流離の翻訳者 果てしなき旅路

流離の翻訳者 果てしなき旅路

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴15年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な独り旅を継続中

以前の母の部屋を、畳をフローリングにするなど洋間風にリフォームして自分の寝室として使っている。母が使っていたベッドで寝ているがなかなか寝心地が良い。

 

朝方によく夢を見るようだ。夢から覚めるといつも朝の白い日差しが見える。夢は昔働いた会社のものが多い。複数の会社の同僚たちが混じり合って登場する。不思議な話だ。

 

 

目が覚めた後もすぐにはベッドを離れない。ここからの微睡(まどろみ)がまた心地よい。30分くらいあっという間に過ぎてしまう。家内が台所で何か始めた音が聞こえる。ようやく「さあ、起きるか!」となって動き出す。毎朝こんな感じだ。

 

 

「♪~サイレンかすかに遠くから響いて夜の帳(とばり)の幕引き係~♪」

 

上記は宇崎竜童さんの「身も心も」という曲の一部だが、「夜の帳」。阿木燿子さんの歌詞がカッコいい。

 

「帷・帳(とばり)」とは、「室内に垂れさげて、室内を隔てるのに用いる布帛(ふはく)。垂れ衣。垂れ布。」をいう(広辞苑)

 

本来的な意味での「帳(とばり)」だが、コロナ禍の余波で、今でも座席間にパーティション(仕切り)をしている飲食店をよく見かける。「帳(とばり)」も随分と無粋なものになってしまったように思われる。

 

さて、この「帷・帳」を英訳するとしたらどうするか?ストレートに訳せば、やはり curtainか?

 

朝の微睡の中で、そんなことを考えた。

 

 

(問題)

次の日本文の下線部を英語に訳せ。

 

われわれの知る世界地図において、すくなくとも人類の生活可能な地域については、ほぼ19世紀終わりまでに、すべての神秘の帷(とばり)は剥ぎ取られてしまったといってよい。海岸線という海岸線は、幾多大航海者の輩出によって、確実に跡づけられ、アフリカや中央アジアの内部まで、つぎつぎと明るみにだされた。

*中野好夫「世界最悪の旅」

(東京大学・1993年)

 

 

(拙・和文英訳)

On the world map as far as we know, it can be said that most of the curtains hiding mysteries in the areas at least where human beings could live had been ripped off by the end of the 19th century. Further, all the coastlines have been surely traced by the emergence of many great navigators, and the areas down to the inland of Africa and Central Asia have been exposed to light one after another.

 

これまで、アマゾンのマーケットプレイスで専門書などの古書をよく買ってきた。そんな古書の中に時折り、「書き込み」を見つけることがある。

 

 

専門書などについては本来、傍線を引いたり書き込みをしたりして読むのが当たり前、だと思ってきた。従って、自分が読んだ専門書はそれなりに汚れてくるし愛着も湧いてくる。そんな本を古本屋に売ることもなければ、まあ先方も買い取ってはくれない。

 

そのような本は、普通は本棚の中で朽ちてゆき、参照価値が無くなった時点で処分(廃棄)される。今はそんな時代だ。

 

 

だが、私が学生の頃は「書き込み」がある古書も数多く売られていた。特に、大学の授業のテキストに指定されているものにはそんな古書が多かった。古本屋を巡って少しでも安くテキストを手に入れようとしていた頃を思い出す。

 

卒業前に、思い出に残らない本はすべて古本屋に売却した。読めなかった専門書が多かったことを今でも後悔している。

 

 

以下の、大阪大学/外国語学部の英作文の問題は、「書き込み」をした本を売却することをテーマとしている。やはり愛着がある本は売却すべきではない。

 

 

(問題)

次の日本文の下線部(1)~(3)の意味を英語で表しなさい。

 

(1)書き込みをした本を売り払ったときは、しばらくすると気になる。私の場合、決まってそうだ。(2)今となってその書き込みが貴重に思われるとか、その本を手放したことで、取り返しのつかないことをしてしまったとか、という後悔とは違う。(3)過去をなつかしむ気持ちもいくらかはある。が、それよりも、見知らぬ人のもとに自分の一部を置き忘れたような落ち着かなさを感じるのだ。まさに「恥じらいと親近感の混じり合った複雑な気持ち」である。

