魂の唄
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まさかの大吉♪

さらに吉

またもや吉

おっ、やや上がった❗

さらに小吉

またもや小吉

ゆっくりといこう

ふっとわきでてくるようにできてしまう唄は、
ときに、非常に残酷だ。
自分の今の心境と正反対のものがでてきたりする。
そんなときにかぎって、みょうに、気に入ってしまったりするから、
こまったものだ。

「ゆっくりといこう」

しんごうがかわって おもわずだっしゅでかけだしてしまったけど
きょうはにちようび そんなにいそがなくていいんだ
にちようびだからって とくべつよぶんにじかんがあるわけないから
あしたからもすこし しごとにふりまわされるのはやめよう

ゆっくりと ゆっくりとあるこう いちどだけの じんせい 
ゆっくりとゆっくりとあるこう そして すきっぷなんかもしてみよう

しごとがなくなっても あめつゆしのげるばしょがあるうちはいいじゃない
やちんはらえなくなったら にもつをまとめてたびにでてしまおう
このさいだから いったこともないだれもしらないところへ
きずかなかった とってもあたらしいぼくにあえるかも

ゆっくりと ゆっくりといきよう いきてるうちはわらってくらそうよ
ゆっくりと ゆっくりといきよう そして こいなんかもしてみよう

哀しみにおきかえて

同じ気持ちで歩いてきたと思っていた仲間から、
ある日急に突き放されてしまい、
かなりへこんでいます。

怒りを真正面からぶつけられ、
受け止めきれず、跳ね返すことも出来ず、
ただ、受け入れてしまって、
どうしょうもなく、苦しくて、
そんな気持ちが、唄になってくれました。

ほんの少し、軽くなった、
そんな気がします。


「哀しみにおきかえて」

一番の友達だと 信じていたのに
ある日突然 他の誰かと
僕を 取り囲み
投げつける視線 痛い
何故だか わからない
涙で 言葉に ならない
哀しみの 涙の粒に 置き換えて
青い 波に 揺られ 眠り つつまれ
薄まり 溶けて 海のお腹に 帰ってくように

流されてゆく

再び唄い始めるまでは、気付くことが出来ないでいたこと。唄いはじめてしばらく経って、ようやく、感じはじめていること。
去った年に、亡くなった女性がいて、彼女の両親を訪ねて、お参りをさせてもらった、その、帰り道。
吹き出すように、あふれてくる涙をこらえるのに懸命だった。電車の中で、ずっと、上を向いていた。
涙が嗚咽に変わるほんの少し手前で、一粒一粒の雫が言の葉に生まれ変わっていった。
彼女の生まれ変わりとして、よみがえった唄は、聴くものに何かを与え、何人もの人が、会ったことのない、そして決して会うはずのない彼女のために涙した。
唄は、生命を受け、静かに広がり続けているのだけれど、彼女の両親はまだこの唄に出会っていない。これまでに、何度か、その機会はあったはずなのだが、何らかの理由でかなわないでいる。
年が明けて早々にも、意を決して訪ねて行ったのだけれども留守で、ようやく電話がつながったのは、始発駅に戻った時だった。
唄い始める前だったら、そのまま、とんぼ返りをして、押しかけてしまっていたかも知れない。しかし、なぜか、まだ、会わない方がいいのだ。と誰かに、諭されているような気持ちになって、あらためることにした。
あらがわず、なれあわず、とどまることなく、流されてゆく、そんなことがあるのだろうか。

自分が自分でなくなってしまうという感覚

音楽から遠ざかって20年、こんな展開になろうとは思いもしなかった。2004年のある日、魂の奥底から湧き出てくるようにして紡ぎ出されてきた唄の群れ、それは文字通りの「群れ」であった。そして、ミエナイチカラに突き動かされるように、唄い始めた。
年が明けて、この不思議な出来事を、自分のために整理して理解してみようと思い立った。いや理解できないであろう事は何となく感じているし、そもそも、理解する必要なんてないのかも知れない、とも思っている。僕は僕でしかないのだから。
だから、せめてリアルタイムで記録しておこうとblogを始めることにしました。もう少し、頭の中を整理してから、ゆるゆると書き始めようと思っていましたが、すでに、訪れてくださった方が、いらっしゃいますので、感謝の気持ちを込めて、御挨拶申し上げます。
自分が唄っている記録としてのURLやblogはあえて、公開もリンクもしないつもりです。このblogが、どちらかと言えば、あちら側のものだからです。
ですから、こちら側の誰かが、このblogを見つけてしまった時点で、このblogを閉鎖することになるかも知れません。
このblogを御覧になった方で、僕のこちら側の活動に御興味を持たれた方は、プライベイトに御連絡いただければ、折り返しURLをお知らせ致します。まとまりがなくてすみません。