天使のエッセイ -4ページ目

マンハッタンの癌専門病院 Sloan を訪問


昨日は新しい癌専門の病院、Slaon-Kettering を始めて訪ねた。


マンハッタンのど真ん中にあるその大きな病院は
やっぱり想像を超えたレベルの病院だった。



初めての病院訪問はドクターたちと話をしたり、
いくつかの検査もして、
朝早くからまる一日の訪問になったので、本当に疲れた。


けれども治療や検査に関してだけではなく、
その細部まで細かく行き届いたケアには脱帽するものがあった。



それに病院はものすごくきれいで、

病院の各階にあるウエイティング・スペースはまるで病院っぽくなくて、

座り心地のいいカウチが並び、
エスプレッソマシーンやお茶やクラッカーのサービスもあって、

まるで高級なカフェのよう。



Sloan の美しいウエイティング・スペースにいる間に
待ってる間に何か作りませんか?と、

ワゴンにクラフト用品などをたくさん乗せて
持ってきてくれた人がいたので、

ブレスレットをつくるセットをもらったのだけど、

もうちょっとで出来上がるところで
二度もビーズを飛ばして撒き散らしてしまった(笑)




昨日はいろんなことをしたので、
たくさんのドクターや、テクニシャンたちと会ったけど、

ペイン・マネジメントのドクターたちと話をしている時、

会話の流れから突然感情がこみ上げてきたわたしは
その場で泣き出してしまった。


自分が経験していることはあまりにも尋常を超えたことなので、

今まであまり何も考えたり、感じたりしないようにしてきたけれど、


大きな悲しみは確実にわたしの中にある。

それを時々リリースしてあげるのは悪いことではない。



ペイン・マネジメントのドクターたちは

ティシューを持ってきてくれて、
わたしをハグしてくれて、

泣いているわたしを受け止め、包み、

あなたがもっと楽になって、
自分の日々を楽しめるようわたしたちがヘルプすると言ってくれた。



もうちょっと体が楽になったら絵を描こう。


わたしのお世話を毎日献身的にしてくれている夫が

わたしに絵を描いてほしいというから。


わたしの絵に囲まれているのが好きだっていうから。




重病だけど、わたしはまだ生きている。


日々を楽しめるようになっていこう。


幼馴染へのメッセージ

アメリカいちの癌専門病院

 

崖っぷちの人生だったわたしたち、

 

お金もなく、健康保険すらなく、

「もし大病をしたら死ぬのみ」という状態だった。

 

 

自分はお酒もたばこもやらないし、

運動は日課だし、

食事もヘルシーなので大丈夫だろうと思っていたら

 

癌になった!(ガーーーン!!!)

 

 

 

ところが、その、

「大病をしたら死ぬだけ」だったわたしは

 

アメリカいちの癌専門病院の一つである

Sloan で治療を受けられることになった!

 

 

なんでそんなことが可能になったのか?

 

 

そこには涙なしには語れない愛のストーリーがある。

 

 

 

まずはわたしたちの友達Jの大きな愛とサポート。

 

 

わたしがまだ自分の友達に自分の病気のことを伝えられなかった時、

 

夫のセスは以前わたしたちが仲良くしていた

元夫婦(現在は離婚して、友達同士)のJとGに

 

わたしの病気のことを伝えた。

 

なんとなく、そうしたほうがいいような気がしたんだって。

 

 

すると、以前ニューヨークにいた時に様々な病院のオフィスで働いていたJは、

 

癌の治療をするのなら絶対に Sloan が一番いいということで、

Sloan で働いている友人に私を受け入れるよう手配してくれたのだった。

 

 

Jはわたしが入院していたときからまめにメッセージをしてくれて、

とても不安だったわたしの心も支えてくれた。

 

 

 

けれどもSloan のコネクションがもてたとはいえ、

 

そもそもわたしたちには健康保険がなかったり、

かなりシビアな問題があったのだけど、

 

そこにまたもう一つの愛のストーリーがあった。

 

 

 

わたしが最初の病院に入院中

ある一人の男性がわたしのベッドを訪ねた。

 

ソーシャルワーカーだった。

 

 

ソーシャルワーカーは

わたしが健康保険を手に入れられるよう、

わたしが保険を手にするために必要な情報を受け取りに来たようだった。

 