(中村明『現代名文案内』)

(大阪大学/外国語学部・2010年)

 

 

(拙・和文英訳)

(1) If you sell off a book that you took notes in, you may feel uneasy after a while. In my case, I always feel as such. (2) This feeling is different from the regret that those notes seem precious now, or that I have done something irreparable by selling off the book. (3) I still have some feeling of nostalgia for the past. However, instead, I feel a feeling of restlessness, as if I have left a part of myself somewhere in the presence of a stranger. It is just like “a mixed feeling of shame and familiarity.”

 

先日、雨の晴れ間を縫って藤の花を見に行ってきた。市内の「吉祥寺(きっしょうじ)」という藤の名所である。ここには初めて来た。

 

紫の花は既に終わっていたが、白とピンクの花が見頃だった。白い藤の花にはそこはかとない気高さ感じられた。境内で売られていた藤の香のソフトクリームがなかなか美味しかった。

 

 

 

 

 

外出するときにいつも感じるのだが、女性は化粧など含めて出掛ける準備に何かと時間が掛かるようだ。

 

いつも「あと5分待って!」などと言われるが、それが大抵10分になり20分になる。それでいて、いざ車を発進させると「これを忘れた!あれを忘れた!」などと言い始める。まことに困ったものである。

 

以下は、そんな「化粧」が基本的な人類の特徴の一つである、と考える東大の英作文の問題である。あらためて「そうなのか?」と思ってしまう。

 

 

(問題)

次の日本文の下線部を英語に訳せ。

 

人類には、おそらく、生活の中に多少の閑(ひま)の時間を見出した前史時代から、生まれながらの顔に対して化粧をほどこすという風習があった。これは、他のいかなる動物にも見られないことである。二本足で立って歩くとか、言語を話すというのと同じような、基本的な人類の特徴だろう。

(東京大学・1997年)

 

 

(拙・和文英訳)

Probably, human beings have had a custom of applying makeup to their natural faces since the prehistoric times, when they found some free time in their lives. This custom is not found in any other animals. It may be one of basic characteristics of human beings, just like walking on two legs or speaking a language.

学生時代に歯が立たなかった「日本の思想」(丸山真男著)を、昨年40数年ぶりに何とか読破した。読破したと言っても、書いてあることが何となくわかった、というだけである。それにしても難解極まる本だった。

 

 

今は、経済学部に進学するのに文系と理系の両方から学生を募集する大学が多くなった。東大、京大、阪大、一橋大、東北大、九大、神戸大など一流大学が多い。

 

我々の時代、経済学部は文系からの募集だけだった。但し、経済学部はその必要性から教養部で数学を原則必須としていた。原則というのは「履修した方が望ましい」程度の意味である。その当時の数学のテキストが以下の二冊である。

 

①「位相解析入門」(入江昭二著・岩波書店)

②「経済のための線形数学」(二階堂副包著・培風館)

 

数学の最初の授業に出てみた。教官は理学部出身の助教授。内容は高校数学から全くかけ離れたものだった。最初から「なんじゃこりゃ~」ということになった。

 

数学が得意のつもりでいた自分のプライドはひどく傷ついたが、周りにもそんな学生が多かったと思われる。結局、自然科学うちの一科目は数学ではなく別の科目で単位を取得した。

 

特に「位相解析入門」については、今読んでみたところでちんぷんかんぷんだろう。

 

 

 

 

以下は、そんな「歯が立たない本」に関する東大の英作文の問題である。著者の吉田洋一氏(1898‐1989)は、数学者・随筆家らしい。

 

 

(問題)

次の日本文の下線部を英語に訳せ。

 

本がわかりにくいとき、それが本のせいではなく、読者の方が未熟であるためのことがないではない。こういう場合には、読者自身の成長する日を待つよりほかに手がないであろう。同じ本を年月を経てから読み通してみると、よくわかって面白かったという経験をもつ人は少なくないと思われる。

*吉田洋一「気儘な読書法」

(東京大学・1990年)

 

 

(拙・和文英訳)

When a book is difficult to understand, it's not because the book is too difficult, but because the reader isn’t mature enough to understand it. In such a case, there will be no choice but to wait for the day when the reader himself will grow mature. It seems that not a few people have had the experience of finding a difficult book well understood and interesting, when reading it again after many years.

