前回のブログ『52.大神惟基公、再興の天岩戸神社さまと創立の神社さまと 免田式土器』

より続きます。

 

 

2022/02/13 19:35 再投稿

本日11:10に投稿した拙ブログをすでにご覧頂いた方々へ

 

お読み頂き ありがとうございました。

 

毎度の事ながらおっちょこひろべえ です😔


大切な言葉を書いていなかった事に気が付き、😔

 

前回に続くお話を・・ の中に

以下の言葉を追記致しました <m(__)m>

 

 

免田式土器出土地 奈多砂丘
志式神社 ご鎮座

 

御祭神

天火明命(ホアカリの神) 火闌降命(ホスセリの神) 豊玉姫
十域別神 雅武王 葉山姫神 

 

 

つまり・・奉斎氏族の後裔の方々は北部九州へ

移動なさった方々がいらっしゃるのではないでしょうか・・

 

おっちょこちょい の ひろっぷ でした <m(__)m>

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 

球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

皆様

前回も書きましたが<m(__)m>

 

最近、ブログの更新が早いですので(^▽^;)

 

新たに覚醒?したあとのひろっぷしゃんのブログ🤔

未だ、お読み頂いていらっしゃらない方は、お暇な時にで結構ですので

以下のブログ、ご覧頂ければありがたいです😊

 

※おそらく、ご覧頂けてないと、

私が何をお伝えしようとしているのかサッパリお解りにならないと思います・・(^▽^;)  <m(__)m>

 

 

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

 

 

再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・

 

 

㊽家の親戚の姓と弓の儀式と雲平さんと

 

 

(再)㊽+1 方解石は凄い!と輿と15枚の合祀になられた神社絵図

 

 

(再)㊿人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅

 

 

(再)51.天津日高彦火邇邇杵尊 天火明命 火闌降命 御陵について

 

 

 

今回のタイトルは

地元にお祀りの葉山神さま.若山大神さまと球磨の地名

 

 

今回のお話・・凄く長くなってしまいました。

しかし・・私はとても大切な、大切な事に気が付いたのだと思います

 

 

 

1.父の幼なじみの方の言葉

 

最近のブログで、何度もご紹介させて頂いている岡原霧島神社

 

明治時代に
旧宮原村、旧岡本村の各地にご鎮座であられた神社の神々様と合祀となられ、
創建された神社が岡原霧島神社 です

 

御祭神  頂いている資料より

 

こちらの資料には続けて
『上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています』と記されています。

さらに

『飛び地境内社として熊野地区の熊野座神社、伊勢元地区の皇太神宮、
檜山地区の天満宮、長岡地区の菅原神社、岡麓地区の諏訪神社があります』
と記されています。

 

 

※上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています

 

実は、葉山神さまをお祀りの神社の氏子さんが、私の父の幼なじみであり、大親友の方なのです。

 

私は●●のおじさんとお呼びしている方です。

 

 

今から、4年程前・・

この方が、父に、

 

「葉山神さまをお祀りしているけれど、色々な人に確認しても、葉山神さまを知っている人がいない」

 

「ひろ〇ちゃんなら、解るんじゃないかな」

 

「次の世代に伝えていくためにぜひ、調べてもらいたい」

 

とお話がありました。

 

実は、私も、資料を頂いてから、ネットで調べていたのですが、全く解らず、

父の幼なじみの方の熱い思いを聞いて、専門家じゃないので、どうすれば良いのか困惑しておりました。

 

そんなある日・・

その方と父と3人でお話していた時の事です。

 

以下、●●おじさんの話

 

あのね・・

今の人達は信じられんかもしれんけど

 

おじさんがね、子供の時、葉山さまのお祭りの時

毎年、何度も不思議な体験をしよったっバイ 

 

夜、子供たちがお宮の周りで遊んでいると、黒原山の麓の小高い山の方から、

光がす~っと伸びてきて、お宮まで、その光が繋がったとよ!

 

その光を、おじさんだけじゃナカ、そこにいた子供達も、大人も

皆、見たと!

 

大人は

「あの山(小高い山)の神様が会いにきよんなっとバイ(来ていらっしゃる)」

と言っていた

 

本当に、不思議な光で、バッテン怖くはなかった

 

温かい気持ちになった😊

 

それから、光を何度も見たけど

 

村も田ん中が構造改善されたりして、変わってきてから

しばらくすると、その光は見れんごとなった・・

 

今でも、あの光を忘れた事はナカばい 😊

 

以上 ●●おじさんのお話でした

 

 

 

私、●●おじさんが懐かしそうに話されるのを聞きながら、本当に体験されていたのだなぁ~

と感動して聞いていました。

 

球磨・人吉地方に住んでいる人なら、おそらく解るはず です

 

多くの人達が、昔からの不思議な言い伝えや、実際に不思議な体験をした事がある

と思います😊

 

ここに、住む人達は、直感的に解っていることなのだと・・

私も、子供の頃から凄く不思議な体験は何度もしましたし・・

 

過去ブログをお読み下さっていらっしゃる方々には

一昨年前に主人と目撃した

羽が生えた透明の馬(馬だと思います)

のお話をブログでも書いております

 

馬・・

補足ですが、最近父が、急に思い出した事があります。

平川の曾祖母(祖母の母)が

「馬の夢を見たら、用心せんばいかんよ」と子供の頃に言っていたそうです

何かの伝えかな・・・

 

 

●●おじさんのお話を聞いてから、私は、

葉山さまは、

「あちらの神様では?こちらの神様では?なかろうか?・・」と

簡単な・・単純な憶測を行うべきではない

と強く感じていたのです・・

 

だから、今まで、ブログでも触れる事はありませんでした。

 

だからこそ、前回のブログでも

 

神々様に
失礼にあたりますので

単純なるご推測は控えて頂きたい

 

との気持ちを書かせて頂きました

(不躾な言葉を使って申し訳ございませんでした)

 

 

 

ここからは

音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>

 

Two Steps From Hell - Heart of Courage Extended

 

 

 

 

 

以下

あさぎり町に合併する以前の旧岡原村の字図です

 

井口川の左側が旧岡本村

 

旧上村(うえ)と岡原村(旧岡本村)にまたがる神殿原(こうどんばる)のすぐ近くに

葉山元

という字が残っています

 

神殿原は、上(うえ)内に大きく広がる地域で、以下の字図には岡原内の部分しか表示されていません。

 

岡原字

 

 

ちなみに、字の中に六反田、五反田、三反田、一町田等の地名が残っていますが

この地名は、奈良時代からの条里制の名残で、井口川沿いは、古代早い時代から水稲稲作が行われていた旨の論文を拝見致しました。

 

詳しくは、後日、ご紹介致しますが、旧宮原村宮麓の城山(宮原城跡)の山から、

須恵器の骨蔵器が出土していますので、日本に仏教が伝来して、直後においても

この地は、古くから郡衙に関わる「力」を持たれた方々が住まわれていたようです。

 

岡原村史を見ると、上記の字図とは異なる、旧宮原村、旧岡本村の字名が幾つか登場しますので、上記の字図は合併後に変わった地名もあるようです

 

 

 

 

 

2.葉山神さま、若山大神さま

岡本村(岡麓)には御繋がりになられる全ての神々様がお祀りでした・・

 

 

2021年7月に書いたブログ

(再投稿)⑱記紀に描かれた約2000年前

 

 

 

⑱記紀に描かれた約2000年前 でも書いたように、解釈ではなく、どうしても、原文が読みたくなった私は、四苦八苦しながら、ご紹介したサイト様の古事記原文を読んでいました。

 

その時、気が付いたのです。

 

以下の記述です

※以下、数か所で原文を挙げますが、あとで、現代語訳を記させて頂きます<m(__)m>

 

古事記 上卷-2 別天神五柱~神世七代 より

 

 

 

所殺迦具土神之於頭所成神名、正鹿山上津見神。次於胸所成神名、淤縢山津見神。淤縢二字以音。次於腹所成神名、奧山上津見神。次於陰所成神名、闇山津見神。次於左手所成神名、志藝山津見神。志藝二字以音。次於右手所成神名、羽山津見神。次於左足所成神名、原山津見神。次於右足所成神名、戸山津見神。自正鹿山津見神至戸山津見神、幷八神。故、所斬之刀名、謂天之尾羽張、亦名謂伊都之尾羽張。伊都二字以音。

 

 

羽山津見神

はやま?とお読みするのでは・・

 

とても、気になり、お調べ致しました。

 

すると、

國學院大學 古事記学センター サイト様の記述を目にする事が出来ました。

 

羽山津見神

 

 

 

羽山津見神 はやまつみのかみ

 

他の文献の登場箇所

紀 麓山祇(五段一書八)
旧 麓山祇(陰陽本紀)/羽山祇(陰陽本紀)/羽山津見神(陰陽本紀)

 

伊耶那岐神に殺された迦具土神の屍体の各部位から生まれた八神の山津見神

(正鹿山津見神・淤縢山津見神・奥山津見神・闇山津見神・志芸山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神)の第六で、右手に成った神。

 

中略・・

書紀には「麓山祇」とあり、五山祇のうち第三に手に成った神で、訓注に「麓、山足を麓と曰ふ。此に簸耶磨と云ふ」とある。これによって、「羽山津見」のハヤマは端山の意で、山の麓に解され、奥山津見に対応すると考えられる。ヤマツミは山の神である。

 

以上 羽山津見神 國學院大學 古事記学センター サイト様 より抜粋させて頂きました。

 

 

※ハヤマは端山の意で、山の麓に解され

 

あっ・・!!