 

入院中のわたしには渡しきれない情報が必要だったので

わたしはその人のオフィスに翌日夫を送った。

 

 

アメリカの健康保険は高くてわたしたちには払いきれないし、

 

けれども低所得者用の保険が取れるほどには

わたしたちの所得は少なくはないということで、

 

わたしたちにはそれまでずっと健康保険がなかったのだけど、

 

この医療費はとてつもなく高くつきそうだし、

なんとか健康保険が取れるといいなあと思った。

 

 

 

翌日、ソーシャルワーカーのオフィスから

わたしの病室へ戻ってきた夫は、

 

「健康保険、大丈夫そうだ」と言うと、

 

「彼(ソーシャルワーカー)は、なんていい人なんだ!」

 

・・・と、涙を流した。

 

 

彼が何をしてくれたのか具体的にきかなくても、

彼がわたしたちが保険を手にできるよう、

手を尽くしてヘルプしてくれたことがうかがえて、

 

わたしもその場で泣き出した。

 

 

前日に話した感じからも、

彼がとても優しくて思いやりの大きな

 

天使のような人だということがうかがえたから。

 

 

 

そのソーシャルワーカーはその翌々日くらいに

 

病室が変わったわたしをたまたま見かけたらしく、

 

声をかけに寄ってくれた。

 

 

わたしは

 

「ありがとう。

あなたはとってもいい人。

わたしたち二人ともあなたが大好きよ」

 

・・・と彼に言うと、彼はにっこりと優しく微笑んだ。

 

 

 

そのほかにもSloan で働いている、Jの友達のNのヘルプ

 

そして夫の多大な努力で

 

健康保険もなかった崖っぷちのわたしが

 

アメリカいちの癌専門病院、Sloan で治療を受けることになったのだ!

 

 

病院のペーパーのトランスファーなどとても大変で

一時はどうなるのかと思ったこともあったけど、

 

最終的には結構スピーディーに済んだ。

 

最初のアポイントメントが成立した時、

わたしは思わず、嬉しくて、そしてありがたくて、泣いてしまった。

 

 

さあ、でもこれから大変だ!

 

 

みんなの愛で手にできたことだから、

 

これでよくならないとね。

 

 

 

お兄ちゃん先生

 

いくつか前の記事に

 

小学生の時に大好きだった

自由人っぽい音楽の先生の話を書いたときに

 

「そういえばあの先生もいい先生だったなあ」って

思い出したもう一人の先生がいたんだ。

 

 

でもまあ、あんまりうちわの思い出話ばかりでもって思って

その先生の話はとばそうかと思ったのだけど、

 

思い出話はやはり同窓生などにはとても喜ばれる。

 

 

なので、今日はその先生の話を書こうと思う。

 

 

 

その先生、S先生は中学の体育の先生だった。

 

とはいえ、S先生は正規の先生ではなくて、

大学卒業したばかりの非常勤講師のお兄ちゃん先生だった。

 

 

爽やかで、ハンサムで、優しいS先生は女の子たちの憧れの的。

 

 

男の先生なので女子のクラスを教えることは通常なかったけれど、

 

一度女子の保健のクラスの代行をされた時は、

積極的な女の子たちはみんな前の方の席をじんどっていた。

 

 

 

わたしはおませさんのようでいて、

 

まだ男の子を好きになったりとか

そういう気持ちはわかない子供っぽい子だった。

 

 

若い男の先生はわたしも大好きだったけど

 

どちらかというと、遊んでもらいたい感覚。

 

 

 

恋するよりは、

早朝、建設中の新しい中学校に忍び込んで

中を探察しにいくような、

 

バカなことをするほうが好きだった。

 

 

 

そんなわたしは同じようなバカ友達3人で、

ある早朝、暗いうちから家を飛び出して遊びに行った。

 

 

布団の中には自分の代わりに

大きなピンクパンサーのぬいぐるみを寝かせて

 

こっそり家を出た。

 

 

 

盛り場へ行くとかではなくて、

行くのはいつも遊ぶ公園など。

 

 

誰もいない真っ暗な公園は

時間が経つとともに少しずつ明るくなっていく。

 

