小さな花、咲かせよう  【夢の修理屋】                     -5ページ目

青と緑

秋晴れの都内は、人が溢れていた。


マウンテンバイクで都内にちょっと良い道を走る。


良い道とは、歩道が広めで人が少なく


それでいて空が良く見えて、緑がある道。


特に新宿の西口公園から、代々木公園、そこから


宮下公園を抜け青山通りへ抜けるルートは最高。


良く知られている地域だが、意外と短時間で


気持ち良く距離を稼げる。


参宮橋から代々木公園は、今日の新しいルート。


いまは池袋から青山への最高のルートを完成させようと思っている。




西新宿の都庁は、何年経っても存在感が強い。


こんな建築を設計した日本人をとても誇りに思うし


こんな建物が建つってのに、改めて文明の凄さを


感じる。




日本の広さ

今の仕事を選らんだひとつの目的だったかも知れない。


狭い日本は、良く知っておきたい。


文京区から周りの23区しか移動ができない。これが

ずっと続くなんて想像できない。そう思った。

23区ならまだましだ。家とビルとの往復だけ。

せっかくのフィールドを、そんなことに使いたくない。


僕は、この1年間で北海道、大阪、鳥取、愛媛、福岡と仕事で

各地に行くことができた。行ったエリアはどこも、良いところで

エリアならではの人模様がある。


自分達の手で、商品を全国の人に買っていただきたいと

リスクを負って事業をされている人の話を聞く機会が増えた。


東京にいると大手得意先にもいくが、絶対的にブランドを

確立している大手に行くよりも、地元でがんばって

人間臭い場所が好きだ。社長には思いが強い人が多い。


7年いた職場を離れ、明らかに充実した日々を過ごしている。

これからさらに充実するためには、自分をより充実させること。

70になっても、フル回転できる健康と知恵を身に付けたい。


小さな夢を咲かせましょう!





光陰矢の如し

前回のブログの更新よりほぼ1ヶ月。月日が経つのは早い。


銚子に1泊の後は、長野県のあるお寺で1日の体験修行をした。


いわゆる一休さんの世界である。


昼はサムという、庭の草むしりから始まる。


次に、食事。板の間で、自鉢といういわゆる修行僧用の

器の段々重ねを用途の応じて使い分ける。この食事は

思いのほか、捻挫しそうになった。

それだけ、板の間での正座の食事は応え、いかに自分が

自分に甘い人間かを知ることになる。

食事の後は、地元の人たちとの座禅会。

和尚さんに喝を入れてもらい、静寂と闇の中に身を置いた。


寺の夜は何も無い。そういうこととは別に、疲れ果てて寝てしまった。


翌朝は5時起きでお経を読み上げ、座禅をし

その後、廊下の雑巾がけをした後、また悪夢の朝食がはじまる。


ほんとうにこの時間だけは耐えがたかった。

そんなこんなで修行も終え、帰路に着いた。


和尚さんが言っていた。体験修行の座禅で無になるなんて、。

「どんだけ~!」と。厳しい禅の修業を終えた和尚が無理だと

いうんだ。間違いない。



夏の終わりに

9月20日

遅めの夏休みをとり、銚子まで足を伸ばした。

目的は、美味い魚を食べる!

銚子といえば、金目鯛、鰯あたりか。


銚子は、東京から近いようで遠い。

錦糸町から千葉まで快速で50分ぐらいだったろうか。

千葉から総武本線に乗り換えて、成東どまり。

成東で乗り換え電車を待ち、銚子へ着いたのは

東京からほぼ3時間30分といったところだろうか。


そっから昼は寿司を食べるという目的で、犬吠駅へ

銚子電鉄で向かう。出発そうそうヤマサ醤油の隣を

抜けるために醤油の香りが風とともにやってくる。

以前にいったことのある犬吠駅前1分の島武水産へ。

相変わらず大きいネタがのっかている。

ビントロは食欲がわかないほどのでかさだ。

あれは、犯罪だよ。こんにゃくが一枚

そのままのっかているかのような印象だ。

ここの回転寿司はなりふり構わず大きいネタが

くるのだ。しかし、この日はあいにく乾いたネタが

多く残念無念。夕食に期待することになる。



続く....

