進藤龍也牧師のヤクザな日記

進藤龍也牧師のヤクザな日記

私がヤクザから牧師になった人生が真実の様に聖書の話はありえない!信じられない!ような真実の話です
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自分の十字架を歩むとは?


[マタイの福音書 16:24]


 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。


【十字架の意味】

ここで書かれている十字架の意味は2つある。自分の罪のために代わりとなってくださったキリストのために生きること。そしてもう一つは自分の使命に生きることである。つまり神様がこの世に送り出した、その計画の人生を歩むことである。最初はもしかしたら自分の意にそぐわないかもしれない。しかし、御心とマッチした生き方は充実する。


【苦難でも幸せ】

この自分の十字架を負う。人生と言うのは、パウロのように苦難から苦難への人生であったとしても充実していると言える。また弱い時にこそ私は強いと言える。本当の強さとは感情に振り回されないことであり、ぶれない人生であり、ぶれても戻る人生である。正しく理解し、正しく判断して正しく行動できること。


【苦しみの中で成長したダビデ】

私が口癖にしている、みことばがある。

毎年、この時期になると、通読箇所で読むから今年も書く。


[サムエル記 第二 4:9]新改訳第3版

「私のいのちをあらゆる苦難から贖い出してくださった主は生きておられる」


適用

十字架を歩む。人生とは、まさにダビデのこの信仰告白である。あらゆる苦難から助け出される神は生きておられるのである。


見返りを求めない愛とは何と平安であろうか。たとえ期待通りがなくても裏切られても教えたことを守らなくても平安である。正しいことを誠実に行っている事は神様がご存知である。


祈り

あなたは生きておられます。なんと幸いな人生に私は変えられたことでしょうか。感謝しかありません。あらゆる苦難や迫害から私の命と私の働き場を拡大してくださった神は生きておられます。アーメン











将軍ヨアブの不従順は「うぬぼれ」プライドから!


ダビデ王の軍隊の中で最高権力者ヨアブはダビデが「扱いきれない」、「手強すぎる」と、頭を悩ませた部下である。


ヨアブは大きく2度、ダビデに逆らう。

その1度目が今日の2サムエル記3章の出来事である。


サウル王からダビデに王位が移るその時期である。鍵を握るのサウル王朝の将軍アブネルであるが、これまたサウル王朝のヨアブみたいな部下なのだが、、、


ヨアブの弟アサエルは、このアブネルに殺されているので敵討をするのだが、それだけだろうか?


ダビデと契約を結んだことを知らなかったのか?いずれにせよ、彼の復讐心の裏には【俺はダビデ王から聞いてねーし】みたいな反抗心があったのではないかと思う。プライドの兆候の中に、なんでも知らなければ気が済まないと言うのもある。

「王様、なんで俺に相談しねーんだよ」って。


また、ダビデに呪われた部下も珍しい。

(2サムエル記3:29)


適用

現代の教会においても腹心中の腹心が従順であることが大事。

自分もスタッフもヨアブにならないことが大切。

愛し合うことをいつも求める。


[サムエル記 第二 3:20,21,22,23,24,25,26,27,28,29]


アブネルは二十人の部下とともにヘブロンのダビデのもとに来た。ダビデはアブネルとその部下のために祝宴を張った。

アブネルはダビデに言った。「私は、全イスラエルをわが主、王のもとに集めに出かけます。彼らがあなたと契約を結び、あなたが、お望みどおりに王として治められるようにいたしましょう。」ダビデはアブネルを送り出し、アブネルは安心して出て行った。

 ちょうどそこへ、ダビデの家来たちとヨアブが略奪から帰り、たくさんの分捕り物を持って来た。しかし、アブネルはヘブロンのダビデのもとにはいなかった。ダビデがアブネルを送り出し、もう安心して出て行っていたからである。

ヨアブと、彼とともにいた軍勢がみな帰って来たとき、「ネルの子アブネルが王のところに来たが、王がアブネルを送り出したので、彼は安心して出て行った」とヨアブに知らせる者があった。

ヨアブは王のところに来て言った。「何ということをなさったのですか。ご覧ください。アブネルがあなたのところに来たのです。なぜ、彼を送り出して、出て行くままにされたのですか。

あなたはネルの子アブネルのことをご存じのはずです。彼はあなたを惑わし、あなたの動静を探り、あなたのなさることを残らず知るために来たのです。」

ヨアブはダビデのもとを出てから使者を遣わし、アブネルの後を追わせ、彼をシラの井戸から連れ戻させた。しかし、ダビデはそのことを知らなかった。

アブネルはヘブロンに戻った。ヨアブは彼とひそかに話そうと、彼を門の内側に連れ込み、そこで彼の下腹を刺した。こうして、アブネルは、彼がヨアブの弟アサエルの血を流したことのゆえに死んだ。

後になって、ダビデはそのことを聞いて言った。「ネルの子アブネルの血については、私も私の王国も、主の前にとこしえまで潔白である。

その血は、ヨアブの頭と彼の父の家の全員に降りかかるように。またヨアブの家には、漏出を病む者、皮膚をツァラアトに冒される者、糸巻きをつかむ者、剣で倒れる者、食に飢える者が絶えないように。」


祈り

これまで、長い間、罪友教会を支えてくれた長老たちに感謝すると同時に、新しいスタッフたちも主の弟子として成長していくために精霊様働いてください。また私が飢え乾いて、あなたを求める心をおつくりになってください。
















将軍ヨアブはいません!