 

私の住む地は黒原山の麓、旧宮原村の宮麓

そして

旧岡本村は岡麓 と呼ぶのです・・

 

 

さらに

ハヤマは端山の意

 

旧上村(うえ) 現あさぎり町上の白髪岳の麓、谷水薬師さまへ向かう道筋には「麓」地区には

端山神社がご鎮座

 

 

間違いない・・

直感的にそう感じました

 

 

紀 麓山祇(五段一書八)

日本書紀巻第一 神代上 を拝見しました

 

 

一書曰、伊弉諾尊、斬軻遇突智命、爲五段。此各化成五山祇。一則首、化爲大山祇。二則身中、化爲中山祇。三則手、化爲麓山祇。四則腰、化爲正勝山祇。五則足、化爲䨄山祇。是時、斬血激灑、染於石礫・樹草。此草木沙石自含火之緣也。麓、山足曰麓、此云簸耶磨。正勝、此云麻沙柯、一云麻左柯豆。䨄、此云之伎、音鳥含反。

 

※麓、山足曰麓、此云簸耶磨

 

麓・・

あっ・・・・

 

 

さらに、勉強させて頂きました。

 

古事記 上卷-4 大國主神 より

 

 

 

於是大國主神、愁而告「吾獨何能得作此國、孰神與吾能相作此國耶。」是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」爾大國主神曰「然者、治奉之狀奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。」此者、坐御諸山上神也。

故、其大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、大國御魂神、次韓神、次曾富理神、次白日神、次聖神。五神。又娶香用比賣此神名以音生子、大香山戸臣神、次御年神。二柱。又娶天知迦流美豆比賣訓天如天、亦自知下六字以音生子、奧津日子神、次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神、此者諸人以拜竈神者也、次大山上咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也、次庭津日神、次阿須波神此神名以音、次波比岐神此神名以音、次香山戸臣神、次羽山戸神、次庭高津日神、次大土神、亦名、土之御祖神。九神。

上件大年神之子、自大國御魂神以下、大土神以前、幷十六神。

羽山戸神、娶大氣都比賣自氣下四字以音神、生子、若山咋神、次若年神、次妹若沙那賣神自沙下三字以音、次彌豆麻岐神自彌下四字音、次夏高津日神、亦名、夏之賣神、次秋毘賣神、次久久年神久久二字以音、次久久紀若室葛根神。久久紀三字以音。

上件羽山之子以下、若室葛根以前、幷八神。

 

 

こちらを拝見して、直ぐに気が付いたのですが

夏・秋・久久(くく) 全て・・球磨の地名・・

後ほど・・

 

 

大年神之子

 

大年神さまは、岡原霧島神社の御祭神 一柱でいらっしゃいます・・

 

あっ・・!

 

 

大年神さまをウィキペディアの記述で勉強させて頂きました。

抜粋させて頂きます。

 

 

年神(としがみ、歳神とも)、大年神(おおとしのかみ)は、日本神話、神道の神である。

 

日本神話では、『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。

 

両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。

 

また、大年神と香用比売(カグヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。孫に久久年神(くくとしのかみ)もいる。

 

 

天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間の子
奥津日子神(おきつひこ) - 熾の神。
奥津比売命(おきつひめ) - 同上。別名 大戸比売神(おほへひめ)。竈神(かまど)の女神。
大山咋神(おほやまくひ) - 別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。比叡山の山の神で日吉大社・松尾大社の祭神。
庭津日神(にはつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
阿須波神(あすは) - 屋敷の神。
波比岐神(はひき)
香山戸臣神(かぐやまとみ)
羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。
庭高津日神(にはたかつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
大土神(おほつち) - 別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)。土の神。
 

 

羽山戸神と大気都比売神との間の子
若山咋神(わかやまくい) - 山の神。
若年神(わかとし)
若狭那売神(わかさなめ) - 田植えをする早乙女の意。
弥豆麻岐神(みづまき) - 水撒き・灌漑の神。
夏高津日神(なつたかのひ) - 別名 夏之売神(なつのめ)。夏の高く照る日の神の意。「夏」の文字は記紀の神話全体で季節の名としては現れず、この神の名として現れるのみである。
秋毘売神(あきびめ) - 秋の女神。
久久年神(くくとし) - 稲の茎が伸びることの意。
久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなね) - 別名 若室葛根(わかむろつなね)。新しい室を建てて葛の綱で結ぶの意。新嘗祭のための屋舎を建てることと考えられる。

 

 

須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神

 

大年神さまと

天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間の子

羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。

 

羽山戸神と大気都比売神との間の子

若山咋神(わかやまくい) - 山の神。

 

葉山神さまと若山大神さまが

お揃いになられました

 

良かった・・・

 

私、地元にお祀りの神々様が

ようやく理解出来ました・・

 

理解出来て、凄く安堵いたしました・・

 

 

岡原霧島神社 御祭神

頂いていた資料と一致致しました。

 

 

須佐能男命  (雨と風の神)

大歳神  (須佐之男命の子 穀物の神)

 

そして

 

葉山神

大年神さまと

※天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間の子

羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。

 

若山大神

※羽山戸神と大気都比売神との間の子
若山咋神(わかやまくい) - 山の神。

 

 

ここで、気が付いたのですが・・

羽山戸神(はやまと)

はやまと・・

やまと・・

 

あれっ・・?

あれっ???

 

 

ただ・・

須佐能男命さまがようやくご登場なさったので

私・・何故だか 凄く安堵しました 😊

 

 

しかし・・

葉山神さまと若山大神さまをご理解させて頂いた事により

より、多くの事に気が付いているのですが、その事は次回以降にご紹介致します。

 

ただ、以下のお話は今回、必ず書かせて頂こう!と考えました。

 

 

3.球磨六郷と遺跡と寺院が残る地名

 

羽山戸神と大気都比売神との間の子
若山咋神(わかやまくい) - 山の神。

 

 

ご兄弟姉妹神さま

 

夏高津日神(なつたかのひ) - 別名 夏之売神(なつのめ)。

夏の高く照る日の神の意。「夏」の文字は記紀の神話全体で季節の名としては現れず、この神の名として現れるのみである。
 

秋毘売神(あきびめ) - 秋の女神。
 

久久年神(くくとし) - 稲の茎が伸びることの意。
久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなね) - 別名 若室葛根(わかむろつなね)。新しい室を建てて葛の綱で結ぶの意。新嘗祭のための屋舎を建てることと考えられる。

 

 

球磨・人吉地方にお住まいの方々なら

すぐに あっ!とお気づきになられるはずなのです・・

 

 

夏高津日神(なつたかのひ) - 別名 夏之売神(なつのめ)。

相良村高原(たかんばる)※麻郡神社私考には高野原 と記載

夏女 (なつめ)

 

夏女遺跡がある地です

 

 

秋毘売神(あきびめ) - 秋の女神。

 

ブログ『番外編㉜球磨郡久米郷の秋(写真集?)と南北朝時代の事』でご紹介致しました

 

秋時観音

 

 

 

 

秋時 という変わった地名なのですが・・

興味が湧いて調べてみると・・

そもそも「秋」 は 「とき」 と読む事を初めて知りました

「秋」は五穀豊穣に関わる大切な時期である事から「とき」とも読む・・

といった内容のお話を多数拝見する事が出来ました😊

 

ブログ『番外編㉜球磨郡久米郷の秋(写真集?)と南北朝時代の事』 より抜粋致しました。

 

 

秋毘売神(あきびめ) - 秋の女神。

旧上村地名 秋時 ・・

 

 

 

久久年神(くくとし) - 稲の茎が伸びることの意。

 

くくは 球磨六郷の一つ

くく郷と一致します!

 

漢字が違う・・?

それは、現代人の考えであって・・

おそらく、私が書いている事は、

縄文時代後期に繋がるお話だと強く感じています

その当時は

漢字なんて必要無かった・・

 

 

久久年神(くくとし) - 稲の茎が伸びることの意。

くく郷・・

 

 

あ~泣きそうです・・

 

私は、

日本最古、縄文時代には存在していなかったと考えられていた

有肩打製石斧が縄文時代晩期の地層から大量に出土する

球磨盆地にピッタリ

いえ、その球磨盆地だからこその地名が

くく郷

だと強く思います

 

有肩打製石斧とは、

収穫した稲の今で言う所の脱穀、籾殻を穀粒からはずす籾摺り(もみすり)に使用した

古代の石器です。

 

つまり

有肩打製石斧が出土した球磨で、古代、稲作が行われていなかった・・なんて

ありえな~い!

 

 

「京都大学で考古学を学びたい」と言う希望を持たれていた1953年(昭和28年)12月17日。

井上猪一郎氏はわずか18歳の若さで白血病により天国へと旅立たれて行かれました・・・

 

井上猪一郎氏が球磨郡内で発見なさっていらした 有肩打製石斧

 

 

さらに、球磨郡誌にも郡内各所で出土した有肩打製石斧

写真が掲載されておりました。

 

 

 

多くの学者様方に心からお願い致します

 

お願いです

球磨の有肩打製石斧から

目をそらさないで下さい・・

 

 

 

五穀・・

そう言えば・・・

 

ブログ『再投稿 ㉚後編-3 ツルマメと最古様式の銅剣と・・』で書きましたように

 

国立研究開発法人
農業・食品産業技術総合研究機構 遺伝資源センター 様が

2017年に、

鹿児島県および熊本県における

マメ科植物遺伝資源の探索収集を行っていらっしゃったのでした・・

 

野生ダイズ(ツルマメ )32 点,
野生アズキ(ヤブツルアズキ)15 点,
栽培アズキ(アズキ)1 点,野生アカササゲ5 点,ササゲ2 点,
合計 55 点のマメ科植物遺伝資源を収集した

とあり

野生種 が発見されていました・・

 

 

 

 

植物学的なご研究を行われる方々は

球磨や鹿児島県に日本古来の野生種(原生種)を探しに来られる

ちゃんと着目して下さるのに

 

何故?

