風のかたちⅡ -4ページ目

090903_雇用システムWS@本郷3丁目赤門総合棟

玄田ラヂオ先生プログに「どなたでも参加ご自由です」とあったので、東大社研のような立派な世界なんぞには<無縁の衆生>だけど、覗いてみた。


ラヂオ先生が「いちばん嬉しいのは、労働問題を勉強している実感を強く持てること」とブログに書いているそのままに楽しそうな様子で司会していたり、黒田祥子先生が質問者へのマイク運び係ビックリマークだったりと、肩肘はらない、手作りアットホームな雰囲気がいいなぁ。この日の講師のお二人も勿論いい。お題は・・・

今野浩一郎先生「人事管理の<これから>を考える」

中村圭介先生「いくつかの小さな改革案」


今野先生は、変化の方向性への直感→巧みな図式化のセットがすてきだ。それに、質問がでるほどに事象観察のうんちくと見通し--例えば、外部相場とのつながりがないと内部賃金も安定しないところがある。某薬品会社は外資と一緒に市場賃金の調査までやった。職能資格性ではなく職務役割等級制になっていくと内部と外部の労働市場の連動がよりはっきりしてくるかも知れない・・・なんて話が聞けるのが楽しい。


中村先生は、例の一見ぶっきらぼう・無愛想ながら、しみじみとしたお話。のっけに、「研究のスタンス」としてハイエク全集からの引用がきたのは面食らったが、経験主義的知性みたいなところで通底ということかと勝手に解釈。


その上で、「仕事にかかわるルールの発見、整理、体系化。その上での矛盾、問題点の発見、その結果としての<改革案>」だから、「グランド・デザインを描けない<小さな>改革案」なのだという中村圭介流学風の説明にも僭越ながら納得したつもり。ニコニコ


公務員、ホワイトカラー、非正規労働の組織化といったこれまでの研究の舞台裏というかマインドのお話は勿論面白いが、目下のマイブーム→非正規労働と(広義の)総人件費管理の解明というお題が特に興味深かった。


総額人件費の枠外で非正規が増える。調べてみたら、実際の人にかかる費用、つまり人件費(正社員)と物件費(非正規社員)の総額は、(非正規化が進む以前と比べて)変わりはなかったということになるのじゃないか、人件費は人への投資だが物件費はそうじゃない、かえって生産性を下げているのじゃないか、みたいなことを仰った。


hamachan先生が紹介していた大島寧子さん@みずほ総研の力作「非典型雇用の拡大と労働生産性」

http://www.mizuho-ri.co.jp/research/economics/pdf/argument/mron0905-1.pdf

のことを思い出していた。


大島さんのはマクロの生産性の話だけど、中村先生流のミクロの実証ができたらなおのこと納得じゃないかと。そしたら、鶴光先生@RIETIがハイって手を挙げて、最近外国でもそういった分析が出始めていまして、(企業レベルの分析は)大変でしょうけれど、是非お願いします・・・なんてエールを送っていた。中村先生も「実際の調査はすごく難しいと思う」といっていたが、これは期待大なり。


この話にからんで某室長@内閣府が更につっこんだ質問もしていて、それは人事管理研究が忘れてしまった領域に踏み込むことなんだ・・・と中村流「仕事管理論」がひとくさりあった。これはおいらもちょいと書いた記憶のあることだけどhttp://ameblo.jp/hidamari2679/entry-10116022939.html ・・・ギャラリーも多士済々で、話し手の思いとかを更に語らせたりするところも、「労働問題を勉強している実感を強く持てる」オープンなよい会合だなぁと思うのである。わんわんわんわんわんわん


ちなみに10月は小池先生、11月はhamachan先生、12月は大竹先生なり。

http://das.iss.u-tokyo.ac.jp/future/koyou.html

なんだかオカシナ方針

日本文理高校 

ややっこしい話ではない。

野球後進県と言われて久しい故郷のチームのミラクルな健闘に拍手したいだけ。わんわんわんわんわんわんわんわんわんわん


決勝戦、4-10の9回2死ランナーなしから5点を追い上げ、あわや同点から逆転という状況に名門チームを追いつめたのだから、賞賛せずにはいられない。


惜しむらくは、勝利の女神が最後にほほえまなかったこと・・・序盤から中盤、熱暑の球場にたつ陽炎のように、ゲームのアヤは中京へ、また日本文理へと揺らめいていた。そして、最後の最後、日本文理にくるようにみえて彼方へ傾いて終わった。


