鏡の向こうは夢の中 -3ページ目

ヒトノコトバ6.30

五月晴れのもと、心はどんよりと曇って・・

いつか・・

さくら さくら

  登 場 人 物

板垣正一(38) 公務員
板垣富子(68) 正一の母
千田百合(30) ホスピスの看護婦
患者1
患者2

 

○桜ヶ峰ホスピス・全景
   「桜ヶ丘ホスピス」と刻まれた門柱。
   そのむこうの木々の中に建つ病棟。

 

○桜ヶ峰ホスピス・外

   門から玄関へ続く道。満開の桜並木。
   背を丸めゆっくり厳寒へ歩いていく板垣富子(68)。
   傍らを入院荷物を抱え歩く板垣正一(38)。
   目前に桜の花びらが落ち、上を見上げる富子、まぶしそうに目を細める。
富子「・・・・きれいねえ、今年の桜は・・・」
   一緒に桜を見つめる正一。

 

○同・病室
   パイン材でまとめられた明るい個室。
   ベッドと小さな炊事施設が整っている。
   看護婦の千田百合(30)に案内されはいってくる正一と富子。
富子「まあ、いいお部屋だこと・・」
   ようやくベッドにたどりついた富子、座ると同時に大きなため息をつく。
富子「正一、手続き済んだら、そのまま帰っていいから」
   正一に背を向けたままの富子。
正一「じゃ、母さん。次の休みに来るから」
   出て行く正一。
   その途端、苦痛に顔をゆがめる富子、

   腰に手を当て、小さなうめき声をもらす。
百合「痛みますか?」
   うなずく富子。その背をさする百合。
百合「息子さんにこんなところ見せたくなかったんですね・・・いいんですよ、もう我慢しなくて。
モルヒネ処方してもらったら、痛みは抑えられますからね」
   痛みに耐えながらうなずく富子。

 

○同・外
   すっかり葉桜となった桜並木。
   玄関へむかって歩いてくる正一。

 

○同・談話室
   入り口で富子を探す正一。
   談笑する富子ら4名ほどの入院患者。
   富子を見つけ、笑顔で近づいてくる正一。
正一「母さん・・・」
富子「あ、正一、来てくれてたの?」
   富子の車椅子に気づく正一、ちょっと戸惑う。
正一「楽しそうだね」
富子「(入院仲間に紹介して)これ、うちの愚息」
   富子と同年配の患者3人が、正一を一斉に見上げ会釈する。
患者1「まあ、ハンサムさん」
富子「・・ねえ、誰かお嫁さん紹介してくれない?それだけが気がかりでねえ・・」
正一「ちょっと、母さん」
患者2「あら、ウブねえ・・。みるみる顔が赤くなってるわ・・」
   笑う患者たち。
   たじろぐ正一。

 

○同・廊下
   富子の車椅子を押す正一。
正一「パワフルだねえ、皆さん・・」
富子「そうねえ・・。モルヒネさまさまなんだけどね・・・」
   ある扉からオルガンの音が響いてくる。
富子「ねえ、そこでとめてくれる?」
   少し開いた扉の入り口に車椅子をとめる正一。

 

○同・チャペル
   小さな礼拝堂である。
   脇のオルガンで牧師(48)が賛美歌を練習している。

 

○同・廊下
   オルガンのメロディにあわせ小さく歌う富子。
   驚いて富子を見る正一。
富子「正一、頼みたいことがあるんだけど・・」
   正一を見上げる富子。

 

○板垣家・仏間
   壁にずらりと並んだ遺影。
   仏壇にたくさんの位牌が並ぶ。
   部屋の中をごそごそ探し回る正一。
正一「何で、よりにもよって仏間なんだ?」
   手ごたえを感じ、何かを手元に引き寄せる正一。
   古びた聖書と賛美歌がでてくる。
   ほこりを払ってぱらぱらめくる正一。
   と、中から古びた一枚の写真が落ちる。
   見覚えのない赤ん坊の写真である。
   拾ってじっと見る正一。

 