いつも行くのと同じ公園のはずなのに

まるで違う場所にいるみたいだった。

 

 

・・・とはいえ、そんなことをしていてもすぐに飽きてきたわたしたち

 

中の一人が「S先生の家に遊びに行こう!」といいだした。

 

 

S先生は学校の近くの団地に住んでいて、

一人の子が先生の住所を覚えていた。

 

 

 

朝、6時になるかならないかの時間に

先生の家の呼鈴を鳴らす3人の中学生。

 

 

先生はもちろんまだ寝ていたようで、

寝ぼけ顔でパジャマのまま出てきた。

 

 

普通なら「こんな時間になにしてるんだ!」と、

怒鳴られるシチュエーション。

 

 

でもS先生は文句も言わずに私たちを家に入れてくれて、

相手をしてくれた。

 

 

少しして、

「先生、おなかすいた」というわたし。

 

「ご飯しかないけど」と、

S先生はわたしたちにおにぎりをつくってくれた。

 

 

S先生はわたしたちが帰るというまで家にいさせてくれて、

 

もちろんその時のことを、決してほかの先生に言ったりはしなかった。

 

そんな馬鹿なことをしたわたしたちに説教したりすることもなかった。

 

 

その時のことを思い出すたび、

わたしはS先生はなんていい人だったのだろうと思う。

 

 

全然楽しくなく、

あまり意味もなく時間ばかりが過ぎていってたように感じていた中高生時代も

 

実は意外と愛に満たされていたのかもしれないよね。

 

 

思い出して胸が熱くなるような思い出に感謝だね💖

 

 

 

 

マイ・ハズバンド

 

わたしは若い頃かなりイケイケで、

 

セクシーな装いをして、たくさんの男性とデートしたり、

彼氏としてお付き合いした人たちとかも何人かいた。

 

 

わたしは夢を追ってふらふらしてたけど、

 

彼氏や、デートした男性たちは、

みんなそれなりにちゃんとした人たちばかりで、

 

しっかりしたキャリアを持ったジェントルマンで、

わたしをしっかりとエスコートしてくれるような人たちがほとんどだった。

 

 

甘やかされたお嬢様だったわたしはなんでも極上のものを好んだし、

 

退屈なことが大嫌いで、

いつも外へ出てなにかエキサイティングなことをしていないと気が済まなかったけど、

 

そんなわしの贅沢でわがままなニーズを満たしてくれる人たちが多かった。

 

 

 

ところが、わたしが最終的に夫に選んだ人は

 

それとは正反対のタイプの人!

 

 

父親のミュージックストアで働くミュージシャンで、

 

お金ない!

クレジットカードない!

銀行口座すら持ってない!

 

外食や娯楽のための外出など

家族ともほとんどしたことないみたいだったから、

デートで外出することも少なかったし、

 

もちろん、エンゲージリングのダイアの指輪とかも

あり得ない。

 

バケーションの旅行も。

 

 

そういうのに拍子抜けすることも

正直、確かによくあったんだけど、

 

それでも彼はほかにはいない特別な人だったから

わたしはあえて彼を選んだの。

 

 

お金のことだとか、ライフスタイルだとか、

不安はいっぱいあったけど、

 

まだ二人とも若かったし、

何とかしていけるだろうと思っていた。

 

 

 

彼がほかにはいない特別な人だと感じたのはなぜなのか?

 

 

 

彼は愛せる人なのだ!

 

そして正直なのだ!

 

 

 

「それだけ?」って思う?

 

これってできる人少ないんだよ。

 

 

わたしが付き合っていた人たちでも高価なギフトやディナーはくれても、

わたしの心には寄り添ってくれない人たちが多かった。嘘つく人も。

 

 

若くて可愛い(?!)アジアン・ガールだったわたしを

まるで自分の部屋のインテリアの一つと思っているように感じてむなしかった。

 

 

わたしが心がを満たされなくてごねると、

 

「これだけしてやってるのに、何が気に食わないんだ!」

 

・・・って怒って、夜中にわたしを家から放り出した人もいた。

 

 

あれもあげる、これもあげるって

わたしの気を引こうとする人たち。

 

「あげる」のリストが大きくなるごとに、冷めていくわたしの心。

 

 

わたしが欲しいのは「もの」じゃない!

