12月7日 父が生まれた日 | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

1921年(大正10年)3月3日、当時の皇太子殿下、つまりのちの昭和天皇は欧米への旅に出発した。

当時の首相は原敬。

爵位を持たない初めての総理大臣であり、平民宰相と呼ばれた。

 

原敬首相は、皇太子の洋行の実現にもっとも熱心であった。

元老の山県有朋などは、それを単に皇太子の教育という範疇で捉えていたが、原首相は少し違った。

皇太子の洋行を通じて、国民の視野が広がり、国際社会における日本の位置を、国民が自覚することを期待していたのである。

第1次世界大戦後の欧米を訪問し、イギリスではホームステイを楽しんだ皇太子が帰国したのは1921年の9月2日。

のちの昭和天皇の骨格は、この旅で作られたといってもいい。

 

皇太子がヨーロッパに滞在中の7月、原内閣はワシントン会議への参加を決定した。

アメリカ大統領ハーディングが提唱したこの国際会議は、第1次世界大戦後の新しい国際秩序の構築と世界共通の利害である海軍の軍縮を志向したものであり、翌年には世界で最初の軍縮条約であるワシントン海軍軍縮条約が締結される。

この条約から20年後に太平洋戦争がはじまると思うと、1921年という年の素晴らしさを感じる。

 

同じ年の10月19日、原敬首相の養子の貢がイギリス留学に旅立った。貢は慶應義塾大学に在学中であったが、若いころに外国を知るべきだと父の意向に従い、イギリス留学をすることになった。

日本は決して世界に対し、閉鎖的であったわけではない。

 

その原首相が暗殺される、

1921年の11月4日のことである。

いまなお、東京駅の丸の内南口の券売機の横には、原敬首相の暗殺現場の目印が残されている。

 

それから約1か月、1921年の12月7日、父は生まれた。

原敬があと1か月生きていれば、父は同じ時代を少なからず生きていたことになる。

 

その後、父が成人していく時代は、日本にとっては過酷であり激動であった。

少し年表風にまとめてみる。

年齢は父のものである。

 

1歳(1922年)  関東大震災

5歳(1926年)  金融恐慌 昭和元年

10歳(1931年) 満州事変

15歳(1936年) 二・二六事件

20歳(1941年) 太平洋戦争

 

まるで日本史の教科書を見るようであり、あの時代を父がどのような想いで生きていたのか考えさせられる。

 

父は物理学者であった。

しかし、歴史や思想に造詣が深く、勉強をまったくしなかった私に、様々な歴史の本を与えてくれた。

小学校6年生の誕生日に買ってもらったのが、中央公論社の『日本の歴史』26巻であり、どこかの古本屋さんで購入したのか昭和42年版(1967年)である。

この全集を何度も読み返したのが、私の歴史の原点であり、いまなお本棚の最上段に鎮座している。

 

父は、原敬が遭難した年に東京で生まれ、翌年には関東大震災を体験し、20歳の誕生日の翌日から太平洋戦争が始まった。

戦後直後にはアメリカで5年間の日々を過ごし、縁もゆかりもなかったら名古屋で大学教員の生活を送り、東日本大震災の翌年に、伊豆半島の修善寺の小さな病院の一室で人生を終えた。

 

不肖の息子は、いまなお父に報告できるようなことはない。

ただ、病床にあった父に、産経新聞のエッセイ大賞を受賞したときに、意識も定かではないはずなのに両手をあげて万歳をしてくれたことが、唯一の孝行だったように思う。

 

父は生きていれば97歳。

あの時代を生きた人たちには、今の日本はどう映っているのだろうか。

父は晩婚であり、祖父もまた晩婚であった。かくいう私も晩婚であったため、娘の曽祖父は1889年(明治22年)、つまりは大日本帝国憲法が公布された年だ。

 

歴史とは本当は極めて身近であり、人の一生はすべてがドラマである。

最近は、そうした過去の親族や先人たちが、その人生の一瞬一瞬で何を思い、何を考えて生きていたのかを想う。

 

歴史を知り、学び、考え、教えることで未来に繋げていく、満足にそれができるわけではないが、それが私の使命であり、そこで多くの生徒たちが少しでも学問を学ぶことで理性を育て、より良き人として成長してもらうことが、願望である。

 

12月8日はNHK文化センターで歴史講座を行ってきた。

父の話もたくさん出させていただいた。

難しいことを学ぶことがすべてではなく、楽しく興味深く歴史を知ってほしい。

すると、きっと視野が広がり、様々な真理に近づけるようになるのではないだろうか。

 

もっとも、父は私がこんな講座を担当すると聞いたら、

 

「お前にそんなことができるか」

 

と叱られそうである。

 

 

12月7日。

とりとめもなく、そんなことを想う一日である。