○桜ヶ峰ホスピス・外
   初夏の陽射に木々の緑が濃い。
   ある木の下のベンチの横に車椅子を付ける正一、自分もベンチに座る。
   持ってきた紙袋から聖書と賛美歌を取り出す正一。
正一「持ってきたよ。これだろ?」
   富子、うなずいて受け取る。
   聖書をぱらぱらとめくって、赤ん坊の写真が出てくると手を止める。
正一「誰、それ・・・?」
富子「(少し間をおいて)正一のお姉ちゃんよ・・。このときまだ寝返りも打てなかった・・」
正一「・・知らなかった・・」
富子「お仏壇に小さなお位牌があるだけで、正一には何も言わなかったから・・」
正一「お姉さん、死んだの・・?」
富子「今なら乳児突然死ナントカ・・って言うんだろうけど・・・。
あのころはそんなこと何にもわからない時代でね、一緒に寝てた母さんが窒息死させたんだろうって、
ずいぶんおばあちゃんに責められてね・・・」
正一「おばあちゃんが・・」
   うなずく富子。しばしの沈黙。
正一「それにしても古そうだね、その聖書」
富子「・・これはもう50年物だもの・・・」
正一「・・って、結婚前の?」
富子「母さんね、ミッション系の短大、もっともそのころはまだ『専門学校』って言ってたんだけど、
そこに通ってたことがあってね。そこに入学したときに買ったものなの・・」
正一「・・これまで全然話してくれなかったんだね、そんな若い時のこと」
富子「あなたのお姉さんが死んで、気が狂いそうだった、初めての子だったし・・・。
そしたら、学校時代のお友達が教会に誘ってくれてね・・・。
おかしなものよ・・、学生時代は礼拝なんて居眠りするもんだって思ってたのに、そのときは懐かしさもあったのかしらね、・・・うれしくてね・・大きな声で賛美歌も歌った。・・・久しぶりだった・・・」
   富子微笑んだ後、さびしい表情になる。
富子「・・・ただ、おばあちゃんが本気で心配してね・・・
本家の嫁がクリスチャンになったら、誰が先祖代々の墓を守るのかって・・・・」
正一「じゃ、もう行かなかったの・・・・?」
   うなずく富子。
富子「でも、まもなく正一、お前を授かってね・・・・。
母さんが今日あるのは、あなたが生まれてきてくれたおかげ」
   たじろいで少しうつむく正一。
富子「それに、今は神様がついててくださるし・・・」
   まっすぐ何かを見据える富子。
富子「でも、いい?お葬式は板垣の家のやり方でやっていいから。
本家の跡取りのあなたの立場がなくなるからね」
   困惑した正一の眼をじっと見る富子。

 

○同・外(夜)
   激しい風雨に木々がゆれている。

 

○同・富子の病室の前の廊下(夜)
   駆けつける正一、病室から出てきた百合と出会う。
百合「耳は最後まで聞こえますからね、しっかりと声をかけてあげて・・・」
   うなずいて病室に入る正一。百合も続けて入る。
   風雨ますます激しくなり、窓がいっそうがたがた鳴っている。
   その雨音や何かの音にかき消されるように、

   かすかに正一の嗚咽が聞こえる。

 

○葬祭場
   読経が流れる。
   仏式の祭壇に富子の遺影。
   喪主を務める正一。
   焼香する弔問客。

 

○墓地
   板垣家の墓を前に正一と親族、僧侶で納骨が行われている。
   傍らにススキが揺れている。

 

○街中(夜)
   街の中にぽつんと古ぼけた教会が立っている。

   いそがしそうに通り過ぎる人々。
   雪が降っている。
   背中を丸め仕事帰りの正一の姿。
   行き過ぎようとしたとき、教会から賛美歌が聞こえてくる。
   はっとして足を止める正一。
正一「・・母さん!」
   教会の明かりを見つめる正一。

 

○桜ヶ峰ホスピス・外
   冬枯れした桜並木を足早に歩く正一。

 

○同・チャペル
   百合と牧師が話をしている。
   ドアを開け入ってくる正一。
   驚く百合と牧師。
百合「・・板垣さん・・の息子さん・・?」
   持っていた包みを開き富子の遺影を取り出す正一、

   そのまま牧師の方へ差し出し頭を下げる。
正一「お願いです、母のお別れ会をここで開いてください。
母は死ぬまで、いや死んでからも周囲のことばかり、何一つ自分の我を通すことをしませんでした。
私も世間体ばかり気にして、母の胸の中の小さな望みに全く気づいてやれなかったんです」
   涙あふれる正一の肩を、牧師優しく叩く。