現代の古代研究家の方々は

球磨を含む、南九州から

目をそむける

そらそうとなさるのでしょうか・・

 

お願いです

目をそらさないで頂きたいです

 

 

※羽山戸神と大気都比売神との間の御子

 

大気都比売神さまからは

蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆が生まれました

 

おそらく肥・日の文字に深く御繋がりの神様だとお考え致します

 

肥の文字は、汚いというイメージをお持ちになられる方は

きっと、古代の「食」を生み出す為のパワーの源が

ご理解出来ていらっしゃらないのかもしれません

 

生産の為に肥は不可欠な時代だったのです

 

この事に気が付かせて下さった御方のお話も次回以降に書かせて頂きます

 

 

前回に続くお話を・・

 

羽山戸神さまを

葉山神さまと記すのは

球磨の「この地」のみ

 

免田式土器出土地 奈多砂丘
志式神社 ご鎮座

 

御祭神

天火明命(ホアカリの神) 火闌降命(ホスセリの神) 豊玉姫
十域別神 雅武王 葉山姫神 

 

 

つまり・・奉斎氏族の後裔の方々は北部九州へ

移動なさった方々がいらっしゃるのではないでしょうか・・

 

羽山戸神さまをお祀りの神社さまは全国でも非常に少ないのです・・

 

詳しくは次回に <m(__)m>

 

 

最後にもう一つだけ・・

 

古事記 より

化爲中山祇。三則手、化爲麓山祇

 

ブログ『㉘保存版(番外編)元気の秘密と球磨の三善、久米の聖観音菩薩様

でご紹介した中山観音堂さま

 

 

 

 

今は御開帳ではありませんが、

過去に類をみない武漢ウィルスの感染拡大の中です

 

 

 

あらためて 

慈悲の御心であらゆる人々の苦しみを救う 聖観音菩薩様  をご覧下さい

 

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)の感染拡大

 

疫病が退散しますように

 

国内における多くの方々の苦しみをお救い下さい

 

 

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

今回は

1.父の幼なじみの方の言葉

2.葉山神さま、若山大神さま

3.球磨六郷と遺跡と寺院が残る地名

 

というお話を書かせて頂きました。

 

今回のブログは、

精神力と思考力

私、微力なので

かなりパワーを使いました・・

 

 

長い文章となりまして申し訳ございませんでした<m(__)m>

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

 

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

 

 

 

感謝を込めて

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

 

山の麓を司る神 はやまと神の地

より ひろっぷでした😊

 

前回のブログ『(再)51.天津日高彦火邇邇杵尊 天火明命 火闌降命 御陵について』より

続きます<m(__)m>

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 

球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

 

疫病退散

 

心より祈ります

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

皆様

私、おそらく、もうすぐ春の思考休憩期間?に入りますから・・

最近、ブログの更新が早いですので(^▽^;)

 

新たに覚醒?したあとのひろっぷしゃんのブログ🤔

未だ、お読み頂いていらっしゃらない方は、お暇な時にで結構ですので

以下のブログ、ご覧頂ければありがたいです😊

 

※おそらく、ご覧頂けてないと、

私が何をお伝えしようとしているのかサッパリお解りにならないと思います・・(^▽^;)  <m(__)m>

 

 

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

 

 

再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・

 

 

㊽家の親戚の姓と弓の儀式と雲平さんと

 

 

(再)㊽+1 方解石は凄い!と輿と15枚の合祀になられた神社絵図

 

 

(再)㊿人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅

 

 

(再)51.天津日高彦火邇邇杵尊 天火明命 火闌降命 御陵について

 

 

 

 

 

では、早速 (p_-)

今回のタイトルは『大神惟基公、再興の神社さまと創立の神社さまと免田式土器

 

音楽と共に、お付き合い下さい😊

 

三日月の形の盆地からお伝えしていますので

今回の曲は久しぶりに

Moon - Yoko Kanno

 

 

 

 

 

 

1.天岩戸神社中興の大神惟基公

 

ブログ

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

でも書きましたように・・・

 

黒原山の麓、旧宮原村と旧岡本村に其々ご鎮座であった神社

 

岡本村の大炊神権現(大炊霧島神社)と※大炊神山(おおい神山)ご鎮座

宮原村の中嶋大権現(中嶋霧島神宮)は

 

大神惟基公が、ご神託に随って創立した二社となります

 

 

ご神託に随って

神託とは神のおつげ。神が人や物などを通してその意志を知らせること

 

 

つまり

大神惟基という御方は

神のおつげに随って

旧岡本村の大炊神権現(大炊霧島神社)

旧宮原村の中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

創立した

 

という事になります

 

 

 

大神惟基 ウィキペディアをご覧頂くとお解り頂けると思いますが・・

 

 

熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)、大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。

 

宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。

 

 

天岩戸神社 おそらく、ご存知でない御方は殆どいらっしゃらないと思います・・

 

 

 

ウィキペディアより 抜粋させて頂きます

 

 

 

天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社。

岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある。旧社格は村社で、神社本庁の別表神社。

 

 

御祭神

 

西本宮 

大日孁尊(おおひるめのみこと)=天照大神の別名。

岩戸川対岸の断崖中腹にある「天岩戸」と呼ばれる岩窟(跡)を神体とし、この岩窟は日本神話に登場する天岩屋であると伝える。

 

また、

同じく西本宮の御旅所には

配祀神である天鈿女命・手力男命・大年神・素盞嗚尊・日子穗穗手見命・豊玉毘売命、

菅原道真公の7柱を祀っている。
 

東本宮 

天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)=天照大神の別名で皇祖神であることを示す名。

 

かつてイザナギノミコト・イザナミノミコトを祀っていたとする史料もある。

社殿背後の御神水の側には「大神宮」の祠がある。

 

社伝によれば、瓊瓊杵尊が天岩戸の故事を偲び、その古跡に鎮祭したのが起源であり、

弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興された。

 

ウィキペディアより お写真をお借り致しました<m(__)m>

 

Amanoiwato-west-shrine (28795304727).jpg

 

 

 

 

皆様、お解り頂けたと思います

 

天岩戸神社を再興なされた方が大神惟基公

 

 

その大神惟基公が創立なさった神社が

青井阿蘇神社

 

さらに

 

大神惟基公が、ご神託に随って創立した二社が

旧岡本村の大炊神権現(大炊霧島神社)

旧宮原村の中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

 

 

となるのです・・・

 

 

 

不敬な事を書きますがお許し下さい<m(__)m>

 

 

天岩戸神社

弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興された。

※弘仁3年(812年)

 

青井阿蘇神社、大炊神権現(大炊霧島神社)、中嶋大権現(中嶋霧島神宮)の創立は

※大同元年(806年)

 

 

球磨の神社創立の方が・・

古い・・のですよね・・・

 

 

さらに・・

大炊神権現(大炊霧島神社)、中嶋大権現(中嶋霧島神宮)の創立は

ウィキペディアには記されていません。

 

 

しかし・・

私の拙いブログをご覧下さっている皆様方は御存じの事・・

 

 

だからこそ

私は、皆様方にご縁を感じているのであります

😊

 

 

学者さまが、ご存知ない事を

皆様方と私は、共有している

訳です ニコッ 😊

 

 

前回のブログ初頭でも書きましたように

 

私は、おそらく、今まで、どの学者様もお書きになられた事がない

「この地」に居るから解る事、知る事が出来る事を書いているのだと思います。

 

ですから、その事を「知って頂く」皆様方には

とても深いご縁を感じております 😊

 

知りたいという方々だけに、

お教えしてあげなさい・・

と言われているような気がしているのです・・

 

前回のブログ初頭に書いた事を読まれて

妙な事を書くな~🤔

とお思いになられた御方もいらっしゃったかと思いますが

でも・・

妙な事?ではないでしょう😊

 

そして・・・

 

 

ブログ

(再)㊽+1 方解石は凄い!と輿と15枚の合祀になられた神社絵図 でご紹介した

15枚の絵図がいかに貴重な絵図であったかを、あらためて皆様方にお伝え出来て

安堵致しました😊

 

ごくごく一部・・・

 

中嶋大権現

 

 

 

切畑大明神

 

 

 

 

 

 

 

ここからは曲を変えます😊 ※moon お好きな方はそのままで・・

Fearless Motivation - The Universe In Me - Song Mix (Epic Music)

 

 

 

 

 

2.糸島と志賀島で出土した免田式土器

 

 

ここからは、神社さまのお話ではなく

考古学的なお話をさせて頂きます

 

突然 現実的な・・とのお声が何処から聞こえてきたような・・🙄

😊

 

私には、つい最近のような気がする2000年~1700年程前のお話です😊

ヤバイ😱 でも ここに居ると数万年前からの人の営みが残っているので仕方ありません・・

 

 

免田式土器の分布について、2018年10月に書いた過去ブログ

球磨弁とヘブライ語 でも触れました😊

※なんだぁ~!このブログタイトルは~!!とのお声が何処から・・

 

まあ・・このブログを書いて3年以上経過して、私はより進化?致しましたが・・(p_-)

(^▽^;)

 

戻って来られている・・(p_-)

 

 

 

免田式土器は九州北部では出土例が少ないと言われていますが、

 

その少ない出土遺跡とは

 

 

九州北部 免田式土器出土遺跡

福岡県 

三雲遺跡 (糸島市三雲 細石神社の裏手)

安国寺遺跡(久留米市)

亀の甲遺跡(八女市亀甲)

甘木山遺跡(大牟田市甘木) 他

 

佐賀県

二塚山遺跡(三養基郡上峰町)

みやき遺跡(武雄市橘町綿の木)

 

他、長崎県内、大分県内、さらには沖縄県でも免田式土器は出土していました。

 

 

福岡県・・

三雲遺跡 

糸島市三雲 細石神社の裏手

 

 

 

しかし😊

昨年、関西外国語大学の佐古 和枝教授の講演会で伺ったお話の中で

最近の調査で、

志賀島の遺跡発掘現場で免田式土器が出土したそうです

 

交流の証しですね😊

 

とのお言葉がありました。

 

 

やった\(^o^)/ 嬉しい・・

私は、その場で思わず拍手を致しました (^▽^;)

 

今後の研究発表を心待ちに致しております😊

 

 

でっ・・

ふと・・今までは出土していなかったのかな🙄と思いまして・・

 

志賀島 免田式土器

とキーワードを基に検索してみたところ・・・

 

ありました(^o^)/

\(◎o◎)/!

