剣竿一如 -3ページ目

鍛錬

 6月24日の左肺と左背筋の手術から3日間、ろくに歩いていなかったので、またもや足が萎えて、ニワトリの足のようになってしまった。このままでは7月1日の敵本陣本丸への突入で、二日三日は寝たきりになるだろうから、さらに足萎えになってしまう。
 
 手術明け初日の一昨日から自立訓練を開始し、昨日には自立歩行の練習を開始。今日から本格的に、歩行訓練を開始だ。ベッド昇降はすでに完璧。切除した脊柱起立筋に負担のかからぬように、前傾姿勢をとらず、背筋を伸ばしたまま、太腿の大腿四頭筋で立ち上がり、座る。歩くときも、化学療法の副作用で、足裏では重心移動の変化が感知できないので、太腿にかかる負荷で重心移動を感知して、腰でバランスをとって歩く。

 文章にすると大変そうだが、人間ってなぁウマイ具合に出来ていて、筋肉や骨、神経に障害が起きても、一カ所やそこらなら、周辺の筋肉や器官、組織がカバーしてくれるそうだ。リハビリを諦めちゃいけないのだ。気合いだとか根性なんて、カビの生えた精神論や抽象論ではなく、ちゃんと道理と裏付けがあるのだよ。

 そんなワケで、痛くても、ツラくても、投げ出したらダメなんですよ、ってな説教がましい事を書いてみましたよ、ってお話でした。

 有言実行、今日はすでに2000歩以上歩いてますよ、っと、アイタァ~ッ!

苦闘

 ←「戦慄」の続き

 実はあまりの苦痛に、眠っている間に息が止まってくれた方が、良いとさえ思っていた。
 「息が止まっちゃうんだって」
折れかけた気持ちを現実に引き戻してくれたのは、家内の声だった。

 激しい痛みは相変わらずだが、生への執着心に火が点いた。
 「くそぅ、見苦しい! 格好つけたいンだけど、我慢する限度を超えてるンだ。ウググゥ……」
酸素マスク越しの苦鳴の下で、家内に言い訳がましいセリフを口にする。これが精一杯の虚勢だった。しばらくすると、自分について看護実習を行っている、看護学生のYさんが 「大変な手術、お疲れさまでした」 と、声をかけてくれたような気がするが、若いお嬢さんを前にしても、スカしたセリフのひとつもでなかった。

 手術開始は1時間押しの午後1時からだったが、所要時間は予定より1時間短い、3時間だった。自分には永遠とも思える、恐怖と激痛に苛まれる、地獄の悪夢みたいな3時間でしたよ、ってお話でした。

 まぁ、この手術当日から二日二晩、痛みに眠れぬ夜を過ごす事になるのだが、よくある話なので気が向いたら書くかもしれなかったり、しなかったり……(笑)。

戦慄

 6月24日の左肺新発病巣と左背筋内肉腫の手術は、予想をはるかに超えた大苦戦となった。昨年受けた右肺中葉切除手術とは、比較にならない痛みはもちろんだが、手術中にとんでもない事態に見舞われたのだ。

 それは、手術中に意識が戻ると言う、信じられない事態だった。麻酔による幻覚ではない。先生方の声がはっきりと聞こえ、今もちゃんとおぼえている。

 「よし、いくよ!」
の声と共に、ドサリと身体を転がされた。左背筋内肉腫の切除摘出手術が始まるのだ。
 「待ってくれ! 意識があるんだ、やめてくれ!」
必死に心の中で叫ぶが、声も出ないし、口も動かせない。

 全身に戦慄が走り、例えようのない絶望感に包まれる。かろうじて指先が動かせた! 祈るような気持ちで指先でモールス信号のSOSを打つ。気付いてもらえない。なんとか眼球が動かせた。が、まぶたは開かない。まぶたの内側で動かすも、やはり無駄か……、と思った時、
 「まぶたが動いてます」
と声が聞こえた。しかし、何か無意識の反射だと片付けられて、手術は続行。やはり無駄だった……。痛みはともかく、例えようのない恐怖と絶望感に、心が押し潰されていく。

