お墓ではなくて、)その納骨堂があったもんだから 返済が可能になったっていう まず 最初 日野っていう所に お寺が出来て」とのことでありました。それで、「両親が伺わせて頂きました。」と話しました。すると、その僧侶によりますと、「はいはい。日野の お寺が 手狭になったもんだから、今は 八王子」とのことでありました。すると、その義理の兄によりますと、「2回 あれですか」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「お寺は 2回」とのことであり、また その僧侶は笑い出しました。(因みに、父親は、3回 お店を建てています)すると、姉によりますと、「凄いですね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「ちょっとね。そういうことは あんまり ほんと なかなか出来ないことをすることが出来た。自分では 喜んでいる。自慢しているんですけどね。」とのことでありました。すると、その義理の兄によりますと、「それは、凄い」とのことでありました。すると、姉によりますと、「ハワイに行かれるところから、凄い。やっぱりね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「ハワイは、父が 戦前 コナっていう所に、ハワイ島のコナっていう所に、かいきょうしてて 父が 行った」とのことでありました。すると、姉によりますと、「それは 初めて聞いた」とのことでありました。そして、その義理の兄によりますと、「それは、凄いですね」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「父から いろいろ話を聞いて」とのことでありました。すると、姉によりますと、「コナって 有名ですね」とのことでありました。(因みに、コナ・コーヒーが有名ですね)すると、その僧侶によりますと、「(話しが長くなって、)御免なさい。」とのことでありました。それで、その僧侶が 会場の正面の狭い場所に 鞄を置きましたので、一言 「お持ちします」と断って もっと広い場所に移動しました。すると、その僧侶によりますと、「ここにも、また いろんなものがある。」とのことであり、その僧侶は笑い出しました。それで、上記の画像のように「母親が 旅行が好きで 全国を 旅行して お土産として購入した 品物があります。なお、宜敷かったら 選んで お持ち帰り下さい。」と伝えました。すると、その僧侶によりますと、「一番 高いものは どれかな。」とのことであり、その僧侶は笑い出しました。それで、「宜敷かったら、お帰りのときに 選んで頂いて お持ち帰り下さい。」と伝えました。すると、その僧侶によりますと、「はい。お勤めさせて頂きます。」とのことでありました。それで、「宜敷く お願いします。」と話しました。それで、本日は 母親の祥月命日でもあるので、誠に有り難いことに、その僧侶によりますと、「一緒に お参りしましょう。」とのことでありました。それで、姉と共に 「宜敷く お願いします。」と伝えました。すると、その僧侶によりますと、「お勤めさせて頂きます。一同に 合掌。」とのことでありました。それから、「なまんだぶ(南無阿弥陀仏)。なまんだぶ(南無阿弥陀仏)。礼拝。お直り下さい」とのことでありました。そして、読経(正信偈)が始まりました。因みに、今回は 初盆(新盆)のときのように 途中を 省略されることがなく、誠に有り難いことに 全編を読経して頂けました。なお、共に 唱和しました。序で乍ら、後になって 家政婦によりますと、読経(正信偈)が長いとのことでありました。それで、説明しました。「正信偈」は 親鸞聖人の作品でありますが、15分位 であり、浄土三部経と云われる 仏説 阿弥陀経に比べれば 短いと伝えました。因みに、仏説 阿弥陀経以外の浄土三部経は 仏説 無量寿経(仏説 大無量寿経) そして 仏説 観無量寿経であります。なお、釈尊は、師匠である 阿弥陀如来の弟子であるとされております。序で乍ら、阿弥陀如来の18願を お経に なされているのが 仏説 無量寿経(仏説 大無量寿経)であり、19願を お経に なされているのが 仏説 観無量寿経であり、20願を お経に なされているのが 仏説 阿弥陀経であるとされております。
そして、 読経(正信偈)が終了して、「白骨の章」が読み上げられました。序で乍ら、浄土宗では信徒、浄土真宗では門徒と云います。そして、その僧侶によりますと、「一言 述べさせて頂きます。」とのことでありました。
すなわち、
