前々回のブログ『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』より続きます。

 

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

この波が最後の波になるように祈って

負けんばい!!

 

 

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先日の誤投稿のブログをご覧になられた方々

貴重な時間を使って下さったのに

申し訳ございませんでした

 

<m(__)m>

 

 

今回のブログ内容は

御投稿したブログ内容とは、大きく変わっております。

 

あらためてお付き合い下さい

<m(__)m>

 

 

 

前々回の予告編?で書いた事を数回に分けて精力的に書かせて頂こう(^^)/

と考えております。

 

今回はその前段階?として タイトルは

家の親戚の姓と弓の儀式と雲平さんと

 

 

今回は、球磨の歴史と言うより・・・

もしかしたら・・家の宮原家の事をもう一度見つめ直す事によって

何か見えて来るのではないか・・と

ふと 思い、今までブログでは書いていなかった事を含めて

記させて頂きました。

 

すると・・やはり、とても重大な秘密に気が付きました!

 

 

 

 

1.家の親戚の姓・・・

相良藩では勝手な姻戚関係を結ぶ事は禁じられていました。

藩主が認める「姓」(家)どうしでなければ結婚は許されなかったのです。

相良ご法度の名残があった明治以降の親戚関係には意味があったと考え

以下のお話を書かせて頂きます。

 

 

 

 

 

ブログ

『(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様』

を書いた後、今まで10年以上に渡って調べてきた事の数々の中から

色々、思い出した事がありました。

 

前々回のブログ『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』でも

書かせて頂いたのですが

歴史に全くの無頓着だった私を、導いて下さった御方のお一人は

日本の苗字七千傑 サイト主様でした。

 

スレッドに、祖母方の「平河氏」の事を知りたい!と投稿した時に、直ぐに応じて下さり、

もうおひとかた(女性)とお二人で、私に様々な事をご教示して下さいました。

心より、感謝いたしております

 

 

2018年10月に書いたブログ

相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』の中でご紹介した熊野国造家と橘氏の関係をご教示下さったのも日本の苗字七千傑 サイト主様でした。

 

 

 

『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』 より 転記

 

熊野本宮禰宜の職に就き、代々本宮を奉斎する「熊野氏」は物部氏の系でいらっしゃいました。さらに、橘氏とも「熊野氏」は縁戚関係になられます。

参考 日本の苗字七千傑様 サイトより 【熊野氏】(熊野国造) 姓氏類別大観

(現在 日本の苗字七千傑 サイト主様はサイトを閉じていらっしゃいます)

 

饒速日命(物部氏の祖)の後裔、大阿刀足尼(熊野国造)の後裔『多賀志麿』、この方の養子に『橘 島田麿』の子息『真主』と言う方が入られ、さらに、後裔の方(女子)は

物部氏「穂積氏」後裔の「鈴木氏」の「鈴木良氏」と言う方の妻となられています。

 

鈴木氏(物部姓)が全国に広がった理由は「熊野神社」が各地に勧請されたから・・と言う事は

系図を調べる方であれば周知の事でした。

 

つまり、【熊野氏】(熊野国造)の系を拝見すれば「物部氏」と「橘氏」の関係が一目瞭然で解るのでありました。

 

※当時の

日本の苗字七千傑様の【熊野氏】(熊野国造) 姓氏類別大観の一番下に記されている『掲載姓氏』の項内にあった以下の姓

 

【橘氏】【小池氏】【和田氏】【長田氏】【永田氏】

うちの(宮原家・平川家・深水家)の親戚にある姓でございます

 

 

『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』 より抜粋致しました。

 

 

 

確かに【橘氏】【小池氏】【和田氏】【長田氏】【永田氏】といった熊野国造裔の姓と

同姓の方々が、親戚に揃っているということ事態・・

冷静に考えると・・不思議だ!偶然ではない!と考えるのが当たり前の事なのですよね・・

 

ちなみに・・家の宮原家の親戚である「小池家」との関係・・

かなり複雑でいつか必ず書こうとは思っています。ただ、非常に近い関係であります。

 

親戚の小池家は、湯前町の明治・大正・昭和初期にかけての実業家として名高いお家で

当時の当主の方は、行政にも関わっておられ

村会議員四期・郡会議員を二期、務めていらっしゃいます。

 

※その小池家を継がれたのは、私の祖父の父違いの姉の方です・・

かなり複雑なので・・いつか・・ここで書くとは思います・・

 

 

 

物部氏「穂積氏」後裔の「鈴木氏」

鈴木氏(物部姓)が全国に広がった理由は「熊野神社」が各地に勧請されたから

 

球磨地方に鈴木姓が少ない事を挙げて

古代、物部氏は球磨にはいらっしゃらなかった・・

とお考えになられる方々がいらっしゃるようですが

 

確かに、球磨地方に鈴木姓は電話帳検索システムを見ると15軒程で少ないです。

ただ・・穂積氏はいらっしゃいますよ😊

 

 

うん🙄 マタ私、ひろっぷミニミニ衝撃波?を皆様のハートにギーンと発射しましたでしょうか

(?_?)

 

でも、不思議ではないと思います。

 

何せ、この地には熊野別当家の新宮家の方も南北朝時代に入られて系を繋げていらっしゃいますので・・😊

 

マタ、さら~っとそう言う事を書く!とのお声が聞こえたような・・🙄・・ニマッ😊

 

それに、この地、球磨の多良木町には、断絶したと言われていた宗像大宮司家の後裔の方が、ちゃんと系を繋いでいらっしゃいますし・・😊

 

マタマタ、さら~っとそう言う事を書く!とのお声が聞こえたような・・🙄・・ニマッ😊

 

 

さて(p_-) ここからが、ですが・・

長くなりますので、音楽と共にお付き合い下さい

Fearless Motivation - The Universe In Me - Song Mix (Epic Music)

 

 

 

 

ブログ

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

の最後に書かせて頂いた事・・

 

2017年の10月に書いたブログ
『天子神社の御神紋について』の内容と今回のブログ内容の接点とは・・

 

 

天子神社の御神紋は、太陽と月の部分を表している・・・

 

さらに・・

『六芒星』(籠目)について
『元伊勢籠神社の絵馬には籠目の中、中央に「太陽」と「月」が描かれている』

と言う記述を多数目にした事・・

 

 

元伊勢籠神社様のお話は

このように2017年の10月に書かせて頂いていたのです・・

 

だから・・

ブログ
(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

を書いた事によって・・

お導き頂いているな・・

つくづく、私は感じているのであります

 

 

親戚の姓で、実は、今まで書いていないお家が数軒・・

 

元伊勢籠神社様・・

「籠」の文字

 

実は、平川家(平河家)繋がりの遠縁にあたるお家の姓に

「庄籠家」(しょうごもり家)

がいらっしゃいます

 

「籠」の文字が凄く気になり始めています

 

 

何せ・・

郡内各地に点在してご鎮座の天子神社様は

全て・・

元々は平河氏の所領地だった所ですので・・

(何故だろう・・?)

 

 

 

家の宮原家や、親戚一同に繋がる・・

相良氏族の姓である親戚、多数については今までブログ内で何度も書いていますし

※一例 久保田氏・新堀氏・深水氏・犬童氏・恒松氏・桑原氏 等・・

 

 

ただ、家の宮原家繋がりの親戚の特徴は、相良氏族の姓だけでなく

どちらかと言えば球磨に少ない姓がいらして

例えば

千葉家・畠山家 等・・

 

 

 

宮原家繋がりの

伊予橘氏に繋がる親戚の姓は

矢野氏から改姓した中村家や、橘薩摩一族の牛島家がありますので

明確なのであります。

 

 

 

特記

 

橘姓「矢野氏」から中村になられた方の中で

戦国時代、岡本城の城主であった犬童頼兄(相良清兵衛)が津軽に配流となられた後

岡本城代となられた、中村氏は後に相良藩主から犬童姓を賜りました。

 

その後旧上村(現あさぎり町上)に移られたのですが、その犬童氏も、家の一族親戚関係にあります。

 

いつも、登場?する椎葉家のおじさんのお祖母さんは、その犬童家から椎葉家に嫁いで来られています。

「ツル」おばあさん です。

 

「ツル」さんの弟さんが・・

現在、熊本県内の小中学校で道徳の教科書として使われる

熊本の心に記載された「植林人生」の主人公

犬童敬太郎氏です

 

 

犬童敬太郎氏の「植林人生」について、記されていらした

国土とインフラについて学ぶ サイト様 をご紹介致します😊

 

 

 

 

 

犬童敬太郎氏のお姉さんでいらっしゃるツルおばあさんの写真がこちら😊

 

大正時代初頭に椎葉家で撮影された写真です

椎葉家

 

髭の男性が、当時の岡原村村会議員 議長を務めた

椎葉源一氏

 

明治時代中期から村会議員として旧宮原村と旧岡本村の合併、合併以降の調整等で

活躍された事が岡原村史に多数記されております😊

 

こちらの椎葉家は元は旧奥野村にいらっしゃいました。

 

江戸時代の末期、旧奥野村の白木妙見社の宮司家「椎葉家」の方が分家なさって

旧宮原村の宮麓へ

 

 

椎葉家に子供さんがいらっしゃらなかったので、深水家から養子に入られたのが

椎葉家の源一おじいさんです😊

 

 

深水家から祖母の実家「平川家」に嫁いで来られた、

私の祖母の母(曾ばあちゃん)の兄でいらっしゃいます😊

 

 

椎葉家と深水家の大正から昭和にかけての写真を紹介したブログです

お時間が有られる時にでも、ご覧下さい😊

 

大正~昭和初期の椎葉家と深水家

 

ここまで

特記でした<m(__)m>

 

 

 

話を戻します<m(__)m>

 

実は・・

昨年、元々旧宮原村宮麓に住まわれていらして、別地に移られた

相良氏族の姓の恒松家(親戚ではない)の方が

家に所用で来られた際に・・

 

突然・・

 

「ひろ〇さん(私)は知っとるね?」

 

「家の100歳で亡くなった義父は、昔の事に凄く詳しかったとよ」

 

「義父は、『宮原〇〇しゃん(私の祖母)方は、橘やったとバイ!』 って、

私に教えてくれてたよ」 ※方=家

 

 

と言われたのです・・

 

 

やっぱりなぁ・・

祖母も、私にずっとそう言っていたので

昔の人は、知っているのだなぁ・・

と感慨深い気持ちになりました・・

 

 

 

そう言えば・・以前ブログに書いたように

※本姓大神氏の代々宮司家でいらっしゃる親戚の尾方家の家紋は橘紋・・

 

 

補足・・

先に書いた椎葉家には、こちらの尾方家から次の代で婿養子が入られ

その次の代となられる

椎葉家のおじさんの奧さんもこちらの尾方家から嫁いでこられているので

二人は従兄妹どうし・・

椎葉のおばさんのお兄様は、平成12年まで、国宝青井阿蘇神社の宮司様をお務めでいらっしゃいました。

 

良く考えたら・・

国宝青井阿蘇神社の宮司様をお務めでいらした方と椎葉のおばさんのお母様は

先に書いた橘姓「中村家」から嫁いで来られています!

その方の妹さんが・・私の祖母の兄嫁なのです・・!(平川家とも繋がっている・・)

むむっ!(p_-)

 

 

橘一族と八角形の地

 

 

 

 

さらに・・家の宮原家は次の項で書きますが

同じく、宮司家を務めていらした本姓大神氏の「星原家」とも親戚・・

 

つまり、球磨では

伊予橘氏と大神氏の

姻戚関係がある

 

と言う事が解ります

 

 

「この関係」が凄く気になったのですが・・その事により

凄い事!に気が付きました!!

後ほど<m(__)m>

 

 

 

色々考えていたら

今まで、ブログに全く書いた事が無い姓の親戚も気になり初めまして・・

渕田家(淵田家) 白川家 出口家 さらに 石川家

 

渕田家(淵田家)は、1600年代の宮麓集落に建立された庚申塔にも

姓が刻まれているので、おそらく戦国時代くらいに、

長崎方面から来られているような気がするのですが・・

(何せ有馬氏の名も集落の庚申塔に残っていますので)

 

淵田氏は松浦一族「値賀氏」の家臣・・
値賀氏も、江戸時代、宮原村の宮麓に住されていますし・・

渕田氏は橘姓とありました

 

 

波多三河守の家臣 
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里  立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里  立川村   三百石 ※松浦古事記より

 

 

親戚の淵田家(渕田家)は、後に旧多良木村(現多良木町)に移られています

 

 

出口家は長崎繋がりなのかな・・?