 

○同・外
   少しずつ花を咲かせ始めた桜並木の終るところに、

   牧師や病院スタッフ、患者らが見守る中、
   正一と百合の手で、桜の若木が植えられている。
   脇に木の札を立てる正一。
   札には「富子桜」の文字が見える。

 

○同・全景
   淡い緑に包まれた風景の中で、正一たちの姿が小さくなっていく。  

 

<完>

少年(ガキ)のまんまで恋してる

  登 場 人 物

 飛田 淳 (21) フリーター

 佐倉 ミキ(22) 学生・淳のアルバイト仲間

 貨車の機関士

○とある地方都市・線路・深夜

   駅から1,2キロほど離れた線路構内。

   単線から複数の線に分かれている。

   しんと静まりかえっている。駅の灯だけがこうこうと明るい。

   飛田淳(21)と佐倉ミキ(22)が線路の上を駅の方に向かって
   歩いている。

淳 「すっげー、もうすぐ駅だよ。

   な、やっぱりこっちの方が早かっただろ?」

ミキ「どうだか・・・・」

   ミキ、ふと立ち止まる。

ミキ「ねえ、今遠くで踏み切りの音しなかった?」

淳 「この線、この時間電車走ってないって。

   空耳じゃ・・・?」

ミキ「私やっぱ道路出る。ただのバイト仲間と新聞載りたくないもん」

   向きを変えて歩き出すミキ。

   慌てて追う淳。

淳 「待てよ、俺も行くからさ。

   こんな時間、女一人じゃヤバイって」

   列車の音、はっきり聞こえてくる。

   一瞬、凍りつく淳とミキ。

淳 「マジかよ?」

   淳、ミキの手をつかみ駅の方に向かって走り出す。

   貨車が警笛を鳴らしながら、単線から複線に入ってこようとしている。

淳 「畜生、どの線走ってくるんだよーっ」

   数本の線路を逃げ惑う淳とミキ。

淳 「よし、こっちだ」

   線路の脇に転がり込むように逃げ切る淳とミキ。

貨車の機関士「(貨車の窓から怒鳴って)

        こらー、お前ら何してるんだー」

   貨車、通過する。

   座り込んだままの淳とミキ、肩で息を切っている。

   急に笑い出す淳。

淳 「ひやー、怖えおっさんだったよな・・。

   こんなにしこたま怒られたのガキの頃以来じゃねぇのかな?

   なつかしー」

ミキ「(泣きそうに)だから、私一人でも帰れるって言ったのに・・・」

淳 「(真顔で)あの店長がどんだけいやらしい目でお前のこと見てたのか

   分かってんのかよ?

   お前が抜けるとき、俺がすぐ後追わなきゃ、あいつ絶対ついてきてたって。

   大体さあ、正社員の飲み会に何でお前一人呼ぶワケ?

