ある日、アメリカから来日していた友人が怪我をしました。
ログハウスを作っていて、二人で丸太を運んでて、一人が手を離してしまったのです。後ろを持っていた彼のお腹ににログがズドン!!とぶつかりました。
触れば分かる。肋骨は折れてしまいました。恐らく激痛。
「病院いかないの?」と聞くと
「病院行っても包帯巻いて固定とかするだけで何も出来ないでしょ」
と言ったそうです。
その数日後、私も彼と話をしたのですが、そのやり取りが今でも考えさせられる。
英語でのやり取りです・・・
「肋骨折れてるんだって?」
「うん」
「病院行かないらしいけど、ちなみに病気になったらどうするの?」
「この山には薬草がいっぱいあるからそれで治すよ」
「病院行かなきゃ治らない病気になったらどうするの?」
「まあ、死ぬんだろうね」
いかがでしょう。
病気にかかる=死
というのは、私にとってそこまでイコールではありません。
病院で治らない病気にかかる=死
かな。いやむしろ
病気にかかる=病院行かなきゃ
くらいかもしれません。
死の可能性をつきつけられて初めて死を意識する。という感じでしょうか。
そんな現実を突きつけられたら・・・
悲しくてめそめそと泣き続ける人も居るかもしれません。
人格まで変わってしまい、病院で看護婦さんに当たり散らしたりする人も居るかもしれません。
とにかく、突発的な事故以外では、病院で手に負えない病気にかかってしまうというのは重大なライフイベントであるには間違いありません。
しかし、アメリカ人の彼にとっては、死は誰にでも降りかかるイベントの一つ。受け入れるとか受け入れないとかではないわけです。だからって頑張らないとかではなく、自分の運命に従うのみ。といった感じです。
死が訪れる=死ぬ
死が訪れない=使命に従う
というブレない感じでしょうか(彼がそう思ってるかは知りませんが(笑))
なんとなく、僕の常識にある死と、彼の死があまりにかけ離れすぎて居るのでいつも思い出しては色んな事に考えが及びます。
事実は操作する事は出来ないが、自分が事実をどう解釈し、どう行動するかは完全に操作出来る。近い将来に臨終を迎える事が確率的に高くなった時、自分がどう受け入れてどう振る舞うのか。
その時に向けて自分がどのような心の修練を今しておくべきなのか。
誰にでも100%やってくる死というイベント。どう迎えるのが正解なんでしょうね。