戦前の下馬評では1回戦突破かどうかくらいの無印チームだったが、フロックではない勝利を引き寄せる底力があると2試合目あたりから感じられた。全員がよく守り、好機には畳みかけるように鋭い打球を飛ばす。体格、素質がずば抜けているわけではないが、野球センスがあり、よく鍛えられた選手をそろえたチームだ。


まず、エースがいい。直球のスピードは130㎞台の並の投手に見えて、高校生とは思えない冷静さで、切れのある直球とスライダー、チェンジアップを上手く組み合わせて使っていた。しかも、相手打者の力やゲームの状況をみながら。そして何より、ピンチに表情一つ変えない肝の太さがいい。中京相手にもその力は十分に発揮されたと思う--少なくとも6回裏、2死から相手エースの2点タイムリーで2-4にされた後の次打者を討ち取ったと思えたときまでは。高くバウンドした一塁線の当たりは彼のグラブに納まったのに、一塁手も飛び出していてアウトをとれず、それが次打者の走者一掃2塁打につながった。サスガの彼も一瞬気落ちしたとしか思えない。しかし、その後も2点にとどめて最終回のドラマにつないだ粘りは見事。


合わせて特筆すべきは、最終回6点差2アウトランナーなしからの各打者の信じがたい粘り--単に「粘り」というだけでは言い尽くせない質の高いパフォーマンスだ。1番の切手君から続いて確か3,4人、2ストライクに追い込まれながら、諦めや動揺のいろがない。中京のエースの真骨頂である低めの変化球をカットし、或いはきわどく見切って、球数を増やさせ、並行カウント、フルカウントに持ち込んでいく。そして、唯一ともいえる甘いボールがくればためらいもないスイングで鋭く打ち返し、きわどい球は見切って四球にする。


強くスイングすることと見切ることの両方に備える難しさは、自分自身の同じ年代の頃を思いおこしてみても分かる。しかも、トーナメントゲーム決勝戦の最後の1球というぎりぎりの状況の中で各打者が坦々と、そういう難しい仕事を続けていく。こういうのは、これまでの甲子園での高校野球シーンでも見た記憶がない。驚異とか奇跡の粘りといわれる所以だと思う。


そうした粘りへのオドロキと感動が間違いなく甲子園球場全体を覆っていったのが分かる。なお4点差の満塁で打席にたった日本文理のエースに対して、球場が「伊藤コール」に包まれたのは、それまでの彼のピッチングへの評価と、各打者のゲームを捨てないだけではない、打席での信じがたいパフォーマンスの連続がもたらした結果だろう。録画をみていて、そう思う。


そして、声援の中で、背番号1も見事に2点タイムリーでつないで8-10、更に代打のクリーンヒットで9-10まで追い上げる。このころになると球場を覆う雰囲気が打者に打たせていたとしかいいようがない。流れは明らかに逆流していた。最後の打者も、その中で見事に振り抜いている。あの強い3塁ライナーが、もう少し高いか、左右どちらかに寄っていれば、ゲームはどうなっていたことか・・・。


オイラのころには、四国のチームや岐阜、愛知のチームと当たって試合の形になることなど想像もできなかった。初戦はそんな危惧を振り払う逆転、準決勝の岐阜商戦も、地域差などなんにも感じられない互角のゲームで最後に勝った。決勝も、6回の6失点で力つきてゲームが壊れるのかと思ったのは、弱気なワン公の気苦労だった。ゲームを壊さないどころか、「野球は2死から」という、分かったようで分からない言葉を思い出させる攻撃だった。