 

 

わたしは愛と信頼が欲しいのに。

 

 

 

彼と結婚して、確かに苦労した。

 

彼は結婚後もあまり変わることなく、

私自身にもアメリカ暮らしは手におえず、

 

わたしたちは社会のルールを無視するような生き方を

いやでも続けなくてはならなかった。

 

 

ファイナンシャルの問題続き、不安の山!

 

 

やっぱり愛で結婚相手を選ぶって、

現実離れしすぎていたのかしらと思った。

 

選択を間違えて人生棒に降ったかなと思ったりもした。

 

 

 

けれども大病を患った今、

 

やっぱりわたしの選択は正しかったと確信した。

 

 

一番愛を必要とする、最も究極の状態の中で、

 

彼の愛がわたしを生かしてくれている!

 

 

愛を選んで間違いじゃなかった!

 

 

しかも、この事態になって、

彼は短時間の間にすっかり頼れる大人の男になった!

 

病院への細かな連絡

人とコネクトしながらの貴重な情報の収集

わたしの食事の支度やすべての家事

そしてわたしの心のサポート

 

すべてやってくれて、

 

わたしをまるで赤ちゃんのように丁寧に扱い、

大切にしてくれる。

 

 

 

健康なときはなかなか気づかないものだけど、

 

やっぱり人間間で一番大切なのは愛と信頼なんだよ!

 

 

 

今、わたしは彼と付き合い始めたころと同じように、

 

彼の愛の大きさに日々涙してる。

 

 

この感覚は本当にピュアで心地いい💗

 

 

 

愛がすべて・・・だよ!💖

 

 

 

愛を大きくする方法

 

癌の告知をされてから

心身ともに厳しい日々を送っているけれど、

 

それと同時に日々がビックリするほど大きな愛で満たされ始めた。💗

 

 

もちろん、わたしの病気をいろんな人たちが気にかけてくれるから

今は通常以上のアテンションを受けているということもあるけど

 

それだけではない!

 

 

癌の告知をされたことで、自分自身が突然大きく変わり、

 

それによって自分の周りに愛が流れやすくなったのだ!

 

 

 

「世界はこんなに愛でいっぱいだったのか!」

 

「自分はこんなに愛されていたのか!」

 

 

…と、マジで感じるわけだけど、

 

それは健康だった時に、わたしが感じていた

 

 

人とつながれない冷たい世界

 

自分は誰からも愛されない人間

 

 

・・・というのとは、まるっきり逆の感覚!

 

 

 

なんでこんなにまでも変わってしまったのだろう?

 

 

その理由は簡単。

 

 

病気になったことで、わたしのハートがオープンしたからだ。

 

 

それによって、愛を流すことにも、受け取ることにも

躊躇しなくなったのだ。

 

 

 

愛は本当はそこら中にある。

 

 

なぜなら人間は本当はみんな愛し、愛されたいから。

 

 

その基本的欲求が自由になるような

ハートがオープンした、優しく、柔らかく、リラックスした状態の中では

 

愛は簡単に出てくる。

 

 

 

たとえば、相手を褒める、相手にちょっと甘える

 

「ありがとう」や「ごめんなさい」を素直に表現する

 

…そういうことができるだけで人との間のエネルギーは大きく変わる!

 

 

なぜならそういうアクションの中に大きな愛があるから

それを感じた相手もあなたを愛さずにはいられなくなるから。

 

 

シンプルなことのようだけど

普段は意外とできない。

 

 

人がどう思うかばかり気にしたり、

見栄があったり、

自分のことしか考えていなかったりするからだね。

 

 

 

わたしも健康だったときはおすましさんで、

 

なんかいつも完璧な美しいお人形さんであることばかりにこだわって、

人と愛でつながるようなことができなかった。

 

人に甘えるなんて、とんでもない!

 

 

でも、今、大病をして、

 

完璧でいることができなくなり、

どうしたって人に頼らなくては ならなくなったことで

 

わたしは変わったのかもしれない。

 

 

 

褒めたり、ちょっと甘えたり、

「ありがとう」や「ごめんなさい」と言ったり、

 

それだけのことで、こんなに愛を一杯感じられるのに、

健康だったときはなんでやらなかったのだろう?