 

 

石川氏も分限帳に記されているので、かなり以前から球磨に入られているようです。

 

※と書いていた所におちゃも様から、コメントが入りまして・・

おちゃも様のブログ「村上水軍」を拝見して、ビックリ致しました!。

 

 

 

石川氏・金子氏・・

やはり、四国繋がりだったようです

 

さらに

野島氏は、私が住む集落にいらっしゃいます!

 

うわぁ・・・

宮原家の親戚関係は・・

やはり、四国繋がりだったのだ・・

 

と、強く感じました

 

 

 

 

ただ・・白川家や出口家は

私の推測では・・神社仏閣に関わっていらっしゃるのでは・・

と勝手ながら考えております

(あくまでも、私の勝手な推測なので、相良藩史を熟読しなければ解りませんが・・)

 

 

神社仏閣と言えば・・

 

 

 

2.弓の儀式と曾じいちゃん(曾祖父)

 

ブログ

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

内 7.岡原霧島神社に伝わる神事と伝承 で書いた事・・

 

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より

 

(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
 

 

①子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。
 

②七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)

 

③弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式が あった。

明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
 

他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。

 

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より 抜粋

 

 

 

 

弓・矢のお話が多数あるのですが・・

 

私・・思い出したのです

(今まで、あまり重要だと考えていませんでした😥 )

 

 

まず、その話の前に

家を取り巻く?簡単な概要を<m(__)m>

 

陸軍士官候補生学校を卒業した祖父は、しばらくして祖母と結婚。

祖父の任務の為に、二人で大陸に渡っていました。

※ハルビンです


 

祖父は、大陸に渡る事で「宮原家」には「曾祖母」を残す事になる為

 

すでに星原家の本家の次男の方に嫁いでいた祖父の義理の姉

(宮原家の養女だった方。実は祖父の従姉の娘)と夫の方に、

 

曾祖母をみて頂く代わりに、宮原家の全て(家・田畑・山等)を託しておりました。

 

※星原家に住んでいたお二人は、その事で、宮原家に住まわれる事になりました。

 

※祖父の義理の姉の嫁ぎ先は本姓大神氏の星原家

ご先祖様は、大同元年草創の切畑大明神の社司でいらっしゃった御方です。

 

 

参考までに<m(__)m>

 

上記、写真の

切畑社人 星原権大夫大神惟吉

この方の直系の家が親戚の星原家です<m(__)m>

 

 

 

 

次にご紹介するのは

昭和12年、妊娠した祖母を祖父が大陸から故郷「岡原村」に連れて帰り、

その後、祖母を残し、祖父が軍に戻る際に宮原家で撮られた集合写真です。

 

すでに、この宮原家には、祖父の義姉夫婦が住まわれていました。

 

左側の写っていない家の中央部分が玄関で、椎葉家のおじ(現在92歳)の記憶では

古くて大きな家だったそうです

 

宮原家

 

ちなみに、2列目の右端に座る方が、

湯前村長、初代湯前町長を歴任した平川源市氏です

前にいる小さな男の子も、平成の時代に湯前町長をお務めになられました。

 

平川家の曾祖父の弟さん方がずらり勢ぞろい。

さらに、祖母の妹さんが嫁がれた

多良木平川家の方々もずらり勢ぞろい。

 

実はですね(p_-)

祖母方の岡原平川家を出自とする曾祖父と弟さん方

さらに、

祖母の妹さんが嫁がれた多良木平川家の方々・・

 

年は皆さん上なのですが

全員・・私の祖父の従兄姉(いとこ)の子供たちなのです

\(◎o◎)/!

 

ややこしいのですが(^▽^;)

 

宮原の曾祖父の甥や姪は

岡原平川家に嫁いだり、多良木平川家に養子に入られているのです

\(◎o◎)/!

 

だから・・この写真の多くの男性陣

殆ど 血が繋がっております (p_-)

 

ややこしいのですが(^▽^;)

 

 

 

もう一度写真を<m(__)m>

 

宮原家

 

帽子を被った二人が祖母の兄達です😊

 

他に、

中央に座る、祖父の斜め前に赤ちゃんを抱いている女性が、

宮原家の全てを託された祖父の義姉の方です

 

※先にも書いたように、この方も宮原の曾祖父の姪の娘さんですから・・

つまり(p_-)

平川家の男性陣とはナントいとこ同士になります!

 

 

軍服姿の祖父から見て、右に3人目の若い方が、

祖父の義姉のご主人(星原家の二男の方)で・・

後に(昭和40年代~50年代)岡原村村会議員議長を務めていらっしゃいます。

 

後方2列目の小柄な髭の方が、星原家の長男、白い髭のおじいさんが

お二人のお父さんでいらっしゃいます😊

 

 

祖父の義理姉に抱かれている赤ちゃんは、私のはとこになる方で(戸籍上はふた従姉)

今年で85歳になられます🙂

 

私と年が30歳近く離れたふた従姉さんです🙂

 

この方が唯一と言って良いほど、

昔の宮原家の事を祖父の義理姉の方から聞いていらっしゃって、

私は、今、この方から、沢山の事を聞きながら、私が祖母から聞いていた事と繋ぎ合わせております。(普段はおばさんと呼んでいるので、ここからはおばさんで<m(__)m>)

 

家を取り巻く?簡単な概要でした<m(__)m>

 

 

かなり長くなりましたので、次の曲を<m(__)m>

World's Most Heroic Emotional Music | by Sky Mubs

 

 

 

先程の続き・・

 

このおばさんから聞いていた話の中で、今回、思い出したのは

 

私の曾祖父が、

神社で弓を持って何か儀式を行っていた写真を見た事がある

という事でした

 

おばさんは、お母さん(私の祖父の義姉)から

「神社での儀式」

とちゃんと聞かれていらっしゃったそうです。

 

 

曾じいちゃん何をしてたのだろう・・?

 

 

曾祖父の事は、2020年9月に書いたブログ

第一回国勢調査から・・うちの宮原家の事がまた少しだけ解りました

で、新しく解った事を書かせて頂いております。<m(__)m>

 

 

 

 

何度かブログ内でご紹介していますように

 

曾祖父は、何故か?遠縁の方々から

葦原様

と、手紙に書かれておりました・・

(?_?) ・・・(p_-)

 

先祖への手紙

 

 

今でも、私、この手紙を読んでも、漢字ばかりで、ナント書いてあるのか

チンプンカンプンでして(^▽^;)

 

ただ・・

数年前に古文書が読める方に見て頂いた時に

説明をせずに、まず見て頂いたところ・・

 

「この手紙を受けた方は、相当な力を持った方のようですね・・」

と言われて

 

私は「曾祖父です」と答えた所・・

 

「お宅の宮原家は、一体どういう立場の家だったのでしょうか!?」

と聞かれ・・

 

私は、全く解らず・・(?_?)

「解りません・・」とお答えして終わった事があります・・

 

(?_?) (?_?) (?_?)

何だろう・・・?????

 

あと・・

 

実は、家の宮原家を継いだ星原家

何故か?玄関にいつも注連縄(しめなわ)を飾っておられます

 

正月飾りじゃありません(ー_ー)!!

 

玄関の端から端に注連縄が結ばれて、中央に御幣が結ばれています

一年中、注連縄が玄関に結ばれているのです

 

しかし・・こちらの星原家の本家には、玄関に注連縄はされていません

 

ずっと何故だろう・・(?_?)

と不思議だったのです

 

しかし

最近、先に書いたおばさんに聞いて初めて知ったのですが・・

 

「宮原家がそうされていたからよ🙂」

「受け継いどっとタイ🙂」 (受け継いでるのよ)

 

私・・「何で ですか??」

 

おばさん・・私も詳しくは解らんねぇ~🙄

 

しかし・・

元々、家の宮原家があった場所は、地元の郷土研究家の方々が

江戸時代初頭に廃城になった宮原城城主の

居館跡

だろう・・と推測されていて・・

 

稲積妙見の社人でいらしたのは

奥野村の白木妙見社の宮司家「椎葉家」で・・

あれっ!?・・・

 

 

と・・考えながら、

うわぁ・・!!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

と・・新たに気が付いた事があるのですが

それは次回に <m(__)m>

 

 

チラッと予告を(p_-)

上記に書きだした親戚関係が・・

麻郡神社私考の原文に記された

江戸時代までの球磨郡内における神社組織

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)の「輿」と

その配下となられる「

そのものだったのですよねぇ・・

 

麻郡神社私考には

昔は(上村白髪神社創建の前)

球磨郡の

南側は

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

北側は

王宮神社が

 

宗社であった

と記されておりました

(p_-)

 

※中嶋大権現(中嶋霧島神宮)の宮司家は

橘姓 宮原氏

でございます<m(__)m>

 

※岡原霧島神社の宮司家「横瀬家」は、岡原霧島神社が創建された後の宮司家です。

 

詳しくは次回にて<m(__)m>

 

 

 

3.雲平とは何だろう

 

弓の儀式に関わったり・・

葦原様と記されたり・・

かなり謎を秘めた?私の曾祖父 (p_-)

 

実は 雲平 と称していたのです・・

 

 

ブログ

『(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様』

で書きましたように・・

家の宮原家が代々所有した

「府内」(馬場田)

 

曾祖父は「府内」(馬場田)の畦補修の為の木材、さらに水田の用水樋木に使用する材木を村に出願する際に

明治時代(p_-) ※稲積妙見が、創建された岡原霧島神社に合祀となる前・・

 

久保田雲平

の名で出願を行っているのです・・

 

岡原村史より

 

 

 

 

 

久保田雲平とは何だろう??

 

 

先に書いた星原家の娘でいらっしゃる「おばさん」に聞くと

留蔵さんな、何か、妙な名前・・使いよんなったって聞いとるよ!

(私の曾祖父は妙な名前?を使っていたと聞いている)

と・・

「雲平」?と紙に書いて見せると

 

あっ!そうばい!😊

 

私は、曾祖父の実家久保田家を名乗っているのかな・・?

と考えていました。

曾祖父は、子供がいなかった宮原家に11歳の時に縁戚の久保田家から養子に入っています

 

所が・・椎葉のおじが

お前んとこのおじゃんじ(お社地)には妙見様のすぐ下に窪地があったと。

 

窪地の田ん中は、肥料は絶対に使ってはならんで

採れた米は、神様にお供えしよんなったとげな

 

平川の曾ばあ様から聞いとった

そこば 久保田(窪田)と呼びよんなったとタイ

 

 

と言うのです

\(◎o◎)/! そうだったんだ!

 

御神田

久保田

 

 

久保田雲平・・

 

久保田の意味は解ったけれど・・

 

雲平とは 何だろう(?_?)

 

その後・・

八代氷川町の宮原町誌に「雲平」の記述を見つけていたのであります。

 

肥後国誌に記載・・とあったので、どうしても肥後国誌が見たくて探したのですが・・

その記述が、ようやく見つかりました😊

 

 

 

氷川宮原の宮原城主

宮原公忠公

 

子孫は尚、相良氏に仕えて、當今、

宮原雲平 と號すと云

 

 

宮原雲平・・?

雲平??

 

宮原公忠公の後裔の方から

明治初頭に作られた、宮原家の系図を頂いておりますので

あらためて、拝見したのですが宮原公忠公後裔の方々の中に雲平の記述は無く・・

※南北朝時代に宮原氏は分かれているようですが、岡原村の豪族と称された、

相良家家老宮原公全の系は、系図に「公全」以降の方々は記されていません。

 

他に頂いていた資料を拝見しても雲平の記述は見つからなかったので

系図に記された宮原公忠公の後裔の方々の「どなたか」が、肥後国誌が編纂された時に

雲平 と称していらしたのかな・・?