「一年が 早いものであります。こうして、元気に 皆さんと お会いすることが出来ましたこと、本当は 飛び上がって 喜ばなければなければいけないことではありますが、なかなか 当たり前のことのように、こうやって 一日一日を 元気に送らせて頂いて ほんとに 何時 何処で どうなるか 分からない 生命を思うと、よかったなと、これから 先のことが問題であります。明日になるやも知らん、この分からない 生命であります。しかし、私たちは 偶々 浄土真宗の御縁に合わせて頂いて、お念仏を申す身とならせて頂いて、『なまんだぶ(南無阿弥陀仏)。なまんだぶ(南無阿弥陀仏)』と 何ともないような言葉でありますけれど、何時 何処で どうなっても 大丈夫という、お念仏があるから 大丈夫だよと教えられている 何が 大丈夫なんだろうと思うけれども、阿弥陀様と いつも 一緒だよ、お慈悲の中だよ、いつか 愈々というときには 何が 大丈夫かと言うと 阿弥陀様が ちゃんと お浄土に連れて行って下さる、先に 行かれた方々と また お浄土で会うことが出来る、光と生命、知恵と慈悲を 仏様と会わせて頂くんだよ、これがあるから 大丈夫なんだって 言えるのでありますね。死にたくは ないけれども、渡りたくはないけれども、必ず そのときを迎えなければならない 私たちを それが一番の大問題であります、私たちにとってですね、しかし、この大問題が 解決されていく道が 『南無阿弥陀仏』であるということで、今日 こうして お勤めをさせて頂いて、お婆ちゃんのこと また お母さんのこと お父さんのこと また 朝子さんは 子供さんのことを思い乍ら、お経を聞かれたに違いありません。先に 行かれた方々、お浄土から ちゃんと見ておって下さる、今日のこの日を ありがとね、これから お念仏 大事に 頑張ってねって、『南無阿弥陀仏』に 私たちは 教えられて 導かれていくのでありますね。ほんとに ここに お邪魔する度にですね、父や母や誓願寺のことが 一杯一杯でですね、私も 非常に 懐かしいというか 嬉しいというか 誓願寺に戻ってきたような 感じがするのでありますが、私も 小さいときから お父さん、お母さん、お婆ちゃんにも、お世話になっておりますので、本当に 我家のような気もするのであります。不思議な深い御縁が と思い乍ら、お勤めをさせて頂いたことであります。また、来年は 三回忌、お母さんの七回忌、元気で居れば 参ります、また、宜敷く お願いします。はい、ありがとうございました。」以上であります。それで、「ありがとうございます。」と答えました。それから、喪主挨拶を致しましたが、その内容は、本日 すなわち 3月5日(日)の「父親の 一周忌での 挨拶」のブログに記させて頂きます。因みに、誠に有り難いことに 事前に打ち合わせをしていましたが、家政婦が 喪主様から とのことでありましたので、「喪主でいいです。(例えば、『弊社の社長』と言うように、身内をへりくだる言い方であります)」と伝えました。すると、僧侶によりますと、「○○さんから 一言 。はいはいはいはい(四回)」とのことでありました。
そして、喪主挨拶が終了して、上記のように 写真撮影に進みました。因みに、当方が まず 撮影しました。なお、ルーム エアコンを 二台で 最高温度で 入れたのでありますが、姉によりますと 自分は 足が冷えるからとのことでありました。そして、ルーム エアコンは 暖気が上に行くとのことでありました。序で乍ら、誠に有り難いことに、僧侶と家政婦は 何でもない。大丈夫。とのことでありました。因みに、姉によりますと、僧侶の傍に 電気ストーブを置かないととのことでありました。それで、電気ストーブは、ありました。但し、3月ではありましたが、誠に有り難いことに 暖かい日でありました。なお、姉には「気を付けます。ありがとうございます。」と伝えました。序で乍ら、義理の兄によりますと、私は息子ではない、血が繋 がっていないとのことでありました。因みに、義理の兄には、「お気遣いを頂いて、兄様です。」と伝えました。
姉によりますと、「正信偈だけは、暗記出来る。」とのことでありました。すると、僧侶によりますと、「何よりです。」とのことでした。そして、姉によりますと、「昔 小学校のときに お祖母ちゃんと 一緒に寝ていたんですね。裏の家で、そのときに 私が 寝ている横で お祖母ちゃんが、正信偈をあげて そのときは 全然 意識も 何にもなかったんですけれども、やっぱり 無意識の内に 入るんですね。今、全然 抵抗なく あげさせていただいている。只 意味が分からない」とのことでした。すると、その僧侶によりますと、「意味は分からなくても、大丈夫。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「いいんですか。」とのことでありました。(御承知のように、「般若心経」でも、意味が分かった方が いいとされていますね)
更に、姉によりますと、「あげさせてもらっている間は、『他のことを考えない。』っていうのが いいのかな。」とのことでした。(「他のことを考えない。」ということは、正しく その通りであり 誠に素晴らしいと思われました。すなわち、真の禅宗[某・大学に所属している 学問に染まった 禅宗の僧侶は、以下のことを否定します]でも 究極的には 「無念無想明鏡止水の境地」を目指しているとされています。しかも、釈尊が体得したとされる 摩訶止観でありますね)