 ツツーッ、ゾブリ、ゾブリ、と己の肉が切られ、抉られていく感触。凄まじい恐怖。意識を失ってしまいたいが、明瞭なままだ。苦悶しながら耐えているうちに、手術は終了。覚醒させられると、耐えようのない激痛が襲ってきた。

 気管挿管を手術室で抜かれ、おかしいと思っていたら、手術台から普通のベッドに移された。執刀医のM山先生の、「意識ははっきりしてるね」の声が聞こえたが、激痛に物も言えない。

緊急入院の重篤患者が出たらしく、ICUにもHCUにも運ばれず、今朝までいた外科病棟の個室にはこばれた。激しい痛みに、流石のナルシストオヤジも呻き続け、喘ぐ事しかできない。白い鎮痛剤の点滴が終わっても、まだ痛がっているようなら、沈痛麻酔薬のソセゴンに、精神安定剤のセルシンを混ぜて点滴投与指示を、M山先生が出している。どちらだったか忘れてしまったが、片方は半分量に、との指示に、思わず、
 「半分じゃダメ! 全部入れて!」
と、よけいな口を挟んでしまった。
 「全部入れたら、眠り込んじゃうよ」
「眠っちゃっていいです」
「これで眠ってしまうと、息が止まっちゃうけど?」
「……、そうですか」→続く

作法

 ついに手術当日を迎えたのだが、気が昂ぶって3時半頃に目が覚めてしまった。まんじりともせずにベッドでジッとしていたのだが、どうにも寝つかれず、起きてしまう事にした。手術開始予定時刻の正午まで、まだまだ時間があるので、チョイとD病院で手術を受ける際の作法を記しておこう。

 どこの病院でもそうだが、手術の前には様々なしきたりがあり、何一つとして蔑ろ(ないがしろ)にはできない。患者の取り違えや、手術部位の間違いが起きたら大変だからね。手術前日には手術部位周辺の除毛。自分の場合、左腋全体と左臀部上部から左腰周辺までをカミソリで丁寧に剃っておいた。そして寝る前に下剤と睡眠剤を服用。

 当日朝はいつも通りに午前6時に起床。7時にはオペ着に着替え、その後7時半に浣腸。5分くらい我慢するように言われるが、1分半が限度だね。出たモノは流さず、看護師さんに確認してもらう。8時半には研修医の先生が、点滴の留置針を刺しに来て、二回は失敗して患者に睨み付けられ、大汗をかいて先輩医師に替わってもらったりするワケだ(笑)。患者や手術の内容によっては、補液の生理食塩水やリンゲル液の他に、予備麻酔の軽い安定剤を点滴投与。午前11時過ぎには肺血栓症(いわゆるエコノミー症候群ね)予防のために弾性ストッキング着用。コレで足首周辺から足先を強く圧迫して、足静脈の拡張と血液の滞留を防ぐワケだ。ただし、自分は弾性ストッキングで皮膚がかぶれてしまうため、伸縮包帯をきつく巻いてもらうことになっている。

 これらの準備を済ませたら、手術時刻を待ち、いよいよ手術室へと向かう。D病院では歩ける患者は、看護師に付き添われて歩いて手術室へ。手術室の大木戸(実際は二重扉の最初の自動ドア)をくぐったら、ここで渡世人張りの仁義を切る(笑)。
 「お控えなすって!」
 「お控えなすって!」
 「お控えなすって!」
 「お控えなすって!」
  (※最初の挨拶は二度切り交わしてから、口上を述べるのが渡世人のしきたり)
 「早速のお控え、ありがとうござんす」
 「ありがとうござんす。お客人、御名をお聞かせくだせェ」
 「手前、生国は尾張国知多郡の産にて、居眠釣四郎と発します」
 「生国は不要でござんすが、承りやした。して、生まれの年月日は?」
 「昭和○○年○月○○日でござんす」
 「で、本日お運びの御用向きは?」
 「左肺と左背筋内に蔓延りたる腫瘍の摘出に罷り越しました」
 「しかと賜りやした。本日ご予定のお客人に間違いございやせん」
 「ありがとうござんす」
 「ささ、どうぞお通りくだすって」