 

 

1994年 福岡市教育委員会発行

奈多砂丘B遺跡Ⅰ

福岡市埋蔵文化財報告書 第360集

にしっかりと記されておりました。

\(^o^)/

 

皆様方も

志賀島 免田式土器

とキーワードを基に検索して頂くと、リストに表示されますので、

ダウンロードしてご覧になれますよ😊

 

 

奈多砂丘B遺跡Ⅰ

福岡市埋蔵文化財報告書 第360集

14ページより

 

8はやや薄手の土器
で、小片ではあるが外面に重弧文を施す

該期の北部九州の土器には類例が求められない。

中部九州の免田式系の壷形土器片の可能性がある。
以上の4b層土器群は弥生時代後期後半~終末に位置付けられる

 

以上 

奈多砂丘B遺跡Ⅰ 福岡市埋蔵文化財報告書 第360集

14ページより 抜粋致しました。

 

 

 

※該期の北部九州の土器には類例が求められない。

 

こちらの調査報告書は1994年発行ですので、その後、先に書いた

 

例えば

福岡県 
三雲遺跡 (糸島市三雲 細石神社の裏手)
安国寺遺跡(久留米市)
亀の甲遺跡(八女市亀甲)
甘木山遺跡(大牟田市甘木)

他の遺跡から免田式土器が出土したようですね😊

 

 

奈多砂丘と言えば

志式神社 ご鎮座地なのですね

 

 

志式神社さま ひもろぎ逍遥サイト様がご紹介でいらっしゃいました😊

 

 

 

 

拝見すると

 

御祭神

天火明命(ホアカリの神) 火闌降命(ホスセリの神) 豊玉姫
十域別神 雅武王 葉山姫神   

 

 

でいらっしゃいました

 

 

前回のブログを書いて良かった・・

ふと そう思いました😊

 

 

が・・しかし・・・

 

同時に背中に封印されたお経の辺りがゾクゾクっと致しました・・・

 

私、今回、免田式土器の事を「書きたい事一覧」の中から

(先日のブログをご覧の方しかお解りになりませんね・・)

先に書こう!と、ふと思い立って書いたのですが

 

 

先にとは

私の住む旧岡原村(現あさぎり町岡原)にご鎮座の

葉山神さま、若山大神さま

のお話より先に・・という意味で

 

さらに、

 

志式神社さまについては、このブログを書きながら、地図を見て・・

奈多砂丘に志式神社さまご鎮座であられる事に気が付いたので、気になって調べてみたのであります・・・

 

 

 

皆様、お気づきでしょうか・・

葉山姫神 

 

 

あああああああっ・・・

 

 

何と言う事でしょうか・・

 

 

本当に驚いています・・

 

 

葉山神さま、若山大神さまをお祀りの神社さまは全国には非常に少ないと言うのに・・

 

 

ただ・・次回詳しく書かせて頂きますが

葉山神さまは、古事記にも記されておりますが

大きな山の麓にお祀りの「麓」の神様でいらっしゃいます

 

 

 

何故?山も無い、麓でもない、砂丘にお祀りであられるのか・・

 

 

私、今回、おそらく、私の住む地に繋がる

 

何かに気が付いたのでは・・

 

そういう予感がしています

 

 

 

 

 

次回、詳しく書きますので、今は、皆様方にお願いがございます<m(__)m>

 

葉山神さま

山がお付きになられるからと言って

 

単純なるご推測により(失礼を承知で申し訳ございませんが)

 

大山津見神さま、大山咋神さま

とお考えになられる事はお控え頂きたいと願います

 

 

神々様に

失礼にあたりますので

 

よろしくお願い申し上げます<m(__)m>

 

 

 

 

しかし・・

福岡県内での免田式土器出土地・・

 

三雲遺跡 

糸島市三雲 細石神社の裏手

 

奈多砂丘B遺跡Ⅰ

志式神社 ご鎮座地

 

 

ピンポイントだな・・と思います

 

 

一番大切な事

それは

免田式土器は

祭祀に用いられた土器

だからです・・

 

 

 

最近、志賀島の何れかの遺跡から出土した

免田式土器の調査発表

 

球磨の南九州の

古代の尊い方々の

御霊

心待ちになさっていらっしゃる事でしょう・・

 

😐

 

私も楽しみに致しております

 

😊

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

今回は

1.天岩戸神社中興の大神惟基公

2.糸島と志賀島で出土した免田式土器

 

という内容を書かせて頂きました😊

 

 

唐突ですが・・

 

球磨弁で

ぎゃん寒かれば

エライきつかにゃ~

 

うん?ピクッとなさった地域の方いらっしゃいましたか?

(p_-)

 

「ことくそ」 「ことふと」

 

うん?ピクッとなさった地域の方いらっしゃいましたか?

(p_-)

 

ちなみに「ことくそ」は古語です😊

こういうお話や「ちょっぽかすけ」の「ちょっぽ」解読成功(^o^)/

についても今後書かせて頂きたい!と考えております

😊

 

 

 

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

 

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

 

 

 

感謝を込めて

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『53.地元にお祀りの葉山神さま.若山大神さまと球磨の地名』に続きます

 

 

前回のブログ『(再)㊿人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅』より続きます

 

 

 

2022/02/06 13:45 再投稿

すでに、拙ブログをご覧頂いた方々へ

ご覧頂き ありがとうございました。

 

 

大切な言葉を書いていなかった事に気が付き、😔

 

『今回のブログ内容をお読み頂いた方々でなければ

お解り頂けない事を最後に書きます』

の最下部に以下を追記致しました。

 

 

天火明命さまの御陵は

冠山です

 

彦火々出見命さまの御代は500年

複数の彦火々出見命をお名乗りになられる御方がいらっしゃったのだと

私は考えます

 

と・・・・

 

毎回、追記ばかりで申し訳ございません

 

ひろっぷ <m(__)m>

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 

球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

皆様

あらためまして、拙ブログをご覧下さり

ありがとうございます

 

 

私は、おそらく、今まで、どの学者様もお書きになられた事がない

「この地」に居るから解る事、知る事が出来る事を書いているのだと思います。

 

ですから、その事を「知って頂く」皆様方には

とても深いご縁を感じております 😊

 

 

妙な事を書きますが

 

知りたいという方々だけに、

お教えしてあげなさい・・

と言われているような気がしているのです・・

 

最初から不思議な事を書いたので、「もう読むのはやめよう・・🙄 」 って

言わないで下さいね 😥

 

 

 

では、いつものひろっぷしゃんに戻って

早速(p_-)

 

 

前回のブログ『(再)㊿人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅』では

今、私が書きたいと思っている事を「複数」挙げました😊

 

※今回は更新が早かったので未だご覧ではない御方は、お時間があられる時にでも

前回のブログをご覧下さい。<m(__)m>

 

 

前回、書きましたように・・

 

しとんぎ餅・ひとんぎ餅

 

球磨弁・・😊

ではなく

(ー_ー)!!

 

古語でした!

 

 

 

ここで、前回の補足を<m(__)m>

 

球磨郡誌 663ページ

 

小野高尚の夏山雑談の巻之五には「西国邉土には古き詞遺れり」という一項があって

「薩摩国、肥後国球磨郡などの人の言葉は

多くは、うつぼ、竹取、源氏物語、清女枕草子、四の鑑、大和物語等 にある言葉なり・・・ 中略

それは・・  古きことば猶のことたり」

という記事があるさうである。

 

 

 

小野高尚 コトバンク様より

 

 

 

小野高尚 おの-たかひさ
1720-1800* 江戸時代中期の国学者。
 

享保(きょうほう)5年生まれ。幕臣。明和2年大番となる。

史学にも造詣(ぞうけい)がふかく,おおくの著作をのこした。

寛政11年12月16日死去。80歳。

 

初名は高格。通称は忠左衛門,直十郎。号は竹叢,飯山,佚泰子。

著作に「古今類聚(るいじゅう)名諱伝」「中興武林雑説」など。

 

以上 コトバンク様より転記致しました。

 

 

何故?小野高尚、この方が

「薩摩国、肥後国球磨郡などの人の言葉は」と地域を限定してお書きになられているのか・

 

 

それは、全く不思議な事ではないのです。

 

不思議とお感じになられる方は、

おそらく、今からご紹介させて頂く事を全くご存知無いからでしょう・・

 

皆様方は、もちろんご存知でいらっしゃる😊と思います。

 

 

音楽と共にお付き合い下さい

Two Steps From Hell - Heart of Courage Extended

 

 

 

 

 

 

1.天津日高彦火邇邇杵尊 御陵

 

僭越ながら、若輩者のわたくしがご紹介させて頂きます。

 

 

 

新田神社 (薩摩川内市) ウィキペディアより 抜粋させて頂きます

 

 

 

新田神社(にったじんじゃ/にいたじんじゃ)は、鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。

 

薩摩国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 

社殿の背後にある墳墓は、1874年(明治7年)の宮内省により、

皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊の陵墓とされる可愛山陵であると治定された。

 

社伝によると

「鹿児島県の加世田市(現南さつま市)から川内の地に到来された天津日高彦火邇邇杵尊(ニニギノミコト)は、この地に千台(センノウテナ)すなわち高殿(高城千台の宮)を築いてお住まいになった。

 

川内(センダイ)の名は、この千台→川内から来ているとされる。

 

やがて、ニニギノミコトが亡くなられたのでお墓が造られたがそれが今の可愛山陵で、そのニニギノミコトの御霊を祀ったのが新田神社の創始である。

 

なお当神社の“新田”という名称には、ニニギノミコトが川内の地に川内川から水を引いて新しく田圃をお作りになったという意味が込められているとされる。

 

 

山陵
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が

「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。

 

新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、

現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ内閣府事務官が陵墓守部として管理している。

 

陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。

大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、

昭和37年(1962年)明仁上皇(当時の皇太子)及び上皇后美智子(当時の皇太子妃)

参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。

 

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました

 

 

 

※ニニギノミコトが川内の地に川内川から水を引いて新しく田圃をお作りになった

 

 

補足させて頂きますと・・

川内川は、球磨盆地、球磨郡あさぎり町上(うえ)に聳える白髪岳を源流とする川であります

😊

 

 

球磨郡あさぎり町から見た 白髪岳

孝霊天皇様後裔の方と白髪岳 と パイプ状ベンガラのプレゼント | ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について

 

 

雪化粧の白髪岳

動画 8000年前の石製「人形」が出土していた多良木町 菱形文等は縄文時代早期から | ひろっぷ 古代・中世・近世の繋がり 先祖について

 

 

補足でした <m(__)m>

 

 

 

さらに

可愛山陵  ウィキペディアより

 

 

 

 

可愛山陵(えのみささぎ)は、日本書紀に現れるニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。

 

高屋山上陵(たかやのやまの えのみささぎ)、吾平山上陵(あひらのやまの えのみささぎ)とともに神代三山陵の一つ

 

 

形態
現在、可愛山陵と治定されている新田神社では、神亀山の5分の4が御陵の領域となっている。御陵と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。

神亀山は、火山活動によってつくられたシラス土壌が一般的な土地に粘土質の岩盤から出来ており、川内平野にぽつんと孤立した山塊であることから、一説には人為的に築かれたものではないかともいわれている

 

陵墓参考地
上記の治定に強い反論があり、宮崎県日南市宮浦には鵜戸神宮もあることなどから、明治29(1896)年、宮内省は宮崎県北川町俵野可愛を「御陵伝承地」西都市西都原を「御陵墓参考地」と定めた。

日向の埃の山陵は日向国臼杵郡長井村俵野門(かど)にある。

 

「可愛山陵」は神代、ニニギノミコトの崩御で、筑紫の日向の可愛(可愛は埃(え)と読む)の山陵に葬ったもので、「諸陵式」には日向国にあって、陵戸(墓を守る人)はない、とある。日向の人々より日向国臼杵郡長井村俵野門に1つの古墳があって、これが御陵に「射当(あたる)」と反論があった。

 

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました。

 

 

 

※神亀山 

一説には人為的に築かれたものではないかともいわれている。

 

 

まるで、日本のピラミッドのようですね!