 

 

愛は幸せの鍵!

 

 

どんなに美しく完璧でも、愛がなければ幸せなど感じられないのに。

 

 

健康な時は何でもできるから、

愛にフォーカスしながら生きることができにくいかもしれないけど、

 

それをしないのは損だよ!

 

それだけで人生のクオリティーが変わるんだから!

 

 

もしもわたしにもう一度健康な人間として生きるチャンスがあったらいいな。

 

それを覚えておいて、たくさんの愛を感じながら生きてみたい。💖

 

 

 

 

 

 

何も考えられないモード

 

なんだかちょっぴりブログ書けないモードに

はまりそうな気配だった。

 

 

面白いことを思い出そうとしても

脳がその領域にいかないよう、拒否しているような・・・

 

 

今はやっぱりわたし自身が「癌と向き合う」という

とても究極な状態にいるので、

 

そもそも脳が「考える」ことを拒否している傾向が強いみたい。

 

 

考えすぎるとヤバいことになるから、

ただ流れよう・・・みたいな。

 

 

それで「シビアな領域」には入れないと同時に

 

なんだか楽しいことも考えられなくなちゃったみたい。

 

 

昨日は病院へ行ってきたんだけど、

今の現状や、これから始まっていくこと、

 

すべてが怖すぎて、

完全に脳がストップしてしまうの。

 

 

それで、この事態だというのに、

おチャラけたり、冗談言ったり、妙に冷静な振りしたり。

 

 

けれども不安や恐怖はちゃんと自分の中にあって、

 

昨日も病院についてきてくれた義父が

そろそろ行くと言ったら、

 

突然不安になって

「行かないで!」と泣き出す始末。

 

 

自分の心がとてももろくて壊れやすい状態になっていること

否めない。

 

 

もちろん、時にはとてもポジティブな気持ちになることもある。

 

けれどもそれと同時にネガティブになることもある。

 

 

強くなってると感じる部分もある。

 

それと同時にどんどん悪くなっていると感じる部分も。

 

 

まだ治療は始まっていないから、

治療が始まればよくなるかもという思いもあるけど、

 

それと同時にその治療自体がとても怖い。

 

 

どこへ向かっても不安と恐怖。

 

だからピタッと止まってしまうんだろうね。

 

 

 

今、一つ考えているのは、

もっとエクササイズ(筋トレ)をしようということ。

 

 

このコンディションだから大したことはできないけど、

 

体を動かしていると

心身ともに少し楽になる気がするから。

 

 

少しリラックスモードになれば、

また自然と楽しいこと、ブログに書きたくなるようなこと、

 

自然と出てくるに違いない。

 

 

 

 

 

イケてる音楽教師

 

最近小学生のころのことをブログに書いたりしたせいか、

 

ふと、小学校の時の音楽の先生のことを思い出した。

 

 

そもそも音楽や美術の先生って

自由な感じの人が多いから、子供にも好かれることが多いけど、

 

この O先生、かなりイケてる先生だった。

 

 

わたしたちの小学校(高三小)は新しい学校で、当時校歌がなかったんだけど、

O先生が作詞作曲した「高三マーチ」が校歌の代わりに歌われていた。

 

それがすごく良かった!

 

 

背を伸ばせみんな

大空は招く

胸を張り手を振れば

足音のこだまは高く

いけ!希望の曇の元

高三小の子

 

 

これで曲は明るいマーチなの。

 

運動会の時なども鼓笛隊が高三マーチを奏でるなか、

みんなで行進したものだった。

 

明るくて爽やかで、一般的な校歌とは違ったエネルギーで

とても好きだった。

 

 

 

このO先生、若くて自由で軽やかなので、

(お腹はちょっとポッコリしてたから、タヌキって呼ばれてたけど)

 

子供たちの大人気だった。

 

 

先生も子供が大好きで、休み時間などもよく一緒に遊んでくれた。

 

わたしもいつも先生に遊んでもらいたくてたまらなかった。

 

子供はいっぱいいるけどO先生は一人なので競争率激しかったな。

 

 

 

O先生はすごくクリエーティブで、

 

ある時、コーラス部をつくって、

オーディションをして部員の子供たちを選び、

 

自分が作詞作曲した歌を歌わせるという試みをした。

 

 

わたしもコーラス部員に選ばれた。

 

 

歌は子供の1週間を歌われたもので、

 

 

(月曜日)

 

朝目が覚めたら

おとうちゃんとおかあちゃんが喧嘩してた。

 

こんな熱い味噌汁のめるか!