 こうして屋敷(手術室)へと通されて、ここでまた人定め。
 「お客人、腕の証文切手(ネームバンド)を改めさしていただきやす」
 「こちらでござんす、どうぞ存分にご検分くだせェ」
  (※IDの登録されたバーコードをリーダーでピッ!)
 「ご無礼いたしやした。お客人に相違ございやせん。ありがとうござんす。
  ささ、ズィと奥へお入りンなってくだせェやし」
 「ありがとうございやす」
 「どうぞコチラの寝台にて横におなりになってくだせェ」
 「さればお言葉に甘え、横ンならして頂きやしょう」
ってな段取りで、手術台にのっかるワケだ。

 これが済むと手術室の看護師さんが酸素マスクを付けてくれて、麻酔医の先生が点滴を通して麻酔薬を注入。
 「お客人、ようと眠れるお薬を落としやす」
 「お頼み申します」
 「へい、では眠とぅなりやす」

 グッスリと眠り込んだのを確認して、執刀医の先生による手術開始。ここで、どんな手術が行われているのかは、患者の自分にはわからない(当たり前)。眠っている間にICUに運ばれ、そこで何度も名前を呼ばれ、麻酔から醒めさせらる。
 「お客人、お客人。起きてくだせェ。無事に終わりやしてござんすよ!」
 「う……、ぅぐふわ?」 
 (※物干竿くらいの太さの気管内挿管が入っているので、非常に苦しい)
 「今、気管の管を抜いて差し上げやすから、すぐに楽になりやすよ」
 「う……ぐ、ぐぅえッ!」 (楽になる)
 「モニターやドレーンの管が刺さってやすから、まだ動いちゃなりやせんぜ」
 「承知……しやした……」
 「痛みがひどいようでやしたら、遠慮無く仰せつけてくだせェ」
 「ありがとう……ござんす」

 ってなワケで、無事に手術は完了。この後は術後の傷の痛みとの闘いだ。

 さて、書くだけ書いたら気の昂ぶりも治まってきた。昨夜看護師さんに頼み込んで許可をもらった、手術前最後のシャワーでも浴びてきますかね。覚悟が決まり、肝が据われば、手術当日の朝でもブログを更新し、一ッ風呂浴びる余裕まであるモンですよ、ってお話でした。ICUに一泊した後、ストレッチャーか車椅子で病棟のHCU(ハイケア病床)個室に運ばれ、ある程度痛みが引き、容態が安定するまでお泊まり。ま、よほどの重篤患者でもない限り、一泊か二泊三日だね。

 ウォラァ~、命懸けで頑張ってくるぜぃッ! 鋭、鋭、応!(三回繰り返し)

疾走

 いよいよ明後日が左肺腫瘍と左背筋内肉腫の手術なんだが、執刀医のM山先生から、「日常生活や執筆活動には不自由はしないけれど、仮面ライダーとかアクションの世界は無理です」 と宣告されている。まぁね、年も年だし、ほぼ引退状態だったし、この病気に罹ってから何のトレーニングもしてないから、諦めはつく……ってモンなんだが、先輩であり師匠である伊藤久二康さんと交わしていた、現場復帰の約束は守れなくなってしまった。リハビリを頑張り、久二康さんの指導でトレーニングを積めば、バック宙やバック転くらいは楽勝だと思っていたンだけどね。もう、二度と跳べない、変身できないと思うと、チト淋しい。いや、メッチャクチャ淋しい。