ライフスタイルの変化

僕なんかの世代だと、PCに向かって

キーボードを打ったほうが煩わしくないと感じる。


画面も広いし、何より椅子に座って落ち着いて

PCを開いてメールというのが習慣になっている。


ロングメールを書くときは、一度携帯で書き始めても

途中でやめてPCで再作成てこともある。


が、1979年以降のケータイ世代といわれる世代は

我々のPCの世代と、もう違う習慣になっている

特に10代は、携帯が日常であり、メインのツール。

だから僕らの感覚でPCの起動を待つことなんかに

相当煩わしさを感じるかもしれない。


今、オフィスを見渡すとPCがズラリと並ぶ光景だが

昔そうであったように、PCがまた無くなり

生活のメインツールである会社用携帯で全ての

処理ができるようになるかもしれない。

いや、今もできるがそんなライフスタイルになるかも知れない。

働き方もどんどん変ってくることになるだろう。


未来はまだまだ未知なんだなと好奇心が沸いてくる。

ライフスタイルの変化、よく耳にする言葉だけど

インフレのようにジワジワやってきて気付くともう

そこは別の世界かも知れない。




回顧録

初心に帰る。


今、自分がもっとも認識すべき一文である。


流されるままに数ヶ月過ごしてしまった。


もう、帰ってくることのない時間だ。


何もやっていない訳ではないが


どこか心にわだかまりを感じる。


人生の棚卸をしなければならない。


3月末に八ヶ岳で会合を開き、あるべき姿を


描いた自分に近づいているか。


あれから4ヶ月。月日が流れるのは


思っている以上に早い。


先週末は、友人グループと谷川岳に登った。


年甲斐にもなく、腕と耳の皮が剥けちぎれている。


しなやかに、強く歩いていこう。


崖っぷちでも凛と咲くリンドウのように




花火

8月4日


あなたは、花火を見たときどのような表現を使います?


2年ぶりの戸田の花火大会。この花火は、埼玉の戸田と

東京の板橋が合同で開催する、マイナーであるが内容の

濃い花火大会だ。

電車のホームこそ小さく始まりと終わりは混雑するが、

堤防沿いの花火の見所はとても余裕があって夏の一時を

過ごすには最高だ。

板橋側からみると埼京線の浮間舟渡駅。駅前は以外に

綺麗な公園があり、とてもとても居心地の良いエリアだ。


防波堤沿いを進み、ある3家族の前の空きエリアに腰を

おろした。後ろの家族の子供たちは、思うままに騒ぎ、

無邪気だ。


花火の一発が打ちあがり、今年も始まった。

台風後で風が強く煙がいい具合に、ソラを抜けていた。


花火を見ると、いつも花火職人を思い出す。そして

なんだか浅草とかという連想が自分の中に出来上がっている。


後ろの子供たちの声が響き渡っていた。

僕らは花火を表現したら、「綺麗だ~」、「コレ好き」なんて言葉が

出てくるが、後ろの子供たちは違った。


一人が「宇宙にいるみたい~」と叫んだ。次の子も同じように叫んだ。

宇宙の図鑑でもみたことがあるのだろうか。それとも宇宙ゲームで

このようなシーンをみたのだろうか。

次に別の子が一言叫んだ。「3D」みたいだ~。おお、5歳の子供でも

3Dという言葉を知っているのが驚きであったが、ここで使うべきかの

判断がない子供たちに、とてもホノボノした。


自分の中の宝物

古いものでも、新しい価値を産み出すと

新しいものになる


昔から世に出ていて新たな価値、

別の視点でスポットライトがあたると

たちまち新しい商品としてカムバックする


思い浮かぶのは万年筆の話で、

こんなブログを更新するときも

横にはパーカーの万年質がある。


書く、書いたものを他に伝えるといった観点だと

今のシャーペンやボールペンのほうが安いし

手軽で便利で、文字を書いて伝えるという意味では

全く問題ない。いやむしろこの点では相当便利だ。


一方、万年質はインクを補充しなければならない。

スムーズにインクが出てこない場合がある。

紙質や紙の下の台や机も、インクの出に左右されるなど、

むしろ使いづらい。


「モノマガジン」によって価値が転換された。

嗜好品、インテリアイテムとしてである。

万年筆=単純に格好いいという連想になる。

インクのボトルが机に上にインテリアのように

置かれると、なんかやる気になってくる。

価値の転換により、万年筆は新しい製品となった。


人も同じだ。今までもっていたものを別の形で

スポットライトをあててあげると、新たな価値として

パーソナライズできるのではないか。


そのためには、自分に既に備わっている価値を信じ

他ではない自分の中の価値を探すことから始めることだ。


小さな花を咲かせましょう!