ここ二日雨となった。先日「衣替え」をしたばかりだが気候は少し肌寒くなった。まだまだ半袖というわけにはいかない。

 

 

翻訳会社に勤務した頃、ベテランの和訳専門の女性翻訳者がいた。若かりし頃は東京・丸の内でBG(ビジネス・ガール=OL)をしていたという。

 

彼女は、和訳であれば契約書などの法務文書から技術的な文書まで何でもこなした。パソコンは使えなかったがワープロを巧みに使って実にスピーディに訳文を仕上げた。

 

彼女がよく言っていたのが「私の訳文はあくまで一次翻訳。直訳なのでしっかりチェックしてください。」ということだった。確かにその通りだった。

 

ただ、直訳ではあれ、とにかく早く一次翻訳が上ってくるので随分と助かった。まあ、確かにチェックには時間が掛かったが……。

 

 

以前、紹介した東北大の英作文問題の出典「歴史をかえた誤訳」(鳥飼玖美子著・新潮文庫)を読んでみた。

 

この本、通訳のみならず翻訳についても、かなり蘊蓄の深いことが書いてありなかなか面白い

 

翻訳のジレンマを女性に喩えた言葉『不実な美女か貞淑な醜女か』というものがある。昔からある表現らしい。

 

「原文という夫」に忠実な「訳という名の妻」はえてして見た目は醜く、誰が見ても美しい妻にかぎって夫に忠実とは言いがたい、という意味である。なかなか、「言い得て妙」な言葉だと思う。

 

昼食のついでに久しぶりに郊外まで車を走らせた。それにしても黄砂が酷い。遠くの山々まで霞んで見えた。黄砂がなければどんなにか穏やかな春の日だろうか、と恨めしい気持ちになる。

 

 

昼食を終えて農協系のスーパーに立ち寄った。入口付近にメダカなどの小魚が売られていた。何となく5尾入りのパックを買った。これで家の水槽が少し賑やかになる、と思うと小さな幸せを感じる。

 

 

スーパーで家内と買い物をしていて、いろんな人々の行動を見ていると少しづつ気分が晴れてきた。ここ数日、軽い「鬱」状態だった。何もやる気が起こらず寝てばかりいた。「春眠不覚暁」ではないがやたらに眠かった。

 

 

とどのつまり、人は皆、目の前の小さな目的のために行動している。その目的が自分のためのものであることもあれば、他人のためであることもある。そんな小さな目的を果たしていくことが「生きる」ことなのだ。あらためてそんなことを感じた。

 

 

近所に神社の祭りの幟が立ち始めた。「曽根の神幸祭」というものだ。暴風雨により未曾有の被害を受けた曽根新田の鎮守として、綿都美神社を造営し、五穀豊穣・風鎮汐留祈願の大祭を行ったことが始まりとされている。祭りは5月のGW中に行われるらしい。

 

思えば、昨年もこの祭りはあった。あっという間に一年が経っていた。時間は容赦なく過ぎてゆく。残り少ない時間。少しでも大切にしなければ。

 

 

頭の中の黄砂の嵐の中でそんなことを考えた。

 

先日、長崎県の波佐見焼の窯元を訪ねてきた。自宅の食器などで必要なものを買い揃えるためである。高速を使って2時間余り、ちょっとした小旅行となった。

 

家内に確認すると、前回から4年半ぶりくらいだったらしい。波佐見は観光施設や飲食店もかなり増えて少し賑やかになっていた。

 

 

前回、土日が休みのため行けなかった「白山陶器」で気に入ったものをいくつか見つけた。結局、「あれも欲しい、これも欲しい」となり結構買い込んでしまった。

 