と、おとうちゃんが怒鳴る

 

味噌汁は熱いに決まってます!

と、おかあちゃんがわめく

 

なんでそないに喧嘩するのやろ

喧嘩をするのが趣味なのか?

 

タイム!ストップ!ストップ!

 

まあ、まちいなおとうちゃん

まあ、まちいなおかあちゃん

 

一体全体どなんしてん

喧嘩の原因なんですねん?

それぞれ言い分ゆうてみん

僕が判定したげよう

 

タイム!ストップ!ストップ!

 

いい加減にしいな、おとうちゃん

ひつこすぎるで、おかあちゃん

ちょっと反省してちょうだい

 

おとうちゃん、おかあちゃん

 

恋愛結婚したんやろ

好きで夫婦になったんやろ

 

そやのに、そやのに、

 

喧嘩ばっかりさっぱりわけがわからへん

もっとあんじょうなんとかやっていけへんのか?

 

おとうちゃん、おかあちゃん

 

なんで僕が殴られんならんねん

 

 

 

…この歌詞、めっちゃ、イケてないですか?

 

昭和50年台の話だよ!

 

 

 

ところがこのコーラス部に入れなかったXさんのお母さんが

「うちの子はお風呂の中でまで歌の練習してたのに」と、

学校に不平を言いに来たことで、コーラス部は一時的に閉鎖!

 

 

確かにO先生は自分の好みで部員を選ぶところもあってね。(笑)

まあ、音楽家だからね。

 

でも歌ってテストで数字でバチっと結果が出るわけじゃないから

仕方ないよね。

 

 

 

面白いのは、その後このコーラス部は再開したのだけれど、

その時のO先生の解決の仕方!

 

 

ある時先生は

 

「またコーラス部を再開するので、

元のコーラス部員とXさんは明日の朝から練習に来るように」といった。

 

 

小学生のわたしでも「それって・・・」って思ったけど、

誰も何の文句も言うことなくコーラス部は再開した。

 

Xさんも嬉しそうだったし、

Xさんのお母さんもそれで満足だったみたい(笑)

 

 

そのシンプルさってよくない?!

 

 

 

(火曜日)

 

学校の帰りに子犬を拾った

お腹を透かして死にかけてる

 

家へ帰ってご飯をやったら

必死で食べて皿までなめて

キャンとないた

 

誰だ?誰だ?子犬を捨てたやつは!

 

誰だ?誰だ?鬼みたいな奴は?

 

誰だ?誰だ?悪魔みたいな奴は?

 

誰だ?誰だ?

捨てられた身になってみろ!

 

誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?

子犬の身になってみろ!

 

 

 

メロディーも紹介したいくらいなんだけど、

先生の作った歌は本当にすごくいいのよ!

 

火曜日の歌の合間には男の子の

 

「そんなやつは犬を飼うな!」

「そんなやつは動物を飼うな!」

 

ってセリフとか入ったりね。

 

(それにしてもわたしもよく覚えているなあ!)

 

 

でもこの子供の一週間、水曜日以降は練習した記憶がないの。

 

このコーラス部の歌も未完成交響曲だったのかな?(笑)

 

 

 

懐かしい思い出の一ページ

 

 

 

 

追記

 

この歌、実はO先生の創った曲ではなかったかも。

私がそう思い込んでいたんだね。(笑)

Youtubeでお友達が発見!

 

でもO先生の編曲、ピアノ、演出はYoutubeのよりよかった気がする!