当たり前への疑い

当たり前に目の前にあることに、目がむかずにないものばかりに

目が行っている自分を感じることがある。


当たり前だけに目がいって、本質に目が行かないこともある。


ここで言う当たり前という意味は、いつも身の周りにあって

知らず知らずのうちに自分を助けてくれているもの、

とても広がりを与えてくれるものが近くにあるの、近すぎて

気付いていないものとする。


社会人であれば、眠い目をこすり朝食を口にして、

交通機関を使い会社に行く。自分のミッションに追われ

夜になると帰宅をして食事をして寝る。


さて、1日に何度深遠な気持ちになる出来事があるか。

まず、無意識で通り過ぎると一日一回の体験も

難しいのかなと思う。いつもと違うアプローチをしないと

または、変わったトラブルやイベントに遭遇しないと難しい。


当たり前というブラインドを一つ上げれば、新しい世界が見える。

朝の電車の中の光景、窓の外の光景、ホームでの人の足音、

顔色、ビルの上には広がるソラ、建物の素材や歴史観、

街を彩る色など。近くにいない親の姿、自分という人間を育てて

くれた人、いつも買いに行くお店の店員、居酒屋のマスター。


当たり前と思うと、全く気にしないことだけど

一つ思いをめぐらせるだけで、豊かになる感覚はないか。


記憶の当たり前に触れる。普段は引き出しに入っていて

なかなか取り出さない思い出。


1日1回、朝、今まで行った旅行への思い出に触れる。

あの海の色や山の色、現地の人びとの暖かさ。


当たり前への疑いを始めよう。

こんなつまらないのって当たり前?これって間違っているけど

当たり前?自分って人に支えられているの?


ひとつひとつの風景が今日も同じに見えるかは、

自分の心ひとつできまるのだと思う。

余裕が今ない人たちは、ゆっくりと素の自分に戻る時間を

作って欲しいと思う。何もが当たり前の生活はつまらないと思う。


小さな花を咲かせましょう!



自分にやさしく 人にやさしく 地球にやさしく

「21世紀仏教への旅」(五木寛之著)を目にした。

その日、私は編集者の友人が次から社寺の雑誌の

編集に携わるということで仏教の話をしていたため

本屋でタイトルをみると手にとって見たくなった。


本に描かれているのは、古き懐かしき日本の風景。

その光景が残されているのは日本でなくブータン。

ブータンの人びとは仏教の輪廻転生を重んじ、

人生を送っている。自然、全ての生物に対して

その相手の気持ちというのを理解して繋がりを感じ

ながら食するものは食す。

ブータンには49日やお盆などの考えはない。

個人を祭るようなお墓もない。


ブータンから日本を訪れると姿形は、日本人と

さほど変わらないが一つ違和感があるらしい。


それは、見えない規制や自制が強く働いているというのを

感じることであるという。

ここのところの日本での殺傷事件に関して

この規制や自制というのが一つの要因だとしている。


日本人は物事を突き詰めすぎるが故に、行き場を失う。

自分ができるものは何か?

何もできない。

生きていても仕方がない。


日本はハード面はダントツ成長しているが、ソフト面は

全く追いついていっていない。


ブータンの識字率は50%だという。僻地で暮らしている人も

多く学校に通うということ自体が成り立たないらしい。

一部ではインターネットカフェなどもあるらしいが、

全てにおいて均一化をする方向性もないようである。


この国の平均寿命は60代と日本の80代に比べて20年も

生きることができない。どちらが豊かな人生をおくれるか。


規制や自制が強く、自分ができることを考えることは良いことだが

そこのところを「0」か「100」で判断しないで欲しい。

誰もがナンバー1である必要はない。もしナンバー1しか生きれないのなら

99人の人が必要ないとして、100人の社会は成り立たなくなる。

99人が周りの人のために生きて100人の社会が成り立つのだと思う。


大人達にできることは多い。

もちろん子供たちににだってできることは沢山ある。

「君は僕の友達だよ」って隣に言っていってあげるだけで

どれだけ救われる人間がいることか。

皆と仲良くできることを素晴らしいことと感じたい。


仏教についてもう少し勉強してみたい。

そして機会があればブータンに行ってみたいと思う。