と推測しました

 

 

ただ・・気になるのは

肥後国誌に記された宮原三宮妙見社

 

氷川宮原城は三宮妙見社のすぐ側に築城されていた事です。

 

ご参考までに 肥後宮原城 城郭放浪記様 サイトより

 

 

※宮原城は三宮社(宮原三神宮)の南側一帯に築かれていた

 

 

妙見さまと宮原の一族は、凄く深い繋がりがあるように

強く感じます

 

と言う事は

雲平とは

妙見さまに関わる何か?かな・・

と(p_-)

 

雲平を調べたのですが

秋田県の郷土お菓子 しか登場しませんでした

(^▽^;)

 

ただ・・意味は

ひとひらの雲

という事は解りました

 

 

雲平さんの秘密 今後も調べていこう!と思っています😊

 

 

 

4.橘一族と八角形

 

最初に・・気が付いた事がある と書きました。

 

皆様、ここまで私が書いてきた事を、お読み頂きありがとうございます。

 

じっくりとお読み下さった方しか解らない事を書きます<m(__)m>

 

私は

稲積妙見の「稲積」と、物部氏の「穂積」は

同意語

だと考えています。

 

 

パソコンを使って、このブログをお読みの方々におやり頂きたい事があるのです

 

まず

ほずみ と入力して変換して下さい

候補リストを見て頂くと解ります

 

「八角」

が表示されていませんか!?

 

稲積=穂積=八角

 

なのでした・・

 

 

気が付いてしまいました😊

 

きゃ~っ😱 って 言わないで下さいね・・・・

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

今回は

1.家の親戚の姓・・・

2.弓の儀式と曾じいちゃん(曾祖父)

家を取り巻く?簡単な概要<m(__)m>

曾祖父が行った弓の儀式

3.雲平とは何だろう

4.橘一族と八角形

 

という内容を書かせて頂きました。

橘一族と八角形の秘密が理解出来ましたので

家の家紋と八角形との関係もよ~く解りました。

次回に以降に😊

 

 

皆様、最後までお読み頂き
ありがとうございました
😊

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

㊽+1 方解石は凄い!と「輿」と合祀になられた神社絵図 に続きます

 

 

 

本日、投稿していたブログは・・・

 

下書きしたつもりが・・

誤投稿 しておりました!!

 

きゃ~!! 恥ずかしい・・

 

😱

 

 

皆様、申し訳ございません

 

😥

 

 

マダマダ、書く事がありますので(p_-)

 

もうしばらく(明日かな・・)

 

お待ちください

 

<m(__)m>

 

 

おっちょこちょいの ひろっぷ でした

 😔

 

 

 

2022年1月22日深夜に発生した日向灘沖地震により

被害に遭われた方々に心よりお見舞い申しあげます

 

強い揺れにみまわれた地域の方々は

さぞ 怖い思いをなさった事かとお気持ちをご察し致しております

 

 

余震に十分お気を付けになられて

ご安全にお過ごしになられて下さい

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

2022/01/23 15:50 再々投稿

 

2022/01/23 08:49投稿、14:15再投稿の拙ブログを

すでにご覧頂いた方々には心より感謝申し上げます

 

 

最下部に、

新たに湧いたウィキペディアの記述に対する私の疑問の答えが見つかりましたので

疑問を取り消して、追記させて頂きました。

 

私の疑問を解いて下さった御方は

最初の投稿でご紹介した

名古屋大学減災連携研究センター、福和伸夫教授

でいらっしゃいます。

 

 

 

さらに

当ブログ内のウィキペディア長周期地震動からの転記内容

以下の項の追記を致しました

 

補足 堆積盆地とは

 

長周期地震動が建造物におよぼす影響

 

 

ご興味がおありになられましたら、ぜひご覧になられて下さい<m(__)m>

 

 

 

以下、2022/01/23 08:49投稿の ブログ内容となります

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

今回、このブログで、私は、

 

初めて経験した一般家屋における

長周期地震動について

皆様にお話をさせて頂こうと思いました。

 

 

過去の地震において、一般家屋における「長周期地震動」を経験された方もいらっしゃるかと思いますが、おそらく、ご存知無い方もいらっしゃるかと思います。

 

 

実際に経験した事は、地震列島日本において、多くの方々と共有する事で

事前に知識としてお持ち頂く事が出来るのでは?と考えての事です。

 

 

 

 

2022年1月22日深夜に発生した日向灘沖地震

 

私は

今まで、何度も経験した地震とは、異なる感覚を覚えました。

 

 

 

私は、普段、2階の寝室で寝ています。

 

緊急地震速報で目が覚めて、驚いて起き上がり、身体を電灯の下から逃れるように移動する数秒の余裕がありました。

 

しかし、揺れ始めて、長い時間、身体を起こそうとしても、床を手で押さえたまま

立ち上がる事が出来ませんでした。

 

 

ガタガタと揺れはじめ、、強い横揺れが続き、少し収まるかと思った瞬間、

より激しい揺れが起きて、その後今まで経験した地震よりも、明らかに長く、数回に渡り、

身を投げ出されるような激しい横揺れを受けました。

 

 

外ではJアラートの放送がずっと続いているのですが、身を隠そうとしても、布団に手を付いたまま、立ち上がる事が出来ませんでした。

 

 

かなり、長く揺れて、ようやく揺れが少し収まったけどまだ揺れている・・と思った直後に

北九州市に住む、息子から

「お母さん 大丈夫!?」と電話がありました。

 

 

息子と電話で話している時に、息子の電話の向こうからテレビのニュースが聞こえていて

少し、違和感がありました

 

 

冷静になって後で考えると・・

 

何故?まだ、こちらは揺れが続いていたのに、息子は電話をかけてきたのだろう・・?

 

何故?こちらがまだ揺れているのに、

いち早くテレビのニュースが放送されていたのだろう・・?

 

と・・

疑問が湧き上がってきました

 

 

 

揺れの感覚は・・

熊本地震本震の際に球磨人吉地方で経験した揺れに近い感じで・・

さらに、

揺れの時間が明らかに長かった・・

 

 

実際に、父の部屋の本棚に飾っていた表彰状等は倒れていたのですが

落ち着いたところで、テレビを付けると

私の住む、球磨郡あさぎり町は

震度4との映像が・・

 

 

震度4?? 何だか違うような・・

そんな事は ない・・

 

震度4は何度も経験したけれど、経験した震度4とは

全く違った・・

 

何故?だろう・・

 

確かに、隣接する宮崎県椎葉村では震度5弱とあり

震度5に近い揺れであった可能性もあるけれど・・

 

何か・・違う気がする・・

 

それに・・揺れている時間が明らかに今まで経験した地震・・

北九州市に住んでいた時の福岡西方沖地震やこちらに帰ってからの熊本地震の時と違う

揺れが収まるかと思った直後にまた新たな大きな揺れが

長く続いた・・

 

そう考えながら、朝になり、ご近所の人に聞いても

皆さん、私と同じような事を言われていました

 

 

熊本地震の時は、余震が数え切れない程発生した事で、一日中身体が揺れている感覚になってしまったのですが、今回の地震は余震を感じる回数はこちらでは少ないにも関わらず

夜中の地震の揺れが、長かった事で、一日中、船酔いをしているような感じで頭痛と軽い吐き気がありました。(私は、身体が敏感過ぎるのかな・・とも思いながら・・)

 

 

 

今まで経験した事が無い地震・・

いったい何なのだろう・・

 

疑問は、夕方の新聞で解けました。

 

2022年1月22日付

日刊人吉新聞様の 記事より

 

球磨地方の観測地点で震度4を観測したのは一連の熊本地震による平成28年4月19日以来という。

 

また、球磨地方は周期の長いゆっくりとした大きな揺れを示す長期周期地震動

※室内で大きな揺れを感じ、物につかまりたいと感じる

※棚にある物が落下することがある

などの階級2を観測した。

 

以上 2022年1月22日付 日刊人吉新聞様の記事より 抜粋させて頂きました。

 

 

2022年1月22日付 日刊人吉新聞様の 記事では上記に加え、

私と同じような感覚を受けた方々の声が記されていました。

 

 

球磨地方は

震度4 さらに

周期の長いゆっくりとした大きな揺れを示す長期周期地震動

階級2を観測

 

 

 

 

えっ!?

長期周期地震動・・?

 

 

私の浅はかな知識では、

長期周期地震動とは高層ビルなどで発生する・・

というイメージだったのです・・

 

 

 

高層ビルに住んでいる訳ではなく、標高は高いけど・・ここは平野・・

 

長期周期地震動とは、本来、どういう現象なのだろう・・!

 

直ぐに調べました。

 

 

最初に

2022年1月22日深夜に発生した日向灘沖地震における長周期地震動について

名古屋大学減災連携研究センター、福和伸夫教授がお書きになられた

記事を拝見致しました

 

 

 

日向灘でM6.6の地震 南海トラフ地震臨時情報の周知と長周期緊急地震速報の

早期導入を!

 

 

日向灘でM6.6の地震 南海トラフ地震臨時情報の周知と長周期緊急地震速報の
早期導入を!

 

名古屋大学減災連携研究センター、福和伸夫教授

 

 

本日、1月22日1時8分に日向灘の深さ45kmでM6.6の地震が発生しました。

大分県大分市、佐伯市、竹田市、宮崎県延岡市、高千穂町で最大震度5強を観測し、中部地方から九州地方にかけての広域で揺れを観測しました。

 

気象庁によると、西北西~東南東に張力軸を持つ正断層型の地震とのことです。

 

また、熊本県熊本、熊本県球磨、大分県中部、大分県南部、宮崎県北部平野部、宮崎県北部山沿いで、長周期地震動階級2を観測しました。

 

 

以下、

南海トラフ地震臨時情報の周知の徹底

 

長周期地震動階級と緊急地震速報

 

の項では

名古屋大学減災連携研究センター、福和伸夫教授のご提言を読む事が出来ます。

 

 

記事を拝見して、解った事は

 

※今回の地震での長周期地震動階級は最大2

 

※震源から離れた大阪府南部、鳥取県西部、徳島県北部などで階級1を観測

関西国際空港の揺れを見ると、周期3秒程度の揺れが5分程度も続いていた

 

※長周期地震動階級は、高層ビルなどの長周期構造物の揺れやすさを示す指標で、現在は、地震発生後30分程度経ったあとに発表される

 

※南海トラフ地震が発生すれば、震源から離れた大都市では遥かに強い長周期の揺れに見舞われまる

 

という事です。

 

 

 

さらに、私を含め多くの方々が今回経験した

高層ビルではない、一般家屋における長周期地震動とはどういう状態だったのか

を勉強致しました。

 

 

 

長周期地震動とは ウィキペディアより

 

※転記内容は、実際に私が経験した事を理解する為の内容のみになります。

高層ビル等にお住まいの方は、ぜひ、ウィキペディアの内容をご覧頂く事をお勧め致します。

 

 

 

長周期地震動(ちょうしゅうきじしんどう、英語: long-period earthquake ground motion)とは、地震で発生する約2 - 20秒の長い周期で揺れる地震動のことである。

 

周期が長い、すなわち低周波領域で発生するため低周波地震動とも

 

地震計の発展とともにその存在と性質が研究されるようになり、特に高層建築物が増えた近年は、防災の観点からも対策が重要となっている。

 

 

概要
地震動を観測した地震波を見ると、様々な周期の波が含まれているが、発震のエネルギー規模が大きいほど周期が長くなり(長周期、低周波)、その主成分の表面波は震源が浅いほど卓越することが知られている。

 

地震動のうちこのような震動成分を特に長周期地震動とよぶ。

 

大規模地震では周期が数百秒を超える地震動(超長周期地震動)や地球自由振動も観測される。

現在の気象庁では防災の観点から周期が1.6 - 7.8秒の長周期地震動を観測対象としている

 

 

長周期地震動の発生機序と性質
 

長周期地震動の原因は主に2つ考えられている。
 

地震の規模が巨大になるにつれて、震源域から放出される短周期の波の振幅増大が頭打ちとなる一方で長周期の波の振幅は増大し続けるため
 

地震波が堆積盆地の中で変質するため

 

 

 

大規模地震で発生する長周期の震動
一般に考えられる断層地震では、地震波の波長は断層の滑り量(断層が動いた長さ)に応じて大きくなり、したがって大規模地震になると大きな振幅とともに長周期の地震波が発生する。

 

この地震波は小規模の地震に比べて距離が遠いほど卓越する(他の波に比べて顕著に目立つ)性質がある。

波動は、周期が長いほど減衰しにくい特性があり、特に表面波では減衰の条件が少なく自由振動に近い性質をもつ。

したがって震源からの距離が遠い場合でも長周期地震動だけが到達することが多くなる。

 