帰り道、佐賀県嬉野の日帰り温泉に立ち寄った。ぬるっとした泉質で気持ちが良い。運転の疲れも少しとれた気がした。

 

帰途、高速道路から眺めた春の夕暮れがとてもきれいだった。「春宵一刻値千金」といった雰囲気である。

 

 

 

常日頃、「何か本を読もう」とか「何か勉強をしよう」という意欲はあるのだが、なかなか最初の一歩が踏み出せない。これは「読書」「勉強」が、楽しいものではなくある種の「苦行」として認識されるからだと思う。

 

若い頃から、もっと楽な気持ちで「読書」「勉強」に取り組めていたら、人生はどれくらい違っていたであろうか。そんなことを時々思う。

 

 

そんなことをテーマとした英作文の問題を見つけた。随分昔の東大の問題である。

 

(問題)

次の日本文の下線部を英語に訳せ。

 

私たちには、勉強はしんどいもの、今苦しくとも将来のためにがんばるものといった刻苦勉励型のイメージがしつこく残っています。考えてみれば、将来の幸福のために今苦しむという形でしか勉強を受け入れられないのは不幸なことなのです。私たちはただそれにならされてきただけではないでしょうか。

*野村庄吾『スコットランドの小さな学校』

(東京大学・1991年)

 

 

(拙・和文英訳)

We persistently have the image that studying is hard, and that we should do our best for the future even though it is hard now. But, when we think about this, it is unfortunate that we can only accept studying in the form of trying hard now for our happiness in the future. Haven’t we just got accustomed to doing such things?

朝は曇り空だったが午前中から雨となった。市内の小・中学校や県立高校でも始業式が開催されたらしい。制服姿の中・高校生を久しぶりに見た。天候面では生憎の新学期のスタートとなった。

 

 

桜のシーズンが過ぎ去ろうとしている。3月下旬に京都に行ったことが随分昔に感じられるくらい、季節はここ二週間ほどで桜とともに春へと入れ替わった。まあ、そんな思い出が残るからこそ旅は楽しいのだが。

 

 

しばらくブログから遠ざかっていた。年度が替わって少し思うところがあったからだ。振り返れば昨年度は怠惰に過ごしすぎたように思う。

 

読了した本も少なく勉強らしい勉強もできなかった。時間は有り余るほどあるのに何ら生産的なことができなかった。金融・経済分野の翻訳の試験にも3度挑戦したが、結局合格することができなかった。反省するところが多い一年だった。

 

とにかく「千里の道も一歩から」の気持ちを忘れずに、最初の一歩を踏み出す勇気を持って計画的に今年度を生きてゆこう。

 

 

少し古い写真を眺めていた。家内と過ごしたここ7年ほどの思い出が蘇ってきた。近郊ばかりではあるが、色々な場所を一緒に訪れた。旅先で買い求めた数々の焼物や食器など。それらを眺めているだけでも当時の情況が思い起こされる。

 

 

思い出を振り返るのは自分の習性だが、決して悪いことだとは思っていない。今年度もそんなスタンスでブログを続けられればと思う。

 

一昨日の夜の猛烈な雷雨がまるで嘘のように、昨日は青空が広がり桜も八分咲きの華やかな年度初めとなった。かねてより桜の下で家内との記念写真の撮影を予定しており、桜咲く好天の下、万事滞りなく撮影を終えることができた。

 

撮影はプロの写真館にお願いした。撮影場所は自宅から近くの「昭和池」というところ。花見客もさほど多くなく、桜の花びらが風に舞う中、美しい思い出を映像に残すことができた。

 

 

午後から地元の筍の名産地「合馬(おうま)」へと向かった。車で30分くらいのところだ。何年か前に買った同じ店で、今年も旬の筍を購入することができた。夜は家内が腕を振るい、久しぶりの「筍ご飯」である。筍は子どもの頃からの好物である。

 

こうして今日も穏やかな春の一日が過ぎていった。

 

 

(問題)

あなたの住んでいる場所について、2つの段落からなる文章をそれぞれ50~70語程度の英語で書きなさい。

 