 思えば5歳の頃、ウルトラマン、ウルトラセブンに憧れ、10歳の頃には仮面ライダーに感激し、「いつかウルトラマン、仮面ライダーになりたい!」 と夢見たンだが、その夢は叶った。そして11歳の頃から釣りにハマり、「いつか釣り雑誌や新聞に記事が書ける、いっぱしの釣り師になりたい」 と願った。コレは小学校の卒業文集にも書いてある。この願いも叶い、釣り情報誌2誌に連載を持ち、スポーツ新聞や夕刊紙から寄稿依頼が来る様になった。40歳の頃、「お国のお役に立つような記事を書いてみたい」 と漠然とした思いを持っていたら、国交省関連の機関誌にコラムを書くようになれた。

 こうして己が人生を顧みれば、なんとも運の良い、願えば叶う幸運に恵まれた人生を歩んできたワケだ。普通、ウルトラマンだの仮面ライダーだの戦隊ヒーローだの、なろうと夢見てなれるモンじゃないよ。子供の頃の夢、で終わっちゃうわな。いっぱしの釣り師つったって、釣りマニア、ディープな釣り好きで行き止まりだよ。せいぜい釣り情報誌紙に釣行記を投稿して、採用されればラッキーってなレベルでしょう。それが自分は一度も投稿した事はない。釣行記やコラムは執筆依頼、寄稿依頼を受けて書く、連載記事は自分で企画を持ち込んで書く、ってな恵まれた環境を手に入れてきた。本当に幸せな男なのだよ。

 今現在はどうなんだ、って? それがだね、「毎日ゴロゴロ寝て暮らしたい。昼間ッから寝てても金が入ってくりゃいいのになァ……」 なんて考えていたら、叶っちまったよ。多種併発、多臓器転移の末期ガンで8ヶ月も入院して、毎日ゴロゴロしてても誰にも叱られない、むしろジッと寝てろと言われる身分になった。金はガン保険が入ってくる。元気に働いていた頃よりも、はるかに収入が増えちゃった。しかも夢の非課税だぜ。もうね、形はどうあれ、願ったり叶ったりなワケだ。

 次々と発症するガンにも、あの手この手で対応してくださる医療スタッフに囲まれ、家内には毎日、献身的な介護をしてもらい、みなさんからはお見舞いや応援の電話、メッセージ、メールを頂戴し、実に幸せな日々を送ってます。こんな幸せな身の上で、何の不満がありましょうや。てか、今すぐ死んじゃったとしても、変身できなくなって淋しいくらいで、何の未練もない50年を駆け抜けた、まさしく、「我が生涯に一片の悔いなし!」 ですよ、ってお話でした。

 うっしゃ、我が身の幸せを噛み締めながら、明後日の決戦第一陣、来週の第二陣を闘ってくるかァ~! 心の奥で陣触れ太鼓とホラ貝が鳴っておるわ。って、抗ガン剤の副作用による耳鳴りか(笑)。

決戦

 またしても更新が滞ってしまっていたンだが、抗ガン剤の副作用による手足の痺れ・麻痺がひどくて、それどころじゃなかった。リハビリを開始した今も、お箸は使えない、字は書けない、歩くのはペタペタとペンギン歩きでかっこ悪いったらありゃしない。まぁ、全く歩けなかった一頃に比べれば、かなりマシになったけどね。磯・投げ情報の連載原稿も入稿を済ませた。まったく、売文屋の鑑だよなぁ。

 で、なんで手指がろくに動かせないのに入稿を急いだかと言うと、実は来週末に左肺の新発病巣と、再来週末に右肺心臓脇の腫瘍の切除手術を二週連続で行う事になったから。左肺の新発病巣は4月の検査で見つかったンだが、抗ガン剤が効いていない。右肺心臓脇の病巣は半年以上も頑固に居座っているンだが、手術で取れるそうなので、この際バッサリと切り取っちゃおうって事です。外科的に切っちゃう分には、副作用に悩まされる事はないからね。