   俺が無理矢理ついてかなきゃ、どんな目にあってたか・・・」

ミキ「もういい。何よ『俺が、俺が』って・・・。

   あんた、私のボディガード?恋人?」

淳 「(ぼそっと)そう思っちゃ悪いかよ」

ミキ「(聞こえないふりをして)何よ?」

淳 「(大声で)俺は、佐倉ミキの、恋人、兼、ボディガードでありたい、

   いや、そうなりたいと思っています。以上!」

   ばつが悪そうにちょっとうつむく淳、ぷいと一人駅の方に向かって歩き出す。

ミキ「待ちなさいよ。全く、何がボディガードだか・・・」

   淳に追いつくミキ、自分から淳の腕を組む。

ミキ「あのさ、そういうことは、ちゃんと最初から言いなさいよね」

   黙っている淳。

ミキ「・・ほんとガキなんだから・・」

   ミキ、淳の頬に軽くキスする。            < 終 >
   

影武者

 人は私のことを超人という。私はシングルマザーで二人の子の子育てをしている。パートだが仕事もし、その一方でさまざまな役に就いているからだ。

 正直、本当の私にそんな能力はない。だがある日、ある人物(とだけ言っておこう)から小瓶を一つ渡され、私に助けが要るときに使うようにと言われたのだ。

 その朝、私は疲れていた。ゆっくり休みたかった。しかし、子どもたちの食事の準備もし、その他の家事もしなければならない。

 私は瓶の中から、小さなキャンディを取り出した。小さい頃見ていたアニメ「ふしぎなメルモ」のキャンディみたいだなと思った。
 そして、一粒食べてみた。

 私は大きなあくびをし、ベッドに戻った。

 しばらくしてようやく疲れが取れた頃、私は目覚めた。私がしようと思っていた朝食の準備も終わり、片付けもできていた。それどころか、洗濯も仕上がっていた。この間からやろうやろうと思ってそのままになっていたリビングの隅の古新聞はきれいに整理され、収集日を待つばかり。最近散らかしっぱなしになっていたリビングも片付いていた・・。もちろん子どもはとっくに出かけていた。
 ふと人影が玄関から外に出た。なんだか見覚えのあるような気がした。母?そんなはずはない、数年前に亡くなっているのだから・・。でも、最近の物騒な世の中でも全く警戒心を感じなかった。次の瞬間私は、一人で納得していた。

  あれは、私だ。

 数日後、PTAの役員依頼の電話がかかってきた。私は迷わず引き受けた。子どもが学校で世話になってる以上、当然のことだとは思いつつ、今まで気持ちに余裕がなく、とても引き受ける気にならなかったのだ。
 だが、今なら・・。
 私は小瓶の中のキャンディを見つめた。

 その調子で私は、次々にいろんなことを引き受けていった。

 送り迎えができないからとの理由であきらめさせていた、子どもの部活、習い事もできうる限り希望をかなえてやることにした。しかも、必ずといってついてまわる「親の世話役」も引き受けることができた。私はパソコンが出来、データ入力や文書作りに重宝がられた。

 仕事のための勉強もやっと本腰を入れてできるようになった。これまで、ただなあなあでやっていた仕事を根本から見直し、自分自身の中で小さな改革をやってのけていった。目立たないことと思いきや、それはすべて人の目に留まっていた。
 
 どうしても携わりたかったNPO活動にも積極的に参加ができるようになった。頼まれたHPは完成し、反響は日本中に広がった。事業の依頼が全国から来るようになり、これまで行けなかった場所にも積極的に行けるようになっていた。

 そのうちに同窓会の幹事まで頼まれることになった。ただでさえ忙しいこの年代、引き受け手に困っていたらしかった。

 少なくとも私はあのキャンデイを11回は口にした。そのたびごとに、いろいろな役回りが就いて回るようになった。だから、たぶん今、私の影武者は11人はいる・・と思う。
 ただ、不思議なことに、そのときは「やってくれている」気持ちでも、しばらくすると「自分でちゃんとやった」と言う気持ちになっている。そしてそのときの記憶が自分の中に蓄積されていた。
 ご飯やお風呂もどこかでちゃんと食べたり入ったりしていたら、もうお腹は満たされ、心も満たされていた。
 子どもたちと過ごした時間も、ちゃんと思い出として共有しているし、子どもたちのために心をこめて作った食事も、ちゃんと記憶にある。エピソードまできちんと話せる。

 どういうわけだか、だれにも、私に影武者がいることを悟られなかった。
 決して私と影武者が同時に現れることはなかったのだ。
 子どもたちすら、ここに超人的な母がいるとしか思っていなかった。
 面白いことに、記憶をすべてつなぎ合わせると一人の人物の行動としてぎりぎりのところでつながるのかもしれなかった・・。

 私には本当に影武者がいるのだろうか・・・?
 しかし、今私は子どもに本を読んで聞かせてやっているはずなのだ。

 じゃあ、今ここでブログを書いている私はだれ?