[歴代誌 第一 11:10]


 ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、ダビデとともにその王権を強固にし、全イスラエルとともに、イスラエルについての主のことばのとおり、彼を王とした人々である。


観察

サウル王は死にユダ族だけであるが、ダビデがユダ族(12部族で一番大きい)の王となった。

預言的に預言者サムエルが油を注いで、実に苦しみの逃亡生活はゆうに8年以上続いていた。しかしそれがダビデの神からの訓練期間であった。


その苦しみの期間、ダビデと共に苦しみを味わってきたダビデの勇士たちの名簿がある。もともとはどんな人たちであったのか?


[サムエル記 第一 22:2]


そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。


黙想

開拓時代初期から、また中期から教会にいる人たちはみな、ダビデの勇士たちだと感謝した。


ダビデ軍の軍事最高司令者、将軍ヨアブが名簿にない。


ダビデが王になってからの苦しみは、なんと味方からだった。しかも、自分が権力を与えた将軍の不従順である。これは教会において、牧師が一番悩む事例ではないか。


[歴代誌 第一 11:6]

そのとき、ダビデは言った。「だれでも最初にエブス人を討つ者がかしらとなり、長となる。」ツェルヤの子ヨアブが最初に攻め上ったので、彼がかしらとなった。

 

【しかしダビデの悩みの種となる】


[サムエル記 第二 3:39]

この私は油注がれた王であるが、今日の私は無力だ。ツェルヤの子であるこれらの者たちは、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行う者に、その悪にしたがって報いてくださるように。」


共同訳では、【手に余る】と訳される。

そんなスタッフや長老、執事は嫌だなぁ、、、そう言う問題は良くある話だ。


ダビデの街、エブスの周りを再現したのもヨアブである。多くの戦いで勝利をもたらせ天下統一を果たす立役者であるダビデ軍の将軍ヨアブ。しかし、彼はダビデの勇士の名簿に名前は無い。むしろ、ダビデの息子、ソロモンの時代に粛清されている。


適用

信仰と従順はセットである。

神に立てられた器に対しても同じである。

ダビデはおかしくなってしまった。サウロでさえ、神に立てられた器として従順を果たす。ダビデを見習いたいものだ。


聖書は軍事的な誉れではなく、神に建てられたダビデをどれだけ愛して、従順になれたかを評価している。それがダビデの勇士たちだ!


祈り

私の神よ、私もどれだけの人がこの教会を一緒に立て上げてきたでしょうか。そのシーズンの中で既に去っていったものもいますが、彼らが立て上げたものもあります。私の不出来も認めます。人間関係を諦めて、愛することを諦めて、傷ついて去って行った人もいます。責めるのではなく思い出しては、これからも感謝を持って祈っていこうと思います。アーメン

















ダビデの哀歌


[サムエル記 第二 1:23]


  サウルもヨナタンも、

  愛される、立派な人だった。

  生きているときも死ぬときも、

  二人は離れることはなく、

鷲よりも速く、雄獅子よりも強かった。


観察

とうとう命を狙うサウル王が死んだ。

殺すことは二回もできたが神ご自身が裁くことを信じて忍耐した。

そして戦争でサウル王は死んだ。


私がダビデの立場だったら、喜んだと思う。不謹慎なので、喜びは出さないが、心の中で安堵したと思う。


しかし、ダビデは心から悲しんだ。

これが神の心である。


ダビデはサウル王に取り立てられ千人隊長になり、華々しく世に出た感謝を忘れなかったのだ。


愛されたい人に憎まれると言う辛さをダビデは味わった。

愛しても愛しても拒絶されると言う辛さを味わった。

ただただダビデは拒絶されても愛することを選んだ。神のようではないか。


人を愛すると言うことは何なのか?