 

 

 

球磨人の私がとても興味深い事は

薩摩川内市も日向国臼杵郡長井村俵野門(現在の宮崎県延岡市北川町)も

九州中央山地から降りられて向かう事となられる地である・・

という事です

 

 

宮崎県と鹿児島県の相論は、不勉強な私には良く解りませんが

 

しかし

 

皇族の方々の御参拝は9回にも及んでいる

内閣府事務官が陵墓守部として管理している

神亀山の天津日高彦火瓊瓊杵尊さまの御陵

「邇邇芸尊陵」

 

日向国臼杵郡長井村俵野門の

「御陵伝承地」

 

 

もっと、多くの日本人は、知っておかなければならない

 

と私は強く感じております

 

 

 

いずれにしても

古代の日向なのであります

 

 

 

 

2.天孫 火闌降命、天火明命 御陵

 

新田神社 (薩摩川内市) ウィキペディアより転記致します

 

 

御陵社より

 

中陵神社(なかのみささぎじんじゃ)
祭神:火闌降命(邇邇杵尊の皇子神)

 

神亀山の首部分に鎮座。祭神の御陵と伝わる。
 

この火闌降命の御陵と伝わる中陵古墳は、本格的な測量は実施されていないが、1986年に川内市歴史資料館により端陵古墳と共に現地踏査が行なわれ、こちらからも墳裾が確認されており、略測で直径約22mの円墳の可能性があるとされている。
 

文化3年(1806年)にここにあった古い松の木が枯れて、土地の人が切り除き根を掘りとった際、石榔に掘り当たりその中にあった石棺の蓋石を引き開いたところ、中から白煙が吹き出しその石棺の内部は青味がかった赤色であったという逸話が残っている。

 

 

川合陵神社(かわあいのみささぎじんじゃ)
祭神:天火明命(邇邇杵尊の兄弟神、もしくは皇子神)

 

神亀山ではなく五代町の冠山の麓に鎮座。

御陵殿(みささぎどん)とも称された。
 

はじめ社は、冠山の山上にあったといわれているが、その後陵が崩れたため冠山の麓に移したとされる。  
 

社殿のすぐ西側に祭神の墳墓と伝わるチョッポ岡という小丘がある。

 

 

以上 ウィキペディアより転記

 

 

 

 

火闌降命さま、天火明命さまの御陵

 

 

皆様、ご存知でいらっしゃるであろうと思います

 

 

 

 

私は、とても、気になる事があります。

若輩者の言葉で失礼致します <m(__)m>

 

 

火闌降命さま、天火明命さま

 

特に天火明命さまの後裔氏族の方々のご研究、さらに、天孫降臨に関わる神々様の後裔氏族のご研究をなさっていらっしゃる

一部の「学者様、歴史研究家、系図研究家の方々」のご研究を拝見すると・・

 

後裔氏族が「移動後」拠点となさった地域の事は重要視なさっていらっしゃいますが

 

その方々の祖となられる方々の御霊を

蔑ろ(ないがしろ)になさっていられるのではないのか

・・・と

 

私には感じるのです

 

だから

南九州を完全に無視なさっていらっしゃる方々を多くお見受けするのでは

 

と、私は強く感じております

 

 

 

古代の

尊い方々の御霊を

大切に崇拝するお気持ちを

研究者の方々にお持ち頂きたい

強く願います

 

 

 

所で・・・

 

私の住む、旧岡原村(現あさぎり町岡原)は、

何度も書きますように、古からの貴重な風習や祭祀が伝わってきた地です

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より

(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
 

 

①子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た
 

②七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)

 

③弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、

弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式が あった。

明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
 

他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。

 

 

 

 

 

 

※ここからは独り言だとお思い下さい

 

この旧岡原村だけの方言があります・・

 

天火明命さまの御陵

 

※社殿のすぐ西側に祭神の墳墓と伝わるチョッポ岡という小丘がある。

 

チョッポ岡

 

 

 

旧岡原村だけの方言ですが

 

チョッポ

チョッポカスケ

 

 

チョッポカスケとは

梟の事

です

 

 

家の親戚の宮司家の方は、こうおっしゃいます

梟は熊襲の鳥である

と・・

 

 

林兼明様は

著書「神に関する古語の研究」の中で

熊襲とは天孫族なり

 

とお書きになられていらっしゃいます

 

 

熊襲と記された方々は

滅ぼされてなど いないのです

 

 

熊襲について

古事記、先代旧事本紀では、わずか数行の記述であった・・

 

それは8世紀における熊襲と記された方々の後裔の人達にとっては

義の範囲だったのでしょう・・

 

しかし・・日本書紀は、いささか誇張し過ぎてしまわれた

 

熊襲と記された方々の後裔の人達にとっての

義の範囲を大きく外されてしまわれた・・

 

 

それは・・

おそらく、当時、権力を拡大していた「某氏」が関わっていらっしゃるのかも

しれません

 

 

気が付いていたのです

 

 

父はいつもこう言っております

「藤原氏。元々藤原は他の方々が他の系の方々が名乗っていた姓だ・・」

 

私、物部氏をあらためて勉強して、初めて知ったのですが

 

 

中臣鎌足、この方よりず~っと以前

そう・・ずっと古代

初めて 藤原を名乗った方は

物部氏 でいらした

という事を・・

 

 

皆様はご存知でしたか?

 

詳しくは、後日、書きたいと思っております

 

 

 

義の範囲を大きく外されてしまわれた・・

 

先代旧事本紀の原文を読んで感じたのです

 

編纂者の

やるせない怒りを・・

対抗する気持ちを・・

私は・・感じたのです

 

 

でも・・私にも藤原氏の血脈は流れております

多くの方々と同じように・・

 

ご先祖様方が

藤原氏の系の方々との姻戚関係を持たない武士の後裔など

殆ど・・いらっしゃらないと

思います

 

そうです😊

多くの数え切れないご先祖様方のおかげで

私達はこの世に生を受ける事が出来たのですから

 

全てのご先祖様に

感謝

💐

 

 

 

独り言でした・・・

 

 

 

 

3.球磨の鉾立山と鏡山

 

ここまで、書いて、とても気になる球磨の山の名を思い出しました

 

 

人吉市の鹿目(かなめ)近隣の山々です

 

鹿児島県伊佐市と宮崎県に隣接する地域の山々です

 

 

鉾立山・・・

 

 

 

 

鉾立山に連なる 鏡山

 

 

 

鉾立山と鏡山は

セット?のような気がするのです・・

 

 

草津川・・

私は

草は、日の意だと思います

(植物ではなく・・)

 

何故ならば、

草津川の源流は

日当山(ひあて山)

 

日下部(くさかべ)

日(くさ)

と同意語となります

 

日・鉾・鏡・・・

そして球磨

つまり

玉(球)

 

 

日・鉾・鏡・玉(球)

 

球磨の古代のキーワードなのかもしれません・・

 

 

そう言えば・・

あさぎり町深田の天子神社さまのご鎮座地は

草津山

 

つまり

日をシンボルとする山

なのだ・・という事に ようやく気が付く事が出来ました

 

 

 

今回のブログ内容をお読み頂いた方々でなければ

お解り頂けない事を最後に書きます

 

ブログ

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

で書いた事

 

 

 

 

呉新聞より

 

 

此の高速艦の守護神として艦内に祀ってあるは、熊本県の郷社市房山神宮で、

其の御神霊記にはこう記されている。

 

一, 祭神

創立大同二年十一月十五日(人皇五十一代平成天皇紀元一,四六七年)

天津彦火瓊瓊杵尊

豊玉姫命

 

火闌降命、火明命此の雨神は最も海に関し因縁深く、海幸を司り賜ふ

火明命は海幸により後に彦火々出見命となり給ふ

 

 

上記のお話は・・

古代のいにしえの・・・

そう・・当時の・・

歴史の中心域に含まれる球磨の

御神霊記

である事を

あらためて、ご理解頂きたい・・

と願います

 

天火明命さまの御陵は

冠山です

 

彦火々出見命さまの御代は500年

複数の彦火々出見命をお名乗りになられる御方がいらっしゃったのだと

私は考えます

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

今回は

1.皇孫 天津日高彦火邇邇杵尊 御陵

.2.天孫 火闌降命、天火明命 御陵

3.球磨の鉾立山と鏡山

 

という内容を書かせて頂きました。

 

 

 

 

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

 

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

 

 

 

感謝を込めて

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

 

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『52.大神惟基公、再興の天岩戸神社さまと創立の神社さまと 免田式土器』に続きます

 

 

前回のブログ

『(再)㊽+1 方解石は凄い!と輿と15枚の合祀になられた神社絵図』より続きます。

 

 

 

2022/02/05 06:52 再投稿

2022/02/04 23:26投稿の拙ブログをご覧頂いた方々へ

 

ご覧頂き ありがとうございました。

 

投稿後、読み返すと誤字が多くありました。お恥ずかしい😔

 

書きたい事一覧?に

⑫上(うえ)谷水薬師近くの山の名は天子山

⑬天子山に隣接する檜山の皇大神宮

⑭谷水薬師の氏子さんは顔に朱を塗ってお祀りを行う・・

を追加致しております<m(__)m>

 

 

ひろっぷ 😊

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 

球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

最近、理解した事は全て・・

今まで10年以上に渡って調べていた事に、ことごとく繋がっていた事に

気が付いております・・

 

 

毎回、書きたい事が多すぎて、長くなってしまいますので(^▽^;)

この、二日ほど時間が取れましたので、出来るだけ精力的に数項の投稿を行いたい!