懐かしい三つの時代

 

二つ前の記事、「ハイヒールはもういらない」をアップしたら、

 

幼なじみの友達がFBのほうにコメントをつけてくれた。

 

 

「小学生の頃、

他愛もないことで驚いたり笑ったりしてた

普通の子だった時代が幸せだったなって思う。

 

でも人って変わりたいと思って

努力して、疲れて、また頑張っての繰り返しだね。

 

でも本当のわたしたちはあの小学校の頃のままかも。」

 

 

幼なじみのコメントには

そんなようなことがかかれていたんだけど、

 

本当にその通りかもと思った。

 

 

 

多くの人たちがもっとよくなりたくて頑張る。

 

 

で、頑張りすぎると疲れる。

 

で、また疲れが取れたら頑張る。

 

 

・・・そんな繰り返し。

 

 

それで人生もアップダウンする。

 

 

誰もに思い出してハッピーになる時代と、

そうでもない時代があるんじゃないかなあ。

 

 

 

あなたにとって、思い出してハッピーになる、懐かしい時代っていつ?

 

 

 

わたしにはそんな時代が三つある。

 

 

 

一つはこのコメントをつけてくれた友達 H ちゃんとよく一緒に遊んだ

小学校5、6年生のころ。

 

 

それ以前はおとなしくて目立たなかったわたしだったけど、

 

なぜかこの2年間はみんなの意識にとまった時代で、

そのせいか友達も面白い子たちが多かった。

 

 

目立たず、誰の目にも止まらないでいるよりも、

 

人から注目され、素敵だと思われていると、

やっぱり気分がいいものだったね。

 

 

H ちゃんは目がパッチリしてて、ちょっとぽっちゃりしてて、

いつも半ズボンはいてボーイッシュな感じで、

 

わたしはちびでツインテールでちょこちょこしてた。

 

 

わたしたちはいたずらばかりしてたけど、

この H ちゃんともいいコンビだった。

 

 

今でも二人で手をつないで歩いてる光景が浮かんできて、

懐かしくてたまらない。

 

 

また、この時代はもう一人、

わたしにとっての重要人物、M ちゃんと知り合った時代でもあり

 

小学校時代唯一の

楽しい思い出や、ポジティブなイメージがいっぱい詰まった時代。💗

 

 

 

次の懐かしい時代は大学時代。

 

 

中高生の頃、わたしは本当にさえなかった。

 

 

でも大学へ入ってからわたしのイメージ、エネルギーは一変した!

 

 

まず、外見的に可愛かった。

 

・・・って、自分でいうのはバカみたいだけど(笑)

 

 

ただそれだけのことで人はちやほやしてくれたから、

それはもう、自信過剰でやりたい放題だった。

 

 

・・・などといえば可愛げのない小娘のようだけど、

おちゃらけた性格だったので結構みんなから可愛がられた。

 

 

自信過剰なんてポジティブなイメージではないけど、

 

その根拠のない自信が原動力になって、

とても活動的、積極的に動けたし、

 

当時は社交上手で友達もたくさんいた。

 

男の人にもすごくもてた(笑)

 

 

この時代の自分のエネルギーはすごく好きだった。

 

でも、この時代は楽しい思い出もたくさんあるけど、

人に迷惑かけたことも多かったな(笑)

 

 

 

そして三つ目は渡米してから最初の5年くらいの間。

 

 

この頃は新しい世界に飛び込んでいった時代だったからね。

 

すべてが新鮮でまるで子供に戻ったような気分だった。

 

 

異国の地で自分の力を発揮するには、

ちょっと度胸よくなって、自分をプッシュするくらいの勢いが必要だったから、

この頃はフルに生きてたって感じがするなあ。

 

 

ダンスなどを通して、いろんなことをしたし、

いろんな人たちと知り合ったし、

 

たくさんのアメリカ人男性とデートもした(笑)

 

 

夫と出会ってどーんと恋に堕ちたのもこの時期。

 

今思えばすべてがドラマチックだった💖

 

 

 

この三つの時代は特に自分にとってインパクトの大きな時代。

 

どうもやっぱりエネルギーレベルが高く、活発に動けた時代、

そして人が自分にちやほやしてくれた時代が好きみたいね(笑)

 

 

でも、それ以外の時代にも

いいこと、面白いこと、ユニークなこと、たくさん経験してきたし、

 

素敵な出会い、出来事もたくさん、たくさんあった。

 

 

…そんなふうに気づくと、冴えないと思ってたわたしの人生、

決してそうじゃなかったと気づかされる。

 

 

ふらふら楽しいことばかり追いかけてた人生だけど、愛がいっぱい!