中略・・・

 

 

地盤構造境界で発生する表面波
堆積盆地を通過する実体波(P波およびS波)が盆地の境界面で表面波に変換されたあと長周期に変質することが知られている。

 

このため、堆積盆地の堆積層と基盤岩の境界付近を震源とし断層が両者の境界面を横切った場合には、境界面にとりわけ強い表面波が生じ、強い長周期地震動が発生することが懸念されている。

 

またこれと関連して、基盤岩と堆積層のせん断波速度(S波の速度)の差(コントラスト)が大きいほど、特定の周期の表面波が卓越しやすいこと(盆地端部効果、エッジ効果)が知られている。また、

 

堆積盆地上に発達した平野の中で、基盤岩に覆われた山地に近い辺縁部では、

周囲に比べ異常とも言えるような顕著な表面波が観測されることがある。

 

 

 

2021/01/23 14:15 追記

 

補足 堆積盆地とは

堆積盆地(たいせきぼんち、英: Sedimentary basin)とは、地殻変動によってある期間継続的に沈降し、そこに堆積物が分厚く堆積し、堆積岩による一連の地層が形成された地球表面の凹地のこと。

 

沈降地形に後から堆積物が溜まって形成される。構造盆地が長い時間をかけて堆積物によって埋められて形成される場合もある。

 

研究の歴史より

堆積盆地(基盤岩が盆地状に凹んだ地域に厚い堆積層が溜まる地質構造。

 

海に面しているかどうかを基準にした平野・盆地の区分とは異なり、関東平野などもこれに該当する)において周期2 - 10秒の「稍(やや)長周期地震動」や10秒以上の「長周期地震動」が卓越する現象は、高密度に強震計が設置されるようになった1970年代に世界のいくつかの場所で発見された。

 

大阪平野、京都盆地、十勝平野、ロサンゼルス盆地(英語)などがその例であり、地震学界の一部で認知され始めていた。

 

 

長周期地震動が建造物におよぼす影響
長周期地震動が及ぼす被害は主に、地震動の周期が地盤や建物などが構造的にもつ固有振動と共振を起こし、構造物の振幅が増大することにより引き起こされる。

 

長周期地震動は減衰しにくいため、共振が長く続いて振幅が大きくなりやすい。

 

長周期地震動が認識される以前にも、地震動と建造物の固有周期の関係は認識されており、関東大震災以降には耐震性構造に関する柔剛論争があった。

 

構造建築が主流であり、振動地震による建造物の破壊は、剛性を高めることで大部分は防ぐことができるとされ、共振による被害の発生は非常に少ないと考えられてきた。

ところが高層建築物が増え、やがて大きな地震発生時に低層建築には見られない「船に乗っているような」「酔うような」と表現される地震動が経験的に知られるようになった。

 

被害の研究が進んだことで、地震に強いとされてきた既設の超高層ビルに対して、今後破壊的ダメージがもたらされる懸念が出てきた。

大きな振幅で揺れる高層建築物は、大きな歪みを生じて窓枠やガラス、外壁が破損落下したり、内部の立体駐車場やエレベータなどの機械の破損や機能不全を生じ、屋内の壁の亀裂や破壊、設置してある複写機や什器や家具がかなりの速度で動き周るほか、人はひとところに立っていられず、避難さえ困難になることがある。

 

 

 

 

長周期地震動階級

東日本大震災で撮影された超高層ビルが揺れる衝撃的な映像はメディアにより多くの人に視聴され、また実際の高層ビル内で人の歩行や行動が困難であったり、それまで想定されていた建物内での家具や什器の移動や転倒とは全く違う挙動が起こすことも世間に広く認識された。

 

しかし、通常発表される震度階級ではその被害程度が分かりにくいという指摘が出た。

 

これは震度階級が地上で体感する揺れ(周期0.2 - 1秒程度)に合わせた指標であるためである。

気象庁は震災翌年の2012年に長周期地震動に関する検討会を開き、翌2013年、現在の震度階級とは別に4段階の「気象庁長周期地震動階級」を設定し、同年11月から試行的に「長周期地震動に関する観測情報」として運用を始め、2019年3月より本運用に移行した。

 

同庁HPにて公開されている2013年3月から2019年2月の試行終了までの間に、最大階級が「階級4」は3回、「階級3」は4回、「階級2」は16回、「階級1」は55回観測されている。

最大の「階級4」は2016年4月15日に初めて観測され、これは同日未明に発生した熊本地震の前震活動に伴うもので、熊本県宇城市松橋町で観測され、その翌16日1時25分の「本震」で2回目の「階級4」が観測された。

 

3回目は2018年9月6日の北海道胆振東部地震で観測されている。

 

また、2021年2月13日の福島県沖地震において、本運用移行後初めて「階級4」が観測された

 

 

 

 

長周期地震動階級

 

長周期地震動階級
長周期地震動
階級
絶対速度応答
スペクトル値
人の体感・行動 室内の状況 備考

  階級1

5 cm/s以上15 cm/s未満 室内にいたほとんどの人が揺れを感じる。驚く人もいる。 ブラインドなど、吊り下げものが大きく揺れる。  

  階級2

15 cm/s以上50 cm/s未満 室内で大きな揺れを感じ、物に掴まりたいと感じる。物につかまらないと歩くことが難しいなど、行動に支障を感じる。 キャスター付き什器がわずかに動く。棚にある食器類、書棚の本が落ちることがある。  

  階級3

50 cm/s以上100 cm/s未満 立っていることが困難になる。 キャスター付き什器が大きく動く。固定していない家具が移動することがあり、不安定なものは倒れることがある。 間仕切壁などにひび割れ・亀裂が入ることがある。

  階級4

100 cm/s以上 立っていることができず、はわないと動くことができない。揺れにほんろうされる。 キャスター付き什器が大きく動き、転倒するものがある。固定しない家具の大半が移動し、倒れるものもある。 間仕切壁などにひび割れ・亀裂が多くなる。

 

 

 

以上 ウィキペディアより抜粋させて頂きました。

 

 

 

 

私は、不勉強でした

 

実際に経験して、初めて、長周期地震動とは何か!?という事を少しだけですが勉強致しました。

 

長周期地震動は、高層ビルだけで発生するもの・・大きな誤りでした

 

 

地形や地質が大きく関わって

揺れの大きな地震により長周期地震動が発生する可能性がある地域は

日本国内に多く存在する・・

と思います

 

 

皆様、

通常の地震の揺れに続いて、長周期地震動が発生したら

大きな揺れが長い時間続いて、身動きが殆ど取れなくなります

 

震度4+長周期地震動 階級2

私が経験した状況では 畳に手をついて身体を支えるのが精一杯で

立ち上がる事が出来ませんでした。

 

そのような事態が発生した場合、ご自分の身を守る為には、

やはり備えが大切なのだと強く思いました。

 

 

私は

熊本地震以降、

寝室ではタンスや家具からは遠い場所に寝具を敷いて寝ています

 

令和2年7月豪雨以降、

寝室には、必ず飲料水のペットボトルを置くようにしています。

大切な物は、いざと言う時すぐに持ち出せるように準備しています

私は、持病がありますので、

薬はいつも、まとめて保管して、すぐに持ち運べるようにしています

 

 

しかし、今回、勉強した事で

まだまだ知識不足である

という事を痛感致しました

 

 

 

長周期地震動は

高層ビルだけではなく、一般家屋においても

長く、大きな揺れに伴い、迅速な行動を妨げる要因となります

 

 

寝ていた場合は、直ぐに立ち上がる事も困難になります

 

 

すでに、ご存知の方々もいらっしゃったと思いますが

震源が遠くても長周期地震動が到達すると、上記のような事が起こりうると言う事を

周知して頂きたいと願いました。

 

 

 

お恥ずかしい事ですが、今回、私は、あまりにも長い揺れに、冷静さを失い

若干、パニックを起こしておりました。

 

もし、事前知識があったならば、もっと冷静に時間を待つ事も出来たと思います

 

<m(__)m>

 

 

 

多くの方々が、地震や災害をご経験なさっていらっしゃると思います

 

その経験を共有する事は

とても大切な事だと考えます

 

 

当、ブログ最初に書きましたように

実際に経験した事は、地震列島日本において、多くの方々と共有する事で

事前に知識としてお持ち頂く事が出来るのでは?と考えて

今回のブログ内容とさせて頂きました。

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

2022/01/23 15:50追記

 

新たな疑問(p_-) と その答え

 

ウィキペディアの記述の中に

高層建築が地震動で共振するような場合、これは接地面を固定端、最上階を開放端とする自由振動に近く、波動の位相が90°となる場所で振幅が最大となる。

 

このため、低層建築物・中層建築物などではほとんど揺れを感じないが、高層建築物などでは高い階に行けばいくほど揺れが強くなる。

 

※低層建築物・中層建築物などではほとんど揺れを感じない・・?

とありますが、球磨盆地で私を含む多くの方々が受けた違和感・・

何か・・もう少し研究して頂くとお解りになられるのでしょうか・・

もしや・・球磨盆地の構造と標高が

何か関係しているのかな・・?

 

と考えていたのですが、

 

堆積盆地での揺れについて

先にご紹介した

名古屋大学減災連携研究センター、福和伸夫教授が

その答えをお書きになられていらっしゃいました!

\(^o^)/

 

 

ご紹介致します

 

長周期・長時間継続地震とその対応

名古屋大学減災連携研究センター、福和伸夫教授

 

http://www.sharaku.nuac.nagoya-u.ac.jp/data/fukuwa/paper-pdf/1210JSSC11.pdf

 

 

9ページに

堆積盆地内での長周期地震動の増幅と継続時間の伸長

の項があります。

 

非常に解りやすいご説明を「プリンの入った容器」の例を示されてお書きになられていらっしゃいます。

 

私の疑問がようやく晴れたと感じるありがたいお話であり

さらに、多くの方々が、周知なさる必要があるお話である・・と考えます。

 

 

堆積盆地内での長周期地震動の増幅と継続時間の伸長 より

 

容器の中にある状態のプリンとお皿の上に載せたプリンとで揺れ方を比べてみると、

容器の中にある方が短周期で揺れ、中心位置が大きく揺れ、長く揺れ続ける。

 

これは、プリン周辺が容器で拘束されて周期が短くなり、容器内で波動が反射屈折することで新たな周期が加わり、容器から外に波のエネルギーが逃げていけなくなるためである。
 

これと同じことが大規模な堆積平野でも生じている。

 

関東平野、濃尾平野、大阪平野などの堆積平野は、いずれも周辺を山地に囲まれ、山地から流れ込む河川の堆積物などが厚く堆積した堆積盆地である。

 

堆積層の厚さは平野によって異なり、各平野内でも場所によって厚さが変化している。

 

このため一概には言えないが、関東平野では7〜10秒、濃尾平野では3〜4秒、大阪平野では4〜6秒で揺れやすい。
 

 

以上 

名古屋大学減災連携研究センター、福和伸夫教授

長周期・長時間継続地震とその対応 より 引用させて頂きました。

 

 

 

 

地震はいつ発生しても不思議ではない日本列島

 

今回、球磨盆地内で私が経験した事は、

よく似た地形・地質の地域でも起こりうる事だと思います。

 

 

福和伸夫教授のご研究は、

多くの方々のご参考になられると強く感じ、ここに追記としてご紹介致しました。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

あらためて

当、ブログ最初に書きましたように

実際に経験した事は、地震列島日本において、多くの方々と共有する事で

事前に知識としてお持ち頂く事が出来るのでは?と考えて

今回のブログ内容とさせて頂きました。

 

 

 

皆様

どうか ご安全にお過ごしになられて下さい

 

 

私も、十分に気を付けて過ごします

 

 

 

今回、歴史の話とは無関係の事を書きましたが

わたくし、ひろっぷからのお願いを書かせて頂いております前回のブログ

再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』を未だご覧頂けていない方は

 

貴重なお時間を頂き申し訳ございませんが

『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』は

ぜひ、お読み頂きたいとお願い申し上げます。

<m(__)m>

 

 

 

 

 

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

 

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊽家の親戚の姓と弓の儀式と雲平さんと』に続きます。

 

 

 

前回のブログ

『(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様』

より続きます。

 

 

 

再々投稿 2022/01/20 21:10

 