 まだ決戦の日時は決定していないンだが、まずは物見として水曜日に名古屋ポジトロンセンターで転移病巣が無いか全身チェックのPET検査を受けてくる。この検査は昨年秋にも受けたンだが、ガンがあれば脳と膀胱以外はバッチリわかる。昨年秋の検査では、虫垂ガンと左背筋の肉腫が見つけられた。で、全身の転移状況がわかったところで、来週末くらいに決戦の第一陣となるわけだ。

※その後、左肺の新発病巣の手術と同時に、左背筋内の肉腫も切除摘出することになった。二週連続では身体への負担が大きすぎるので、回復状況を見ながら、二週間の間を開けて第二陣の手術を行う事に決定した。第一陣の手術は6月24日(金)。

 決戦の総大将はM山先生。もうすでに二度も手術をして頂いているので、安心してお任せできるんだが、手術の成否とか、そんな事は別として、手術ってェのは ”生物の本能として” 怖い。それも短期間に連続で手術だよ? しかも体力だって万全とは言い難い状況だもの、怖ェの怖くねェのって、いろんなトコが縮み上がっちまうくらい怖ェよ。手術後三ヶ月は咳をしても痛むし、半年くらいは肋間神経痛に悩まされるンだよなァ。今、味わっている抗ガン剤の副作用による不快感よりはマシ……じゃねェッ! 痛ェもんは痛ェし、それはまた抗ガン剤の副作用とは別のツラさだかンね。

 あ、「神は乗り越えられる試練しか与えない」 なんて無責任で根拠の無い励ましはいりません。慈悲深い神仏は人間に試練なんて与えませんから。試練だの困難だのは、神仏を騙った鬼や悪魔の仕業に決まってます。神仏への代参、お参りも不要です。むしろ 「眠釣よ、しっかりと闘って、元気になって戻ってこい!」 と、みなさんの強い念を送ってくださいね、ってお願いでした。

麻痺

 5月になって初めての日記なんだが、4月26日~5月1日までの6日間受けた抗ガン剤治療第六クールの副作用で、指先が痛み、手足が痺れて、更新どころじゃありませんでした。いつもご覧下さっている皆さん、ご心配をお掛けして申し訳ない。ガン性疼痛緩和鎮痛剤のトラマールのおかげで、指先の痛みはいくらか治まっているが、今も手足に痺れと麻痺があって、文字も書けなきゃ、お箸もうまく使えないし、キーボードもマウスもうまく扱えません(泣)。歩行もステッキ無しじゃ無理で、もうヨタヨタのブラブラ……。もちろん、激しい耳鳴りと難聴も続いており、お年寄りやハンディキャッパーの皆さんのご苦労を、我が身の事として理解できた。

 そんなヨタヨタのブラブラ状態でも、人間ってのは気組みや心持ち次第で日々を明るく過ごしていけるモンで、ヒィヒィ言いながらも歩行練習をしたり、連載原稿を打ち込んだりしちゃってます。手前味噌に過ぎる話で恐縮なんだが、自分がこんなに心強き人間だとは思わなんだなァ。まぁ、まったくヘコまなかったかと言うと、いささかヘコみはしたんだが、落ち込んだり、自棄を起こしたり、癇癪を起こしたりはしていない。手足の痺れがひどくて、ベッドから起き上がる気になれない日もあるが、挫けたり諦めたりはしていない。

 何がモチベーションの源になっているのか、自分でもよくわからないが、医療スタッフの皆さんのお力添えや、家内の献身的な介護、お見舞いに来てくださったり、電話やメールで励ましてくださる皆さんへの感謝と報恩の思いが自分を支えているんだと思います。こんなボロボロの状態にならないと、自分の身の幸せが理解できない眠釣ってなァ、とんでもない大馬鹿者ですね、ってお話でした。

 ご心配、ご声援くだすっている皆々様、ありがとう存じます。手足の麻痺にも負けず、まだまだ元気を失わずに闘っておりますので、これからもよろしくお願い申し上げ奉ります。