すると、その僧侶によりますと、「考える。考える。」とのことであり、その僧侶は笑い出しました。そして、その僧侶によりますと、「でもね。お経をあげるっていうことは、凄い 不可思議の功徳がある、無量の功徳がある、お経をあげるっていうことは、意味が分かる 声を出して読む。」とのことでありました。その僧侶によりますと、「(姉に)子供さんを亡くして 何年になるか」とのことでした。すると、姉によりますと、「40年」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「大きな、大きな、子供さんが 大事なことを教えてくれている。」とのことでした。すると、姉によりますと、「まあ 一日も 欠かさず」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「それは 凄い。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「偶に、ちょっと サボって」とのことでありました。すると、義理の兄によりますと、「結局、自分の考え」とのことでありました。その僧侶によりますと、「亡くなった あなたの為ということよりも、自分の大事な人を亡くした 悲しみが 大きな 癒されるというか、悲しみを喜びに変えさせてくれる働きがある お経 ああよかったという思いを教えられる。」とのことでありました。そして、その僧侶によりますと、「一応 頂きますね。折角だから。」とのことであり、お供えの果実(国産の 温州蜜柑や国産の 旬である デコポン[不知火])も、持って行かれました。そして、姉によりますと、「車で どれ位 」と尋ねました。すると、その僧侶によりますと、「日曜日だから、空いていた。1時間 掛からない。今頃 道が いい道が 出来ている。えっと 国立インターで降りたのですけれど、根岸病院(母校の関連病院であります)の所を通って、ずっと行ったら あっという間に、横を通って、新しい道が出来ていた」とのことでありました。すると、義理の兄によりますと、「国立インターから降りますと、5~6百mで 甲州街道をぶつかる所を」とのことでした。すると、その僧侶によりますと、「右に曲がって」とのことでした。すると、義理の兄によりますと、「あの道路は まだ出来ていませんね。」とのことでした。すると、その僧侶によりますと、「まだ まだ出来ていません。」とのことでした。すると、義理の兄によりますと、「右に曲がって、直ぐ 左 曲がって、国立病院(実際には、東京都立多摩総合医療センターのこと)のところで、ああそうですか。」とのことでした。すると、家政婦によりますと、「食べて下さい。残しても しょうがない。(後日 家政婦に 『苺を勧めてくれて 誠に有り難い、この言葉を話してくれて。』との旨を伝えましたら、この家政婦によりますと、変なことを言った、言い方としては おかしいとのことでありました)」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「多いから。(苺が)三つの方にしよう。」とのことでした。(後程 家政婦によりますと、その僧侶は あまり食べないとのことでありました)
すると、義理の兄によりますと、「あのインターの所からの真っ直の工事 遣っている所が バッと通ったら、もっと早くなる。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「そうですね。」とのことでありました。すると、義理の兄によりますと、「何10年という」とのことでありました。すると、その僧侶が、また 笑っていました。すると、義理の兄によりますと、「府中街道に来られるようになる筈なんですけれど」とのことでありました。「時間 掛かってますね。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「なかなかね。車じゃ、怖い。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「妹も、お坊さんの資格がある。その息子が 、勿論 お坊さんになって、布教師と言うか、よく勉強して。頑張っています。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「よかったですね。土地を あれした甲斐がありましたね。」とのことでありました。そこで、家政婦に電話をして、この家政婦から「現像が出来た。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「この本(当家が 以前に購入した誓願寺の家宝の本のこと)を お借りしても いいですか。」とのことでありました。それで、「勿論 です。」と伝えました。すると、その僧侶によりますと、「僕、この本 ないとのことでありました。家内や息子やらに 見せてあげたい。どっかにあったと思うけれど。僕も、写っているんだよ。たぶん これが そうだよ。これが そう 私だよ。」とのことであり、また その僧侶は笑い出しました。すると、姉によりますと、「何歳位ですか。」とのことでした。すると、その僧侶によりますと、「何歳位だろうか。2~3歳じゃないですか。それ。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「お兄さん 二人 いらっしゃいましたよね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「二人共 兄は亡くなりました。」とのことでありました。但し、その僧侶は、二番目の兄(次男)のことを 「よく わからない。」との旨であり よく言いませんでした。