(1)第1段落ではその場所の好きな点とその理由を具体的に述べなさい。

(2)第2段落では嫌いな点とその理由を具体的に述べなさい。

(東北大学・2003年)

 

 

(拙・解答例)

(1) Kitakyushu, where I was born and brought up, has a mild climate and few natural disasters. In addition, although it is an ordinance-designated city, the cost of living is not so high and there are many hospitals, which makes it an easy place to live in. Further, Kitakyushu is blessed with products from the mountains and seas, and the food is delicious. That’s why I love Kitakyushu. (67 words)

 

(2) However, I have some complaints about Kitakyushu. Kitakyushu has been experiencing a declining birthrate and an aging population. In addition, young people are concentrated in the city center, while only the elderly people can be found in the suburbs. Such regional disparities should be corrected, and Kitakyushu should be transformed into an attractive city for young people by establishing new educational institutions and attracting large companies’ facilities. (67 words)

 

小倉南区/貫川沿いの桜(2024.4.2)

 

京都市内には、市バス、京都バス、京阪バスなど様々な会社のバスが運行している。今回の旅行ではバスによく乗った。

 

バス停を探したり、バス停から観光地まで歩くことも多く、歩数が20,000歩を超えた日もあった。日頃マイカー中心の生活をしている私にとっては、かなりの運動量だった。

 

どのバスも観光客で溢れていたが、京都の人はそんな環境に慣れているのだろうか?嫌な顔をする人はほとんど見かけなかった。

 

混んだバスの中で赤ちゃん抱っこした外国人の女性に席を譲ったが、そんな経験をしたのも随分久しぶりのことだった。

 

 

以下は、「アメリカをバスで旅をすること」に関する東北大の問題である。たしかにバスに乗れば、その土地の町並みや人間、また風俗により直接的に触れられるのかも知れない。

 

 

(問題)

次の文章を読み、下線部(A)、(B)を英語に訳しなさい。

 

(A)アメリカはどこまで行っても同じ建物、同じ町並み、同じ料理で面白くない、アメリカ文化は画一的だ、という意見をよく聞かされる。しかしそういう人は、たぶん飛行機ばかり乗って旅行しているのではあるまいか。空港からタクシーやリムジンが送りとどけてくれる一流ホテルに泊り、一流レストランで食べ、表通りばかり見物していれば、全国画一的に見えるのは当たり前である。日本でもその点は同じだろう。ただ私たちは、日本については画一的でない裏街の日常生活も知っているだけなのだ。

私は徹底してバス旅行の徒である。(B)これには経済的な理由も大きい。自分で車を運転する人は別として、バスはアメリカで一番安い乗り物なのである。しかし長距離を行く時など、途中の宿泊費を含めればバスのほうが高くつくこともある。それでも、時間さえ許せば私はバスを選ぶ。バスで旅すると、ひとつひとつの土地や人間や風俗の変化がよくわかる。変化しない場合でも、その変化しないことが意味をもってわかってくる。

(亀井俊介『アメリカの心 日本の心』より)

(東北大学・2009年)

 

 

(拙・和文英訳) 

(A) I have often heard the opinion that America is not interesting and American culture is stereotypical because there are same buildings, same townscape, same food, no matter where you go in America. However, I think such people probably travel only by plane. If you stay at a first-class hotel which will take you to and from the airport by a taxi or limousine, eat dinner at a first-class restaurant, and only look at the main streets, it is natural that the whole country will look stereotypical. The same will also apply to Japan. The only difference is that we, Japanese, know about Japan of course, but we also know about the daily lives of the back streets, which are not stereotypical.

I'm a thoroughgoing bus traveler. (B) There are big economic reasons for using buses. Apart from those who travel by their own cars, buses are the cheapest means of transportation in America. However, when traveling a long distance, buses are sometimes more expensive if the cost of accommodation along the way is included. Notwithstanding, I choose buses if time permits. When I travel by bus, I can clearly see the changes in respective lands, people, and customs. Even if they don’t change, I can recognize that such unchanging lands, people, and customs themselves have a meaning.