本日2022/01/20 11:48投稿の当ブログ

すでにご覧頂いた方々には心より感謝申し上げます。

 

これから、お読み頂く方、拙ブログに興味を抱いて下さり

ありがとうございます。

 

 

 

以下、修正と補足を兼ねた追記であります。

 

最下部に書いた、次回の予告編?を修正致しました。

 

あくまでも最近の私の考えですが・・

銅鐸は春秋時代の越人が伝えたもの・・

ならば、日本の縄文時代から続く王統の方々と

シュメールや古ヘブライから戻ってきた人達や(元々は縄文人)

後に来られた呉王家と呉人(こちらの方々は大陸の倭人、元々は縄文人)や

クメール系(元々は縄文人)の連合

例えば球磨人の方々は受け付けませんなぁ~

だけん、埋めさせたのか~独り言・・でした

 

と言った内容を書かせて頂きます(^'^)

と修正致しました<m(__)m>

 

さらに

当ブログ内で、数回に渡り、宮原氏は物部氏と繋がりがある旨を書きました。

 

補足させて頂きますと

2017年9月に書いたブログ『曾祖父への手紙の真相は?』

 

 

 

2018年10月に書いたブログ『球磨の鎌倉時代以降の橘氏』

 

 

等、他でも書いておりますが

宮原一族を含む伊予橘氏は越智氏の流れをくむ一族です。

 

越智氏には物部大新河の3代後裔「若伊香加」と言う方が養子に入られました。
 

「若伊香加」の後裔に、さらに紀氏「紀大人」の孫「益躬」と言う方も養子に入り

伊予の「越智氏」を繋いでいます。

 

つまり、宮原の一族は越智氏の流れである「伊予橘氏」であり、

「物部氏」の系でもあり「紀氏」の系でもある訳です。

 

実は、この事を私にご教示して下さった御方は、上記ブログ内で、ご紹介させて頂いている

日本の苗字七千傑 サイト主様でした。

 

上記ブログから遡る事5年以上前から、日本の苗字七千傑 サイト主様は、

利用させて頂いていたスレッドにおいて

私に、伊予橘氏と物部氏の繋がりを一つ一つご教示して下さいました。

 

日本の苗字七千傑 サイト主様は、現在、サイトをお閉めになられていらっしゃいますが

歴史に全くの無頓着だった私を、導いて下さった御方のお一人です。

 

日本の苗字七千傑 サイト主様には

心から感謝致しております

 

😊

 

皆様、今まで黙っていて申し訳ございませんでした <m(__)m>

 

 

以下

 

2022/01/20 11:48投稿のブログとなります

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

 

この波が最後の波になるように祈って

負けんばい!!

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

前回のブログを書いて「ホッとした」・・

と最後に書かせて頂きましたが・・・

しばらく更新はしない(ー_ー)!! と思っていた所・・

そうも出来ないのだなぁ~😥という新たな気付きがありまして・・

これが、私なのだろう・・と思いました。

 

来月の「紀元節」には、私もまた一つ歳をとりますし・・

(過去ブログをご覧の方はご存知ですよね😊)

 

もうしばらくすると、農作業のお手伝いも始まります😊

ゆえに(p_-) 今は、精力的にブログを書かせて頂きます(^o^)/

 

それから・・

私がいう所のお導きとは・・

過去ブログでも書きましたように「記憶のDNA」なのだと・・思っています

それを、引き出しているのは、知りたい!と強く願う心にご先祖様方のDNAが反応されている

と、私は分析しているのです(p_-)

😊

そこに・・科学では証明できない「何か」が呼応しているのかな・・と

 

物部氏にとっての天の高天原を投影する事が出来る

地上の高天原は・・

もしかしたら・・「この地」だったのでは・・

ないでしょうか・・

 

と・・前回の、ブログを書いて、私はマタマタ覚醒?致しました。

 

私の中の・・宮原家に伝わる

物部の魂が目を覚ましたようです

・・・なんちゃって・・(^▽^;)

しかし、覚醒?のお陰で色々気が付きました。

 

私は・・

少しホッとした

とか、言ってはおれないようです

(ー_ー)!!

 

 

今回のブログタイトルは

祖母の言葉と方解石とお願い・・

 

何の話??となられるかと思いますが、お付き合い下さい。<m(__)m>

 

 

ブログ再々投稿 ㊸後編-5 無上ノ霊地と韓国岳と木簡と球磨の郡家で書きましたように

関西外国語大学の佐古 和枝教授の講演会で伺ったお話・・

 

球磨の古墳に埋葬されていらっしゃる女性

装飾品以外に鉄剣、他、武器が副葬されているそうです!

他地域では女性の副葬品に武器は非常に珍しいそうで

 

うぉ~!!

かっこいい~!!

球磨の古代女性らしいなぁ~

と、私は感動致しました😊

 

球磨の古代女性らしい

球磨の女性・・

それは・・私の祖母の事が頭に浮かんだからです・・

 

イラストと音楽が私を「負けんばい!」と奮い立たせてくれます。

少し激しい曲ですが・・

今回はこの曲と共に<m(__)m>

Thomas Bergersen - Rada Extended

 

 

 

 

 

球磨の歴史の前に、祖母の事を<m(__)m>

1.祖母の言葉・・

 

2020年の3月に書いたブログ

(再追記あり)私を育ててくれた祖母 探求の原点を見つめてみました

 

 

 

(再追記あり)私を育ててくれた祖母 探求の原点を見つめてみました

でも書いたように、

私の祖母は、信念を持って凛とした生き方を通した女性でした。

 

お菓子のぽたぽた焼きのイメージキャラクタのような、祖母ではありませんでした

(ー_ー)!!

 

私の祖母は、自らの境遇よりも、他の方の事を考えて行動を起こしました。

 

岡原村に戦争未亡人の会を立ち上げて、ご主人を戦争で亡くされた方々と共に力を合わせて困難を乗り切ろうと頑張りました。

 

未亡人となられた方々の子供さんを連れて、色々な場所に出かけたり、皆が寂しい思いをしないように努めました。

 

戦後、10年程経つと、戦争未亡人の会は、訳あって離婚された母子家庭の方々も参加されるようになり、祖母はさらに積極的な活動を行いました。

 

 

 

実は・・

昨年末、祖母の写真や頂いていた額に入った表彰状等を、拭いていると

額の裏に別の表彰状が挟んである事に気が付きました。

 

こちらです・・

 

 

あなたは御夫君亡き後五十年の永きにわたり

家庭を守り幾多の世の苦楽を乗り越えてこられました

 

その間本部母子会に対しましても多大なるご貢献を賜りましたことに表心よりお礼申し上げます

 

ここにその尊い人生の御偉業に対し深い感謝と敬意をささげつつ

表彰いたします

 

 

 

ばあちゃん・・・

この表彰状を大きく飾らなかったところも・・

ばあちゃんらしいな・・

きっと、

自分は当たり前の事をしてきたまで!

 

そう心で言いながら

 

表彰状を頂いた事を嬉しく、ありがたく思いながら

 

額の後ろに挟んだ祖母の姿が目に浮かびました・・

 

 

私・・

ばぁ~っ・・と涙が溢れて

ばあちゃ~ん

と泣いていると・・

 

まるで

泣くな!

と言われたような気がした

次の物を見つけました・・

 

 

ばあちゃん(祖母)の文章が農協の機関紙に掲載された時の切り抜きでした。

 

こちらです

 

 

 

永年勤続部長

表彰に浴して

 

前婦人部長 宮原●●

 

熊本県農協婦人部協議会結成三十周年、本当に喜ばしい事でございます。

 

球磨郡で二人という、永年勤続の栄を頂きましたが、

これも皆様との心のふれあいが有ったればこそと感謝申し上げます。

 

私のような未熟者を永年務めさせて頂きありがとうございました。

 

農協も他部門に力を入れられ、農業生産力も高まり、農家生活の向上に接ながりを見せているようです。

 

婦人部の皆様も、妻として母親として、農協と一体となり、

健康管理に努め、明るい家庭づくりをめざされます様

心から願っております。

 

当村農業繁栄の源として

『農協運動を発展させ、農協の機能を高め、よりよい社会づくりにつとめる』

農協たれ!

と御声援申し上げております。

 

🌸 🌸🌸 🌸

 

 

 

私、初めて読んだのです・・

 

ばあちゃんらしい!

本当に、ばあちゃんらしい文章でした・・

 

優しくて、温かく

そして

強く、凛とした

ばあちゃんらしい文章でした・・

 

 

婦人部の皆様も、妻として母親として、農協と一体となり、

健康管理に努め、明るい家庭づくりをめざされます様

心から願っております。

 

当村農業繁栄の源として

『農協運動を発展させ、農協の機能を高め、よりよい社会づくりにつとめる』


農協たれ!

 

と御声援申し上げております。

 

 

 

祖母が永年勤続を表彰されたのは

昭和56年 の事

 

今のような日本になるとは

祖母も、全く想像すらしていなかった・・

と思います

 

しっかりしろ!

誇り高き日本人であれ!

負けるなひろ〇!

泣きよるどころか!

(泣いてどうするか)

ちゃんと乗り越えられる!

 

祖母から、そう声援されたような気持ちになりました。

 

 

誇り高きとは

日本の神々様を敬い

古からの文化を大切にし

人と人が思い合い

助け合い

優しく、温かく

愛する人を大切にし

誰もが素晴らしいパワーを持っている

 

 

 

ばあちゃん!

負けんばい!

じいちゃんと一緒に

見ててね

 

 

優しさと強さを持った祖母は

私の誇りです

 

私は、激しい部分がありますが

しかし・・心は強くはありません

 

だけど

祖母が見ていてくれています

 

だから

頑張れます

😊

 

 

それから・・(独り言)

このブログ最初に、私は

この波が最後の波になるように祈って

負けんばい!!

と書きましたが

 

この2年程

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)感染拡大の波を

ワクチン、治療薬・・全て他国に頼ってきた事は

日本にとって

恥ずべき事

だと思います

 

何の意味を持った先進国なのか・・

 

本来このような事態に

他国をリード出来る能力を持った国ではなかったのか・・

 

能力を持った国の

力を削ぐ行為を行った

一時の某政党元政権の方々は

その事を決して棚上げにするような事がないように

して頂きたいですね・・

 

そう言った行為こそ

恥ずべき事

だと、一主婦は思います

 

 

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

ホッとした・・

とか言ってられないので 次のお話を<m(__)m>

 

 

 

 

 

2.黒原山から産出する方解石

 

前回のブログで書いたように

 

大同元年(806年)

大神惟基という方は、わざわざ・・旧宮原村、旧岡本村まで来られて

ご神託に随って

大炊神権現(大炊霧島神社) ※おおい神権現

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

を創建なさったのだろう・・

 

何故?同じく、私の住む旧宮原村の府内(馬場田)には

 

稲積妙見社
※此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ

 

球磨郡内において妙見宮が最初に勧請されたのだろう・・

何故?この地が選ばれたのだろう・・・

 

確かに、黒原山からは

銀が採掘され・・(銀)

麓にはベンガラの元となるリモナイトが今でも流れ出していて・・(鉄)

水銀鉱床帯が通っていて・・(丹※砂辰)

金銀含有アンチモニの鉱山もありましたが・・

 

祈り・・を考えた時に

他にも何かあったのでは・・?

 

と考えた時に思い出したのです・・!