名づけ

時間

出窓

   登 場 人 物



 田島 加奈子(29)

 田島 太一郎(65)加奈子の亡夫の父

 田島 紀 子(59)太一郎の妻

 田島 里 香(30)加奈子の亡夫の妹

 原田 恵 理(33)



○田島家・6畳和室



   壁際に祭壇。

   田島浩一郎(34)の遺影が飾られ、横に骨箱が置かれている。

   前で手を合わせる田島太一郎(65)、

   横で田島春菜(1)をあやす田島紀子(59)。

   傍らに田島加奈子(29)が黙って座っている。

   太一郎が向き直る。



太一郎「今度のことでは、加奈子さんに苦労をかけた」



   少しうつむいて聞いている加奈子。



太一郎「それで、今後のことだが、うち に帰ってきなさい」



   驚き、顔を上げる加奈子。



太一郎「ここは社宅だから、そう長いこと居るわけにもいかんだろう」



紀子「そうよ、あなたの家は田島のうちなんだから」



加奈子「でも、家には里香さんもいらっしゃるし・・・今後のことは」



紀子「何言うの。私はあなたを嫁にもらったときから、あなたのことは娘だと思ってきたのよ。だから里香はあなたの妹。あなたもこれからは長女としてしっかりしてもらわないとね。第一、里香はこれから嫁に行く身」



○同家・玄関



   太一郎と紀子が靴をはいている。

   傍らに小ぶりの旅行かばん。

   加奈子、春菜を抱いて立っている。



太一郎「それじゃ、私たちは仕事があるからこれで帰るが、また連絡しなさい」



紀子「(春菜に)じゃあね、はるちゃん、早く帰ってらっしゃいね!」



   かばんを手に、玄関を出る太一郎と紀子。



○同家・DK



   ベランダのガラス越しに、社宅の門を出て行く太一郎と紀子を見送る

   加奈子と春菜。



   道むこうにアパートがある。

   道路に面した窓は出窓になっており、四戸それぞれ置物など飾られている。

   部屋との仕切りにはレースのカーテン。

   その一つの出窓によじ登ろうとする2、3歳の男の子が見える。

   置物に触ろうとするので、母親が抱きかかえ下ろそうとするが、抵抗する。

   父親が現れ、男の子の体を抱き、カーテンのむこうへ。

   やがて玄関から出てきて、遊んでいる父子。



   その姿が、浩一郎と春菜のイメージに変わる。



   ガラス戸に背を向けて、ぎゅっと春菜をだきしめる加奈子。



○市営住宅前の道



   2階建ての真新しいアパートが何等か並んでいる。

   数戸にはすでに入居者がいる様子。



   バギーを押してさしかかる加奈子。



   立看板には

   「入居者募集中、第1期×月×日、第2期×月×日、第3期×月×日」

   とかかれており、第1期のところが太線で消されている。



   見ている加奈子。



女性の声「可愛いでしゅねー、お名前は?」



   振り向く加奈子。



   原田恵理(33)が春菜をあやしている。



加奈子「春菜です」



恵理「はるちゃんですかー」



   恵理を気にしつつも、看板を見ている加奈子。



加奈子「ここ、倍率高いんですよね」



恵理「(春菜をあやしながら)高いわよー、家賃安いからねー。あたしんとこはついてたけど。母子家庭枠ってのがあるのね、ここ。母子寮建てる代わりらしくてさー。それが、第1期は意外に少なくってさー」



   恵理の顔を見る加奈子。



○市営住宅・恵理の部屋・LDK



   余計なもののない、さっぱりとした部屋。

   春菜を抱っこしたまま食卓の椅子に腰掛ける加奈子。

   二人の前にジュースとお茶を出す恵理。

   自分も湯飲みを手に、加奈子の向かいに座る恵理。



恵理「ごめんね、何もなくて。・・あ、ちょっと待ってて、昨日ポテチ買ってたんだ」



   立って流しの下を探す恵理。



加奈子「どうぞお構いなく。ここのお話うかがうだけのつもりで来たんですから」



   恵理、見つけ出したポテトチップスを皿に盛り、食卓に置くついでに一つつまむ。食べながら座る恵理。



恵理「あ、はるちゃんには早かったっけ?」



加奈子「いやそんなこと・・・、主人が好きだったので、この子もよく・・・」



   安心したように微笑む恵理。つられて微笑み返す加奈子、少し打ち解ける。



加奈子「あの、お部屋の中、見せてもらってもいいですか?」



恵理「いいわよ」



   南側のリビングまで足を進める加奈子。

   東側の壁際に子どもの描いた絵。

   その横に、三角につきでたような小ぶりの出窓がある。



加奈子「出窓・・・・」



恵理「ああ、ここみたいな、角部屋にはついてるのよ」



   何かを決心したような加奈子。





○田島太一郎宅・茶の間(夜)