何がこういう奇跡的なシーンを生んだのかは分からない。日頃の質の高い練習の成果というのは当然、野球後進県といわれてきた地域の頂点にこういうチームが生まれたのは、「地域力」みたいなものもあるのかもしれないと思う。そういうものがプロ、アマを問わず、都道府県単位での勢力地図を変えるのではないかと思ったりする・・・J1アルビは地域プロスポーツの成功例の最たるものだが、それと直接には無関係なのはいうまでもないが、、最弱と言われた高校野球で、県内選手中心のチームが決勝のドラマをつくるまでになった。GM的な役割を果たす人材や、チームを鍛える現場の指導者など、いろんな人材がそろわなくては、こうは行かない。昔はそういう雰囲気が乏しかった地域に、そういう人的な、組織的な基盤が形成されているのだろう。


ロケット奇跡といわれる9回2アウトランナー無し、4-10からの反撃。わんわんわんわんわんわんわんわんわんわん

ノーカット版

1/3 http://www.youtube.com/watch?v=bEiNB46Ju7w&feature=related

2/3 http://www.youtube.com/watch?v=qOLPBRc8IPc&NR=1

3/3 http://www.youtube.com/watch?v=wd3GoiU9h28&NR=1

ダイジェスト版

http://www.youtube.com/watch?v=aD8qbZFiDsA&feature=related

その他

http://www.youtube.com/watch?v=_fwPWpB6Zf0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=5xxiW8TNXwQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=dMbsUejhRK0&feature=related



あつはなついⅡ 今年の労務学会

去年の今日は、夏たけなわだった。晴れ晴れ晴れ

蔦のからまるチャペルのある学校で面白いお祭りをやっているよ・・・と家のお嬢に誘われたが、暑さに怖じけて面白いお話を幾つか聞き逃してしまった。http://ameblo.jp/hidamari2679/entry-10123626108.html


冷夏の今年は統一論題「高齢者の労務問題」@杜の街の学校。お嬢も報告するというけれど閑古鳥は必定⇒父兄参観的聴衆でも誰も居ないよりはマシかと、上野発の夜行列車音譜・・・ということになった。新幹線 


偶然だろうけれど、日本労働研究雑誌8月号の特集も「高齢者雇用」。合わせて読むとエライ勉強にもなるが、身につまされるテーマでもある。http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/08/


特に身につまされたのは、学会シンポジウム

Aの高木朋代敬愛大准教授「高齢化の人事労務管理システムへのインパクト」

Bの岡本祐子広島大教授「高齢者の就労の心理的意義と課題―高齢期の心理社会的課題の達成における働くことの意味」。


高木報告(研究雑誌8月号にも同趣旨の詳しい分析を加えた論文が掲載)は、希望者全員の継続雇用が原則としながら、実際はそうじゃない現状(労使協定又は就業規則による対象者の選定基準の設定)において、

当該者たちは希望と実現の間にある壁を認識し、自己選別という行動を自ら始動させることによって、雇用と引退の決定に至っている・・・その壁は、実は定年時にあるのではなく、これまでの仕事経験や職業上の様々な経験の中で、徐々に雇用・不雇用の分岐点の根幹となる要素が自身の中で形成されている・・・したがって雇用と引退の分かれ目は、定年に到達するまでの長きにわたる職業人生をどれだけ計画的に堅実に歩んできているのか、あるいはそうした志向性を持っているかという問題に帰結している。

という。


確かに、「長きにわたる職業人生を・・・計画的に堅実に歩んできている」なら結構この上ないが、実際はそうではなかったのだなぁ、今になってそういわれても、と個人的な反省、慚愧の念を含めて思う。それは、おいらに限ったことではないだろう・・・と。


hamachan先生が新著で簡潔に言い切ったこと--雇用契約が一種のメンバーシップ契約となっていることが日本的システムの本質である。メンバーシップ契約に誠実であることを求められる構成員--おそらく勤労者大衆の多くはそうだろう--には、誠実義務を守りながら、企業とつかず離れずの立ち位置を取るのは難しい。尊厳ある向引退期を先読みしつつ職業人生を計画的に組み立てることは、意識面や生活時間配分からして容易なことではない。


トヨタの荻野さんが「六本木ヒルズ特区」と提案したような、日本的ではない企業、明確なジョブ契約で外部市場が存在しているところ、年収2000万円、3000万円も珍しくないなんてところの人だけは、メンバーシップ契約から自由な意識をもちつつ稼いだ上で、職業人生を計画的に組み立てることもありだろう。