 

昭和16年皇紀2600年を記念して発行された球磨郡誌

国立国会図書館デジタルコレクションでもご覧いただけます。

 

コマ番号148 に記載されていました

 

 

 

方解石

岡原村宮麓

 

 

方解石とは ウィキペディアより

 

 

石灰岩の主成分鉱物で、鉱石として扱われる場合は石灰石、石材として扱われる場合は大理石と呼ばれる。

 

変成岩である結晶質石灰岩では、方解石の細かな結晶が、再結晶して大きくなる。純粋なものは透明か白だが、不純物を含んで色のついているものもあり、美しいものは大理石として珍重される。

 

特に無色透明な自形結晶のものは、氷州石(アイスランドスパー)と呼ばれる

 

一般に知られる方解石は、劈開した後のマッチ箱を押しつぶしたような平行六面体の結晶体で、複屈折(透明な方解石を通して向こう側を見ると二重に見える光学的特徴)をおこす鉱物として知られており、純粋なものは光学用に用いられる。

 

欧州では、羅針盤が存在しない時代、この複屈折を利用して曇天、雨天時でも太陽の位置を調べることができるコンパスとして用いられていた

 

以上ウィキペディアより抜粋致しました

 

 

 

球磨郡誌では、

研究者の方が岡原村宮麓の山を歩いていたら、ゴロゴロ転がっていた物を

拾って調べてみたら・・

方解石であった・・

という旨の事が記されていました

 

宮麓の山とは、当時の元「アンチモニ鉱山」があった場所で

そこから、少し上に行くと、戦国時代の「宮原銀山」があります

 

宮原銀山の事を、今では

「金山」(かねやま・かなやま)と地元の人達は呼んでいます

 

 

面白いのは、球磨地方では

鹿を かな

と呼ぶ地名が散在している事です

 

 

例えば、人吉市と鹿児島県大口市、さらに熊本県水俣市との境にほど近い場所は

「鹿目」・・かなめ

 

鹿目の滝 (かなめの滝)がある地区です

 

 

鹿児島県にも

鹿屋市(かのや市)がありますが

あちらも、本来は 鹿 = かな の変化形ではないのか・・

と私は推測しています<m(__)m>

 

 

 

ど素人の推測ですが

 

岡原村宮麓の山を歩いていたら、ゴロゴロ転がっていた物が方解石だった

 

 

つまり、方解石は容易に手に入った事になり

 

もしも、古代、鉱山に精通した人達がこの地に居たのならば・・

 

掘って、きちんとした形状の方解石を手に入れていた可能性もあり・・

 

羅針盤が存在しない時代、

この複屈折を利用して曇天、雨天時でも太陽の位置を調べることができる

コンパスとして用いられていた事と

似たような行為

例えば 祭祀に用いられていた可能性だって

有り得る訳ですね・・

 

 

 

 

3.ここでお願い<m(__)m>

 

私は、前回のブログコメント欄において

おちゃも様に以下のような返信を書かせて頂きました

 

 

私は、思うに
人には古代、今でいう所の「第六感」という物が
必ずあったと考えます

 

今は、退化した人が殆どなのかもしれないけれど
私が書く、ブログを見て下さる方々は
ご自身は他の人には、言わないけれど
ご自身は気が付いていらっしゃらない方もおいでかもしれないけれど
その「感」を受け継がれている方々だと思います

でも、その「感」が退化した人達は・・
おそらく、球磨には興味を抱く事は全く無いでしょう・・

こちらに来る機会が幾らでもあったとしても
おそらく・・盆地内の中心部まで来られて、山々を見渡したり
美しい川を見た事すらない・・
九州中央山地の山中でゾクゾクする感覚を受けた事すらない・・

だから・・意識の中に「球磨」や霧島、南九州を描く事が出来ない・・

こちらに、お越しになる事は出来なくても
球磨に興味を抱いて下さる方々に向けて
私は、発信しているのです😊

 

と・・・

 

球磨からの視点で、古代や先祖を調べて、当ブログの投稿も今回で315項となります

 

ど素人ながら、自分なりに勉強して投稿を続けています。

 

父には、

パソコンや本ばかり見て!

お前は、主婦として家を守る事を最優先にした上で

自分の勉強を空いた時間にする

それが、本来の役目であり

そうじゃなかったら、ご先祖様方はお喜びにならない!

と叱られながら・・です😥

 

 

球磨に興味を抱いて下さる方々に向けて
私は、発信している

 

だから、ど素人の私が気が付いた事で、何か、「大切な事」があった場合

私の書いている事をご紹介して頂く事に対して

私には何の許可も取って頂く必要はありません😊

 

 

 

ただし・・

ど素人のひろっぷがこのように書いている・・

という、事だけは必ず付けて頂きたい

とお願い致します

 

 

 

私も、多くの方々の大切なご研究を引用する場合は、必ず、その事を一番に考えて

〇〇様がお書きになられた□□という書籍に

●●様のサイトに・・と言った書き方を心がけています

 

私のブログをご覧頂いていらっしゃる多くの方々は、

私と同じお考えをお持ちの方々ですのでご紹介頂いたブログ内容を拝見すると、

心から感謝の気持ちでいっぱいになります😊

 

 

父は

大切な研究の引用先を記さない事は

人として最も恥ずべき事だ!

と強く言います

 

 

 

 

ただ・・・

実は気が付いていたのですが

 

あたかも、ご自身が気が付かれていたかのように、

球磨視点で調べなければ決して解らない事を

お書きになられていらっしゃる方が

おられる事を・・

 

その方に、他の方が、あたかも御自身が「その事」を調べていたかのように伝えていらっしゃる可能性もあり得ます

 

 

Amebaブログではありません・・

 

 

非常に残念な事は

球磨視点でなければ解らない事なのに・・

先に書いた「御方」は全く球磨に触れる事はされていない・・

 

 

本当は、こういう事、初めてではありません

過去にも数回ありました

 

ブログ中心ではなく、スレッドを利用させて頂いていた時にも数回・・

 

例えば・・

祖母方の一族「平河氏」が訴訟を行った人物の特定を

スレッドに投稿しながら

半年以上を費やしてようやく解った事があり、

私はご先祖様方、球磨の平河氏一族の方々がお喜びになられると思い、とても嬉しかったのですが・・

 

その事を「ある御方」がすぐに引用されていました・・

その時は、私の調査を引用した・・とはなく

「ネット情報によると」と書かれていました

 

 

何度もこのような悔しい思いをしてきたのですが

 

私は

「天は、ご先祖様方は、ちゃんとご覧になられていらっしゃるのだから」

と心を穏やかに保つようにして参りました

 

そう

天はご覧になられていますよ

 

今回、先に書かせて頂いた事に該当される御方に、この言葉をお伝えしたいと

思います

 

 

それに・・私には妙な感?がありますので😊

すぐに気が付きますし・・

 

私が気が付かなくても、私の周りの方々が気が付いて、

自然と・・私に、ちゃんとお話が回ってまいります。

 

人と人との思い合い

心と心の繋がり

ですね

心から感謝致しております😊

 

 

それに、スレッドにしても、当ブログにしても、アップした時間は自動表示されますので

過去、何年前の何時ど素人ひろっぷ書いた・・という事は、

どなたがご覧になられても

一目瞭然 です

 

 

ど素人のひろっぷが

万が一?とても重要な事に気が付いているようだ・・

とお考えになられた場合は

 

是非とも

ひろっぷが気が付いているようだが・・

とか

ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について サイトで

このように調べているようだが・・

 

と言った一言を

ぜひ、添えて頂きたいと

心からお願い申し上げます<m(__)m>

 

 

ど素人と言えども

このブログに書く事は

私にとって、とてもとても大切な研究ですから・・

 

 

 

私は

球磨の女

ですので・・

むむっ!

 

 

本当は、今回ばかりは、私も深く傷つきましたので

祖母のネットワーク 父のネットワーク、親戚一同のネットワークを発動してもらおうか!

(--〆)

とも考えたのですが、それは、そんな事こそイカン!と

やめました。(ー_ー)!!

 

そんな事しても、天もご先祖様もお喜びにはなりません (ー_ー)!!

何のネットワークなんやねん! とツッコミが入りました?(^▽^;)

冗談です😎・・😊

 

 

球磨の女の私は

伊予橘氏から続く・・

相良氏にも続く・・

天皇家の祭祀を司った

天皇家をおささえした

物部の魂を受け継いでいる事を

お忘れなく <m(__)m>

 

 

😊

 

 

本当は、こういう事を書くのは、好きじゃないのです

全く無関係の御方々

申し訳ございませんでした

 

 

今後ともひろっぷをよろしくお願い申し上げます<m(__)m>

😊

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

今回は

1.祖母の言葉・・

2.黒原山から産出する方解石

3.ここでお願い<m(__)m>

 

と言った内容を書かせて頂きました。

 

 

 

次回は・・

福岡県志賀島から出土する免田式土器のお話や・・

 

先代旧事本紀に景行天皇 皇子と記された 熊津彦命 のお話や・・

 

しとんぎ餅のお話や・・

 

あくまでも最近の私の考えですが・・

銅鐸は春秋時代の越人が伝えたもの・・

ならば、日本の縄文時代から続く王統の方々と

シュメールや古ヘブライから戻ってきた人達や(元々は縄文人)

後に来られた呉王家と呉人(こちらの方々は大陸の倭人、元々は縄文人)や

クメール系(元々は縄文人)の連合

例えば球磨人の方々は受け付けませんなぁ~

だけん、埋めさせたのか~独り言・・でした

 

と言った内容を書かせて頂きます(^'^)

 

 

キラッ😎

覚醒したひろっぷをご期待?下さい

😊

 

 

えっ(?_?) 今回のひろっぷしゃん 怖かった・・とのお声が聞こえたような・・

 

大丈夫です😊

 

私には以前から書いているように静と動が共存?しています

たまに、動が働く時もありますが・・

今は、全く心穏やかです😊

(動が働く時には、殆ど球磨弁なのですが、今回は標準語でした。😊・・うん🙄)

 

 

皆様、最後までお読み頂き

ありがとうございました

😊

 

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

 

次回『お見舞い 加えて、「経験した長周期地震動について」 』 に続きます。

 

 

 

 

前回のブログ『㊺今、強く感じる事と、新春の球磨盆地と旧久米村』より続きます

 

2022/01/14 12:18 再々投稿

2022/01/12 23:23投稿の拙ブログ、すでにご覧頂いた方々に

心から感謝申し上げます。

 

これから、お読み頂く方、拙ブログに興味を抱いて下さり

ありがとうございます。

 

以下、追記であります。

 

今回のブログ内で書いた重要な「言葉」

神託に随って とは

神のおつげ。神が人や物などを通してその意志を知らせること。

神宣。神勅。神言(かんごと)。

に随って という意です

 

 

さらに、前回のブログでもご紹介した、縄文晩期の球磨盆地の地層から大量に出土する

有肩打製石斧の用途を、私は今まで書いていませんでしたので、ここに追記致します。

 

有肩打製石斧とは、収穫した稲の今で言う所の脱穀、籾殻を穀粒からはずす籾摺り(もみすり)に使用した古代の石器です。

 

つまり

有肩打製石斧が出土した球磨で、古代、稲作が行われていなかった・・なんて

ありえな~い!

という訳です😊

 

 

以下、2022/01/12 23:23投稿のブログ内容となります<m(__)m>

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております
 

 

この2年近くで、私達は様々な事を学びました

さらに、2年前と違うのは、飲み薬や抗体カクテル等の治療薬が今はあります。

 

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って
出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊

 

私の住む地域でも感染は一気に拡大しています・・

 

でも!

負けんばい!!