   テレビを見ている太一郎と田島里香(30)。

   部屋の隅の電話が鳴る。

   コードレスの受話器をとる里香。



里香「もしもし、あら加奈子さん」



   暖簾をくぐり、台所から手を拭き拭き入ってくる紀子。



   里香は口パクで「かなこさん」と示し、受話器を差し出す。



紀子「ずいぶん、連絡くれなかったじゃないの。まあ忙しいのは分かってますけどね。で、引越しは決まったの?(やや間)ちょっと待って、今お父さんに代わるから」



   テレビに夢中の太一郎。



   それを諌めるようにスイッチを切り、受話器を差し出す紀子。



太一郎「ああ、わたしだ。・・・そうか、・・・ああわかった。それじゃ、頑張んなさい」



    電話を切る太一郎。



紀子「お父さん、物分りのいいことばかり言って」



太一郎「しかし、もう引越しも済ませたと言うんだから」



紀子「何ですって?」



   気まずく黙り込む三人。



里香「(ぼそっと)あたし、ずっとここに住んじゃおうかなあー」



紀子「何言うの。この家は春菜が継ぐんだから。あんたはさっさと嫁に行くの!」



里香「相手はー?」



   返事をしない紀子と太一郎。



   退散とばかりに、部屋を出て行く里香。



○市営住宅・加奈子の新居・LDK(夜)



   恵理の部屋と同じ間取り。



   まだダンボールが積まれている。



   受話器を置く加奈子、緊張の表情がみるみる緩む。



加奈子「さあ春ちゃん、早く寝ましょうね」



   ふざけあいながら出て行く加奈子と春菜。



   出窓に飾られたはがき大の写真立には浩一郎の笑顔。  <終>

最後通牒

登場人物

   遠山 郁夫 (59) 会社員
   遠山 里子 (55) その妻

○遠山家・リビングダイニング(夜)

  食卓に向かい合って、黙って夕食を口にする遠山郁夫(59)と
  遠山里子(55)

遠山「考えてみると、お前をロクロク旅行に連れて言った事もなかったなあ、お前には苦労のかけ通しだった」

里子「口ばっかり」

   黙りこむ遠山。

   食事を続ける遠山と里子。

   箸を置いた里子、二人の湯のみに茶を注ぎ、ゆっくり飲み干す。

里子「あなた、別れましょう」
   
里子の言葉が理解できない表情の遠山。

里子「こんな二人きりの重たい時間が、これから一ヶ月先から死ぬまでずっと 続くなんて、考えただけでぞっとします」

遠山「何を言い出すかと思えば・・・」

里子「もうずっと前から考えていたことです」

遠山「別れてどうやって暮らしていく気だ?
まさか、俺の退職金をあてに・・・」

里子「蓄えはあります、もう十年もずっと積み立ててきましたから・・・」

遠山「十年・・・。そんな前から。何で?」

里子「はじめは自分の自由になるお金が欲しかっただけ。でも欲しいものなんてなかったのよ。私が本当にほしかったのは自由」
   
   里子、サイドボードの引出しから離婚届の用紙を取り出し、食卓の上に
   広げる。

里子「私が書けるところは全部書いておきました」

   まだ、事態を飲みこめない様子の遠山。

里子「本当は、仕事も住むところも見つけてあるんです。あとは、あなたに話  しさえすればよかったの」
   
   里子、奥の部屋に行き、身支度を整えて出てくる。手にはボストンバッ   グ。

里子「それではあなた、長いことお世話になりました。離婚届の方、よろしくお願いします。何かございましたら、こちらの弁護士さんの方に連絡なさ  って」

   里子、バッグから名刺を取り出し、テーブルの上に置く。

   そのまま部屋を出ようとして、向き直る。

里子「あ、申し訳ございませんが、後片付けの方お願いできますかしら。三十年間ずっと私一人でやってきたんですもの、一回くらいお願いしたってバチは当たらないわよね」

   くすっと笑い、部屋を出ていく里子。

   呆然としたまま食器を流しに運ぼうとする遠山。

   里子の茶碗が大きな音を立てて落ち、割れる。

   はっとする遠山。

遠山「何なんだ。私が何をしたと言うんだ・・」