と思いました。

 

 

今、私が「書きたい!」と思っている事は (p_-)

 

①鯰さんとしとんぎ餅

②葉山神、若山大神

③岡原村の小豆野とご即位記念 (明治時代)

④瓊瓊杵尊さまの御陵、天火明命さまの御陵地は薩摩川内市

⑤平河氏(良峯氏)の先祖と丹波氏(丹波国造 後裔の方)の姻戚関係

⑥平安時代から球磨にいらした伊勢氏と伊勢本

⑦楓文と相良氏入部の際の随行者の方々

※宗像氏・長氏(長谷部氏) ・ 雑賀氏 他

⑧福岡県志賀島と免田式土器

⑨後漢、霊帝 後裔「桧前(檜前)」氏は湯前にいらした・・

⑩後漢、霊帝 後裔「坂上氏」と相良氏のご先祖様

⑪鎌倉時代初頭の人吉庄預所は坂上氏

⑫上(うえ)谷水薬師近くの山の名は天子山

⑬天子山に隣接する檜山の皇大神宮

⑭谷水薬師の氏子さんは顔に朱を塗ってお祀りを行う・・

等 他・・

 

こういったランナップ?でお届けしたい・・と

思います<m(__)m>

 

 

では、早速

 

第一弾、 

人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅

 

 

 

音楽と共に、お付き合い下さい<m(__)m>

 

Two Steps From Hell - Evergreen Extended

 

 

 

 

 

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

やはり・・

旧暦の元旦 日の出は黒原山の頂上付近から・・

 

そして・・

立春の日の出も

黒原山さんの頂上付近から でした・・

 

日が昇り始めるのは、太陽暦の元旦とは違い、左側から・・

 

ガラス越しに写した訳ではないのですが

太陽の方向から何か・・線が入っていますね・・🌸

 

 

 

しばらくすると・・・

 

 

 

おそらく・・・

黒原山さんは 

球磨の縄文時代の人達にとって

太陽と繋がる崇拝の山であったのでは・・・

と私は考えます・・

 

弥生時代にも続く崇拝だと・・

黒原山から太陽が昇ると・・

新しい年が始まる・・

カレンダーのような役割もあったのでは・・・

 

 

 

 

 

 

 

1.人吉遥拝神社の鯰さん

 

 

最近、物部氏のお話が続きましたので

今回は久米族の方々のトーテムと言われるナマズさんについて書きたいと思います😊

 

 

実は先月、主人と二人で人吉市の遥拝阿蘇神社さまにお参りに伺っておりました😊

 

 

遥拝阿蘇神社さまは

 

旧石器時代から縄文時代早期(8000年前)までの遺跡村山闇谷遺跡』がある

村山台地の中腹にご鎮座の神社さまです。

 

 

参考 遺跡ウォーカー様サイト

村山闇谷遺跡

 

 

時代
旧石器/縄文 
 

所在地
熊本県人吉市上林町村山 

 

遺構概要
map94:集落。集石+炉穴+平地住居。 
 

遺物概要
map94:縄文土器(貝殻条痕文+押型文+塞ノ神式)+垂飾。 

 

遺跡ウォーカー様サイト より 抜粋致しました

 

 

 

 

麻郡神社私考より(元禄12年(1699年)編纂

 

遥拝大明神  人吉林領 村山

祭 九月十九日 祠官 福川 隼人

 

 

 

 

2022年1月6日 遥拝大明神(遥拝阿蘇神社)さまにて 撮影

 

鳥居

 

 

 

 

鳥居の先には石塔が建立されていました

 

 

 

 

 

 

平成十一年六月十五日

 

秋篠宮殿下 御成

 

なまず信仰の調査研究

 

 

 

御成り頂き ありがたき事と感激いたしました

 

 

 

 

 

 

手水舎  水盤

 

 

 

 

ナマズさんが施されています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拝殿

 

 

あさぎり町、旧球磨郡久米郷宮原村に住まわせて頂いております

宮原〇〇でございます

から始まり

 

新年のご挨拶を申し上げて参りました

 

 

 

拝殿には

ナマズの絵が飾られていました

 

 

 

 

 

御本殿

 

 

 

 

ご由緒書き

 

 

 

八代の遥拝神社とは

 

八代 遥拝神社 正式名称

豊葦原神社

 

であられます

 

 

 

 

御神木

 

 

 

 

 

 

 

御神木の下に、不思議な石を主人が発見致しました・・

 

 

 

 

顔のようにも見えるのですが・・

 

 

 

アップにすると、明らかに人工的な線が入っている事に気が付きました・・

 

 

さらに・・このような大きな石も・・・

 

 

 

中央に人工的な紋様と、その左側に棒のような物を持った人?が見えるのは

気のせいでしょうか・・

 

 

 

 

その上には舟に乗った二人の人物が描かれているように見えるのは

気のせいでしょうか・・・

 

 

 

 

 

私の気のせいかもしれませんが・・・

あまりにも、人工的に見えたので、皆様にご覧頂きたい・・と考えました

 

 

 

 

 

ナマズさんと人工的な線や絵が描かれた石以外に

こちらでは鹿さんも多く見かけました・・

 

 

 

石灯篭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまで

人吉市の遥拝阿蘇神社様をご紹介致しました。

 

 

 

 

ナマズさんなのですが・・実は、

ブログ

『(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬』で、

ご研究をご紹介したペンネーム「荒谷 山人」様より、大変貴重なお話を伺っていたのです

 

 

 

 

ペンネーム「荒谷 山人」様は

「宮原さん、球磨、人吉の神社では、遥拝神社以外の複数の神社で

実は、ナマズをお祀りしていますよ!」

と・・お教え下さいました。

 

 

私、凄く驚いたのです・・

殆ど見かけない・・と思っていましたから・・

 

御神体としてお祀りなので、表には出ていないようです・・

 

 

お話を聞いている時に、別のMさん

「家の近くの神社でも、そうですよ!」

と言われて、マタマタびっくり・・!

 

ペンネーム「荒谷 山人」様のご研究の一環として、ナマズの記述が見つかったら教えて下さると、その時、嬉しいお言葉を頂きました😊

 

 

 

 

私は考えます・・・

 

ナマズと地震の信仰は・・・

 

古代、球磨を襲った

巨大地震と関係あるのでは・・・と

 

 

2019年の4月に書いたブログ

古代 自然から教わる事 で、詳しく書かせて頂きました。

 

 

 

 

 

 

旧球磨郡久米郷を通り、全長22キロにわたる人吉盆地南縁断層

 

画像 地震調査研究推進本部様 サイト 人吉盆地南縁断層より

 

 

 

 

画像 地震調査研究推進本部様 サイト 人吉盆地南縁断層より

 

 

 

 

最終活動期は

7000年~3200年前

 

つまり、縄文時代です

 

 

 

当時の球磨盆地の遺跡からは、瀬戸内地方の船元式土器も出土しています。

 

交流があった・・という証拠ですね

 

 

ナマズと阿蘇地方の関係は

山部氏が関わっているのではないか!?

 

とも考えています

 

全国で、圧倒的に山部姓が多いのは

阿蘇地方です

 

山部氏は久米族ですね・・

 

 

 

それに・・

この地方の風習や祭祀、そして言葉は明らかに、東へ北へと動いているようですから・・

 

 

 

 

2.しとんぎ餅

 

ブログ

(再)最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國ノ狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様

を書いてから、思い出した事が沢山ありました・・

 

 

 

 

 

免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行より

 

(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
 

①子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た
 

②七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)

 

③弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式があった

明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
 

他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。

 

 

 

 

※家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨

 

棟上げの時に紅白のお持ちを撒きますが

球磨地方では、このお餅を

しとんぎ餅 とか ひとんぎ餅

と言います

 

 

私、この地を離れて30年以上、「しとんぎ」とか「ひとんぎ」という言葉

聞いた事が無かったのですが

 

こちらに戻ってすぐに

「ひろ〇ちゃん!今日はひとんぎがあるよ!😊」

とご近所の方が言われた時に凄く懐かしかったのです😊

 

でも・・てっきり

しとんぎ・ひとんぎは球磨弁だ・・

と思い込んでいました

 

 

 

所が・・今年に入り、鏡餅に飾る干し柿の事を書いた後

餅について調べていて、凄く驚いた記述を目にしました。

 

 

餅 ウィキペディアより抜粋致します

 

 

 

 

字と文化
イネ科の植物の果実である穎果は小粒で、1つ1つが籾に包まれ、さらに加熱加工しにくい果皮が包み、これらの除去を大量に行う必要がある。

 

このため、食用とするには技術と手間がかかる。これは穀物を杵などで叩く(「搗(つ)く」という)ことで除くことができる。

 

人類史上、このような加工の初期段階では、コメにおいてもおそらく他のイネ科の穀類と同様に粉状にし、水とともに練ってそのまま食したと考えられる。

 

やがてコメの煮炊きが始まり、さらにコメは小麦や大麦などよりも吸水性がよいことから粒食が発達することになるが、

 

原始の形のコメの食法は神饌として残り、日本ではこれを「粢(しとぎ)」と言った。

 

日本語の「モチ」の語源について、古語の「モチヒ」「モチイヒ」(糯飯、黐飯)から、または望月の形状から、など諸説ある。

 

 

※原始の形のコメの食法は神饌として残り、

日本ではこれを「粢(しとぎ)」と言った。

 

 

日本における習俗
日本においては、古来より神への供物

御饌の『粢(しとぎ)』:はんごろしやきりたんぽ等と同様米粒をつぶした供物から発展した)

として祭りや慶事の際に用いられ・・

 

 

 

 

餅まき ウィキペディアより

 

 

 

餅まき(もちまき)、または餅投げ(もちなげ)は、上棟式などの神事に際して集まった人々へ餅をまく行事である。

 

正式には、散餅の儀、散餅銭の儀という

 

 

概要
災いを払うために行われた神事である散餅の儀(散餅銭の儀)が、江戸時代に庶民に広まったとされる

 

熊本県、大分県では「しとぎ」、宮崎県では「せんぐまき」と呼ばれる。

 

 

 

 

注釈 “ひとぎの意味や使い方”. Weblio辞書.より

 

 

 

 

ひとぎ
[意]棟上式で集まった人に屋根から巻く餅や菓子。

本来は神前に供える米で作った餅を言う。粢(しとぎ)

 

 

 

 

あああああ~っ!!