すると、義理の兄によりますと、「福岡の開墾地って どういう意味ですか。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「福岡の開墾地って、生れは 福岡の山の中なんです。」とのことでありました。すると、義理の兄によりますと、「それで、目白に出て来られたのですか。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「最初は 福岡から 目黒に 平町という所に」とのことでありました。すると、義理の兄によりますと、「無一文で 上京」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「平町から、今度は 世田谷区の砧、そして、砧から 南長崎に、それで、南長崎で誓願寺っていう それ以前 『しんぎょうじ』っていう お寺が 今でもあるんですが、練馬の『しんぎょうじ』の布教所だった所が 誓願寺なんです。」とのことでありました。すると、義理の兄によりますと、「昭和30年に 無一文で 上京。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「私が3歳」とのことでありました。すると、その僧侶が笑いました。そして、義理の兄によりますと、「凄いな。代々の お寺かと思ったら、違う。」とのことでありました。それで、「お祖母ちゃんが 世話人になっていた。」ことを伝えました。
その僧侶によりますと、「この本をお借りして、送ります。」とのことでありましたので、「来年の三回忌のときに 序でで いいです。」と伝えました。すると、その僧侶によりますと、「済みません。どっかにあったと思うのだが」とのことでありました。それで、「大事なもの(お布施のこと)を お持ち下さい。」と話しました。すると、その僧侶によりますと、「お布施は、直接 お渡しして頂けたらと思います。私が こうではなくて。」とのことでありました。それで、「失礼しました。」と伝えて 綺麗な「袱紗」の上に載せて 手渡しました。そして、義理の兄によりますと、「(僧侶に)お気を付けて。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「八王子の方にも 是非 いらして。」とのことでありました。(後になって 家政婦によりますと、これが本音であろうとのことでありました)
そして、続けて その僧侶によりますと、「懐かしい写真が 一杯 あって。」とのことでありました。そして、トイレとのことでありました。すると、姉によりますと、「小さい頃 この掛け軸とかを見ると、何か お祖母ちゃんのことを思い出します。ここに来ると。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「本当だね。ちょっと もう1度 見ようか」とのことでありました。すると、姉によりますと、「どうぞ」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「何時 だろうか。これ。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「母の」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「お母さんの。ここは、僕の」とのことでありました。すると、姉によりますと、「3年前の母の三回忌(実際には、4年前の初盆[新盆]) 来て頂いて。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「これは、お祖母ちゃんの、盛大でしたね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「このときは 僕は 居ないわ。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「これは、しんさんですか。」とのことでありました。それで、その僧侶によりますと、「これは 庄野さんの奥さん」とのことでありました。すると、姉によりますと、「この前に座っている人は。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「この人は、千葉さん(写真の隣に書かれてありますので、それを読んだのであると思われます)。あそこに、近くでしょ。