しかし、白地のメンバーシップ契約で働く者は、愚痴をたれたりしながらも、組織との強い一体感・拘束性の下で過ごすことに自己実現と生活基盤を併せて置かざるを得ない。「定年後を見据えた計画的職業人生」というのは、よって立つ組織への機会主義的行動のススメ、日本的雇用システム離れという、実効性の乏しい説教をすることに過ぎない。エンプロイアビリティを高めましょうという(ちょっと前に流行った)説教もそれだった。雇用・労働市場の仕組みがそうなっていない中ではカイの無いことではないか。


高木先生も、議論の前提として、長期雇用慣行の合理性、メリットを評価して無理にそれを変える必要はないという立場から、

このことは、60歳以降の雇用促進のために企業の人的資源管理に求められる視点として、60歳以降の就業はこれまでの職業キャリアの延長線上にあることを認識し、定年前後の雇用管理だけではなく、入社から定年に至る従業員一人ひとりのキャリア全体に目配りをしていく必要がある・・・。

と、企業サイドの責任を強調している。この点は、


研究雑誌の座談会の6人の労使実務家(いずれも一流企業だが)もこの3年の経験を通して感じ取っていることが分かる。賃金等の労働条件を含めてどこまでできるかはこれからの労使の努力、国の支援の総合、プラス経済成長の在り方などだろうが、メンバーシップ型雇用契約社会である限り、これが唯一の現実性のある選択肢なのだろう。


シンポB、岡本先生の高齢者のアイデンティティ危機という報告は、聞いていると切ないお話。

○アイデンティティの中核(人生の中で、もっとも自分らしさを感じてきたところ)を中心にして生き方を再構築

 する。

 ・仕事をアイデンティティの中核としていたタイプは、心理的、社会的に可能な限り、自分の仕事世界と何ら

  かのつながりを維持する形の生活を。

 ・例)「後進の見守り」「恩返し」・・・現役時代に培ったキャリア、経験を次世代に継承する。主体は後進。自

  分は見守り役として。後進に「役立っている」という感覚


岡本先生は、引退後を想定して、臨床心理学者として提案されているのだが、継続雇用期間にも当てはまることじゃないか。研究雑誌座談会の実務家の皆さんも、仕事人間タイプの人が職業人としてのアイデンティティを壊すことのない場を用意するのに大変に苦心しているように見える。今でさえそうなのであって、これから、64歳、65歳と義務年齢が高くなっていくほどに工夫がいると。


「現役時代に培ったキャリア、経験を次世代に継承」というのは、個人にとってあらまほしいことだし、実際に役立つ再雇用パワーは企業にとって望ましい。しかし、そういう麗しい継続雇用期になるヒトがどれほどいるのだろう。最終的には、まぁ仕方ないか、食い扶持のためという合理化・諦めで我慢する場合も少なくないのでは。


シンポAの高木報告は、「ジェネラリスト型は現企業での継続就業希望は高いが、その実現可能性には悲観的」「スペシャリスト、職人型は、現企業での継続雇用に自信たっぷり」、といった趣旨の分析結果を示していた。これなど、おいら的には、胸にズキンとくる話だぜ全くと・・・何でも屋であって何者でもないおいらあたりは、さしずめ諦観的自己合理化で過ごす高齢期という予感。しょぼん


とまあ、書いてきながら、どんなに切ない話だろうと、組織にメンバーシップを持って、定年まで働くことができた人の悲哀に過ぎないと言うのも事実だなと思う。


希望に反してメンバーシップから排除された就業形態・状態にいる少なからぬ雇用者にとって、65歳までの雇用の獲得というのは、年金の受給年齢が引き上げられていく時代、生き甲斐だのアイデンティティだのと言うどころの話でないことになるのだ。その辺に何も言及がなかったところは、いかがなものかと思ったりしている。学会としては、65歳定年に向けた正社員層の労務管理の在り方が主題だというのは百も承知しているつもり。


個人的な関心としては、やはり、山あり谷ありとはいってもメンバーシップ契約が切れずにこれた世代の心配より、将来、棄民にすらなりかねない20年、30年先の世代の問題が重たい。やはり忘れ物はないですかの気分わんわんわんわん