\(◎o◎)/!

 

 

しとんぎ餅・ひとんぎ餅

 

球磨弁・・😊

ではなく

(ー_ー)!!

 

古語でした!

 

 

 

マタマタ・・このパターンですね(p_-)

 

以前、ブログで書いたように・・

 

苧麻を「ヲ」と呼ぶのも・・

 

球磨弁・・😊

ではなく

(ー_ー)!!

 

古語でした!

 

 

再投稿㊱後編-5 神の川と苧麻は「ヲ」と呼ぶ球磨人と球磨紀伊山地

 

 

 

 

 

さらに(p_-)

 

鯰と鮎と球磨弁と・・卵生伝説・・

で書いたように・・

 

 

 

 

※アユの語源は、

秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説

 

 

球磨弁

落ちる は アユル(アユッ)

落ちない は アエン

 

 

アユルは

球磨弁・・😊

ではなく

(ー_ー)!!

 

古語でした!

 

 

他にも、数え切れない程 このパターン(シトトも他多数・・)

球磨弁 = 古語

 

をブログ内でご紹介して参りましたが

しとんぎ餅・ひとんぎ餅 = 古語

は、さすがに ビックリです・・

 

 

ブログ『(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬

より

 

 

 

球磨郡誌 663ページ

 

小野高尚の夏山雑談の巻之五には「西国邉土には古き詞遺れり」という一項があって

「薩摩国、肥後国球磨郡などの人の言葉は

多くは、うつぼ、竹取、源氏物語、清女枕草子、四の鑑、大和物語等 にある言葉なり・・・ 中略

それは・・  古きことば猶のことたり」

という記事があるさうである。

 

 

 

こういう現象?を、学者様かたは

閉鎖された土地だから古語が残っている・・

 

とかおっしゃる方もいらっしゃるようですが・・

 

私は、そういう事ではない!

と思います

 

全国どこでも、同じ言葉を使っていたのならば

おそらく・・完全に言葉が消滅する

という事はありえない

 

と考えるからです

 

 

以前、書きましたが「なおらい」も球磨人、特に上球磨地方では普通に使っています・・

 

 

こう書いて、ようやく気が付いたのですが

 

球磨弁 = 古語

のパターンは、

多くが祭祀に関わる言葉

 

 

・・・気が付いてしまいました

 

 

 

ここまで、お読み頂いた皆様方

 

ナマズと地震の関係

信仰の関係

これらも、東へ北へと移動していると考える事が

不思議ではない

とお思いになられませんか・・?

 

 

 

不勉強な私が書くのは僭越だと思いますが

 

この項で書いた大儀を

 

おそらく

 

民俗学者 柳田國男氏は

 

お気づきでいらしたのだと

思います・・

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

今回は

1.人吉遥拝神社の鯰さん

2.しとんぎ餅

 

という内容を書かせて頂きました。

 

 

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

 

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

 

 

感謝を込めて

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

 

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『51.皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊 天火明命 火闌降命 御陵について』に続きます

 

 

 

前回のブログ『㊽家の親戚の姓と弓の儀式と雲平さんと』より 続きます。

 

 

 

2022/01/31 18:45 再投稿

 

2022/01/30 09:43 投稿の拙ブログをご覧頂いた方々へ

 

今回のブログを、ご覧頂き ありがとうございました。

 

本日、ブログ内に大切な追記を加えております。

 

 

追記内容

 

①麻郡神社私考を編纂なさった 青井大明神の大宮司青井 惟董公についての追記

 

青井 惟董公は

大宮司職を継ぎ采女佐を受領なさっていらっしゃいました

 

※采女佐に関連して

そもそも、采女の統括を担当した伴造氏族とは

穂積真津の次男・采女宮手を祖とする、穂積氏から分かれた氏族

采女氏であった・・

 

と言った内容を 2.球磨の神社の「輿」とは 内に追記致しました。

 

 

②次回の予告?

相良長頼公、球磨入部の際に

長氏 ※長谷部連 物部朝臣後裔 が、ご一緒に球磨に入られていました😊

と言ったお話も書かせて頂こうと思います。

 

 

この内容はおそらく非常に重要だと感じ、当ブログ内に追記として書かせて頂きました。

 

やはり、青井家は球磨の神社の宗社を御継になられるべき

凄い一族でいらっしゃる・・と感動致しております。

 

それと・・皆様

お気づきでしたか? 球磨郡久米郷宮原村竹野

竹野・・

ニコッ😊

物部氏に精通なさった方ならば一目瞭然ですね・・

 

曲を変えました。

「あの曲」の方が古代の球磨にピッタリ合っている・・と思いまして・・😊

 

以上 再投稿「追記」内容のご紹介でした<m(__)m> ひろっぷ

 

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

この波が最後の波になるように祈って

負けんばい!!

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

今回のタイトルは

方解石は凄い!と「輿」と合祀になられた神社絵図 です

 

お付き合い下さい <m(__)m>

 

 

 

1.方解石について

 

拙ブログ『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』でご紹介した方解石

 

 

皇紀2600年を記念して編纂された球磨郡誌に記されていた内容

 

私の住む、旧球磨郡久米郷宮原村宮麓(現あさぎり町岡原北)の

金山(かなやま・旧宮原銀山跡)付近で採取された石が鑑定を行ったら

方解石であった・・

 

 

 

 

marineと奈央様が

拙ブログをリブログしてくださり

この方解石についてより詳しく、検証して下さいました

\(^o^)/

 

 

 

バイキングの羅針盤 太陽の石 ってなに?

 

 

marineと奈央様の

非常に解りやすいご説明と共に、

方解石って凄い!!

と感動する動画をご紹介なさっていらっしゃいます。

 

ぜひ、ご覧になられて下さい😊

ビックリなさる\(◎o◎)/! と思いますよ!

 

 

方解石とは、どのような特徴を持つ石なのか

さらに

コンパスの無い時代、方解石を用いて太陽の位置を確認していたのか

とても良く解りました😊

 

 

古代の人達が、このような石を使用していた事に

感動致しました

 

 

marineと奈央様 ありがとうございました。

 

😀

 

 

 

私・・動画を拝見して、ふと考えたのですが

八角も十六角も

太陽の光を表しているのではないのかな・・

と・・・

 

 

妙な事を書きました<m(__)m>

 

 

 

実は、私、『再々投稿 ㊼祖母の言葉と方解石とお願い・・』を書いたあと・・

そう言えば・・ばあちゃんの石・・あれって何だろう・・?

と、家にある石の事が気になってしまいました。

 

父は、火打石じゃないか? と言うのですが

火打石??とは思えず・・

 

祖母は、私が子供の頃から、その石をずっと持っていて

玄関に置いていたのですが、(今でも私は祖母の思い出として置いています)

 

気になりまして・・

あらためて、よ~く見ると、石の中に沢山のガラスのような物が見えるのです。

 

 

動画撮影してみました(p_-) 15秒程ですので、よろしければご覧下さい😀

 

 

 

これって、本当に火打石?なのでしょうか・・(?_?)

🙄

 

石繋がり?で、家にある石をご紹介致しました

<m(__)m> ・・・ 😊

 

※おんやっ(p_-)

爪が凹んでいますね(p_-)・・実は先月の上旬、サッシに挟んでしまったのです痛かった・・

おっちょこちょい😔

 

 

 

ここからは 音楽と共にお付き合い下さい

この曲は、私の中の古代の球磨のイメージに最も合っているのです・・😊

 

Thomas Bergersen - Rada (Illusions) Extended

 

 

 

 

2.球磨の神社の「輿」とは

 

 

2020年1月に書いたブログ

(再追記あり)神事『御神体の御更衣』と御拝殿内の八角形と白髪神社様の鶏さん

 

 

(再追記あり)神事『御神体の御更衣』と御拝殿内の八角形と白髪神社様の鶏さん

でも、ご紹介した

球磨の神社の「輿」とは

 

麻郡神社私考平成復刻版の巻末に 神道大系 月報69 昭和62年11月 に記載の

佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について と言う文書が添付されています。

 

拝見すると 輿(与)について詳しくお書きになられていらっしゃいました。

 

 

佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について より 抜粋致します

 

本書(麻郡神社私考)は、相良家二十二代藩主相良頼喬の命により、

球磨郡の宗社であった青井大明神の大宮司青井 惟董(これただ)が調査研究して

元禄十二年十二月に完成し献上したものである。

 

 

2022/01/31 18:45 追記

 

補足

青井大明神の大宮司青井 惟董 公  ウィキペディアより

 

青井 惟董(あおい これただ、寛文2年(1662年) - 享保9年(1724年))は第51代青井阿蘇神社大宮司。

 

惟治の嫡子として生まれ、天和元年(1681年)20歳の時に惟治が没したために

大宮司職を継ぎ采女佐を受領

 

元禄12年(1699年)、藩主頼喬の命を受けて『麻郡神社記』(まぐんじんじゃき)を著した

 

以上ウィキペディアより 転記致しました

 

 

※大宮司職を継ぎ采女佐を受領

 

※采女佐

 

※采女佐 関連項目

ウィキペディアより 采女氏

采女氏(うねめうじ)は、「采女」を氏の名とする氏族。

姓(かばね)は始め采女臣、後に采女朝臣。
穂積真津の次男・采女宮手を祖とする、穂積氏から分かれた氏族である。

采女の統括を担当した伴造氏族

 