艾年

順調

 薬剤を替えての抗ガン剤治療第六クール二日目。前々日に刺した点滴が漏れ始めてしまった。抗ガン剤が漏れたら大変な事になる。組織が壊疽してしまうのだ。当然、点滴は刺し替え。しめたッ! 刺し替えの合間にシャワー浴びてこよう。「この隙にシャワー浴びたい!」と頼み込むとOKが出た。10時半、2日ぶりのシャワー。気持ちィ~。

 11時15分、点滴を刺し替え。11時20分、生理食塩水にアスパラギン酸カリウムの24時間点滴と共に、抗ガン剤イホマイドの副作用(出血性膀胱炎,排尿障害等)抑制剤ウロミテキサンを点滴前投与。5分ほどでタターと注入。続いて抗ガン剤イホマイドを3時間掛けて点滴投与。イホマイドの投与終了30分前、14時20分に制吐剤のイメンドカプセルを経口投与。イホマイド投与完了後、15時25分抗ガン剤シスプラチン点滴投与。18時10分、シスプラチン投与完了後、、利尿剤ラシックスを5分ほどで点滴投与。18時20分、続いて副作用抑制剤ウロミテキサンの追加投与。やれやれ、コレで一段落。後は補液の生理食塩水にアスパラギン酸カリウムの24時間点滴補液と、22時30分に副作用抑制剤ウロミテキサンの追加投与。

 これで本日の抗ガン剤治療完了。で、これと同じメニューの治療が5月1日までまで続く。う~ん、キツイなァ。どんな副作用が、いつから、どの程度出てくるのやら……。ノーダメージはあり得ない。脱毛は確定的だが、すでに一度経験しているので問題なし。やはり手足の痺れと、味覚障害などの神経障害と、造血機能の低下を引き起こす骨髄抑制が怖い。それと何よりも、シスプラチンによる永続的な難聴、聴覚障害が増強されてしまう危険性が極めて高い。それでも、真っ向から受け止めて耐え抜かないと死んでしまうからなァ。

 ともあれ、抗ガン剤治療第六クール2日目も、さしたる副作用も無く、順調に乗り越えられましたよ、ってお話でした。つまんねェ日記でごめんなさいよ。自分の療養記録として書き留めてるモンで、読み手の事なんざ、屁ほども考えて無ェンでね。

再開

 抗ガン剤治療再開で、昨日の午後から24時間の前補液ソルデム3Aの点滴投与、昨夜はアレルギー対策薬の前投与、今日は午前11時頃から制吐剤カイトリル点滴投与に続いて胃薬のガスターを点滴、昼食後にアレルギー対策の経口前投薬レスタミンを5錠飲み、午後から本番の抗ガン剤タキソール点滴投与。今日から6日間の抗ガン剤集中投与ってなスケジュール。う~ん、キツイ治療になるかもしれないけど、シッカリ受け止めないと死ぬしかないからなぁ。

 不安感は全くないけど、またしても運動制限(行動制限)でベッド上安静が続き、身体が萎えてしまうのがイヤだなぁ。足はヒョロヒョロになり、歩けばヨロヨロ、立ち上がるのもツライ状態になる。おまけに副作用の末梢神経障害が起き、手足の先が痺れる。これがまた、電気系のビリビリや炭酸系のシュワシュワと違い、紙をユックリと破る時のビリビリ感に似た痛みを伴う痺れなのだよ。これが実に不快なんだな。寝てても起きてもビリビリ、ジリジリしてンですよ。痺れがひどくなって、もう1ヶ月になるけど、慣れる事ができないなァ。この痺れがタキソールによって、さらにキツくなるかもしれない、と宣告されているのだよ。怖ェ~の怖くねェのって、怖ェったらありゃしねぇ。

 午後1時半、抗ガン剤タキソールの点滴投与開始。3時間掛けて落としていくんだけど、副作用がいつ出てくるのかドキドキですよ、ってお話でした。すぐに出るのか、数日後に出るのか、数週間後に出るのか……。怖ェな~。(´・ω・`)