 

 

改めてわたしと出会ってくれたすべての人たちに感謝したい気分!

 

 

みんな、本当にありがとう!💖

 

 

ダンスとわたし

 

人間誰もに大好きなことがあったりするものだけど、

 

わたしにとっての大好きなことは、

 

他の何でもないダンス!

 

 

 

そもそもわたしと同年代の昭和の日本人女子は

ダンスに憧れる人が多かったけど

 

わたし自身もそんな一人だった。

 

 

 

もともと性格的にはダンサー的ではなかった。

 

 

子供の時に習いに行かされたモダンバレエ。

 

嫌いではなかったけど、女の子たちの波動がきつくて

心地悪かった。

 

 

塾へ行くことを理由にバレエをやめたときはちょっとほっとした。

 

 

 

大学に入って、モダンダンス部に入った。

 

 

うまい子を見て、わたしももっとうまくなりたいと思って、

クラシックバレエを習い始めた。

 

 

ところがそのクラシックバレエが面白すぎて、

そっちにどんどんはまっていってしまった。

 

 

 

3、4年後にはパ・ド・ドゥを踊ったり、

外の舞台の端っこに出させてもらったり、

ティーチングもするようになった。

 

 

以前から憧れていたタップも少し習った。

 

日本バレエ協会の公演だとか、たくさんのパフォーマンスに参加して、

クラシックバレエ、モダン(コンテンポラリー)ジャズ、タップなどを踊った。

 

 

 

そして1992年に1か月ちょっと、初めて一人でニューヨークへ行き、

魅了されたわたしは、2年後、1994年に学生ビザを取って渡米した。

 

 

ニューヨークではいろんなスタジオへ行き、

いろんな先生のいろんなクラスをとったけど、

 

メインにしていたのはニューヨーク・バレエ・インスティテュートという

ロシア人の先生のスタジオで、

 

付属のイリヤ・ガフト・ダンスシアターというカンパニーで踊った。

 

 

眠りの森の美女の3幕の赤ずきんはわたしのレパートリーで、

とても背の高いウクライナ人男性とコンビを組んで踊った。

 

 

そこでは親友の日本人女性と出会い、

 

その後、彼女と二人でパフォーマンスを創ったけれど、

 

指導にはあの世界のプリマドンナだった

エバ・エブドキモワを交えるという豪華さだった。

 

 

 

ところがその後、

ニューヨークでダンスでやっていく道を見つけることのできなかったわたしは

 

ダンスをやめてしまったのだった。

 

 

 

「自分のダンサー時代は終わった」

 

そう無理やり納得しようとし続けてきたけれど、

 

舞台やリハーサルの夢ばかり見ていた。

 

 

 

「もう一度踊ろう!」

 

 

そう強く思って踊りに復帰したのはそれから15年近くも経ってから。

 

実は今からたったの一年半前。

 

 

 

わたしは引っ越し先の近所にあった

ニエベス・ラテンダンス・スタジオの門をたたいたのだった。

 

 

それが大当たりだった!

 

わたしはそこでたくさん踊り、パフォーマンスに出演し、たくさんの仲間を作った。

 

 

自分よりはずっとずっと若い人たちがほとんど。

 

スタジオのオーナーのニエベス自体がまだ30代半ばで

わたしより15歳以上も若い!

 

でも不思議と違和感なくとても楽しく踊れた。

 

 

 

わたしは結構踊れたし、とにかく休まずにクラスやリハーサルにもくるし。

 

また、わたしはラテンダンサーには珍しい軽量なので、

空中に投げ上げたりの大技にも使えるからか、

 

去年2019年の終わりごろ、

スタジオのダンスチームに入らないかとニエベスに言われた。

 

 

あれはわたしにとって人生で最も幸せな一瞬だった。

 

わたしは「もちろん!」といって、嬉しくて思わずニエベスに抱きついた。

 

 

 

悲しいことにわたしの夢はかなわなかった。

 

癌を患ってしまって、踊ることができなくなってしまったから。

 

 

もしも奇跡が起こって、また踊れるようになったら、

 

若者たちにポーンと空中に投げ上げてもらいたい。

 

 

すごく気持ちいいだろうなあ・・・💗