人を赦すと言う事はどういうことなのか?それをこの哀歌は教えてくれる。


祈り

のように、素直にまた神の御心近くに生きていきたい。ダビデは歌いました。あなたの庭にいることが私の幸せなんだと。言い換えれば臨在の中にダビデはいつも痛いと願いました。私もそのように思っています。あなたの大庭にいつもいられますようにアーメン














それぞれの役割と働き(1サムエル30章)


【人間的な策の中では成功しない】

ダビデがサウル王から逃げるために、敵であるペリシテの領内に逃げ込む。確かにサウル王は追うのをやめた。しかしそれはダビデの人間的な策であった。この判断に際して「祈った」ことは記されていない。


ペリシテは「罪」の象徴、悪魔の陣営と比喩できる。今のパレスチナという地名もここからきている。


人間的な考えで、あくまの陣営のなかで、悪魔の陣営の中に隠れたダビデ部隊は、アマレク人(宿敵であり悪魔の象徴)に留守を襲われて女房子供全てを奪われてしまう。御心にそれでいくと悪魔の餌食になることを教えている。


【人類救済十字架の雛形】

そこでダビデは本気で主に求め、祭司の衣装であるエポデを身にまとい神に伺いを立て、アマレク人を追いかける。そして全てを取り戻す。これも、全人類を取り戻すという神の計画の雛形である。


【それぞれの役割と働き】

そこで面白いのは、ダビデの部下600人(400人から増えている)のうち、200人が疲れてついていけず、荷物の番をしていたということ。実際に最後まで戦って来た者と同じ分前をもらうことである。

これは、罪人の友 主イエス・キリスト教会に似ている。

私が神に呼ばれて地方でメッセージを語り伝道しているとき、留守を守る聖徒たち。これは私と同じ働きである。私の留守だからこそ、来て礼拝を守り、新来会者を受け止める人こそ、同じ恵み、祝福に預かるのだ。


[サムエル記 第一 30:1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,

...........

17,18,19,20,21,22,23,24,25]


ダビデとその部下が三日目にツィクラグに帰ったとき、アマレク人はすでに、ネゲブとツィクラグを襲っていた。彼らはツィクラグを攻撃して、これを火で焼き払い、

そこにいた女たちを、子どもも大人もみな捕らえ、一人も殺さず、自分たちのところへと連れ去っていた。

ダビデとその部下が町に着いたとき、なんと、町は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。

ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

ダビデの二人の妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。

ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。

 ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。

ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

ダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残ることになった者は、そこにとどまった。

ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡れなかった二百人の者が、そこにとどまった。

............

ダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを討った。らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかは、一人も逃れることができなかった。

ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。

子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。

ダビデはまた、すべての羊と牛を奪った。兵たちは家畜の先に立って導き、「これはダビデの戦勝品だ」と言った。

 ダビデは、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来た。彼らは、ダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデは、この人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。

ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」

ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。

だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」

その日以来、ダビデはこれをイスラエルの掟とし、定めとした。今日もそうである。


適用

留守を守ってくれるスタッフ、聖徒たちに感謝。同じ働き人として主の報いをさらに祈る。


祈り

妬み、やっかみを封印します。人を生かす心、言葉を選択する群れでありますように。霊的家族がこのキリストの体なる教会に出入りする術を教えることが私にはわかりませんから、あなたの知恵を求めます。アーメン
















全ては自分に帰る、種まきの法則3


[詩篇 109:17]


 彼が呪いを愛したので

 それは自分に返って来ました。

 祝福を喜ばなかったので

 それは彼から遠く離れました。


観察

ダビデの讃歌

敵に復讐することは神のすることである。

神が復讐なさることはサムエル記を読めばよくわかる。その主人公のダビデの賛美。


適用

敵がいる時こそ、ダビデの賛美、詩篇を朗読する。

自分ではなく、神が正しく裁かれることに委ねることができるからだ。 


祈り

私の赦し切れていない、傷ついた心を癒してください。また、いつも無条件の赦しを私は選択して宣言して諦めません。全てはあなたに無条件で赦されたからです。アーメン




















死刑囚になったヒットマン(文藝春秋)で削除を余儀なくされた私の言葉。

私の言葉(文章)なので文藝春秋としても、絶対残したい私の言葉であったが、著者である死刑囚の小日向が、これを消さなければ、出版させないと、私にも出版社にも譲らなかったので、折れることにした。

私としては、死刑囚になったヒットマンという本は出版する、出版しないもどちらでも良いことであった。しかし、彼の本を作ると決めて、動き始めた多くの出版社の方々の苦労が水の泡になることだけは避けたかった。それだけである。社会人として、当然のことだろう。

私としても、実はグッと堪えて腹におさめた私の言葉もあったのだ。しかし、世に出てみれば、世に出す価値はあったと私は思っている。

【ヤクザとして、山田死刑囚の方が正しかった】

【彼とも会いたいが彼は現役を貫いているので会うことはできない】

【この事件について、また、実行犯の相違についてはフラットにみなければならない】

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163917764

キリストに出会ってクリスチャンとなり、牧師を目指す人がたくさん受刑者にはいます。しかし、9割は社会に出たら、すっかり忘れるか、最初の数ヶ月、あるいは長く持って1年あたりで、脱落していきます。最悪なのは刑務所に帰ってしまう人もいるし、世の中に染まり、刑務所に帰らずとも、教会には来なくなると言うパターンが多いです。私もなんだかんだと言って出所して20一年目、教会開拓伝道19年目です。教会の始まりからずっと刑務所伝道しています。10人に1人、クリスチャンとして礼拝者として残ればいいほうじゃないですかね?!