閑話休題

会員1000人近い学会だけに、自由論題は50以上、分科会は延べ17会場。なのに体は一つ。聞けるものに限りはあったけど

○竹内規彦・倫和ご兄弟の「戦略的人的資源管理研究におけるブラックボックス議論へ」は、20分そこらの

 プレゼンで、SHRMの概略を分かったような気にさせてくれるのは、さすがにこの分野の専門家。

○平野先生@神戸のところのお二人の院生が報告した「女性活躍推進施策とキャリア自己効力感」も、12歳

 以下の子供がいる女性の場合、均等推進施策が昇進効力感にマイナス方向に働くといった興味深い分析

 結果が出ていたり、「独身期の結婚・出産前の均等推進施策こそが就業継続効力感に利くのではないか」

 といったフィールドからの質問が何れもツボを押さえていて面白かった。

 ・・・などなど、夜行列車に乗ってはるばる来たカイはあったな。

○肝心の家のお嬢の発表は、会場閑古鳥という予想(予定)に反して盛況。しかも学会理事クラスが片手に

 余るほどで、これで発表バッチリならばいうことも無かったのだが、超重量級の聴衆の一種圧迫面接的な

 状況もあった。いずれも適切かつ親切な指摘でもあるけれど、小学校の父兄参観とは桁違いのハラハラ

 どきどきで心臓にも悪いことこのうえなかったな。ご期待下さった?MH先生すみません。御師匠様、不肖

 の弟子で申し訳ございません、次は間違いなく・・・etcは、お嬢の言葉。

○なんというか、育ったディシプリンと通底はしていても微妙に言葉・作法の違う国に移住したみたいなとこ

 ろもあるようだ。母国語的になじんだ理論を別の国語に翻案しつつ実証するというのは大変なんだろうと、

 素人ながら思う。今回は時間、データ等諸般の制約の下でガンバッタ努力賞・・・といのが父兄的な思いな

 り。わんわんわんわんわんわん

官製ワーキングプァ???

たまたまテレビのスイッチを入れたら、F館の番組がこんなテーマで特集を組んでいた。


ハロワ、保育所、介護施設、市役所の窓口などで非正規雇用が増大して、同一労働同一賃金の原則に反する、雇用不安にさらされる人が増えたという内容に見えた。


「官から民」へという、それ自体が、曖昧なワンフレーズ戦略に乗って、F館氏も連呼していたように記憶する熱狂がもたらした公務の定員削減の結果だが、官がオリジナルな人事管理戦略を持ちうるはずもなく、民でやっていることにならっただけなのだ。問題にするなら、「民」そのものがとっている雇用管理の仕方に立ち返って報道しろよ、「民官あげて招いたものだ」くらいは言えよとか、官は「立派といわれた民」をまねているだけなんです、民は官のお手本になれるようにとか・・・。


地公法の任用制との絡みで、民間ならば期待できる「雇い止め」に対する保護規制(≒判例法理の適用)がなされないとかいっていたが、それ以前に、働く人の側の保護を相当に削り取ろうという「改革」の派生的な結果だとどうしていわないのだろう。


「改革」を鉦や太鼓ではやし立てた当事者(キャスター氏はただの人形として、番組を企画する人たち)の、我に責無しという無反省な心性が伝わるようで、腹立たしい企画だった。


ハロワの正規職員とほぼ同数の非正規が窓口で働いていて、明日は窓口の反対側にいくかも、みたいなオチは嗤いようがない。そういうことをする政府を作ったのは、誰なのか。そういうハロワの繁忙をもたらした法政策を後押ししたのは誰なのか・・・とかいいたくなる。みんな初めから分かっているわけじゃない、それほど賢明ではないことを認めたうえで、なぜ、思い切った舵を切らないのか。

行政サービス需要は、これから後の社会、少子高齢化とかのもとでの社会では減ずるはずもないものを、必要な公的サービスの範囲とコスト負担に言及することもなしにワンフレーズに踊た人が尤もらしい台詞をいう(いわされる)のを聞いた不愉快さで、焼酎お湯割りの量が増えてしまった(単純に飲み助だからだろうという責めには反論しない)。 酔眼妄語。