・・

采女氏とは

采女の統括を担当した伴造氏族

で・・いらっしゃる物部氏本流「穂積氏」の一族

 

以上 2022/01/31 18:45 の追記でした。

 

 

 

以下 佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について より 抜粋続けます。

 

二、 本書の特色より

 

相良藩の神社行政は、

慶長元年、青井大明神の球磨宗社昇格により改革されたといってよい。

 

以前は、

青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、

上球磨は南は宮原の中嶋大権現、

北は黒肥地の王宮大明神、

中は上村の白髪大権現の支配であった。

 

与は十四与、二三四社、別当与二十社は寺院に付属していたのである。

寛文十二年に初めて寺社奉行が任命されているので、「私考」の出来た元禄十二年頃は寺社奉行の支配下にあった。

 

この与は行政機構につながるもので、藩命を伝達したり、祭や神楽奉納等はこの与の協力によって執り行われたものと思われる。

 

 

以上 佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について より

 

 

 

以前は、

青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、上球磨は南は宮原の中嶋大権現、

北は黒肥地の王宮大明神、中は上村の白髪大権現の支配であった。

 

 

 

麻郡神社私考原文の巻末には

青井大明神の青井 惟董大宮司の編纂後の謹書がつづられています。

 

漢文なので、じっくりとは読めていないのですが、中に、驚きの言葉が記されていました。

 

又昔年 南ハ中嶋 北ハ王宮ヲ以て

宗社トスル事アリ

 

※補足

王宮大明神 大同元年草創 御祭神 神武天皇

 

宗社・・

驚きました・・・

 

 

この与は行政機構につながるもので、藩命を伝達したり、祭や神楽奉納等はこの与の協力によって執り行われたものと思われる。

 

元禄十二年(1699年)には輿・与は十四与に増えていて調査の神社は二三四社、さらに

別当与二十社は寺院に付属

 

内(うち)

中嶋輿 が二十社

切畑輿 が六社

 

を支配していたようです

(支配という言葉は・・好きじゃありません)

 

 

麻郡神社私考内では「各与」ごとに、神社の説明がなされているのですが

本文内では

中嶋輿

切畑組

と、分けて記されておりました。

 

大炊神権現(大炊霧島神社)、稲積妙見は当時

中嶋輿 の中に組み込まれていました。

 

大炊は

おおい

と読みます

 

 

特記

旧、宮原村・岡本村

久米村・旧奥野村・旧槻木村(現在の多良木町 久米・奥野・槻木)

殆どの神社中嶋輿に組み込まれていました

 

 

※驚いた事に

久米熊野座神社は 中嶋輿 であり

宮司家は 宮原氏 でした・・

 

 

切畑組は、

切畑大明神配下のグループ?という意で

実は、宮麓切畑地区は

明治初頭まで 旧湯前村の飛び地だったのです・・

 

切畑組には

旧宮原村宮麓の天満天神社 2社

旧久米村の天満天神社 1社

旧湯前村の

稲荷大明神社 熊野権現 の2社が

組み込まれていました

 

 

私の住む、旧宮原村宮麓(現あさぎり町岡原北)には

二つの輿と与があった事になり

 

当時の球磨郡内(現在の人吉市を含む)では、

特異な地

であった事は間違いない・・と思います

 

 

元禄十二年(1699年)当時の社人(宮司)様は

 

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)が

宮原 主馬 (シュメ)

 

切畑大明神が

星原 内記

 

という方々でした。

 

 

詳しくは、後日書かせて頂きますが

元々、

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)と

大炊神権現(大炊霧島神社)は

大神惟基がご神託に随って創建された神社です

 

 

私は、1200年代中期以降に橘薩摩一族がこの地に入るまで

「大神氏」が祭祀を行っていらしたのでは・・

と推測しているのです

 

 

そう・・

西園寺公経 と 橘公業(宮原氏の祖)が

球磨郡久米郷と伊予宇和島を替地して

橘一族が入部するまでは

「大神氏」が祭祀を行っていらしたのだろう・・と

 

 

 

実は・・橘薩摩一族の中で

宮原氏を含む「橘公員」の系「大崎の一族」と言われた人達は

元々・・祭祀を担当?する系ではあったのですよねぇ・・(p_-)

 

詳しくは 後日 <m(__)m>

 

 

独り言

私の祖父は、上記に書かせて頂いた事を

よ~く知っていたのでは・・

祖父は、大陸に渡る際に、敗戦の事など考えるはずもなく

だからこそ・・

本姓「大神氏」の親戚に

あえて・・宮原家が継承してきた「物」を・・・?

 

 

 

 

3.合祀となられた神社の絵図

 

ここ数回、ブログ内でご紹介致しております岡原霧島神社

 

明治時代に旧宮原村、旧岡本村が合併して岡原村となった事を機に
 

其々大同元年に創建されたと記された
中嶋大権現(中嶋霧島神宮)、

大炊神権現(大炊霧島神社※おおい霧島神社)
切畑大明神(※切旗大明神 御祭神 阿蘇神社同體、合祀 平景清公母君)

 

3社合祀となられて創建された岡原霧島神社。

 

その後、稲積妙見を含む各村内にご鎮座であった神社も合祀となられました。

 

 

岡原霧島神社 御祭神

 

天津彦火邇邇芸命
天津彦火々出見命
火闌降命
火明命
吾田鹿葦津姫命
伊弉美命
須佐能男命
大歳神
市杵島姫命
豊玉姫命
罔象女神
天照大御神
菅原道真公
天御中主神
級戸神
健磐龍命
阿蘇津比咩
国造速瓶玉神
大地主神
応神天皇
建御名方神

 

頂いた資料には続けて

 

『上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています』と記されています。

 

さらに

『飛び地境内社として熊野地区の熊野座神社、伊勢元地区の皇太神宮、

檜山地区の天満宮、長岡地区の菅原神社、岡麓地区の諏訪神社があります』

 

と記されています。

 

 

過去ブログでちょっとだけ書いた事があるのですが

実は、私

合祀となられた神社の複数枚の絵図を持っているのです。

 

 

私に絵図を渡された方から、先日

「本来、この絵図は2部しかなかった物です」

「1部はあなたに差し上げて、もう1部は行方不明となっています」

 

と言われました。

 

 

\(◎o◎)/! え~っ!!

 

 

私は、驚くと共に、貴重な絵図を蔑ろにしてはいけない!

 

と強く感じました。

 

 

多くの方々に御覧頂くべきであり

さらに、旧岡原村にご縁の方々にもご覧頂き

地域の方々のご先祖様方が大切にお守りになられ

崇拝なさった神社様の当時のお姿をご覧頂きたい

 

と強く感じました。

 

そこで、今回、絵図を写真に撮り、データとして保存しました。

 

ありがたい事に

私のブログをご覧下さっていらっしゃる皆様方に

ご縁を感じる皆様方に

ぜひ、ご紹介させて頂こうと思いました😊

 

 

大変貴重な絵図です

ご覧下さい

 

 

明治43年、岡原霧島神社創建 記念式典での写真

 

 

 

 

 

中嶋輿

旧宮原村宮麓 中嶋山御鎮座

 

中嶋大権現(中嶋霧島神宮)

 

 

 

 

 

麻郡神社私考より

 

 

 

 

 

 

 

切畑与

湯前領 切畑山 ご鎮座

(宮麓内 切畑地区は明治初頭まで、湯前村の飛び地)

 

切畑大明神

 

 

 

 

中嶋輿内

旧宮原村宮麓内

旧久米領 飛び地 稲積山 ご鎮座

稲積妙見

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧宮原村熊野御鎮座

熊野権現 (熊野座神社は現存)

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧宮原村竹野伊勢本ご鎮座

皇太神宮 (現存)

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村斎堂(ときどう)ご鎮座

※元禄十二年当時は岡本大炊神山 ご鎮座

(現存 しかし・・公民館の中) 

 

 

正八幡宮

 

 

 

 

 

中嶋輿内

岡本村福留御鎮座 (岡本福本山)

 

福神明神 (現存 公民館の中)

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村長岡御鎮座

 

藤崎八幡

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村長岡御鎮座

(現存 公民館の中)

 

菅原神社 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村長岡

 

若宮神社

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓 (岡本大炊神山)

(現存 岡本城跡に移る)

 

諏訪大明神 

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓

 

金毘羅神社 (現存)

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓

 

太 神宮

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓

 

祇園 社

 

 

 

 

 

中嶋輿内

旧岡本村岡麓 (岡本大炊神山)

 

熊野権現

 

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか

 

合祀となられた神々様も、

皆様方が以前の神社の姿をご覧になられる事で

お喜びになられていらっしゃることと存じます

 

みたまのふゆ

 

でございます

 

 

 

 

ただ・・大炊神権現さま、大歳神さまを含む、残り複数の神社さまの絵図は

頂いておりません。

 

 

どこかに、残っていれば、それだけで

 

とても嬉しく思うのですが・・

 

 

 

 

実は

絵図をまとめている時に、御神紋が気になって、ネットを使って勉強していたら

頂いた資料にあった

 

『上記の他、葉山神、若山大神、豊嶽神の23柱を御祭神としています』

 

に記された

葉山神、若山大神

の意がようやく理解出来ました

\(^o^)/

 

 

古事記にちゃんと記されておりました。

 

しかし、全国でお祀りの神社様は非常に少ない事も解りました。

 

 

 

次回に記させて頂きます

<m(__)m>

 

 

 

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今回は

1.方解石について

2.球磨の神社の「輿」とは

3.合祀となられた神社の絵図

 

という内容を書かせて頂きました。

 

次回は・・

相良長頼公、球磨入部の際に

長氏 ※長谷部連 物部朝臣 がご一緒に入られました😊

と言ったお話も書かせて頂こうと思います。

 

 

皆様、最後までご覧頂きありがとうございました。

 

 

お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

 

 

感謝を込めて

だんだんなぁ~😊

 

そして・・

負けんば~い!!

 

 

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 

次回『(再)㊿人吉遥拝神社さまとナマズと鹿とひとんぎ餅』 に続きます