⭐️さんはとっても恵まれております。親が引き受け人になってもらっていて、頭も良さそうだし、刑務所の中で免許も取れて、地も綺麗で信仰があり可能性が十分にあります。なんと素晴らしい受刑者でしょうか私とは雲泥の差があります。こんな私でさえ、泥噛むような苦労の中で、やり遂げ今があるのは信仰のおかげです。苦労を若いうちにしたほうが良いとよく言われますが、本当に身に染みました。


学歴があるのでしたら、JTJなんかに行かずに、もうちょっと良い神学校なら、牧師としての職にありつけるかもしれません。JTJは学歴なので、あるいは独立組織なので牧師になったからと言って給料が出るわけではありません。テントメーカーでパウロのように自分で働いて自活をして大変な苦労をせねばなりません。しかし、夢だけはあり、そしてそのような苦労の中にこそ、キリストは現れてくださると言うことを私は嫌と言うほど味わっておりますただあなたにそれを進めたいとは思いません。


どの道、出て来なければわからないことですが、あなたの夢が神から出たものであれば実現します。しかしご自分の強い信念と努力がセットであります。あなたは何を何を見ているのでしょうか?あなたは誰と見ているのでしょうか?それが大事です。


私が刑務所で描いた夢は後から思えば神からのものであったなと言えるのは、どんな障害やどんな敵やどんな迫害にも耐えることができたこと、また思い描いた以上の現実として今があると言うことです。


私はその人の可能性を見るのが仕事です。あなたにはそれがあります。しかしそれを生かすも殺すもあなた次第です。主は本気の人を求めておられます。それは今もう既に始まっているのです。あなたの失敗や刑務官の失態などで、腐ることもできますし、キリストにならって敵を祝福し、赦すこともできます。これは訓練であります。刑務所での涙はたいしたものではありません。本当の悔やし涙は社会に出てから充分あります。そのために今訓練されていると思ってください。


山形牧師によろしくお伝えください。

あなたの信仰の通りになりますように。主エスキリストの名前によって祝福します。アーメン

























自分の霊に聴き素直になること


もう10年以上前のことなので、1つの出来事をお話ししたい。私の母教会の悪口を並べ立てて罪友教会に行きた人でした。このような霊的な状態で母教会へは戻っていかないだろうと判断。またここで受け入れなければヨソに行き悪口を並べ立てるだろうと判断し「赦し」と言うものを教え「赦し」を決断していくならば、受け入れると条件を出して受け止めた。母教会への私の配慮でもある。


ある時、またSNSで個人攻撃をしていたので、注意をすると、私の悪口を個人的にあちこちでSNSで書き始めた。もちろん教会には来ない。やられたなと思った。傷ついた人は人を傷つける。


これは、主の戦いなので祈り倒し祝福し倒した。すると、雨の日やってきて土下座をして謝罪をしに来た。もちろん無条件で赦し神を褒めたたえ帰した。


しかし、少し経つとまた悪口を書き始めた。

聖なる怒りも込み上げてきたが、同じように無条件で赦す祈りを捧げていた。

すると、その人が亡くなられ葬儀したとある牧師先生から連絡が入った。その牧師は旧知の中である。間違いない。脳溢血で突然死だった。お母様からお手紙がいくからという。その手紙にはこう書かれていた。

「進藤龍也牧師のことは毎日のように子供から聞いておりました。進藤牧師を子供は慕っておりました。自慢しておりました。生前はおせわになりました。」


私はありがたくなかった。馬鹿野郎!なんで素直になれなかったんだ。頭の中に働く悪魔の声に耳を傾けて、嫉妬、妬み、孤独、独占欲に耳を傾けて、どうして自分の霊、聖霊様に聞き従わなかったのか!私は泣いた。馬鹿野郎!と。


今日のみことばを毎年読むたびに思い出し祈る。


[サムエル記 第一 25:34,35,36,37,38,39]

イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。」

ダビデはアビガイルの手から、彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、家へ上って行きなさい。見なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」

 アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは、自分の家で王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上機嫌で、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。

朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。

十日ほどたって、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。

ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「主がほめたたえられますように。主は、私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった。主はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」

 ダビデは人を遣わして、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。


適用

正しくみことはを理解して、正しく判断して、正しく行動する。

愛と赦しを前面において生きていく。


祈り

無条件の赦しをこれからも諦めずに選択していくことができるように聖霊さま、助けてください。アーメン