 

あらためて

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております
 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

私のブログを続けてお読み頂いている、私の拙いブログに興味を抱いて下さる皆様方・・

 

もしかしたら・・

私、球磨の本質にようやく気が付いたのかもしれません・・

 

だから・・

今回のブログタイトルに「最重要」と付けました

 

前回、家の氏神様をお祀りの岡原霧島神社と戦艦球磨の艦内神社様の御繋がりにようやく気が付いたと書きましたが・・

前回のブログを書いた後に

今年早々、妙見山に登らせて頂いたのは、きっと何かのお導きだったのかもしれない・・

と・・考えるに至る所まで、気が付かせて頂きました。

 

その事にたどり着いた経緯を順を追って書きます。

(今回は顔文字を使って書く気分ではありません・・)

 

 

 

1.球磨盆地は全国1、2位の霧の発生地

 

独り言・・

ブログ『㉞再投稿 301回目 球磨の雲海と海を渡ったツクシイバラ』を書いた時から、おそらく今回に繋がるお導きが続いていたのかもしれません・・

 

 

 

ブログ『㉞再投稿 301回目 球磨の雲海と海を渡ったツクシイバラ』 より

 

ウィキペディアより

人吉盆地(ひとよしぼんち)は、熊本県南部において

東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地である

球磨盆地(くまぼんち)とも呼ばれる。

 

北部は八代・球磨山地、東部は九州山地、南部および西部は肥薩火山群(国見山地)に囲まれている。東から西へ向けて球磨川が流れる。

 

四方を山々に囲まれ外界から閉ざされた人吉盆地は内陸型気候で昼夜の寒暖の差が激しく、そのため秋から春にかけて盆地全体がすっぽりと霧に覆われてしまうことが多い。

年間100日以上も朝霧が発生し、発生頻度は日本で1、2位を争う。

良質な水に恵まれた米どころであり、日本の米焼酎の代表的生産地でもある。

 

 

年間100日以上も朝霧が発生し、発生頻度は
日本で1、2位を争う。

 

ブログ『㉞再投稿 301回目 球磨の雲海と海を渡ったツクシイバラ』でご紹介した

tararira taragi 様の たらぎ雲海ムービー

2分56秒の動画となります。

 

奇跡的にも・・奈良盆地と全く同じ大きさの

球磨盆地の雲海を皆様、もう一度ご覧いただけませんか・・

 

補足しますと

tararira taragi 様は 久米の妙見山から動画をお撮りになられていらっしゃいます

 

 

 

 

 

球磨盆地は日本で1、2位を争う 霧の発生地です・・・

おそらく・・古代からずっと・・

 

 

ここからは音楽と共にお付き合い下さい

 

Fearless Motivation - Why Do We Fall? - Song Mix (Epic Music)

 

 

 

 

 

2.三日月の形をした球磨盆地

 

球磨盆地は三日月の形をした

東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地で

奈良盆地と全く同じ大きさ・・

 

 

前回のブログ、妙見山から撮影した動画と写真を投稿していました。

 

未だ、ご覧でいらっしゃらない方は、ぜひ、ご覧になられて頂きたいと願います。

 

 

 
 
球磨盆地は
標高1000メートル級の山々に囲まれた
標高200メートル近い平野部分が広がっています
 

 

 

 

私の住む集落が、妙見山の麓に見えます・・

 

 

 

 

私の住む集落に、明治時代初頭まで御鎮座であった稲積妙見・・

ここから・・真正面になる事に気が付きました・・

 

 

 

3.稲積妙見社

 

先に書いた稲積妙見は、家の宮原家が元々あった土地のすぐ近くにご鎮座でした。

 

ブログ『旧宮原村古地図と岡原村の神社様』で詳しく書かせて頂いております。

宜しければご覧下さい。

 

 

 

ブログ『旧宮原村古地図と岡原村の神社様』をご覧頂くとお解り頂けますが

 

家の宮原家と深く関わる「字」は

府本・府内・外園

馬場田・・

 

そして・・

この地の大字は

宮野

です・・

 

 

府内(馬場田)御鎮座 稲積妙見

稲積妙見

 

麻郡神社私考より(補足を加えながら・・)

 

稲積妙見 久米領稲積山 (稲積妙見は宮麓地区内にある旧久米領の飛地でした)
社人 椎葉久左衛門
八代郡白木社妙見同體
 

草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ
※球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。
 

明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トシ
※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続は球磨郡を統一)
 

代官 最所式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久


宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興

 

 

※草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ

 

 

府内(馬場田)御鎮座 稲積妙見

江戸時代に作成された宮原村古地図より 

 

黒原山と旧宮原村

 

良くご覧頂くと、山の麓に、人工的な違和感?を感じる場所がありませんか?

 

この地域です・・

枠で囲んだ部分が「馬場田(府内)」と「外園」です

 

 

この「府内(馬場田)」は、私が過去ブログで何度も書いたように、

家の宮原家の本籍地となり、今は、外園に住んでいますが、父曰く、

「宮原家の本籍地は馬場田から絶対に動かしてはならない!」という

掟(おきて?)をきつく言われております。

 

※父は祖母から聞き、祖母は亡くなった祖父から聞いていたようです・・

 

稲積妙見社

※此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ

 

※御祭神

八代郡白木社妙見同體

 

天之御中主神
国常立尊

 

 

稲積妙見社は、明治時代に旧宮原村、旧岡本村が合併して岡原村となった事を機に

其々大同元年に創建されたと記された

中嶋大権現(中嶋霧島神社)、大炊神権現(大炊霧島神社※おおい霧島神社)

切畑大明神(※切旗大明神 御祭神 阿蘇神社同體、合祀 平景清公母君)

さらに、旧宮原村、旧岡本村の各地にご鎮座であられた神社の神々様と合祀となり

岡原霧島神社が創建されました。

 

 

4.岡原霧島神社

 

先に書きましたように、明治時代に

旧宮原村、旧岡本村の各地にご鎮座であられた神社の神々様と合祀となられ、

創建された神社が岡原霧島神社 です

 

明治43年の記念式典での写真

 

 

 

頂いている資料より 御祭神

 

こちらの資料には続けて

『上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています』と記されています。

さらに

『飛び地境内社として熊野地区の熊野座神社、伊勢元地区の皇太神宮、

檜山地区の天満宮、長岡地区の菅原神社、岡麓地区の諏訪神社があります』

と記されています。

 

岡原霧島神社 御祭神

天津彦火邇邇芸命
天津彦火々出見命
火闌降命
火明命
吾田鹿葦津姫命
伊弉美命
須佐能男命
大歳神
市杵島姫命
豊玉姫命
罔象女神
天照大御神
菅原道真公
天御中主神
級戸神
健磐龍命
阿蘇津比咩
国造速瓶玉神
大地主神
応神天皇
建御名方神
 

 

ずっと・・疑問だったのです

上記の資料・・

何故?

火明命様が海の神様と記されているのか・・

ずっと疑問だったのです

 

しかし、その答えが見つかりました。

後ほど、ご紹介致します・・・

 

 

令和四年1月3日

主人が早く帰宅出来たので、二人で岡原霧島神社に初詣に出かけました。

 

 

 

御拝殿

 

新年を無事に迎える事が出来きました

お見守り頂き真にありがとうございます

 

 

と新年のご挨拶を申し上げました

 

 

 

 

 

こちらが八角形の形をした ヤツジメです

 

 

ヤツジメとは

過去ブログ『(速報!追記あり)大宮司様が見た「月と日と星が煌めく」球磨盆地内』でも

ご紹介致しました。

 

 

 

 

 

 

 

ブログ『まにまに。~心のままに神社巡り~』 の佐月様からコメントにて、

球磨神楽が奉納される御拝殿・神楽殿内の八角形について、とてもありがたいご教示を頂き、ご紹介させて頂きました。

 

 

天井から延びている8本の細い縄は
 

「ヤツジメ」と呼ばれ、その中心は北極星を現し
 

【陰陽】月・日
【五行】火・水・木・金・土の意味があるそうです。
 

御幣は稲妻を表し、
 

天井の白い船のようなものは「ゆきふね」と
いうそうです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

私はこちらのご教示を頂いた時に、まず頭に浮かんだ事がありました。

【陰陽】月・日

陰が月で陽が日(太陽)

 

陰と影は同意語です。

陰はつまり影である・・

 

球磨郡あさぎり町上(うえ)に聳える白髪岳の頂上付近には

狗留孫神社様がご鎮座

 

「麻郡神社私考」には

「影向之神三座(よごうの神)」

と記されていて
 

東ハ霧島神 
中ハ狗留孫権現
西ハ阿蘇神

と記されています。
 

 

「影向之神(よごうの神)」  
どう言う意味だろう ・・・・ずっと解らないでいました・・・

 

 

その影の意が理解出来たブログ

『源流を知る為の必読書より 肥は日なり 涙が溢れ・・』

 

 

林兼明氏 著書 神に関する古語の研究 

第二節 神の語義
第三項 神の語義に関する結論の中に
私がずっと疑問であった 日と影の関係 その意味が記されていました。

 

 

「日」こそ隋ひて「日(ひ)―火(ひ)―霊(ひ)」こそ

実に日本民族の一切信念、一切習俗の

・・・大本源なりしものなり

 

「かみ」(神)は「かひ」の転ぜる語なり・・・・

 

 

「かげ」(景・影) (名詞)

「かが」(赫)※あかい・輝く の転語なり

「日」の輝きをいふ

 

従来の学者は・・・多くこれを「曇る」意に解したけれどそれは明らかに誤謬なり

 

 

古代の言葉としての

「影(かげ)」とは 

「日」の輝きの事を指していたのです・・・

 

 

 

5.ご神託に随って創建された二社

 

 

岡原霧島神社の由来 一部写真

 

 

 

岡本村の大炊神権現(大炊霧島神社)と

宮原村の中嶋大権現(中嶋霧島神宮)は

大神惟基、この方がご神託に随って創立した二社となります

 

大炊とは

おおい

と読みます

 

そうです・・

おおい神権現

おおい・・

だったのです

 

さらに、中嶋大権現は中嶋霧島神宮と記されていた事に今まで全く気が付いていませんでした・・

 

 

とても大切な事を完全に忘れていました・・

 

ブログ『橘一族と八角形の地』で書いていた事です・・

 

 

霧島神宮古宮址 後方に聳える高千穂峰

 

 

 

高千穂峰と 御拝殿址

 

霧島神宮元宮と霧島神宮古宮址の位置関係の写真に記されていた内容・・

 

霧島神宮元宮

初代の霧島神宮は元々、高千穂峰と御鉢火山の鞍部にあったとされていますが788年の御鉢の噴火で焼失しました。現在、その場所には神社の跡を示す鳥居と石碑が建てられています。

 

霧島神宮古宮宮址

祭壇は2代目の霧島神宮の社殿がここに存在した事を今に伝えています。

 

以上 霧島神宮様 公式ページより

社殿の創建

中略・・旧記によると、元宮はもと高千穂峰と御鉢「火山口」との中間 脊門丘に奉斎されていましたが、御山の噴火の為に悉く炎上し、村上天皇の天暦元年(950年)天台宗の僧である性空上人が高千穂河原に再興奉還しました。

 

以上 霧島神宮様 公式ページより

 

つまり

霧島神宮元宮 様が788年御鉢の爆発により、御神殿が焼失して天暦元年(950年)天台宗の僧である性空上人が高千穂河原に再興奉還されるまでの間に

大同元年(806年)ご神託に随って大神惟基により

肥後国球磨郡久米郷宮原村と岡本村(岡許村)に創立された二社が

 

大炊神権現(大炊霧島神社)

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

 

であった・・

 

という事になります・・

 

 

さらにもう一つ気が付いた事がありました。

 

拝殿へ登る階段の石塔です

 

 

 

 

御大典記念

大正四年十二月 建設

 

 

私は不勉強なので、すぐに調べたのですが

こちらは

御大典記念碑

であり

大正天皇即位の礼を記念して

岡原村の有志が建立させて頂いた事が解りました。

 

 

何故?大正四年なのか それは・・

weblio辞書 様の 大正の即位の礼 をご覧頂くとお解りになれます

 

 

weblio辞書 様の 大正の即位の礼より

 

大正天皇の即位の礼
旧皇室典範・登極令制定後、初めての挙行となった第123代・大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。

 

本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。

 

この時に帝国議会上院の貴族院書記官長を務めていた柳田國男も大正天皇の御大礼に出仕しており、後に大嘗祭についての提言を残している

 

以上 weblio辞書 様の 大正の即位の礼より抜粋させて頂きました。

 

 

 

ああ・・・私は地元の、氏神様をお祀りの神社様の事をまだまだ全く解っていなかった・・

猛反省しました・・

 

 

 

先に書いたように

火明命様が海の神様と記されているのか・・

ずっと疑問だったのです

 

しかし、その答えが見つかりました。

 

 

6.軽巡洋艦球磨の艦内神社

 

昭和9年、湯前町の市房山神宮里宮神社の創建に

私の曾祖父の弟、湯前町の村長、初代町長も務めた、平川源市氏が携わった事は

 

過去ブログ 平川家の一族 曾祖父の弟の方 でご紹介させて頂いております。

 

 

『市房山神宮里宮社』完成式での平川源市村長の「祝詞」です。

 

 

 

 

 

 

半年以上前

おちゃも様より、湯前町にご鎮座の市房山神宮里宮神社様の境内に作られた

軽巡洋艦球磨の記念館を運営なさっていらっしゃる御方のホームーページをご紹介して頂きました。

 

大変なご苦労をなさって、軽巡洋艦球磨に関する資料等を御集めになられ、研究をなさっていらっしゃる御方です。

 

ぜひ、皆様にご覧頂きたく願い、ご紹介させて頂きます。

 

私は軽巡洋艦球磨に関して、マダマダ不勉強で、拙ブログに書かせて頂く事は分不相応だと自覚致しております。

 