それで、西沢さん(この苗字も、写真の隣に書かれてありますので、それを読んだのであると思われます)、そして、庄野さん、そして、私の母です」とのことでありました。すると、姉によりますと、「お母さん、綺麗だったんですよね。綺麗なお母さんだなって思って。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「『ふはらさん』て、照恩寺の前に 彼が 居たんです。」のことでありました。すると、姉によりますと、「そうなんですか。まだ お若いですね。」 とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「(自分の若い頃の写真を見て、)若い。これは、僕が 日本に帰って来たとき、帰って来てからだよね、確かね。これも、まだ 新しいときだね、この建物が。」とのことであり、また その僧侶は笑いました。すると、姉によりますと、「掛け軸があって」とのことでありました。すると、義理の兄によりますと、「(写真のこと)一杯 撮ってあるな。本当に。最初から 取ってある。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「感心する位。捨てられない。(『捨てられない』ということは、投影[英語:project][心理学用語]しているのであります。また、姉によりますと 父親は お金が好きだ とのことでありますが、これも、自分のことを投影しているのであると思われます)」 とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「○○さん(当方のこと)の あの記憶力の 良さって やっぱり ああ遣って いつも書いているから(ブログのこと)だろうね。」とのことでありました。すると、姉によりますと、「そうですね。」とのことでありました。すると、その僧侶によりますと、「(父親の亡くなった) 時間迄 覚えている。何月何日。」とのことであり、また その僧侶は笑いました。
なお、この数分前から 一階で待っていましたが、なかなか降りてきませんでした。それで、もう1度 2階の会場に行きました。すると、丁度 その僧侶の言葉が 話されたときでありました。それで、その僧侶によりますと、「御免なさい。」とのことでありました。すなわち、誠に有り難いことに、陰口を話されていますと、勘で 分かるのであります。
次に、その僧侶によりますと、帰る際に 勿体ないとのことでありました。そして、正味 2時間、すなわち、午前11時半頃に、帰りました。それで、大量の引き出物などを その僧侶の自家用車に運びました。すると、その僧侶によりますと、沢山で 一杯だね、との旨でありました。
そして、当家の前の道路を渡って 反対側の歩道から、僧侶の自家用車が 当家の駐車場から 無事に出ることが出来るように 誘導しました。それから、見送りました。
なお、義理の兄が、当家の 家財道具を 足で どけました。
ときに、去る 昨年の3月11日(金)の「父親の食事(カレーうどん)、洗濯 そして 入浴・258(柚子湯)」のブログの中段やや下に、
「(前略)本日 すなわち 3月11日(金)の『父親のこと(令和4年)』のブログに記させて頂きますように、これが、父親の最後の お風呂になりました。 因みに、柚子の実を入れた 風呂のことを 前述致しましたが、その柚子の実も 最後でした。(後略)」と記させて頂きました。
それから、暫くして 姉夫婦が帰りました。それで、誠に有り難いことに、帰り掛けに 姉によりますと、当家の柚子の木は 南向きであるから、柚子の実の出来がいいとのことでありました。 因みに、上記のように、柚子の実を あげました。すると、前述致しましたように、姉によりますと、今年は 柚子の実が 実らなかったので、誠に有り難いことに、助かるとの旨でありました。
そして、姉夫婦は 自転車で見えたので、最後 見えなくなる迄 見送りました。 因みに、帰り掛けに 昼食のこと 申し分けないと伝えました。
ところで、姉夫婦が帰った後 ヘルパー(日本語:家政婦)によりますと、義理の兄が びっこを ひいていた とのことでありました。
また、その家政婦によりますと、お茶の 代わりのことで 熱いのを入れて欲しいと言われて 介入されたとの旨でありました。 因みに、電気ポットは 熱湯で 設定しておりました。なお、その家政婦によりますと、急須の中の 冷めた お茶を捨てる容器を持って行かなかったとのことでありました。序で乍ら、誰に 何と言われても、お茶のことは その家政婦に任したので、思うとおりに 遣ってもらっていいと伝えました。
ならびに、その家政婦によりますと、義理の兄は お茶は飲むが、いつも 果実のような 食べ物には 手を付けないとのことでありました。
および、僧侶は 風通しをよくしてくれると その家政婦に話しました。
(再度 半角で 6万文字以内という字数制限に達しましたので、次 のブログ記事に この続きを記させて頂きます。なお、義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)