軽巡洋艦球磨記念館 様 のホームページです

あらためまして、ぜひ、ご覧頂きたいとお願い申し上げます

 

 

 

 

御苦労をなさって御集めになられた資料の中に

大正時代に発行された呉新聞の記事が記載されていました。

 

 

呉新聞の記事

そこに、私が最も驚いた記述があるのです

 

呉新聞の記事、文字が大きくご覧になれますので

軽巡洋艦球磨記念館 様 のホームページ内でご覧頂く事をお勧めしますが

画像を勝手ながら別ウィンドウで表示させて頂きました。

皆様、ぜひ、ご覧頂きたいとお願い申し上げます

 

https://cdn.peraichi.com/userData/60337c77-e594-4913-b79f-0c250a00006f/img/603423c75a28d/original.png

 

 

 

呉新聞より

抜粋させて頂きます

 

此の高速艦の守護神として艦内に祀ってあるは、熊本県の郷社市房山神宮で、

其の御神霊記にはこう記されている。

 

一, 祭神

創立大同二年十一月十五日(人皇五十一代平成天皇紀元一,四六七年)

天津彦火瓊瓊杵尊

豊玉姫命

 

火闌降命、火明命此の雨神は最も海に関し因縁深く、海幸を司り賜ふ

火明命は海幸により後に彦火々出見命となり給ふ

 

 

二, 祭日 公式例祭 十一月十五日

       臨時例祭■暦 三月十五日

 

三, 鎮座 熊本県球磨郡岡原村 同郡水上村鎮座郷社市房山神宮

 

四, 社司 横瀬 安治

 

 

 

まず、驚いた事は

岡原霧島神社が記されている事です

 

社司 横瀬 安治様は当時の岡原霧島神社の宮司様です

代々、宮司家であられた横瀬家の方々とは、祖母の実家の平川家は、親戚のように親しくさせて頂いておりました。

 

さらに、父に聞いたのですが

私の祖父が、陸軍士官候補生学校に合格した際に、球磨郡中の親戚が集まってお祝いをした際の写真にも、岡原霧島神社の宮司「横瀬」様が一緒だった・・そうです

※この写真は、祖父の義理の姉(宮原家の養女)の方の家に保管されています

 

呉新聞の記事に

何故?岡原霧島神社が記されているのか・・ずっと疑問だったのですが

気が付いたのです。

 

確かに、市房山神宮里宮神社の主祭神は天津彦火瓊瓊杵尊
 

しかし

市房山神宮里宮神社の創建は昭和9年

つまり、大正時代に建造された軽巡洋艦球磨の艦内神社として御祭神が分祀される事は

ありえません・・

 

さらに、市房山神宮の御祭神

 

 

 

主祭神は・・

 

 

岡原霧島神社の主祭神は

天津彦火瓊瓊杵尊

 

軽巡洋艦球磨の守護神は

二社合祀の神々様であられたのでは・・

と私は推測致しました。

 

軽巡洋艦球磨の艦内神社に地元の氏神様をお祀りの神社が関わっていらした事に

感慨深い気持ちになります

 

 

1943年1月11日

軽巡洋艦球磨がイギリスの潜水艦タリホーの雷撃に遭い、沈没した日でありました。

 

軽巡洋艦球磨と共に海に沈まれた御英霊のみたまに心から敬意を表し

ご冥福をお祈りいたします

 

 

 

 

7.岡原霧島神社に伝わる神事と伝承

 

2018年の10月に書いたブログです

御教示へのお礼 及び 弓を用いた旧岡原村での 儀式

 

未だ、お読み頂いていらっしゃらない方は、ぜひご覧になられてみて下さい。

 

 

御教示へのお礼 及び 弓を用いた旧岡原村での 儀式
を書いた事によって、私は地元に伝わる儀式や風習が物部氏の儀式に繋がるものではないのか・・さらに、天孫降臨の神話へとも繋がるものではないのか?

と考えるようになっていました。

 

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より

 

(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
 

①子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。
 

②七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)

 

③弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式があった

明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。
 

 

私はこの時・・

 

物部氏

★弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い

 

岡原村での儀式

★弓引きの式

 

江戸時代に編纂された『太宰官内志』に
久米郷 
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。

 

と記された旧球磨郡久米郷の岡原村(おかはるむら)に伝わる「弓引きの式」と

物部氏の「弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行う」・・と言う記述が

私には偶然だとは到底思えないのですが、皆様はどうお感じになられますか?・・・・

 

と書いていたのです。

 

 

しかし・・

先にご紹介した呉新聞には不思議な記述がありました。

 

 

火闌降命、火明命此の雨神は最も海に関し因縁深く、海幸を司り賜ふ

火明命は海幸により後に彦火々出見命となり給ふ

 

この地の神社様には、私達が全く知らない伝承が残っているのか・・

 

 

だからこそ、前回のブログで、私は

日本書紀では彦火火出見尊さまのご年代が500年続いた

との内容が記されています

 

私は、500年間の間に彦火火出見尊 と名を代々受け継がれた方々が

何名もいらっしゃった

と若輩者ですが受け止めております

 

と書かせて頂いておりました

 

 

 

8.天火明命さま・・

 

天火明命 ウィキペディアより 抜粋させて頂きます

 

天火明命の別名は次の通り。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 (『先代旧事本紀』)
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 (真清田神社由緒記)
天照國照彦天火明尊
天照国照彦火明命 (『日本書紀』、真清田神社由緒記)
天火明命 (『古事記』、真清田神社由緒記)
彦火明命
火明命  (『日本書紀』)
膽杵磯丹杵穂命 (いきしにほのみこと)
天照御魂神(あまてるみたまのかみ、『神社志料』)

 

系譜
『古事記』及び『日本書紀』の一書によれば、天火明命は天忍穂耳命と高木神の娘万幡豊秋津師比売命との間に生まれた子とし、天火明命が兄で、邇邇芸命は弟とされる。

一方、『日本書紀』の別の一書では、天火明命は邇邇芸命の父(邇邇芸命は天火明命の子)とする。 

『先代旧事本紀』は、天火明命は穂積臣や物部連の祖である饒速日命の別名であり、饒速日命と同一神と記す。このことについて、世代関係や活動地域から疑問が大きいとする説もある。

一方、『播磨国風土記』では大汝命と弩都比売との子とする。

 

後裔氏族

『新撰姓氏録』では、天津彦根命、天穂日命、天道根命などの子孫と合わせて、天火明命の子孫を「天孫」と称している。天孫系は高天原から尾張国や丹波国にも移り尾張氏・津守氏 ・ 海部氏、丹波氏など多くの氏族の祖神とされ、『海部氏系図』(あまべしけいず)にも始祖としてその名が記されている。

 

穂積氏、物部氏の祖である饒速日命と同一ともいわれる

 

字義

「天照」の名があるが「天照大神」とは別の神である。元伊勢の籠神社では、主祭神を「天照国照彦火明命」とし、相殿神に「天照大神」としてそれぞれ別の神としている

 

主な神社
籠神社(京都府宮津市) - 「彦火明命」として祀られる。

その子孫とされる海部氏が、古代から現在まで宮司を世襲している。

 

 

 

ここまで、読ませて頂きながら非常に驚きました・・・

 

ブログ『源流を知る為の必読書より 肥は日なり 涙が溢れ・・』で書いておりました・・

 

神に関する古語の研究

平成12年の出版に際し 林 兼明様のご子息

海部直 八十二代 元伊勢籠神社様 宮司でいらっしゃる 海部光彦様のお話には

昭和19年に本来ならば出版されるべきであった林の彫心鏤骨の研究原稿が、永い歴史の眠りから清く醒めて、56年ぶりに今陽の目をみようとしている。

と書かれていらっしゃり、目頭が熱くなりました。

と・・

 

ブログ『源流を知る為の必読書より 肥は日なり 涙が溢れ・・

さらに

ブログ『①始まり 太陽に向かって進む人達

 

神に関する古語の研究を拝読して

ブログ内で、書かせて頂いた事

全てが、私の周辺の風習、環境、言葉・・等と一致して・・

感動した事をしっかりと記憶しています

 

天火明命さま・・

 

天火明命の別名は次の通り・・・

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 (『先代旧事本紀』)・・

 

 

どうなっているのか・・

不勉強過ぎて、私はマダマダ理解不足ですが

 

ただ、先代旧事本紀が・・

大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる

という事を知った時に、背中にズン!と得も言われぬ衝撃が走りました・・

 

大同年間(806年 - 810年)

球磨に球磨盆地を取り囲むように、次々と神社が建立された時期と

一致しています・・

 

あっ・・・

 

 

9.先代旧事本紀・・

 

多くの方々の解説を書籍やネットで拝見した事はありましたが

無性に原本が読みたくなりました。

 

ありがたい事に国会国立図書館デジタルコレクションに

寛永21年に発行された

前川茂右衛門の複写本が公開されていました。

 

読み始めて、すぐに、衝撃が走り・・涙が溢れてきました・・・

 

皆様方は先代旧事本紀の原文をご覧になられた事はおありになりますか・・?

 

 

 

10.日国禪(ゆずる)月国ノ狭霧尊・・

 

国会国立図書館デジタルコレクション

先代旧事本紀10巻はこちらになります。

 

 

 

私が衝撃を受けた内容は

神代本紀 陰陽本紀

 

コマ番号5 から記されていました。

 

 

あまりの衝撃で・・・画像を保存して加工しました。

皆様、ぜひ 赤いラインを付けた箇所にご注目して下さい。

 

 

 

 

 

 

 

以下の

赤い線を引いた箇所と、赤い線で囲った箇所をご覧下さい

 

 

天祖天譲日天狭霧国禪月國狭霧尊

天御中主尊

 

太神宮 秘文・・・

天御中主尊

 

中略・・

高天原ニ初出之故謂ウ之天譲日國禪月天狭霧國ノ狭霧尊

 

 

皆様・・

私が鳥肌が立つ程、驚いてしまった理由がお解りになられましたでしょうか・・

 

今回のブログ・・

1から9までを、じっくりとお読み頂いた皆様にはお解り頂けると思います・・

 

高天原 日國 月國 狭霧國・・・

天祖天譲日天狭霧国禪月國ノ狭霧尊

 

 

あの・・日本全国で月の形をした霧の国・・

イメージを描く事が出来る場所は・・どれくらいあるのでしょうか・・

 

あくまでも、私の推測にすぎませんがお聞きください

 

物部氏にとっての天の高天原を投影する事が出来る

地上の高天原は・・

もしかしたら・・「この地」だったのでは・・

ないでしょうか・・

 

物部氏だけではないのかもしれません・・

 

私は気が付いていました・・

2017年の10月に書いたブログ

『天子神社の御神紋について』の内容と今回のブログ内容の接点を・・

 

ご興味がおありになられる方はご覧になられて下さい。

今回は、あえて転記は致しません・・・

 

 

 

球磨・・

古代この地には

磐座・・巨石を崇拝する方々

九州島最大の漁具を造る人達・・

麻を植える人達

苧麻(ヲ)を植える人達

それらの繊維を精製する人達

玉を造る人達

(多良木町では直径8cmの勾玉が出土。他、玉の生産場跡が発見されています)

久米族

後の物部氏

といった方々が住まわれていたようです・・

 

さらに、球磨は

鉄鉱石・銀・銅等 多くの鉱物の宝庫で

さらに日本で3か所しか存在しない

水銀鉱床帯が存在します・・

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

今回は

1.球磨盆地は全国1、2位の霧の発生地

2.三日月の形をした球磨盆地

3.稲積妙見社

4.岡原霧島神社

5.ご神託に随って創建された二社

6軽巡洋艦球磨.の艦内神社

7.岡原霧島神社に伝わる神事と伝承

8.天火明命さま・・

9.先代旧事本紀・・

10.日国禪(ゆずる)月国狭霧尊・・

 

という内容を書かせて頂きました。

 

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

非常に長くなりまして、申し訳ございません。

私・・何か大きな力に背中をグイグイ押されるように、一気に書いてしまいました。

 

今回のブログを書きあげて、何だか、少しホッとしました・・

かなりパワーを使ったようです・・

しばらくは、ブログの更新は致しません。

 

皆様方のブログをじっくりと拝見する事を楽しみにしております😊

 

 

皆様、お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『再投稿㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』に続きます